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何にも頼らずに自分と世界を語るコミュの居場所

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自宅、家庭、職場、学校、公園、ネットカフェ、酒場、デパート、スポーツ関連、他公的施設。

色々あると思うけれど、移動区間を除けば、ひとひとりについてはかなり限定されるものだと思う。
世界中を飛び回っている者も居るだろうが、割合で言えば極少数だろう。

この時代、自分の居場所を作る事だけでも殊更必死にならなければ得られないものになってきている、ぼくはそう確信している。

この居場所を間違えると高確でとんでもない事に至る場合が往々にして起こりうる。
学校、就職、結婚、家庭、まあ、上に挙げた殆どだが。
つまり、人間関係の発生する場所すべてになる。

居場所が作れない。

その時どうするか。

コメント(9)

わたしの場合、家族が居場所です。自分でつくったという意識ではないのです。
お互いが家族だし、家族と思っているのです。

家族のない天涯孤独な人は一人でどう暮らしているのかとときどき気になります。
「居場所が作れない。その時どうするか。」
というテーマについては、

居場所がないなら動くしかないでしょう。
大体においてあてもなく……という感じでしょうけど、そのうち落ち着くとこに落ち着くと思いながら、そこがどこになるか、なにがあるか。わからないけど。
先日、登録してくれたさやみさん、早速の参加、どうもです。

自分の家族に疑問を持つ事って難しいですよね。
破綻してから気がつく人が多いんじゃないだろうか。
いや、さやみさんがそうだと言うのではなく。

「私はこんなに家族を愛していて、家族もこんなに私を愛してくれている。生涯孤独を知らずに過ごす事が出来、最期は家族に看取られて逝ける場所、家庭」

みつ昔前くらいは、そんな事を信じて止まない人だらけだったんじゃないだろうか。
相手は全くそんな事を思っていなかった。
特に、依存度の高い夫に言われるやつですわね。
まあ、妻でも居るけれど。
離婚されても、何故されたのか気がつけない。

最近は、離婚夫婦年間20万組と言われていたっけか。
どの夫婦にも訪れる可能性がある。

ちなみに、異性孤独な同僚が数人居て、しょっちゅう気にしています。
多分、本人たちよりも気にしています。
男同僚にしつこいので。
>自分の家族に疑問を持つ事って難しいですよね。

じじ、ばばになってからそういう目にあうのも悲惨ですけど、よくありそう。兄弟は他人の始まりで、ゥ夫婦はしょせん他人。


大人は裏切られてもいいというか仕方ないけど。
子どもはかわいそう。

親はその子のこと、あんまり考えていないのに、
子どもはどういうわけか、気がつかないことが多そう。

親はおまえさんのことをちゃんと考えているわけじゃない。

とこどもにいいたい。
ナ●スだったかな、詳細を忘れてしまったから、このような表現に留めさせてもらうけれど。

実験で、赤ん坊の頃から、ひと言も声を掛けず、笑顔を見せず育てた子供は、尚早に死んでしまうそう。
だから、子供は、そこにコミュニケーションがあるなら、それを愛情だと認識するように出来ている。

それとは話を別に。
人間はありとあらゆる事を試す生き物だね。
同時に、何(自分すら)も試さない人間も居る。
この世界は、当たり障(害)りのある、鶴でさえ、寝る際四六時中誰かを見張りに立て、浅い眠りによって身を守り、-20℃の厳寒の中凍らない川を見つけ、その、細いが強く倒れない一本足で立ち、朝を迎える。

明日、朝を迎えられる、とはそう言う事なのだろう。

ぼくら人間は、この当たり障(害)りのある世界に、今は見張りを立てない代わりに、建物と扉と鍵を設け、日々中の疲れと闘うための睡眠を取り、人間関係と文明に馴染む事で、明日、朝を迎えようとしている。

これをやめたら、まず、そこには居られない。
一握りの人間は居られるだろうが。
所詮、一握りでしかない。
人間、誰もがそうある事は出来なかった故、現代がある。
今年の期末、この3カ月はほんと忙しかったなあ。
いや、昨日棚卸をなんとか終えたのだけれど。
まー、忙しかった。
くたくただ。
忙しすぎて、思考と意志と言葉(舌、ろれつ)とが混乱して回らなくなる事があるくらいに。

それに、鬱が世間で認められてきて、必ず誰かが鬱で休暇を取る事で、人が少なくなったまま日々をこなし、その所為でまた誰かが鬱になって、そう言うサイクルが出来て。

この手の事は「プラスマイナスゼロ」にはならずに、何処かで「マイナスマイナス幾つ」になっていくよね。
鬱になるまで過ごし、その分を取り戻す事で0にはならない。
鬱になる事でマイナス、休暇を取る事でマイナス、それが何処まで続くかで延々とマイナスが加算されていく、と言う事。

「鬱が認められる社会が良い社会なのか、それで休みを取れる社会が良い社会なのか?」
と言う問を思うと「鬱になってしまう環境は良い社会なのか?」を先に問わなければならない。
また「鬱にならない自分作りをしているか?」も問わなければならない。
「鬱になってしまう社会を誰が作っているのか?」を問えば、すべては我々がその一端を担っているからだ。

「頑張らなくていいんだよ」と言う言葉が流行ったが(ぼくには何故流行ったのか、みんながよいものとして受け止める事に全く理解出来ない)。
頑張らないのは別に構わない。
それは、そこに居させてはもらえない宣告でもあるのだけれど。
此処でも居場所をつくれず居なくなった人が、余所で居場所をつくり過ごしているのを見つけると、見つけた時、知らされた時、正直、ほっとした。

全員の居場所はあるんだろうか。
ぼくはないとしている。

全員はない。
そこにほっとするところがある。
全員にあるのならほっとする事はない。
この世界には理不尽な事があると言う。
人は生まれてきて必ず死ぬ。
本当に幸福があるのであれば、死ぬ苦しみ哀しみを味わう現実は、あまりに理不尽ではないか、と。

そうかもしれない、人から見れば。

けれども、この世界、もともと人の幸福のためにあるわけではなく、寧ろ人が理不尽にもこの世界に幸福を設定し「世界は理不尽だ」などと言い掛かりを付けている。
理不尽なのは人の心だ。
そのために世界は苦しんでいて、それすらも気がつけずに居るほど理不尽な存在かもしれない。

居場所はただの居場所だ。

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