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グアムの沈船 東海丸コミュの東京丸ではない!?

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アメリカで入手できる情報を見ても、ときどき時間的に食い違っていたりするものがありますが、何せ67年も前の出来事であり、ましてや戦時中のことで、資料があやふやになっていたりしてもおかしくはないのです。

今まで自分なりに確認してきた東海丸の軌跡ですが、東海丸が受けた雷撃は3回・・・。
この雷撃の回数は間違いないようなのですが、昭和18年の1月26日、8月初めあたり、この2回目の雷撃の詳しいことは不明。そして8月27日の沈没に至ったものとされています。

日本の商船の全ての記録が驚くほど正確に残されているのに、この8月の雷撃の詳細が全くわからないということがおかしいのかもしれません。
先日新たな資料を発見したのですが、それによると、東海丸の雷撃は3回。
しかし、それによると8月の2回目の雷撃の記録はなく、代わりに5月5日に場所は同じくグアムのアプラハーバーでアメリカ潜水艦パーミットによる雷撃を受けたとされているのです。

東海丸の沈没時、最後の積荷が450トンの鉄くずであったという記録から、
?なぜ中途半端に450トンだけなのか?
?なぜ第一船倉だけに鉄くずが積み込まれているのか?
?鉄くずのほとんどが建物建材であり、なぜか無造作に切断されているのか?もしかすると積み込み時に切迫した状態であったのではないか?
?グアムを出てからの目的地は呉であったが、どこから積み込んだのか?
など数々の疑問を投げかけられ、そしてそれに対する答えを探してきました。もちろんそれらの答えが決定的なものであると思ってはおりませんが、自分たちとして、ある程度納得できるものを探り出してきました。

これらの疑問について、鉄くずは積荷ではなく、バラストである。前後の重量バランスを考えると船首にある程度の重さがないといけない。そのために積んでおくものは何でもよかった。
積荷が鉄くず450トンという記録から、わざわざ積み込んだものと考えていましたが、荷物ではなかったのかもしれません。
と考えると、全ての謎が謎でなくなってしまうのです。
想像力を働かせ壮大に楽しく推理してきたものが、あっという間に現実に引き戻されてしまったようで、おもしろくも何ともない結末になってしまうのですが、最後の4番目の謎を解明するために探し続けてきた東海丸の軌跡。
見つけた資料によれば、
昭和16年10月に徴用され、芝浦からトラック〜ポナペ〜ロタ〜横須賀〜芝浦。
昭和17年1月、横須賀〜クワジェリン〜ウォッゼ〜タロア〜マジュロ〜イミエジ〜ポナペ〜門司。
昭和17年6月、横須賀〜トラック〜アンガウル〜パラオ〜アンガウル〜神戸。
昭和18年1月、横須賀〜サイパン〜グアム。
このときにアメリカ潜水艦フライングフィッシュ雷撃を受けたのです。
というように、思ったとおり、東海丸はミクロネシアと日本を結ぶ特設運送船としての役割を担っていたようですので、あの重石としてかもしれませんが鉄くずは、これらの島のどこかで積み込んだものであると思われます。

その他、船首に大砲を装備したかもしれない艤装工事が昭和17年7月下旬であること、昭和18年1月26日に雷撃されたとき、勝泳丸という特設砲艦にケーブルを移し替えたことなどが記載されていましたが、8月27日の沈没時に救助艇に全員無事に救助された記載があり、今まで見てきた資料の「沈没時に一名死亡」という記録と異なる事実が正確に書かれていることから、この資料の信憑性が高いと思われるのです。
そして、驚くべき新事実(?)なのか・・・!

今までたくさんのお客様に語ってきました東京丸が残したワイヤーの束。
今も東海丸のいくつかの場所に残る不似合いなほどに太いワイヤーを、ただのワイヤーとしてではなく、東京丸との関わりを示すものであると熱く語ってきたのですが、曳航指令が出された東京丸が、ラバウルから横須賀に帰港途中の8月下旬にグアムに立ち寄り、東海丸を横抱きに曳航・・・云々・・・という記録。ところがこのとき東京丸はラバウルに在泊中であったというのです。
東海丸との接点は唯一、5月4日のグアムだけであるというのです。
う〜ん、これが事実であるとすれば、アメリカ側の資料に残る8月27日の東海丸攻撃の状況にも説明がつかなくなり、おそらく東海丸を救出しようとしたのは東京丸ではない他の船であったというのが、全ての経緯を納得できるものにしてくれると思うのです。

コメント(2)

一年ぶりに新たな資料を見つけました。
野間恒さんの本ですが、船の科学館の図書館で見ることができました。
おそらく野間さんは本人と会って話を聞いたと思うのですが、東京丸の三等運転士であった宮増一郎さんという方の証言が載っています。

東海丸と東京丸を横抱きに繋ぐ作業は大変であったことや、東京丸に作戦司令部があって、雷撃を受けた時護衛していたはずの駆潜艇に「何をしとるか!」と怒鳴る司令官の声を聞いたことが語られていますので、この件は東京丸で正しいのだと思います。

ラバウルからの帰り道、急遽グアムに寄った作戦だったので、この日にグアムに東京丸がいたという記録がなかったのかもしれません。
東京丸はラバウルから横須賀に帰る途中ではなかった。
そりゃあ、いずれは横須賀に帰るので帰る途中というのは間違ってないないですが、正確には東京丸は8月17日から9月3日までラバウルにいたのです。
その後、トラックを経由して9月23日に横須賀に帰っています。

東海丸が受けた8月の最初の雷撃のとき、東海丸を救助すべく船を捜したところラバウルに滞在中の東京丸が適当と判断し、それをグアムに送った。
ところが作戦が失敗したので、最初の予定通り東京丸は一度ラバウルに戻って、その任務を遂行したのだと思います。

もし東海丸救助作戦がうまく運んでいれば、そのまま横須賀に帰ったとは思いますが失敗しているので、その動きは記録に残らなかったんだと思います。東京丸は帰るついでに救助しようとしたのではなく、相当時間をかけて救助する作戦を練った上でのものであったのです。

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