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グアムの沈船 東海丸コミュの東海丸のたぶん正確な略歴

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来週、グアムのトゥモン地区ロータリークラブの会合で発表会をすることになったのです。
それは何と東海丸についてであり、何でそんな題目が取り上げられるかと言えば、そのクラブに東海丸仲間のBrianが入っているからであり、自分よりもBrianがノリノリなのです。
日本でも最近のダイバーマガジンで世界の沈船特集を取り上げてもらったり、何かと東海丸を広めつつあると信じていますので、ロータリークラブの発表会の資料整理の意味もありますが、正確な東海丸情報をまとめてみたいと思います。

全長136メートル、8365トンの東海丸はスイス・Sulzer製のディーゼルエンジン2基を積み、8138馬力の出力により18.3ノットの最高速力を持っていました。
1929年11月26日、三菱重工長崎造船所で起工。翌年の1930年5月15日に進水され、7月14日から香港−台北−上海−大連−神戸−四日市−横浜−ロサンゼルス−ニューヨークを巡る北米航路に就航したのです。
当時、日本の商船業界は国を挙げて欧米に立ち向かっていて、北米航路、欧州航路、豪州航路の3路線は赤字になるとも絶対に守れという政府の指示があったことから、命令航路と呼ばれ、その内の乗客担当になったのが日本郵船。そして貨物担当が大阪商船であり、東海丸はその先鋒役を担い、それまで45日間を要していた横浜−ニューヨーク間を28日間に短縮したのです。
もちろんパナマ運河という近道の存在があったこともありますが、当時としては画期的なシルクルームと冷凍貨物室を船倉に備え、さらにデッキには強力なクレーンを装備し、港での積卸作業のスピードアップを図るという東海丸の高性能は高く評価され、姉妹船は全部で8隻も建造されたのです。

それから東海丸は1941年、パナマ運河が閉鎖され帝国海軍に徴用される10月12日まで、途中ニューヨーク経由の欧州航路にも就航していましたが、およそ11年間日本商船業界のエースとして活躍しました。
東海丸が運んだもの、もちろんシルク、金魚、陶磁器、茶といった日本ならではのものを輸出し、代わりに毛皮として使うためのウサギ、金、小麦、ニシン、サケなどを輸入してきたのですが、輸送中にニシンの匂いがサケをダメにしたようで、サケの上にニシンを載せるなということが徹底されていたようです。

第二次世界大戦に活躍の場を移した東海丸は、運送船として物資や兵士を南洋に運ぶ役割を担ったわけですが、元々戦争で戦う船として造られたわけではないので、敵を攻撃する武器は備えられてはいません。アメリカの情報では船体後部に4つの潜水艦攻撃用の爆弾(デプスチャージ)が備えられていたという説もありますが、それはきっと煙突のそばにある清水用の貯蔵タンクと間違っていると思われます。
しかし丸腰というのも無茶ですから、船首に砲台を付け、そこに大砲を一門取りつけて太平洋を南に航海していたと思われるのですが、恐らく戦争後半には物資の不足から、それも取り外されてしまい、代わりに電柱を切ったものを大砲に見立て、ハリボテの大砲で航海していた可能性が高いのです。

そして迎える1943年。
アメリカの情報と日本の情報は、時差こそあれ、正式な情報についてはピタリと一致するのです。
1月24日、アメリカの潜水艦・フライングフィッシュが発射した2発の内1発の魚雷が東海丸に命中。現在はとても魚雷攻撃などできるわけもないほどに、立派な堤防で囲まれたアプラハーバーですが、当時にはあの積み上げた石垣はなく、サンゴ礁の浅瀬で囲まれていたのです。ですから魚雷攻撃するのも一苦労であり、干潮時には魚雷が浅瀬を通過できずに目の前のサンゴ礁の壁で爆発してしまうのです。
損傷を負った東海丸ですが、この攻撃は何とかしのぐことができました。
その7ヶ月後の8月も終わりに近づいた頃、いつ、どの潜水艦の攻撃によるものかは不明ですが、再び魚雷攻撃を受けてしまった東海丸は自力航行が不能になり、ラバウルから横須賀に帰港中の東京丸に救助を求めたのです。
25日にアプラハーバーに到着した東京丸は、26日丸一日かかって東海丸とワイヤーで繋ぎ合せたのです。
通常、船が船を救出するには、助ける船の後部から伸ばしたワイヤーを救助される船の船首に繋いで引っ張れば簡単なのですが、わざわざ横抱き(ヒップトーイング)にするということは、救助される船に十分な浮力がないほどに沈みかかっているか、舵が効かないときなのです。
グアムから横須賀と言えば大変な距離がありますので、もし浮力が不足しているとすれば、助ける東京丸の方が小さかったので、それは無理でしょう。そうなると、この時点で東海丸の舵が動かないのか、ひょっとしてプロペラが損傷していたのではないかと思われるのです。

運命の年に入ってから3回目、8月に入ってからは2回目の魚雷攻撃は、8月27日。
東京丸にトーイングされアプラハーバーを出た東海丸は、3隻の駆潜艇(潜水艦攻撃船)に護衛されていたにも関わらず、アメリカ潜水艦・スナッパーから放たれた魚雷が命中。大型バスが2台も通れるほどの大穴を開けられてしまい、東京丸による救出も失敗。アプラハーバーに戻ったのです。
そして、いよいよ最期の時が訪れます。
ブイEに北北東を向いて係留されていた東海丸。
午後2時23分にスナッパーから放たれた魚雷は2発。24分には東海丸乗員もカラランバンク西方に潜む潜水艦(潜望鏡を認めず)から発射された魚雷が2本、ブイBの北側を通って東海丸左舷に向かってくるのを確認。ただちに戦闘配置についたものの、25分、一本は船首をかすめ陸岸で爆発したが、一本が左舷エンジンルームに命中。(アメリカ側の情報では陸岸で爆発して魚雷は、もう一隻の船に命中したとありますが不明。)
続いて放たれたもう2本の魚雷は、左舷側の船倉4番と5番に命中。
東海丸は左に40度傾きながら急速に船尾から沈没し始めたのです。
三等運転士が船長室に機密書類を取りに行ったが、魚雷の影響で扉が歪んでしまったため開けることができず、さらに沈没し続けることをくい止めることは無理であると判断し、全員退避命令。2時40分、全員が警備艇によって救助されたのです。

その後も沈没防止、機密文書回収に努めるものの、3時00分。艦橋の一部と船倉の1番と2番を残して海中に沈没。
さらに左に傾き続けて沈下し続ける東海丸。午後6時03分、ブイEと共に北北東に船首を向け、左に60度傾いた形で水深30メートルに沈没してしまったのです。
当日の天気は晴れ、海上平穏にしてウネリ無く視界良好なり。

沈没して66年が経とうとする東海丸は、現在もアプラハーバーに最後の積み荷となった450トンのスクラップとともに横たわり、数々の謎と、北米航路で活躍していた頃の華々しい記憶とをダイバーに与え続けて楽しませてくれているのです。

コメント(7)

師範どの

ダイビングも東海丸もド初心者のタカトウリキでございます。
7番目のイス、頂戴いたしました手(チョキ)
過去の履歴を拝見しましたが、論文?研究発表??
しかも1日に何度も書き上げる東海丸への愛情に、感服しました。
・・・そして、手は勝手に「コミュニティー参加」をプッシュしてしまった
わけであります。
これほど愛情をそそげる何かに出会えるって素晴らしいことですよねぴかぴか(新しい)
東京の空から、東海丸談義、のぞかせていただきます。
師範、宜しくお願いいたします。
追伸 でも「氷川丸」まではまだちょっと・・・。
   ゆるりゆるりでお願いします。




タカトウリキさん、ありがとうございます。
このコミュニティに参加する人がそうそう増えることはないと思っていますが、とにかく、今も海に浮かぶ氷川丸のように、この東海丸にも日の目を当たらせてやりたいのです。
何千隻の日本の商船が世界中の海に沈んでいますが、幸いにして、こうして手の届く範囲に沈んでいる船はごくごく限られています。そしてその一隻の側にいる者として、再びスポットライトを当てるべく語り合うのは当たり前のこと。

一つの情報から推理し、結論に辿り着くことは、長編推理小説を読むことや大河ドラマを一年間視聴することに匹敵する楽しみがあるのです。
そして、それを少しでも世間に向けて広めることができれば、そのとき・・・、東海丸にも光が当たり始めると信じております。


tettin さん、商船三井に問い合わせたダイバーの一人はb_777rainbowさんでしょう。
自分は彼からその情報をいただいたので、もう一人は誰だかわかりません。
商船三井の広報室の方がおっしゃる通り、東海丸についての情報はあまりお持ちではないのだと思います。このMIXIの中にも商船三井というコミュニティがあり、そこに参加していますが、初めこそ自分の足跡に現れましたが、何もコメントはなかったです。
でも別のコミュニティ、氷川丸からは管理人さんまでメッセージをいただき、彼女の曾おじいさんは氷川丸の船長だったということで、色々と情報をいただきました。
もともと大阪商船という会社の船であり、現在は商船三井だということで資料が少ないかもしれないと勝手に思っています。


とにかく皆さんに東海丸という記憶が残っただけでも大変うれしいです。
以後よろしくお願いします。

東海丸の動きがなかなか詳細に見えてきませんが、実はそれほど頻繁に出動していないのかもしれませんね。
そして1943年5月5日に米潜水艦パーミットに雷撃されてる事実が出てきました。
ついでに1月のフライングフィッシュの雷撃は24日ではなく26日でした。修正しておきます。
8月27日のスナッパ―の攻撃といい、3回ともグアムのアプラハーバーで受けているのがおもしろいです。
やはり横須賀―サイパン・グアム―トラックが東海丸の任務であったように思えます。
この前NHKが銀閣寺の特集をしてました。
金閣寺を建てた足利義満の孫である足利義政が作ったもので、てっきり金閣寺に対抗して「それなら銀閣寺だ!」ってことで作ったのだと思ってましたが全くの別物なんですね。
しかも義政は応仁の乱でお金がなくなって銀箔を張れなかったとかいう話まで聞こえたりするので尚更金閣寺の真似みたいに聞こえていたわけですが、昔から噂話が好きな人はいたようでだんだん伝言ゲームのように事実と異なる話が伝わってきちゃってたということなんでしょう。

最近になって銀閣寺の補修工事で発見されたのが、銀閣寺の梁から何か別の建築物に続くと思われる梁。
また銀閣寺の建っている向きや足利義政という人間など色々と考え合わせると、銀閣寺は月を眺めるために義政が建てたのだという話は大変興味深く、子供の頃全く好きではなかった歴史の授業は話の持って行き方が間違ってるんだよなと思うのです。

さらに銀箔が貼られていない銀閣寺というのも違っているようで、金閣寺とは違う方法で金閣寺以上の美しさを誇っていたのです。
壁には漆を塗って、さらにその上から大量のミョウバンを塗ると、白いキラキラのラメのように光り、月夜にはそりゃあ見事な美しさであったらしいです。
その月夜に映える銀閣寺の一階にどかっと座ると、東向きの正面にある月待山のど真ん中からまあるい大きなお月さまが昇ってくる。
しかし月が昇るにつれて庇で邪魔されて見えなくなってくるので、杯を片手に持ちまして二階へ移動。
その窓際に陣取って外を眺めると、眼下の池にはぽっかりと映し出される月があるのです。また池の中央にはピッタリと計算された位置に月の形の石が置かれているじゃありませんか。時間の経過とともに池の中を動いて行く月。その月が計算通りにピタリとその石に重なると、今の今までは池に映るただの月の反射であったものがはっきりとした月として池に存在することになるのです。
やがて池から月が出て行ってしまう頃、再び杯片手に移動です。
そうです。あの梁から渡り廊下が作られていたので、わざわざ一階に降りることなく別棟に移動できたのです。
そこからの景色が今宵のお月さま鑑賞の締めとなるのです。
白いラメでキラキラ輝く銀閣寺をバックに大きなお月さまが沈んでいくのを眺められるのです。

500年前に作られた銀閣寺ですし、足利義政にも会ったこともないわけですが、一つの何かから想像を巡らす。きちっと検証しながら想像から真実に近いものにまとめていく。
こういうことはきっと誰でも興味を持ってくれるものであるしとても楽しいものであると思うのです。
長い時間のうちに変な噂が出てきたり、忘れ去られてしまう事実があったりして全くわからなくなってしまった歴史を掘り返す。
これはまさに沈船・東海丸と全く同じ興味深さなのです。

全ての記録かどうかはまだ検証できてはいませんが、東海丸の3回の雷撃は何故か3回ともグアムのアプラハーバーで起きています。
今はしっかり防波堤の役割を果たして台風がきてもダイビングが可能なアプラハーバーを作っている石積み。
あれは戦後になってサンゴ礁の浅瀬に積み上げたものですから、景色的にはもっと広い海がアプラハーバーから見えていたはずですが、水深数十センチにはサンゴが活き活きと育っていました。
そのアプラハーバーの中に停泊している東海丸に魚雷を撃ち込むということは、魚雷は水面ギリギリのところを通過させなくてはいけないのです。
実際アメリカの記録によれば、水深1フィートにセットして東海丸を狙ったとなっているのです。

水深30センチのとこを無理やり狙わなくたって満潮ならもっと余裕で魚雷を撃てるんじゃないのか?
そう思うわけです。
では満潮でも浅かったらどうするんだ?
というわけで、銀閣寺の500年前の月の軌道を調べた人がいるんだから、ほんの67年前の月の動き、潮の満ち引きを計算してみようじゃないか。
そう思ったわけです。
・・・が、これは厄介な計算がいるみたいなんですよ。
誰か計算してくれませんか?
東海丸を調べるうちに、お風呂場から当時のアメリカ文化の脇道に逸れると、アメリカでもシャワーというものが近年に出来たものであることがわかる。
シルクを運んでいたのでまた脇道に逸れると、横浜線がシルクを運ぶための貨物線であったことや、八王子から横浜までシルクロードがあったことがわかりましたし、ナイロンという合成繊維の名前の意味までわかりました。
次はこれです。
月の勉強です。
月のことを調べようと思ってたら・・・、すっごいもん見つけてしまいました。
日付を入れるとその地域の潮汐表が一発で出てきました。
ただしグアムそのものは当然のようになくて、最寄りの場所、硫黄島のちょっと北の海域の数字ではありますが恐らくそれほど大きな違いにはならないのではないかと思います。

早速東海丸が雷撃された日付で見てみます。
まずは運命の日、1943年8月27日。
何故ならこの日の出来事は分刻みで確認が取れていますから、それならその時刻に魚雷をぶっぱなさなければならなかったのかの裏が取れると思うのです。
一番の夏の盛りですから日の出は早いし、日没は遅くて一日が長かったとは思うのですが、いくら戦争中であろうとも銃撃戦の最中ではない以上、夜は休んで昼間働くというスケジュールのはずで早朝から慌ただしく魚雷の準備はしないでしょう。
そこで完全な勤務時間中で魚雷を撃てる時間は、8月27日については午後2時以降となると思います。
朝から敵の動きを監視していた米潜水艦乗組員たちは若干いらつき始めています。
魚雷の照準はとっくに定まっているっていうのに海が浅くて発射できずにいるからです。
そして午後3時23分(グアム時間は2時23分ですけど)にとうとう魚雷発射!
一発は100メートルほど先のカラランバンクのサンゴ礁に阻まれ爆発。もう一発が東海丸に命中します。

このときの潮高がおよそ90センチとなっているのです。
最も浅くなったとする水面から90センチ水面が上がっているという数字ですから、カラランバンクのサンゴ礁が最干潮時に水面上に露出したとしても80センチ程度あいていたのだと想像します。
魚雷の直径が50センチあるとして、やはりこの潮高がギリギリの高さであると言え、事実この潮高になった瞬間の3時23分に一発目の雷撃を仕掛けているのです。

では1月26日の雷撃は?
雷撃時刻は記録があり、午後4時14分(グアム時間は午後5時14分)となっています。
この時期のこの時刻はそろそろ夕闇が迫っていて本当にこの時刻は正しいのかとも思いますが、雷撃されたときの東海丸の位置が不明なのです。
アプラハーバーのどこで雷撃されたのか?
もし同じ場所に停泊中とすれば、潮高が60センチなので同じ位置からでは魚雷発射はできないと思えます。

そして5月5日については雷撃時刻も場所も不明です。
仮に同じ場所に停泊中の東海丸が、カラランバンク沖から雷撃を受けたとすると、魚雷発射が可能な時間帯は早朝の5時から7時30分、または午後5時から9時の間が潮高90センチの条件をクリアします。
時期からして朝の6時30分を過ぎないと明るくなってきませんから朝の攻撃はなくなります。
夕方の攻撃だとしても午後6時がギリギリの線で、これより遅いと夕闇が迫っているのです。
5月5日の雷撃時刻がわかるかどうかわかりませんが、ひょっとして午後6時であるという記録が出てくるとおもしろいのですが。

写真は8月27日の雷撃痕です。

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