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憲法を楽しく語ろうコミュの新しい仲間に、乾杯!

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こんにちは、たまかづらさんからのお知らせで
遅まきながらやって参りました。

私も、今の憲法が大好き人間です。

私の母方の祖父は、大阪の陸軍士官学校を出て
中国で戦死しています。
母は、集団疎開をして、小学校3年で敗戦。

その後、働き手を失った祖母は、他人の家に間借りをして
子ども2人を育てたそうです。

私は子どもの頃、添い寝をしてくれた母から
幾度もこの頃の話を聞かされました。
そして、日本国憲法9条を知ったとき、心底ほっとしたのを
覚えています。ああ、私はいい時代に生まれたと・・。

だから、手放したくないのです。
あれだけの犠牲を払って手に入れた、日本国憲法。
まあちょっと、天皇制は雅子妃が、犠牲になっていて
お気の毒ですが、この問題はどう扱っていいのか、
難しすぎて手に負えません。

でも、少しずつ解きほぐしていかないと
いつまでも先送りしてては、いけないことだとは思います。

私たちの生き方、国の在り方を、
地球規模で、広く大きく語り合えれるといいですね。

コメント(12)

あこさん おはようございます!

>私は子どもの頃、添い寝をしてくれた母から
>幾度もこの頃の話を聞かされました。

私も母から、空から落ちる爆弾の下を、家族と手をつないで逃げて走ったことを
聞かされて育ちました。
まるで鬼ごっこでもしているように、きゃあきゃあ言いながら逃げたそうです。
母は当時、死の意味もよく分からない、のん気な女の子だったらしく、
母から聞く戦争の話は、何だか妙に無邪気なのです。

しかし仲良くしていた隣のきれいなお姉さん、
お父さんが歯科医で、お母さんがお料理上手で、わんぱくな弟がいて、
その家族が防空壕に隠れた瞬間に爆弾が炸裂して、
一家が一瞬にして焼け死んだこと、
忽然と姿を消した隣人一家のことを話すときだけ、
母はやけにしんみりしていました。

父は体が弱くて戦争に行ってないし、
戦争の話を私にしたがらない人でした。
私は家族に戦死者のいない家庭で育ちました。そんなわけで私は、
怖ろしい戦争の話を家庭内で聞いたことはほとんどありませんでした。

しかし父はよく「日本はもう戦争をしない、ずっと平和ないい国だから、
こんないい憲法を持った国に生まれたことを、感謝しなくちゃいけないよ」と
口癖のように言ってました。

私はどっぷりと平和に浸って生きてきたし、平和を享受して来ました。
生まれる15年まえまで自分の国で戦争があったなんて、全く信じられないほど
私にとって平和はごくごく日常の、当たり前のことでした。

しかし21世紀に入って、平和が当たり前ではないということを
恐怖と不安を伴なって、少しずつ実感するようになりました。
病気になってはじめて健康の素晴らしさを知るように
平和の尊さを、痛切に感じるようになりました。
徐々に蝕まれる病原菌みたいなものに、
日本も侵されはじめているような気がして来ました。
こんなときになってはじめて、日本国憲法の価値を知るようになりました。

平和な日常なんていうものは、案外もろくてあっけないものなのですね。
私たちの代でこれを手放したりしたら、
未来永劫悔いることになりますよね。
私たちは未来に対しても、大きな責任を持っているのですから。

私も絶対に手放したくないです、日本国憲法。
私たちの手で、守り抜きましょう。
そのためにも大いに語り合っていきたいものですね!
宜しくお願い致しますクローバー
こんにちは

夫の父親は大正生まれで戦争から帰還しているので話を聞いた事があります。

戦争中の事はあまり話たがらないのですがマラリアにかかって帰って来た時 母親が精がつくからとマムシを素手で捕まえて肝を飲ませてくれたとか


思いがけず帰ってきた息子を助けたいと 必死だったんだと思います。

私の母親は北海道の稚内市が実家でした
樺太から電話交換手の為に殉職した乙女達の話も聞かされています。

戦争体験の生の声を聞いた最後の世代なのかもしれません

平和というものを
考えていきたいと思っています。

僕の祖父は、戦争をまったく語らない人でした。

小学校のとき、学校の宿題で家族や近所の方の戦争体験を聞いてくるというものがありました。
僕は祖父に聞きたかったけど怖かったので、保母に聞きました。
そのとき、祖母は「おじいちゃんは誰にも戦争のことを話したことがない」と言いました。ただ、たった一度だけ、戦友が尋ねてきたときだけ話したそうです。

そのとき祖母から聞いたのは、祖父がビルマ戦線に参加したこと。
戦友との話が漏れて聞こえた範囲では、祖父の部隊がほぼ全滅に近かったこと。
祖父が終戦しても帰らず、新聞報道では戦死した扱いになっていたこと。
終戦2年後に、ひょっこりあらわれたということでした。

当時はよくわからず聞いていましたが、今になると僕の祖父は多くの人を残虐に殺して生き残ったのだと思います。
だから、戦後は何も語らなかったのかもしれません。

祖母は保守の人です。
だけど、今でも「戦争だけはあかん」と言います。

国家によって引き起こされた侵略戦争で、一人の人が残虐が殺人鬼になる。
その加害の家系が僕の家です。
多くの日本人は、加害者であり、同時に国家からの被害者です。

憲法の重みは、そうした人たちの人生のうえに制定されたところにもあるように思います。
私の父は満州生まれで、6歳まで満州で育ちました。祖父は当時シベリアに囚われ、祖母が1人で3人の子ども(父と弟の叔父、妹の叔母の3人)を連れて逃げるように日本に帰ってきたそうです。もちろんその後祖父は無事帰ってきました。

私が子どものころ祖父や祖母から戦争の話を聞かされた記憶があります。また日本の法律には戦争を禁ずる内容があることもその時に知りました。けど、詳しいことまでは分からず、ただ「戦争を禁ずる」だけしか知らなかったので、自衛隊は違法ではないのだろうと思い込んでいました。

学生時代に始めて9条の内容を学び「ここまではっきりと詳しく書かれてあったのか」と嬉しく思いました。

その後も憲法について学べば学ぶほど憲法の重みが伝わり、ますます好きになりました。こんな素晴らしい法律が日本にあるのは幸せなことだと実感しています。
僕は、まさにその戦争末期の生まれです。
1945年5月1日。いまの中国東北部、いわゆる満州で。

8月15日以降、母は生まれたばかりの僕と、5つになる
兄を連れ、必死で日本に向かったのだ、と・・。

父は、すぐにソビエト軍に捕まり、捕虜としてシベリアに
送られ、3年後だったかに帰国したときには栄養失調で
片目の視力を失っていました。

だから、母は一人で僕たち兄弟を守り通したのです。

母と僕と兄が帰国したのは、母は1945年の秋だといい、
兄は翌年の秋だ、といいます。その後のいろいろなことから推測すると
どうやら、兄の記憶の方が正しいらしく、帰国は翌年秋のことで、母は
1年以上も旧満州から、朝鮮半島をさまよい逃げた、
ということになります。

どうやって女手ひとつで僕たち兄弟を守り、帰国したのか
母の口からは詳しいことは聞けませんでした。

だから、母は理屈も何もなく、戦争には正義もなにもない、
ただ、むごいだけだ、戦争は何があってもいけない、と
いつもテレビなど見ながら言っていたものでした。

そんな母が残した、短歌一首

  聖戦の名に恐ろしき業をみる 日本もかつて恥ずかしき日あり

この母の思いこそが憲法9条だと、僕も理屈抜きで思います。
ご紹介です。

このコミュの仲間であり、副管理人のたまかづらさんがご本を
出版なさったことはすでに、皆様ご承知のことと思います。

この出版された本「判事の家」のことで、たまかづら(橘かがり)さんが
東京新聞からインタビューを受け、その内容記事が5月12日付けの
東京新聞にのりました。

残念ながら僕はその「現物」を読むことができなかったのですが、
たまかづら(橘かがり)さんのブログ「青でもなく 緑でもなく」に
そのことが書かれていますのでご紹介いたします。

このブログは、一冊の本「判事の家」が生み出されていく道筋で
たかまかづら(橘かがり)さんが体験なさったこと、考えたことなども
書かれていて、この本を読む上でもとても貴重なブログです。

ぜひ、たまがづら(橘かがり)さんのブログ「青でもなく 緑でもなく」

http://tachibana-kagari.seesaa.net/

をごらんください。また、まだこの本をお読みになっていない方、
ぜひお読みください。直接的には触れられてはいませんが、憲法との
かかわりも考えさせられる著作だと思います。

ひろくんさん 皆さま 大変お世話になっております。
ご丁寧な紹介文を載せていただき
とても感激して、恐縮しております。ありがとうございました!

東京新聞社会部記者のSさんとは、4回ほどお目にかかりました。
そのたびに、何時間も話しこみました。
Sさんは法学部在学中は、死刑廃止と固く信じていたそうです。

しかし社会部に配属になり、残忍な殺人事件を取材することが多く、
本当に死刑を廃止してよいのか、正直なところ分からなくなったと、
最初に会ったときには、仰っていました。
それでも私の話をじっと聞いてくださって、
あのような記事を書いて下さって、大変ありがたく、
身に余る光栄だと思っております。

取材を通して、ノンフィクションと創作の違い、
拙著で書き足りなかったところ、書きすぎたところなどを、
顧みることもできました。
何より意見が少し違う方と、じっくり対話することの大切さを、
つくづく感じた貴重な体験でした。
東京新聞社会部のSさまに、心より感謝しております晴れ

ブログは拙いものですが、ご一読頂けたら幸いです。
未熟者ながら、憲法についても、少しずつ書いていきたいと願っております。
今後ともご指導宜しくお願い申し上げます。
青でもなく緑でもなく
読みました
意見の違う方とじっくりというたまかづらさんの姿勢に非常に共感しています。

ご自分の意見を持ちながらどんな意見にも真剣に考えている方の思いに耳を傾けてより深く考えてみることは大切ですね

プログの題名とともに様々な和音が聞こえて来そうです。


>ムッチさま
温かいお言葉ありがとうございます。
読んで頂いて感謝感激!
次は憲法草案のときのことを書くつもりで
憲法のことを猛勉強中です!
皆さまにいろいろ教えて頂きたいので
これからもどうかよろしくお願い致します!晴れ
>珊瑚礁さま

沖縄の本土復帰した日が1972年5月15日だったのですね!

>当時、日本の憲法がどれだけ素晴らしくて、どれだけ輝いて見えたことか・・・・・

そうでしたか。私は当時まだ子どもでしたが
ニュースで見た、沖縄の方たちの、
光り輝く笑顔をはっきり記憶しています晴れ

日本の憲法の価値を認識し、
素晴らしさを皆で分かち合えると良いですね〜〜。

>それもそのはず!
>日本の建国記念日2月11日と
>アメリカの独立記念日7月4日の真ん中をとって決めた日だと言う。

ええ〜〜。そ、そうだったんですか??びっくり!
そ、そんなぁ…ふらふらって思いますよね〜〜。
貴重な情報を教えて下さってありがとうございます!勉強になります!

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