ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史実 忠臣蔵事件の真相コミュの梶川日記 原文理解のポイント その2

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  これは続き物です。

 初めての方は、↓ をクリックして 1.からお読みください。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29704148&comm_id=3207175

指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ

 画像1と画像2は、前のトピックに掲げた。
 画像3は、平成十年にワープロで描いて雑誌に載せたパース。エクセルでは描くのが難しいため、今回はあきらめた。
 舞良戸には、画像2のような「縦桟」と、画像3のような「横桟」がある。実際の松之廊下の舞良戸がどちらであったかは、わからない。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 松之廊下は、「松之大廊下」、あるいは「大廊下」ともいわれ、本丸御殿の白書院(公式行事などに使われた応接間)と、南にある大広間を結ぶ長い廊下である。
 始点は、白書院の近くにある桜溜(桜之間)の杉戸で、北から南に京間で十七間半(約34.5メートル)行ったところで左折し、大広間の後ろ側に出る。左折したところから十間半(約20.7メートル)のところに終点の杉戸があった。"L"の字の形の全長50メートルもある、長い廊下であった。

 廊下の幅は、直角に曲がるところまでが二間半で、左折した大広間の後ろ側が幅二間。天井の高さは一丈三寸四分 (約3メートル)。猿棒天井(※1)と呼ばれるもの。


 さて、原文にはこうある。

「拙者大広間の方御休息の間の障子明て有之(これあり)夫(それ)より大広間の方へ出候て角柱より六七間も可有之処(これあるところ)にて双方より出会ひ互いに立居候て」

「拙者大広間の方御休息の間の障子明て有之(これあり)」

 この障子は、紙や絹を貼って明り取りできるようにした「明障子」(あかりしょうじ)ではなく、「襖障子」(ふすましょうじ)であると考えられる。「明て有之(これあり)」は、「開けてあったので」 という意味。

 上部屋(かみべや)や下部屋(しもべや)は、その部屋の襖を開けて松之廊下との間を出入りするものではなく、上部屋には北隣に、下部屋には南隣に、「入側」 があった。部屋からの出入りは 「入側」 を使う。

 下部屋の入側の襖が開いていた。このことから、梶川は、勅使・院使らは別の場所(おそらく「桜之間」)に移動したと察した。

 勅使の柳原資廉(やなぎはら・すけかど)の道中日記には、「秋ノ野間」にいるときに、「外様馳走人浅野内匠頭乱気歎」。「次ノ廊下ニテ吉良上野介ヲキル」「大二騒動絶二言語一也」「事了、畳ナド清メラル」、とある。

 その後、三人いる高家肝煎の一人、畠山民部大輔基玄(はたけやま・みんぶだいゆう・もとくろ)と、高家の戸田中務氏興(とだ・なかつかさたいふ・うじおき)が、

「今日の勅答の儀はいかがいたしましょうか」と尋ねてきたので、柳原資廉は「苦かるまじきかな」 と答えた。

 つまり、次の(すぐそこの)廊下で事件があったことや、畳などが清められたことを知ったのちに、高家がお伺いをたててきたということなので、事件が起きる前に「事件現場」を通らずに行ける場所に移動していたことになる。



 さてここで問題になるのは、浅野や伊達が控えていた「大広間の方御障子際」と、「御休息の間の障子」。同じように「障子」と書いているのに、なぜ浅野や伊達が控えていた場所が 「中庭側の障子際」 なのか。また、開いていた 「御休息の間の障子」 は 「下部屋の入側の襖」 なのか。

 後者、「大広間の方御休息の間の障子」 が中庭側でないことはわかる。
 中世以降、障子といえば「明障子」を指すようになったが、そもそも障子とは、和風建築の屏障具(へいしようぐ)の総称で、紙や布を貼った「襖障子」(ふすましょうじ)や移動可能な衝立障子(ついたてしょうじ)について、江戸時代になってからでも 「障子」 と称されることがあった。

 浅野や伊達が控えていた「大広間の方御障子際」については、礼法による。
 下部屋が勅使・院使の「御休息の間」であれば、中庭とは反対の西側が 「上座」 になる。また、北にある白書院と南にある大広間では、白書院のある南側が 「上座」 である。
 礼法では、「上座には尻を向けない」 が基本だ。

 仮に上座を右にして坐ったとしよう。そこから立ち上がる場合には、左足から立ち上がる。そうすることで上座に対して背や尻が向かないからである。このように、上座に対して背や尻等を向けることは、「礼を欠く行為」 だと考えられていたのである。


手(パー)
「猿頬」とは、天井の竿縁などに使われたもので、細長い柱状を四五度以上の角度で面取りしたもの。断面が猿の頬の形をしていることから。


 
 下につづく

 6.梶川日記 原文理解のポイント その3
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29612775&comm_id=3207175

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史実 忠臣蔵事件の真相 更新情報

史実 忠臣蔵事件の真相のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング