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史実 忠臣蔵事件の真相コミュの梶川日記の考察

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 松之大廊下での刃傷事件。目撃者が書いた唯一の史料は、ご存じ、梶川與惣兵衛頼照の日記です。

 しかし、同日記の原本はなく、二系統の写本のみ存在しています。

 どちらも原本は梶川與惣兵衛が書いたと思われますが、両者をくらべるとずいぶん違いがあります。

 よく知られているのは下に引用した資料?、東京大学史料編纂所蔵の写本ですが、これは国立国会図書館蔵の写本「丁未雑記」を筆写したもので、幕府祐筆だった向山誠斎の筆写。この「丁未」とは弘化四年(1847)のことです。「丁未雑記 二十三」の一部に「梶川筆記」が入っているのです。
 東京大学史料編纂所蔵の「丁未雑記」に載っている「梶川氏筆記」。赤穂市から出ている『忠臣蔵』第三巻(資料編)もこれを転載したものです。


 野口武彦著『忠臣蔵』では、赤穂市の『忠臣蔵』第三巻(資料編)を出典として書かれていますが、「丁未とは1727年である」と間違って書いています。この孫引きもけっこう多いんですよ。


 もう一系統は、東京大学総合図書館の南葵文庫にあるもので、資料?。もともとは紀伊徳川家の蔵書でした。これには「梶川与惣兵衛日記」の書名が付いていて、嘉永三年(1850)に梶川与惣兵衛の家臣井上主義氏より藤原忠総が写した写本です。



 事件直後に書いたのは資料?。これだけでは書いた本人にしかわからないところがいくつかあります。
 ときが経って全体を整理し、わかりやすくしたものが?ですが、後世の人のこの解釈が問題になっている部分もあります。

 江戸城の構造や登場人物についてよく調べた上で両者を見比べれば、あの事件がリアルに映ってくるでしょう。




【資料? 東京大学史料編纂所蔵の写本より】

其後御白書院の方を見候ヘハ吉良殿御白書院の方より来り被申候故又坊主ニ呼ニ遣し吉良殿へ其段申候ヘハ、承知の由にて此方へ被参候間拙者大広間の方へ出候て角柱より六七間もあるへき所にて双方より出合、互に立居候て今日御使の刻限早く相成候義を一言二言申候処、誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候其太刀音ハ強く聞候得共後に承候へは存の外切れ不申浅手にて有之候我等も驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也、上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又切付られ候故我等方前へむきて逃んとせられし所を又二太刀程切られ申候、上野介殿其侭うつむきに倒れ被申候吉良殿倒れ候と大方とたんにて、其間合ハ二足か三足程の事にて組付候様に覚申候右の節我等片手ハ内匠殿小刀の鍔にあたり候故、夫共に押付すくめ申候内匠殿をハ大広間の後の方へ何も大勢にて取かこみ参り申候、其節内匠殿被申候は上野介事此間中意趣有之候故殿中と申今日の事旁恐入候得共不及申是非打果候由の事を、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返■被申候、其節の事にてせき被申候故殊の外大音にて有之候、高家衆はしめ取かこみ参候中最早事済候間たまり被申候へ、余り高声にていかゝと被申候へハ其後は不被申候(後略)




【資料? 東京大学総合図書館 南葵文庫蔵の写本より】

其後御白書院之方見候得は吉良殿御白書院より被出候故又坊主ニ呼く連候得と申候ヘは則坊主罷越候吉良殿何なとへ参り可申候由此方へ被参候大廣間ノ方之御休息之間障子明ケ候て有之そ漣より大廣間之方とて出角柱より六七間有之双方より出合互ニ立候而今日御使はやく成候義一言二言申候内吉良殿後より内匠殿聲かけ切付被申候得共太刀音つよく候而切不申候様存候吉良殿これハと被申後むき被処又打切付申候へは前へとむきて我等方へむき被申候処ニ太刀ほと切付被申候得は吉良うつふけニたおれ被申候と我等内匠へ組付申候大かたとたんニ候事三足か四足ニ而参候様ニ存候ニ被存候小サ刀之ツバへかけ我等くみ付申候内高家衆左京・・・・坊主も何もかけ付高家内匠へ取付被申候其後吉良殿見申候得はは其廊か被居不申誰つれ候て参り候哉是も不存候後手承り候は高家品川豊前畠山下総つれ候て被参候間そ連より大廣ノ間うしろノ方ヘ内匠殿を何茂取次候て参候場所より内匠殿比間意趣有之今日被申殿中おそれ多く候得共不及是打果よし大廣間と柳之間多まり御廊下杉戸之外迄と続く被申候共所何も幾たり候てもはや事散候間だまり被申候様ニと申候得は志付満り被申し(後略)


 片方だけでは、史実は見えてきません。


 資料?に、

「誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候(中略)我等も驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也我等も驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也」

 と書かれていることから、梶川日記に書かれた「事件があったときの浅野・吉良・梶川の位置関係」に疑問を呈し、「はじめ、浅野が吉良の後ろから切りつけたこと」を否定しようとする人がいました。
 浅野を擁護したいのでしょうが、「誰哉らん」というのは、「まさか」という驚きの表現です。

 初歩的なことですが上にある「我等」は一人称単数。つまり、「私」と同義なのですが、これを「私たち」と訳してる。こんなのは、広辞苑くらいでもわかることなのに。この事件現場で「私たち」って、「私」以外に誰がいるの(笑)


 次の史料?は、資料?と?から作ったものでしょう。これは「鍋田晶山校注」ということになっていますが、日本シェル出版の八切止夫氏が編集して解説を加えたものです。
 井沢元彦さんはこれを梶川本人が書いたものの写本と思って引用していますが、こういうのがいちばんヤバいんですね。もともとの鍋田晶山のものは、国書刊行会編(明治四十三年刊)にあります。



【資料? 「赤穂義人纂書 赤穂義士史料大成」鍋田晶山校注 日本シェル出版刊】

其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被参候間、拙者大廣間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大廣間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之處にて双方より出会ひ、互に立居候て、今日御使の刻限早く相成候儀を一言二言申候處、誰やらん吉良殿の後より、此間の遺恨覚えたるかと◎十一字纂書本なし、聲を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外切れ不申、浅手にて有之候)、我等も驚き見候へば、御馳走人の浅野内匠殿なり、上野介殿是れはとて、後ろの方へ振り向き申され候處を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし處を、又二太刀ほど切られ申し候、上野介其儘うつ向に倒れ申され候、其時に我等内匠殿へ飛びかヽり申候(後略)

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