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内山老師が残した言葉コミュの 学道用心集 第九

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 道(どう)に向って修行すべき事


書き下し&私訳

右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。

 凡夫が嫌うはずの、仏道を学びたいという稀有な人たちに、気をつけてもらいたいことがある。それは、進むべき方向をきちんと定めるということ。

夫(そ)れ、釋雄調御(しゃくゆうちょうご)、菩提樹下(ぼだいじゅげ)に坐して、明星(みょうじょう)を見ることを得て、忽然(こつねん)として頓(とん)に無上乗(むじょうじょう)の道(どう)を悟る。

そもそも、仏陀が6年の苦行のあと、菩提樹の下で坐禅をしていたところ、夜明けの明星をみた瞬間に無上の法を悟られた。

其の悟る所の道は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)等の能(よ)く及ぶ所に非ず。
佛(ほとけ)能く自(みず)から悟りて、佛、佛に傳へて、今に断絶(だんぜつ)せず。
其の悟を得る者は、豈(あ)に佛に非(あら)ざらんや。

 その仏陀の悟りとは、自分だけの満足を目的としている者たちには、とうてい理解できるものではない。
仏は、自分が悟った内容を、仏から仏へ絶え間なく伝えてこられた。
仏が悟った内容を体得できた者は、もはや仏である。


所謂(いわゆる)道に向うとは、佛道の涯際(がいさい)を了ずるなり。佛道の様子(ようす)を明(あきら)むるなり。

 仏道を学ぶ方向というは、仏の教えの根本を徹底的に信解することであり、
修行とは何なのか、いつが修行なのか、修行とはどこにあるのか、ということをはっきりと自覚して行うことである。

佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。
道に礙(さ)えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟(ご)に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。

 仏道とは、他人事でもなく、世間話でもなく、きれいごとでもなく、今ここで出逢っている人、物、出来事などすべてのすべてと自分がどう向き合っているのか、ということである。
自分のが出逢っている仕事になりきってしまっている時、自分では気づかぬうちに悟りは現成している。

是(こ)れに因りて縦(たと)え十分(ぶん)の會(え)を挙(こ)すと雖も、猶(な)お一半(ぱん)の悟に落(おつ)るか。
是れ則ち道に向うの風流なり。

 「あ、自分は悟ったぞ」と思って自惚れてしまう程度なら、まだまだ半人前である。
その悟りにすら滞らないで、いつも今ここの瞬間に力を尽くすことが仏道の修行のしどころである。

而今(にこん)、学道の人は、未だ道の通塞(つうそく)を辨ぜず、強(し)いて見驗(けんげん)の有らんことを好む。
錯(あやま)らざるは阿誰(たれ)ぞ。

 最近の修行者は、禅というと、悟りを開いて特別な心境になりたい!(ぼくはそう思ってました)なんて考えるのがいるが、そんな考えでは、マスターベーション的で見当外れの修行しかできない。

父を捨(す)て逃逝(とうぜい)し、宝を捨(す)てて令并(れいへい)す。
長者(ちょうじゃ)の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人(せんにん)と作(な)る。良(まこと)に以(ゆえ)あり。

 (法華経、信解品)裕福な家の一人息子が、我が家の裕福であることを忘れ、あてもなくさ迷い歩き、ついに乞食になり下がってしまった、という話。
 元々、自然の恵みで生かされていた人間が、自然の存在を忘れ、人間の都合の良いように全てをコントロールしようとして、結局は自分たちが苦しんでいる。我を忘れて、自然を排除してしまったから、こうなったわけである。自我の思いを優先すれば、結局苦しむのは自分たちであろう。

夫(そ)れ、學道の者は、道(どう)に礙(さ)えらるることを求む。
道に礙えらるるとは、悟跡(ごしゃく)を忘(ぼう)ずるなり。

 まず仏道を学ぶ者は、仏道に身を投げ入れてしまうこと。仏道に遮られて自我が顔を出せないように。それは、つまり、修行中は「悟りたい」「特別な境涯になりたい」という思いさえも忘れて、自己全体(身体の感覚、機能)が今出逢っている仕事全体に行き渡っていることである。


佛道を修行する者は、先づ須(すべか)らく佛道を信ずべし。

 仏道を修行しようとする者は、どうせやるなら、とことん仏道を信じて修行すべきだ。

佛道を信ずる者は、須(すべか)らく自己本(もと)道中に在りて、迷惑(めいわく)せず、妄想せず、顛倒(てんどう)せず、増減(ぞうげん)なく、誤謬(ごびゅう)なしということを信ずべし。

 仏道を信じる者(信じたい者)は、仏道と自己は離れようとしても離れられない関係であり、
迷いもせず、妄想もせず、大失敗もせず、損得もなく、間違いもない道ということを信ずるべきだ。


是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依(よ)って之を行ず、乃ち學道の本基(ほんき)なり。

 このような信じる心が生まれ、これらの道理を理解して、その正しい理解に随って、修行していくことが、仏道修行する上での大切なポイントである。 

其の風規(ふうき)たる、意根(いこん)を坐断(ざだん)して、知解(ちげ)の路(みち)に向(むか)わざらしむるなり。

 仏道の導き方というのは、坐禅をして、まずわれわれの自我が作りだす自分勝手な思い込みを、「自分の思い込みだったのか」と自覚させることで、今までの思い癖を離れさせることである。
 
是れ乃ち初心(しょしん)を誘引(ゆういん)するの方便(ほうべん)なり。

これは、初心の者を導くための方便だ。

其の後(のち)、身心を脱落(だつらく)し、迷悟を放下(ほうげ)す、第二の様子なり。

その後に、ただ坐禅して、自我の計らいを取っ払って、迷いだとか悟りだとかということも、どうでもよくなってくること、これが第2の様子だ。

大凡(おおよ)そ自己佛道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。
若し正(まさ)しく道に在りと信ぜば、自然(じねん)に大道の通塞(つうそく)を了じ、迷悟の職由(しょくゆう)を知らん。
人試みに意根(いこん)を坐断せよ、十が八九は、忽然(こつねん)として見道することを得ん。

 仏道の中で自分が生かされていると信じられる人は、かなり少数である。
もし本当に仏道の中で自分が生かされていると信じられれば、何のはからいもせず、自然と、自我のしくみが理解できてきて、迷いの根源が何なのかわかってくるだろう。

 修行をする者よ!一度本当に死ぬ気になって、すべてを投げ出して坐禅せよ!本当に何もかもを捨て去るのだ!その決死の覚悟で坐ることができれば、仏道のなんたるかが開けみえてくるに違いない。


(現代語訳)BY西嶋老師

上記の表題の意味は、仏道を勉強している一人前の人物は、先ず第一に真実に向つている自分の態度が、正しいか正しくないかという事を知る必要がある。

一般的に云つて、自分自身を自由自在に管理することの出来るようになつた釈尊は、それ以前に菩提樹の下で坐禅をされ、明けの明星が東の空に輝いているのを見る機会を持つた時に、思いがけなく急にこの世における最高の真実を実観された。

その時に実観された真実の内容は、理論的に佛教を勉強している僧侶や、環境を大切にして佛教を勉強をしている僧侶達が達成できる内容とは、全く違つている。

そして真実を自分自身で実観することの出来た人々が、真実を得た人々に伝えて、今迄途絶える事の無かつたものである。

したがつて、その実観を得た人は、どうして真実を得た人でないという事が云えよう。

此処で云つている、真実に向かうということの意味は,釈尊が説かれた教えを完全に角の角迄知り尽くす事であり、釈尊が説かれた教え全体の様子を、はつきりと理解することである。

釈尊が説かれた教えの実体は,人々それぞれの足の踵の下にある大地に根ざしている。真実そのものに自己拘束されて,自分自身の現在地点において、明瞭に理解出来る処であり、真実を知つたという事実そのものに支えられて、本人自身が完成されているのである。

此のような事情から,仮に完成された形での理解を誇示している場合でも、多少何か欠けた真実の把握に落ち着いたように見える事情があるのであろうか。これが正に真実に近ずく優雅な態度である。

しかし現代においては、真実を勉強している人々が、まだ真実が分かつた分かつていないの区別もはつきりしていない為に、無理にその結果が眼に見えて来ることを好む。誰がこの誤りを犯していないであろうか。

父を捨てて自分の国から逃げ、本当に価値のあるものを捨てて、自分の国以外の土地を彷徨つている。自分自身が大金持ちの独りつ子であるにも拘らず、長い期間に亘つて外国人として、賎しい階級に属している。しかしそれには正に当然の理由がある。

一般的に云つて、真実を勉強する人々は、真実によつて自己拘束されることを求めており、真実によつて自己拘束されるということは、真実を把握した後に、真実を把握したという事実を忘れてしまう事である。

仏道の修行をしようとする人は、先ず最初に仏道を信ずる必要がある。
仏道を信ずる人は、先ず自分自身が本来真実の中に居て、迷つても居なければ、間違つた考えも持つていない、正邪が反対になつて居る事も無ければ、過不足も無く、過失や誤りもないということを信じるべきである。

このような信念を持ち、このような真実を明瞭に理解し、それらの基準に従つてこれを実行する。それが正に真実を勉強する為の基本である。

そしてその実行方法の基準は、意識の基礎的な働きをバランスした状況に依つて一時中断し、われわれの心や身体の働きが、知覚や思考の領域に入つて行かないようにする事である。これが正に初心者を誘導する場合のやり方である。

其の後で,身体や心に関する意識から抜け出し、迷いも悟りも投げ捨ててしまうことが、二番目の様子である。

しかし一般的に云つて、自分自身が本来、釈尊の教えの真唯中に居るのであるという事を、信じて居る人を見付けることが一番難しいのである。

もしも誰かが、自分は正に現実の中に生きて居るのであるという事実を、信じる事が出来るようになると、偉大な真実の中を自由自在に行き来する事が自然に出来るようになり、迷いや悟りの起こる原因が、分かつて来るであろう。

人は誰でも試しに坐禅の修行をし、自律神経をバランスさせ、交感神経と副交感神経とをバランスさせて、意識の根源をプラス・マイナス・ゼロの状態にして見ると良い。十人の内八、九人迄は、即座に真実に出会うことが出来るであろう。

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