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呻吟語(しんぎんご)を読むコミュの(寺山修司と偶然)「無知なればこそ偶然に惑う」〜呻吟語〜

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(寺山修司と偶然)「無知なればこそ偶然に惑う」〜呻吟語〜

<第6講>人はいかにあるべきか(1)

 数ヶ月前から気になる作家の名前「寺山修司」がある。以前に紹介した俳人・小林一茶の生涯を要約した本「知っておきたい『この一句』」(黛まどか編)に、寺山修司の俳句があった。俳句に興味を持つようになり、3年前からこの本は、トイレ図書の「一冊」になっています。

 最近、ミクシィやネット上で、俳句、青春等々で引くと、寺山修司の名前が時々あり、興味を持ち始めていました。実は昨日、『この一句』に紹介された寺山修司の句をテーマに日記を書く予定でしたが、興味が深まり歌集や本を一昨日の夕方のちょっとした閑な時間を見つけて探しました。

 まともには捜さないの私、まず「Book Off」の何時も行かないショップにふらっと寄り探すと、なんと「寺山修司青春歌集」と寺山修司の「両手いっぱいの言葉」が並んで在りました。これは偶然、ラッキーでした。でも求めている気持ちがあると、導かれるように、出会うように感じます。お陰で、昨日から2冊を読んでいます。

 寺山修司に関して、そんな出来事があり、2冊をもう少し読んでから感想等を日記に書きたいと思っています。

 さて、昨日の寺山修司の本に出会うのは偶然か、当然か、自然かを、少し考えました。中国古典の「呻吟語」の解説を安岡正篤先生が解説した本に、次の言葉がありました。。

(現代語、解説)
 みんな偶然ということになったら、本当の偶然というものがわからなくなる。自然というものをよく研究すると、自然の中に必然、あるいは当然の法則を発見する。
 ところが、その自然の研究が足りないと、自然のなかの必然、当然の法則がわからない。人は当然を偶然と錯覚する。そこに偶然が起ってくる、要するに偶然は知識の欠如を表すものである。(中略)
 つまり偶然が起っても、それは実は必然であり、当然なのである。(中略)

 この項のテーマは、「無知なればこそ偶然に惑う」でした。 

 日々暮らしていると、「こんなところで、会えるとは・・」と思ったり、こんな本がないかなと、通りすがりの書店に寄ると在ったり、これを偶然とみるか、必然とみるか・・・、でもその偶然が、日々の生活に刺激を与え、変化を起こています。みなさんは、そんなことはありませんか。

 また、午後30分ほど時間ができたので、(熊本県)近代文学館に「移民と父と言われた方の資料展」を見に寄ると休館、当てがはずれたのですが、帰宅途中に地元紙の支局に寄ると、「移民の父」を相当調査し勉強している、少しブラジル移民のことを教えてくれました。でも寄った要件は別のことでした。ラッキーでした。

 「ちょっと、寄って見よう」の行動こそが、偶然である「必然」を、起こすのかもしれません。常に考え続け、求め続けていると、必然的に出会う。なんかそんな気分の今日一日でした。

 今夜は、コタツにうたた寝をして、変な時間に日記を書いています。明日も、偶然(必然)を呼び寄せられるように、行動したいと思います。(では、みなさんお休みなさい)

*参考資料:安岡正篤編著「呻吟語を読む」より

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