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SF小説『SAMPLE』を読んでみるコミュのSAMPLE -37-

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 未来の激しい動悸は治まりつつあるようだった。
 しかし、まだ指先の震えと言いようがない不安感、目眩は残っている。視界が揺れて吐き気もあり、荒い呼吸は未だに続いていた。
「どうしたの、私の身体……」
 ビートルの運転席でハンドルに半身をもたれさせた未来は、手の甲で額の冷や汗を拭って呟いた。
 こんなことは初めてだった。
 皆の発言を会議室で懸命に聞いているつもりだったが、突然心臓が早鐘のように激しい鼓動を刻み始めてからは、内容を殆ど記憶できなかった。大月に質問されて自分も何か言ったことは覚えているものの、何を言ったかまでは思い出せない。
 それよりも、突如として狂った心臓の方が気になっていた。杉田は脳の装置に異常があると言っていたが、他の移植部品にも不具合があるのではないか?
 胸を押さえ直した未来が表情を曇らせた時、ビートルの窓を杉田が叩いていることに気づいた。
「大丈夫か?急に具合が悪くなったようだけど」
「平気だよ、もう落ち着いたから」
 ビートルの窓を開けた未来は、もう一度冷や汗を拭って杉田の心配そうな顔を見上げた。
「何があったんだ。詳しく説明できるか?」
「……何か、急に心臓がどきどきして。どうにもならなかったの」
 身体の力を抜いて、未来がシートに背を預ける。彼女は感じたままのことを若い医師に説明すると、最後につけ加えた。
「こんなこと、初めてだよ。もし戦闘中にこんな状態になったら、私……多分、P2に一撃でやられるよ。ねえ、杉田先生。本当に脳の装置がおかしいだけなの?他にもまだ故障した部品があるんじゃないの?」
 不安げな未来に、杉田は頷いた。
「わかった。今すぐ、全身のチェックを含めたメンテナンスをやる。昨日の分がまだ持ち越しになってるからな。何かあれば、その場で処置するようにしよう」
 強い口調の杉田に、未来は安心したような顔を見せた。
 二人は一階の会議室には戻らず、各種検査室と診察室が集中する二階へと直行した。簡単に健康状態を確認してから心電図や血液検査をし、レントゲンを撮影した後にMRI、CTスキャン等の大がかりな装置を用いた検査を進め、最後にメンテナンスを実施する予定でいる。
 未来が検査着に着替える間に杉田が生沢へ経緯を報告すると、生沢もミーティングが終了次第検査に立ち会うとのことだった。
「うーん……」
 CTを操作する杉田が、助手から受け取った心電図とモニターに表示された図を見比べながら唸っていた。彼がいる操作室と未来が横たわっているCTスキャン装置本体の部屋はガラスで仕切られており、その細い身体の断面図がモニターに次々と現れては消えることを繰り返している。
「どうだ。何か見つかったか?」
 そこへ、ミーティングを終えた生沢が入ってきた。困り顔の杉田が、大きな手に心電図のプリントを渡す。
「いえ、何も異常がないんです。さっきはあんなに苦しそうだったのに」
「ふむ。詳しい症状を俺にも説明できるか」
 無精髭だらけの顎を撫でながら、生沢が心電図の波形に目を通す。未来の症状について杉田が説明する間も、太い指が硬い髭を弄り続けていた。
「突発性の動悸と呼吸困難に不安感、目眩、発汗。しかし、関係すると思われる器官に検査での異常所見はなしか。同じ症例は救急センターでもたまにあったな」
「え、本当ですか」
「ああ、パニック発作ってやつだ。精神疾患の一種だよ」
 生沢が言葉を切って心電図を杉田に返し、ガラスの向こうにいる未来を見やった。規定枚数のCTスキャン画像を撮影し終えた未来がこちらに手を振り、生沢と杉田が応える。
「こういう発作がある日突然起こり、驚いた患者は救急車を呼ぶ。ところが搬送された頃には症状が収まって、検査をしても異常がない。そうしたことが繰り返されるうちに患者はいつまた発作が起きるか怯え、そのうち日常生活にも支障をきたすほどになる」
 MRI検査室に移動する間も、生沢の説明は続く。杉田と二人で操作室に入ったときにはもう、未来が装置の中にいる状態だった。彼女も検査に慣れてきているのだ。
「じゃあ、未来はやっぱりストレスにやられて?」
 杉田が眉根を寄せたが、生沢は首を振った。
「いや。器質的な問題に伴うものの可能性が高いな」
 MRIが特有の騒々しい駆動音と共に動作を始めると、二人の医師の前にあるモニターにモノクロの画面が映し出された。杉田がコントロールパネルで細かい調整をすると、未来の身体の深い断面までが精密な画像で再現され始める。
 MRIは身体に金属があると正確な画像が出ない、装置の誤作動を誘発する等の欠点があるためよほどのことがない限り使用しない装置だ。
 サイボーグである未来には当然、最小限ながらも一部金属が使用されている箇所がある。それでも強烈な磁場による不具合を生じさせないのは、新開発の素材を使用して金属部品をコーティングしているからで、セラフィムグループが心血を注いだ研究の結果と言えよう。
 これは、医療やエレクトロニクスの分野において大いに期待がされているものでもあった。
「未来の血中セロトニン量は下限ぎりぎりの値だろう。パニック発作は、セロトニン量にも密接な関係がある。確かに未来は重いストレスに晒されたが、数日でここまで状態が悪化した。単純なストレスの影響だけでこんなに進行が早くなるとは、ちょっと考えにくい。うつ病にしたって、発症には普通数週間はかかるからな」
「SNSAの誤作動が関係しているかも知れないと?」
 内臓や各種パーツの動きをリアルタイムの画像で確認しながら、杉田は先日生沢に注意を受けた仮説のことを思い出した。
「お前に話を聞いたときはそう思えなかったんだが、流石にこれは疑わしい。原因の特定と、具体的にどんな誤作動があるかの調査を急ぐ必要があるな。脳内物質のバランスが極端におかしくなれば、他の精神疾患も発症するかも知らん」
 生沢も頭を掻きつつ、モニターの画像を覗き込んだ。ぱっと見た感じでは、やはり主要な器官に明らかな異常は見受けられない。
「でも、未来がそれで納得するかどうかが問題です。SNSAの誤作動が原因なんだとしたら、それを直すまで悪化の一途を辿るわけですし……それに、きちんとした治療も必要になってきます」
 いくら外的素因によるものだとは言っても、普通は自分が精神を患っているとは認めたがらないものだ。加えて、未来は自分の弱さを毛嫌いしているきらいがある。パニック発作について、杉田や生沢の説明を素直に受け止めるとは思えない。
「そこなんだよな。原因は器質的なものだとしても、俺もお前も精神系疾患は専門外で症状を抑える薬を処方できない。原因を根絶するまでの間、一般の病院に行かせるわけにもいかない。情報流出に関してはグループ全体が神経を尖らせてるせいで、提携病院での受診も無理。どうするのが最善か……」
「生沢先生。この件に関して守秘義務を死守するという誓約書を出しますから、僕に任せてくれませんか」
 呟くように言った生沢の隣で、MRIの画像データを一通り取り終えて外部メディアにファイルを保存した杉田が顔を上げた。
「そりゃ構わんが、何をするつもりだ?」
「僕が何とかします。このままここであれこれ考えてても始まりませんしね」
「何か方法があるならそれに越したことはないが、厄介な状況になってきてる。それをきちんと理解した上で動くなら、最大限の協力は惜しまんが」
 MRI装置の内側から出てきた未来へ、ガラス越しに合図を送った生沢の表情は硬い。一通りの検査を終えた未来に、メンテナンス室に向かうよう指示したのだ。
「さっきのミーティングでの決定事項だがな。作戦の決行は二週間後の11月5日だ」
「そんなに早く?痙攣発作の原因特定もまだなのに」
「それまでに何としてでも治せとのお達しだ。未来は覚えちゃいないかも知れんが、単独での奇襲を可能だと答えちまったのがまずかったな」
「そんな!さっきの様子じゃ、未来が正常な判断ができなかったことぐらい、誰だってわかるはずじゃありませんか」
 ぎょっとした杉田が生沢にくってかかるが、大柄な先輩医師は苦々しい顔をするばかりだ。
「そんなのが大月にゃ通用しないことは、お前だってわかってるだろ。とにかくそれまでに未来を何とか戦える状態に回復させて、無理な部分は俺たちがサポートする。それしかない」
 何と言っても、大月はAWPの最高責任者だ。セラフィムグループのトップに近い立場であることを利用して、もう稟議を通している頃かも知れなかった。
「それよりも、そんなことを未来に話して納得させられるかどうかの方が問題だ。やっと抑鬱から抜けてきたあいつにそんなことを伝えれば、今度こそ心が折れるかも知れん」
 自分が考えていたよりもずっと悪い状況に、杉田は言葉を失いかけた。
 が、今自分にできることが限られていることに変わりはない。その僅かな隙間で、最大限の努力をせねばならないことも同じだ。何を迷う必要があろうか。
「それでも、未来のために動くことは変わりありませんよ。僕にできるのは、彼女に一人でも多くの理解者を作り、味方を増やしてやることです」
 その決意を口に出した杉田は、装置の後処理をする生沢に顔を向けた。
「そのためには、現場責任者である生沢先生の力が不可欠です。面倒なことを色々とよろしくお願いします」
「おいおい、俺を巻き込むのは決定事項なのかよ」
 言いながらも、生沢は何事かを思いついた悪戯小僧の表情になっている。
「まあ、そこまで図々しくなれるぐらいに成長したお前の顔を立ててやろう。大月を誤魔化すような書類とか、手続き関係は任せとけ」
 にやりと笑った髭だらけの医師は、後輩の背中を鈍い音が上がるくらい力を込めて叩いた。

 ミーティング終了直後から、AWPはP2破壊工作の準備で慌ただしくなった。大月は戦闘が予想される区域で不発弾が発見されたという情報の工作と、軍や警察関係者、AWP内部での打ち合わせで予定がほぼ埋まっている状態だ。リューは作戦時に基地として使用する大型トレーラーの整備及び未来の特別訓練、生沢はトレーラーに搭載する医療設備と器具、追加スタッフの人選にそれぞれ忙殺されている。
 杉田は生沢で持ち切れなくなったSNSAの検証を引き継ぎ、未来の不調を徹底的に調査することに専念していた。 
 何と言っても、時間はあと二週間しかないのだ。
 一方の未来はメンテナンス終了直後、杉田の口からP2破壊工作の実行まで猶予がないことを伝えられていた。もう動かせないことをどうしようもなくなってから告げるより、少しでも余裕があるうちに知らせる方がまだましだと判断したからだ。
「わかったよ。自分でも一人での作戦遂行ができると思ったから、無意識でもそう言えたんだと思うしね。私も何とかベストの状態に持っていけるように、頑張るから」
 未来はその時こそそう応えたものの、翌日の訓練開始時には明らかに感情の動きが鈍くなっていた。心を許しているはずの杉田に対してでさえ笑顔を見せないのだから、また少し抑鬱が悪化したとも言えるだろう。
 そして、P2破壊工作のために組まれた特別訓練においても芳しい結果を出せなかったことが、下降気味になっている感情を更にどん底へ沈めているようでもあった。
「訓練二日目で、被弾率5割以上。P1との戦闘時よりずっとましな条件で、この結果は厳しいと言わざるを得ませんね」
 ミーティングから二日経過した後の訓練場指令室で、未来のデータを確認したリューは眉間に皺を寄せて呟いた。
 P2との戦闘内容に合わせた特別訓練は、味方の応援が一切ない状態の市街、及び閉所を戦場とするメニューだった。P2は先日の襲撃でも使用していたガトリング砲と、専用装備であるレールガンを使ってくるであろうという想定だ。
 P3である未来に35ミリ機関砲があるように、P2にも20ミリレールガンという強力な重火器がある。レールガンは新開発の素材を弾丸とする兵器で、弾丸は1センチに満たないごく小さなものであるのに対し、銃身の大きさは持ち運び可能な砲台と言う方が相応しいものだ。全長は従来のレールガンより小型だがそれでも3メートルあり、体格の問題で未来には扱えない大きさである。
 レールガンの特徴は、何と言ってもその弾速にあった。弾丸を打ち出す初速は秒速8000メートルと音速の20倍を上回り、動きが止まっているところを狙われた場合は回避不可能なのだ。破壊力も凄まじく、如何に強固なパワードスーツを纏った未来でも、一発喰らえば身体が間違いなく砕け散るだろうことは必至だ。
 ただ、大きな威力を持つ兵器はそれに比例した欠点も多い。レールガンの場合は発射に多大なエネルギーを必要とするため、再発砲までエネルギーチャージに最低90秒はかかること、試作の段階で持ち出されたため、若松たちが所持している弾丸が少ないことであった。
 対する未来の機関砲は威力と射程は劣るものの、レールガンに比べればかなり小型で連射も利き、使用可能な弾丸の総量では勝っている。本来は対戦車用の武器であることを考えれば、こちらもP2に対しては充分な破壊力を持つ一撃必殺の武器だと言えるだろう。
 しかしそれも相手を射程距離内に捉えねば話にならないし、その前に未来自身が倒される可能性が高くてはどうしようもないのだ。
「……全然ダメ。あんな速い弾、よけ方がわかんないよ」
 パワードスーツ姿の未来が、指令室に戻ってくるなり呟いた。訓練における敵の射撃が光弾なのは普段通りだったが、今回の特別訓練において射撃音は発射後に鳴るよう設定されている。只でさえ調子が悪いときに勝手が違う訓練を強いられている未来は、無気力さを上回る苛立ちを感じているようだった。
「意識してよけるのは、いくら未来でも不可能です。射程内に敵を捉えるまで常に攪乱動作を続け、決して相手の一直線上に並ばないこと。そのためにはあらゆる探知能力を最大限に使って、少しでも早く敵の位置を掴むしかありません」
「そしてレールガンの発射間隔を計算して、かつこちらの位置を掴ませず、速やかにアサルトライフルを撃ち込むこと、ね。でも最初に攻撃に当たってたんじゃ、ダメだよね……」
 溜息混じりに、未来はリューの言葉を継いだ。頭では理解できていても、そう簡単にこなせることではない。野生動物も凌駕する反射神経を持つ未来でさえそうなのだ。
 今回の作戦が今までくぐり抜けてきたどの戦いよりも困難であることは、作戦を提案したリューが一番よく知っていた。もちろん実戦時は攪乱用に小型ロボットを投入したり、閃光手榴弾を使用する予定だが、それも感覚が強化されたP2相手にどの程度まで通用するかわからない。
 リューの頭痛の種は尽きることがなかったが、スタッフ一同からのプレッシャーがある未来もまた、更に大きな精神的負担が重なっていた。
「また、弱い痙攣が出てたようだな。動きに支障はあった?」
「……支障がなければ、もっといい点数出せてる」
 未来の脳波と脳血流をチェックしていた杉田が気遣うつもりで声をかけたが、未来が投げつけた言葉と態度は鈍く重いものだった。
「着替えてくるから」
 無表情に二人へ言い残し、未来はとぼとぼと指令室を出ていった。
「未来の精神状態も悪化しているようですね。杉田先生、まだSNSAの誤作動については手がかりなしなんですか?」
「可能性がないものはかなり除外したから、ある程度は絞れてきてる。それから、関係してるプログラムの修正必要箇所も目星はついた。ただ……」
 先の訓練中に現れた棘波のモニターを見ながら、若い医師は言い淀んだ。
 プログラムのパラメータ修正については目処がついている一方で、どうしても原因となるものが特定できないままなのだ。微弱な音や光は完全に対象から外れたが、無数にある自然現象の一つ一つで検証をしていくとなると、どうしても進捗は遅くなる。SNSAは特殊な装置であるが故に、どんな可能性も完全に否定されるまで調査対象から外すべきではない。
「あとは原因さえ特定できれば……未来は安心して戦えるってのに」
 杉田は呻くように言って、脳波モニターを睨んでいたために痛みを訴え出した目を休ませるべく眼鏡を外した。彼も他の皆と同じく、頭痛の種は尽きなかった。本当なら脳内物質と脳血流への影響も直ちに調査するべきだったが、作戦決行日までとても手が回りそうにない。
 杉田が疲れた目と頭を指でマッサージしているところへ、白衣のポケットから覗いていた携帯電話が震えた。ナンバーディスプレイに表示されたのは、施設内にいるはずの生沢のものだ。
「もしもし?どうかしましたか」
『どうかしたか、じゃねえだろ。お前に客だ。例の女だぞ』
 幾らかわざとらしい生沢の声が杉田の耳を打つ。
「例の女って……あ!そうか、今日なんでしたっけ」
『この色男め、彼女がとうにお待ちかねだ。さっき門を通ったから、AWP棟のガレージに車を入れるよう案内したぞ。HARがセキュリティフロアまで連れて行ってるから、後はお前が……』
 そこで生沢の声に酷い雑音が混ざった。
「もしもし、生沢先生?」
 突如として通話を邪魔したノイズに負けじと声を張り上げた杉田だが、そこでぶつんと通話が切れて話中音に変わった。
 すかさず生沢の番号をダイヤルするが、何度かけても繋がらない。
「おかしいな、こんなこと滅多にないのに」
 電波については整備が行き届いたこの施設内で通話ができないなど、初めてのことだった。生沢はこういったときでも、自分からかけ直さない。お互いに行き違っていることなないはずだ。
「電波を攪乱する現象が何かあるのかも知れませんね」
「まさか。妨害電波でも出す何かがあるのか?」
「妨害電波でなくとも、精密機器の稼働や電波を乱すものはありますよ。磁気嵐とか、隕石の落下みたいな天体もそうですね」
 呆れたような杉田へ、リューが説教するように蘊蓄を垂れる。
「天体?」
「まあ、さほど頻度は高くないかも知れませんが。人工衛星の電波だって、宇宙に漂ってる様々なものから影響を受けるんですよ。軍の通信係も、手を焼いてたことがあったようです。何せ、色んな機器が一度に誤作動を起こしますから」
 そこで不意に立ち上がった杉田が、呆然として呟いた。
「そうだ……他の電子機器がいっぺんに誤作動を起こした時がないか。何で、こんなことに気づかなかったんだろう」
「杉田先生?」
「ありがとう、リュー。これで何とかできるかも知れない」
 訝しげなリューが声をかけた途中で、白衣の後ろ姿が司令室から飛び出すように出て行った。
 他の精密な電子機器が誤作動を起こしたタイミングで発作が起きていないかどうか、早急に調べる必要がある。杉田はSNSAの調査を受け持つ助手たちが詰めている共同研究室へ向かった。
「わ!」
 が、いくらも行かないうちに廊下の曲がり角で私服の未来とぶつかりそうになった。
「杉田先生?どうしたの、そんなに慌てて」
 無感情な未来の声が、数分前まで頭を悩ませていた現実の問題へと引き戻した。
 SNSAの動作検証については光明が見出せたが、未来の精神状態は悪くなる一方だ。その対策のために生沢に頼んで書類を細工し、外部の人間を一人、このAWP棟に呼んでいたのである。先程も連絡に内線でなく携帯電話を使ったのは、用心のためだ。
訓練を終えた未来は、もう今日の予定はないはずだった。
「未来。時間ある?」
「これから?もう会社に戻って仕事しなきゃならないんだけど」
 まっすぐに顔を見つめてくる杉田の問いに答える未来の顔には、やはり生気が感じられない。
 杉田は一瞬の躊躇いの後に、彼女の細い手首を掴んだ。
「ちょ、ちょっと。杉田先生、どこ行くの?」
 そのまま強引に歩き出した杉田に驚きながらも、未来は白衣の背中に従っている。二人は訓練場がある地下2階からエレベーターで5階へと上がり、セキュリティエリアへと入っていった。
「待ってってば!こんなとこに連れて来て、何かあるの?」
 セキュリティエリアに入ってすぐ、未来は声を荒げて杉田の手を振りほどいた。
「……この際だからきちんと説明しておくよ。未来、君は病気なんだ。原因は恐らくSNSAの誤作動が引き金になっている可能性が高いけど」
「病気?私が?」
 驚いた未来が、杉田の言葉を繰り返す。
「詳しくは、病室で座って話すよ。ついておいで」
 納得したわけではなさそうではあったが、未来は頷いて再び杉田に手を引かれていく。幾つかのセキュリティドアをくぐり、彼らは未来が病室として使っていた個室へ入った。
 今は使用されていない個室のため、以前ベッドにあった掛け布団や毛布はない。
部屋の片隅にある小さな机に、二人は向かい合って座った。
「未来は今、痙攣の発作があるだけじゃないよな。この前は呼吸困難があって、気分が沈んだ状態も続いてるんだろ」
「でも、気分が沈んでるのは最近色々あったせいでしょ?呼吸困難とは関係ないじゃない」
「それに関しては心肺機能のチェックをしたけど、異常がなかったことは伝えたよな。実は呼吸困難と似た症状で、パニック発作というのがあるんだ。うつ病でも見られる症状の一つなんだよ」
 杉田が一呼吸置くと、未来が僅かに眉を動かした。
「血液検査でどうやら脳内物質のバランスが崩れているらしいこともわかってるし、脳の活動自体も鈍い。僕は専門医じゃないから断言はできないけど、精神の疾患である可能性は高いと思う」
「……そりゃあちょっと前から身体がだるかったり、集中できなかったりしてることは認めるよ。でも、だからって精神病だなんて……」
 信じられない、と言った素振りで未来は首を振ったが、杉田は更に続けた。
「君は特殊な条件下に置かれてるんだ。調子が悪くなり出してから身体症状が重くなって、こんな深刻な状態に悪化するまでの期間が、どう考えても短すぎるらしい。そうなると、やはり動作不良があるSNSAの影響があることが疑われる」
「SNSAの動作不良って、まだ原因がわからないんでしょ。じゃあ、装置を直すまで私、ずっとこんな暗い気持ちでいなきゃならないの?」
「何もしないでいたらもっと悪化する危険があるけど、症状の改善は薬である程度できる。でも僕や生沢先生は専門医じゃないから、話を聞くことはできても回復の手助けをできるかどうかわからないし、薬も処方できないんだ」
 杉田の話を聞くうちに不安になってきたようで、未来の視線が落ち着きなく宙を漂っている。
「そのために、僕が大学時代に世話になったスクールカウンセラーに来てもらったんだ。今は僕の研究室で待っててもらってるけど」
 杉田の右手が伸ばされ、机の上で固く組まれた未来の両手にそっと重ねられた。はっとして杉田に視線を向けた未来の、長い髪が揺れる。
「頼むから、会って話をして欲しい。きっと、君の力になってくれると思うから」
 若い医師が眼鏡越しに注いでくる思いは真剣で、暖かく優しい。
 未来は十数秒間その黒い瞳を見つめた後、黙って頷いた。

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