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SF小説『SAMPLE』を読んでみるコミュのSAMPLE -31-

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 閉鎖された屋内に銃声が反響し、連続した破裂音を撒き散らす。その後ろに、建物の陰からランダムに姿を現す木製マンターゲットが砕け散る音もまた、連続して重なっていた。
「チェックポイント10を撃破、目的地までの最短ルートを確保!伏兵の有無を再度確認して、援護部隊の到着まで待機します」
 殺傷力を弱めた訓練用アサルトライフルを携えたパワードスーツ姿の未来が、通信役であるリューに低く鋭い声で状況を伝える。
「援護部隊が10メートル後方まで来ていることを想定して行動してください。数は歩兵7、狙撃兵3」
「了解。確認後、突撃準備に入ります」
 アサルトライフルを構え直し、未来は簡素なコンクリート造りの建物の陰に身を寄せた。
 AWP棟地下2階、屋内訓練場は市街戦を想定した戦闘訓練の只中だった。コンクリート製の建造物が立ち並ぶ一般的な市街を模したここでの訓練は、パワーズの特殊警備隊を動員して大規模に実施することもある。しかし、今は彼らもC−SOLの警戒態勢強化のために駆り出されており、今回の訓練はAWPメンバーでのみ行っていた。
 アサルトライフルを腰の位置に構えた未来は、80キロあるパワードスーツの重量を感じさせない滑らかさで建造物の間を進んでいく。バイザーの内側に映し出された映像は彼女の視界そのものであり、天井に近い位置にある指令室のリューも、同じ映像をパソコンのディスプレイで確認することができた。
 ヘルメットは予備のものに少し手を加えて使用しているが、動作は順調のようだ。各センサー類は正常な反応を示し、映像も途切れることがない。
「杉田先生、そちらの調子はどうです?」
 リューが通信用のインカムを外して首にかけ、隣で脳波と脳血流をチェックしている杉田に声をかけた。
「こちらも動作は良好だ。ただ……」
 杉田は大脳全体の血流を示す色鮮やかな像を見つつ、眉間に皺を寄せた。
「訓練中の割に、脳全体の働きが鈍いみたいだな。特に、前頭葉が顕著だ。これも装置の異常と関係があるのか?」
「それも、ある程度は仕方ないですよ。一昨日、あんなことがあったばかりなんですから」
 昨日はAWP施設の補修工事があったこともあり未来を休ませていたが、メンテナンスと訓練は本日から再開されていた。破損したパワードスーツは予備のもので代用し、杉田から依頼があった脳波計と脳血流モニター用の電極を内部に取りつけて使用している。
 未来の話ではP2にも同じタイミングで左脚に異常が起きたとのことで、訓練中にもし痙攣の発作らしきものがあれば脳波にも変化が表れるはずだった。問題を引き起こしている脳への移植装置の調査に関しては生沢も協力を申し出てくれており、今日からデータ分析と原因の特定検証が行われている。
本当は予備の部品を猿やチンパンジーといった類人猿の脳に移植して実験を行うのが理想だったが、動物実験の正規申請を出すと時間がかかるため、シミュレーションのみで原因を探ることになっている。後は原因を特定するだけだが、それでもかなり時間はかかるだろうとの見通しだ。
 脳波には今のところ異常は見受けられない一方、数秒おきに脳全体の血流推移をモニターしている脳血流SPECTでは前頭葉部が黒〜青の暗い色のまま変化がなく、感情が高揚する戦闘訓練中とは思えないほどだ。これはうつ病の感情阻害時などにも見られる症状で、意欲低下や無関心といった負の心情が強い証拠である。
 未来は昨日、今日と2日間はオフィスで働いて、今日は午後から戦闘訓練と定期メンテナンスのためにC−SOLに出向いてきている。事件後初めてAWPスタッフに見せる顔は比較的落ち着いているように見えた。
 が、彼女の沈んだ気持ちは訓練結果と脳血流モニターに現れた脳の働きに如実に現れていた。
「今までの訓練よりも、被弾回数が多いですね。弾丸命中率も低下してますし、何より動きに切れがありません。注意力も散漫なようです」
 インカムは外したまま、リューがモニターに映し出している監視カメラの画像とパワードスーツのカメラ画像とを見比べて呟いた。未来は今まで優秀な結果を常に叩き出していただけに、精神的な問題を抱えている現在はその動きに著しい粗さが見られる。見張りを想定した障害物から発射される光弾には既に5度被弾しており、この調子だと最悪の数値となりそうな予感がしていた。
「なあ……未来の状態は普通に見えるけど、明らかに普通じゃないよな」
 杉田も脳血流のモニターから眼を離さずにリューへ声をかけると、端正な顔が頷いた。
「僕たちが今未来の心の負担を減らしてやるには、一体どうすればいいんだ?リューは軍にいた頃に、そういう兵士も見てきてるんだろ。どうやって彼らに接してた?」
「軍という環境は特殊です。人殺しや裏切りが日常なので、よくあることだから慣れるようにいつも言ってはいましたが、未来は民間人です。そんな慰めは却って逆効果でしょう」
 息をついて、リューは椅子の背もたれに寄りかかった。
「かといって土下座して謝ればいいのかと言えば、それで済む問題ではありません。そうですね。私達が利害関係にないところでいつも心配している、ということを態度で示すくらいでしょうか。私について言えば、この訓練で出た最悪の数値を認めることですね」
 もし直接正式な文書などで謝罪の意を示したとしても、書類や手続き上の問題だけで済まそうとしている印象を与えてしまうだろう。必要なのは、未来が心に深い傷を受けて苦しんでいることを理解している姿勢を見せることだった。
 モニターの未来は敵に必死で反応して普段の数値を追いかけているが、やはり動きにまるで精彩がないことは素人の杉田にさえわかるほどだ。パワードスーツ姿の彼女をじっと見つめるリューの眼も、いつになく険しい。それでも彼は訓練中止を告げることなく、未来が制圧ポイントである建造物の司令室に侵入し、最後のマンターゲットを破壊するのを見守った。
「よし、訓練終了ですね。上がってきてください」
 結果は今までの訓練の中で回避率、弾丸命中率、ミッションクリアタイム等全てが最低の数値を記録していた。しかし、先に言ったとおりにリューの口調には全く変化がない。
「了解」
 今までの訓練よりも明らかにミスが目立っていたのに口出しが少なかったリューに対し、未来は戸惑っている様子だった。ヘルメットを外して現れた顔もおどおどしていて、落ち着きがない。彼女は数秒間だけ眼を伏せていたが、すぐに顔を上げて踵を返した。
 その様子を確認したリューは、司令室のパソコンで取っていた各種データファイルをメディアに保存して、さっさと片付ける準備を始めているようだ。細かいミスについて今回はいちいち記録しなかったのだろう。
 そこで司令室の自動ドアが開き、ヘルメットを抱えた未来が戻ってきた。5人程度が定員の小さな部屋は、重厚なパワードスーツを着用した彼女が混ざるとそれだけで手狭になるような印象だ。
「ごめんなさい、今日は何だか調子が出なくて」
 明らかに沈んだ表情の未来は、開口一番の台詞がそれだった。
「仕方ありませんよ、誰だって調子が悪いときはあります。まあ、あまり気にしないことですね。今日はもう終わりましょう」
「追加の座学とか特訓はないんですか?」
「却って疲れるだけですよ。あんなことがあった直後にこうして訓練を一通りこなしただけでも、大したことなんですから。自分を誉めてあげてください」
 驚いている未来に対するリューの口調は、やはり普段と変わらない。逆に戸惑っている未来の方がぎくしゃくした印象だ。
「あれ、未来。今日はメイクしてる?」
 そこで、リューに倣って後片付けをしていた杉田が未来の顔をふと見て気づいた。いつもすっぴんのままでいた未来がメイクをしているのは、初めてではないだろうか。
「え。あ、ああ。今日はちょっと。たまには手持ちのメイク用具も使わないと、劣化しちゃいますから」
 指摘されて照れ笑いを浮かべた未来の表情は、やはりぎこちない。何気なく頬に触れた指先にもファンデーションが移ったところを見ると、相当厚塗りしているようだ。
「あ、そうか。今日は何となく違うとは思ってたけど、未来の敬語も久しぶりに聞いたからかな」
「えっ?私、敬語なんか使ってた?」
 再び杉田に指摘され、彼女はぎょっとして身体をすくませていた。
「あれ、気づいてなかったのか?無理はしない方がいいぞ。君は精神的にも相当……」
「やだなあ。私は全然大丈夫、いつもと変わらないですってば!もう着替えてきますね。また後で」
 杉田の言葉を遮って大げさに笑って見せると、未来は慌てたように出口の自動ドアへと向かった。若い医師は、立ち上がってその背を追う。
「待てよ。全然大丈夫になんか見えないぞ」
 気遣うつもりで声をかけ、パワードスーツを纏っていてもやや小柄な未来の肩に右手を置いて呼び止める。
 痩せた手は、振り返った未来の金属の腕に横へ鋭く弾かれた。
「あ。す、すいません!」
 反射的に取ってしまった行動に、彼女は自分でも戸惑いを隠し切れないようだった。ばつが悪そうに視線を外し、軽く会釈してから改めて指令室を後にする。
 杉田は手を振り払われた刹那、未来の表情に強い嫌悪と拒絶の色が走っていたことを見逃さなかった。やはり今の未来にとっては、C−SOLなど自分を欺いていた者しかいない敵の巣同然なのだろう。先の一撃は、杉田の手が痺れるほど強かったのだ。
「未来、相当堪えているようですね」
 二人のやり取りを眺めていたリューの声もため息混じりだ。本人は普段通りに振る舞っているつもりかも知れなかったが、自然な笑顔も明るい声も失っている証拠に、AWP主要スタッフには灯が消えたような居心地の悪い静けさが生まれつつある。
「……早く、何とかしてあげないと」
 先に未来の敵意が込められた視線を受けた杉田は、鈍痛が残る右手を見つめて呟いた。
 生沢が以前指摘した通り、今回の一件は未来が持つ心の脆い側面を直撃したのだ。その痛みに耐え切れなくなる前に、何としても救いたい。
 それは医師としても、研究者としてでもない、一人の人間としての願いだった。

「……気持ち悪い」
 パワードスーツを脱ぎ私服に着替えた未来は、呻きつつおぼつかない足取りでトイレに入った。
 そろそろ夕方だが、まるで空腹感がない。代わりに胃を満たすのは鈍い痛みとむかつきだ。
 この二日間、ろくに食事もしていなければ夜も眠れていなかった。顔色も悪く、短期間で病人のようにやつれてしまっている。仕事だけは行っているものの、とても現場に出られる状態ではなく、デスクワークのみの勤務だ。事務担当の翔子にはかなり心配をかけてしまっているが、それでも普段の仕事量を1.5倍の時間をかけて何とかこなしていた。
 モノトーンの大理石がお洒落な洗面台の鏡に映った顔は、眼の下の隈が朝より濃くなっているのがわかるほどだ。舌打ちして地味な化粧ポーチからファンデーションを出し、重ねていく。肌に触れる指先には、皮膚が荒れ放題になっているざらついた感触が嫌でも感じられた。表情にも数日前は当たり前のように溢れていた溌剌さが見当たらず、動きがまるで乏しくなっている。
 我ながら酷い顔だった。そろそろ、メイクではやつれ加減を誤魔化し切れないようだ。
「こんななら、いっそ頭の中まで機械だった方が楽なのに。どうして、中途半端なんだろ」
 不健康さが目に余る状態に、愚痴をこぼさずにはいられない。
 自分の身体は半分程度が機械なのに、代謝は人間のままだ。血糖値が下がれば空腹になるし、暑さや寒さも感じればもともと弱い部分は病気にもなる。
 ファンデーションを更に厚塗りした鏡の中の自分は、目が死にかけていると言えば当てはまるだろうか。どう見ても元気とは言えない。普段なら一通り落ち込み終えた後なのだから、もういい加減立ち上がっている頃だった。
 が、今回に限って心に落とされた影を振り切ることができず、一日中不快な気分を抱え込む羽目になっている。
 脳も完全に機械化されてしまえば、これほどまでに悩まずに済む。
 つい先ほどそう考えた未来は、愕然とした。
 この苦しみは人間であることの証しなのに、楽になりたいがためにそれを否定する自分がいる。
 身体だけでなく、心までが人間でなくなることこそを、一番怖れていたはずなのに。
 最早、自分自身に対する信頼すらもあてにならないのか。
 自分は一体、何を望めばいいのか?
 意識せずに半身を抱くようにしていた手が、Tシャツの下にある肌に傷がつくほど強く食い込む。未来は俯いて、鏡に映った自分の姿を拳で粉々に砕いてしまいたい衝動を必死で抑え込んだ。
「あら、お疲れ様」
 そこへ未来の背後から更に鏡へ姿を映り込ませたのは、大月だった。
「あ。お疲れ様です」
 はっと顔を上げた未来の隣の洗面台に進んだ大月が、化粧ポーチから口紅を取り出した。女専務の隙がない仕草から、未来は何故か目を離すことができなかった。
「随分顔色が悪いわね。大丈夫なの?」
 シックな色の口紅を塗り直す大月は、体調を気遣う言葉を口にしているにも拘わらず未来に視線を向けようとしない。
 ふざけるな。
 一体誰のせいで、こんな状態になったと思っているんだ!
 思わず怒声を浴びせそうになった熱い塊を、未来はぐっと喉に留めた。上品なスーツ姿の女に対する激しい嫌悪感に、胃がきりきりと絞め上げられるような痛みを訴える。
 大月は未来を実験生体としてAWPに組み入れた張本人だ。彼女の強引な決定さえなければ瀕死の重傷を負わされることもなく、少なくともサイボーグになるかどうか自分の意志で選択できたはずだ。それなのに謝罪の言葉もなければ、自分の犯した過ちを認めようとする素振りもない。
 この女は、未来が抱いていた平凡な幸せを望むささやかな願いを奪っただけではなかった。未来を単なる実験用の道具としてしか扱わず、人格の存在を許していないのだ。
「調子は普段通りですよ」
 大月に対して殺意すら覚えた未来の口から出た言葉はしかし、至極平静を装ったものであった。表情もまるで動いていない。無意識のうちに細い指が洗面台のレバーを上げ、水を出し手を洗い出す。水の温度はほとんど感じられない。
「今日の訓練結果はチェック済みよ。どうも最悪だったようね」
 液体石鹸で手を洗っている未来の動きが止まる。口紅を塗り終えた大月は、ポーチを探ってチップつきのリップグロスを摘み上げた。
「あまり調子が悪いとこちらにとっても都合が悪いけど、一番困るのは貴女でしょう。しっかりなさい。戦闘用サイボーグに関しては、グループのトップが最も注目してることでもあるし」
 そこで初めて大月が未来へちらりと視線を向けるが、今度は未来が再び手を洗い出して俯いた。
「はい。すみません」
 未来の声は囁くようにかすかで、やっと聞き取れるほどだ。
「貴女の寿命を決めるのは、他でもない貴女自身よ。覚えておきなさいね、化け物さん」
 再び未来の動きが凍りつく。
 リップグロスで艶やかな唇を仕上げると、大月は鏡の中の自分に頷いた。手早くメイク道具を片付け、肩にかかる切り揃えられた黒髪を跳ね除けて振り返る。
 大月が出入口の自動ドアをくぐるまで、未来は動くことができなかった。
「……化け物……か」
 低く呟いた未来が、のろのろと水道のレバーを下げて水を止める。傍らのペーパータオルに手を伸ばして水滴を拭き取る間も、その瞳の焦点はぼんやりと空に散っていた。
「やっぱり、覚悟してても実際に言われるとキツいや」
 母が口にしたのと同じ単語を耳にしたとき、自分の中から何かが飛び去ったような気がした。
 涙は出ていない。
 鏡を見ても、無表情なマネキンが立っているかのようだ。
 やはり、AWP全体の意向は大月が話した通りなのだ。リューや杉田、生沢たちがいくら優しい言葉をかけてくれていても、自分はあくまで実験体で使い捨てのモノだ。
 いや。杉田たちも社命に従って気遣う姿勢を見せているだけかも知れず、裏では何をしているのかはわからない。彼らとて未来に事実を告げずに改造を施し、大月の下で動いている研究員たちだ。会社の意向に背くことはできないはずだ。
 周りには味方がいない。ここには自分の居場所がない。
 改めて自覚が湧く。一刻も早くここから出たい衝動に駆られて走り出しそうになったが、ふとあることに気づいて足が止まった。
 一体、どこに味方してくれる者がいるというのだろう。
 自然と事務所の仲間たちの顔が浮かぶ。しかし、自分を信じて今までついて来てくれた彼らを個人的なごたごたに巻き込むことなど、論外だった。
「私にはもう逃げ場なし、ってことかな」
 普通なら最後の頼みは家族ということになるだろうが、再婚した父や相性の悪い母、子どものいる姉の厄介になることなど、どうしてできよう。
 特に母には絶対に頼りたくなかった。話したところで信じてもらえるかどうかわからないし、仮に話を聞いてもらっても、黙って抱きしめてくれるような人物ではないのだ。
 これからどこに行けばいいのだろう。
 何を信じればいいのだろう。
 力なく大理石の壁に背を預けた未来の黒い瞳は何も捉えることなく、表情という彩りを失いつつある自身の鏡像をただ映しているだけだ。
「?」
 刺激に鈍感になっていた未来は、ほっそりとしたグレーのデニムパンツに突っ込んであった携帯電話が着信を告げて震えていたことに気づくのに、数秒を要していた。
「もしもし」
『あ、未来ちゃん?この前はどうしたの?突然帰っちゃって、それから何も連絡くれないから』
 緩慢な動きで携帯電話を引っ張り、着信ボタンを押した未来の耳に届いたのは母の声だった。よりによって、一番言葉を交わしたくなかった人物からの電話をうっかり取ってしまったのだ。
 迂闊なことこの上ないが、口を開き声を出すことでさえ、最早面倒になりつつあった。
「ああ。ちょっと、忙しくてね」
『いくら忙しくたって、電話一本入れるくらいの時間は作れるでしょう!少しはお母さんのことも心配してくれたっていいじゃないの。貴女は全然気にならないの?こっちも忙しくてね、あの次の日からまた……』
 未来はそこで携帯電話を耳から離した。
 結局母は娘の心配をしているのではなく、自分の話を聞いて欲しくて電話を寄越してくるだけなのだ。ただの自慢話や苦労話のオンパレードである母の独演会に付き合う義理はない。
 やはりこれでは、母を頼る気にはなれない。受話マイクの側で思わず漏らした溜息は、母に聞こえていないか気になるほど大きかった。
『……そうでしょう、ねえ?』
「うん」
 1、2分後にようやく母の一方的な話が終わったようで、未来は適当に相槌を打った。多分一般的に独立した娘は母親をもっと心配するものだとか、自分の仕事が今どれだけ大変でどんな有名人と会ったのだとか、そういったことだったのだろう。
『本当にわかったの?』
「はい!」
 だめ押しをしてきた母に対する未来の返事は、半ばやけくそ気味だ。
『じゃ、今日は夕食でも一緒に行かない?夜なら空いてるんでしょう?』
「生憎、そういう気分じゃないから」
『ちょっと、貴女は!そういう気分じゃないって、また人の都合も考えないで!』
 いい気分だったらしい母の口調が、娘から拒絶の意を示されて荒くなる。
 そこで未来は、言い方を間違えたことに気がついた。普段なら迷いなく仕事と言うところが、うっかり本音を口にしてしまっていたのだ。
 しかし、気分でたまに相手の意に背く行動を取ることが、果たしてそこまで非難されねばならないことなのだろうか。しかも、肉親に対して。
 疑問は一気に感情の点火材となり、未来は不機嫌さを爆発させた。
「うるさいな!誰とも会いたくないんだよ!」
 携帯電話に向かって怒鳴り、間髪入れずに終話ボタンを押す。すかさず、電源もオフにした。
「最悪」
 手の中でみしり、と音を立てて軋む携帯電話を見つめた未来は、握力を緩めて吐き捨てた。先までは何の変化も見せていなかった表情は、明らかな憎悪を覗かせている。
 怒りや憎しみのように、負の感情だけを映し出す自分の顔が恨めしかった。普通なら、母親からの連絡は内容を問わずもっと嬉しいものであっていいはずだ。なのに、どうして自分はいつも一度は母を怒らせてしまうのだろう。
 少しくらいの不安定さで人を不快にさせる自分などたまらなく嫌いで、そんな弱い心は許せない存在だった。
 サイボーグになる以前なら、自己嫌悪がここまで酷くなることはなかった。それとも、これも自分が人間であることを拒み始めている兆候なのだろうか?
 未来は息苦しさを覚え、胸を押さえた。
 自分に対しての不信と嫌悪も、もう限界に達しそうだ。
「……助けてよ……誰か……」 
 無意識のうちに絞り出された声は、もう自分以外の何物にも期待しないと決めた自分の負けを認めるものだった。
 そしてそれに抗う気力は、今の未来に残されていなかった。

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