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伊伎國見聞録コミュの−2−

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古事記成立の事情

「壬申(じんしん)の乱」(672年)に勝利し、即位した天武天皇は、『諸家(しょけ)に伝わる系譜には虚偽を加えているものが甚だ多く、放置すれば国家運営の根本にも関わる問題なので、この機会に、偽りを削り、実を定めて後世に伝えよう』と仰せられ、諸家に伝わる帝皇日繼と先代旧辞を側近の稗田阿礼に記憶させました。

天武天皇が崩御されたため、撰録作業は一時中断していましたが、持統(じとう)=天武天皇の皇后=、文武(ぶんぶ)=天武天皇の孫=の両朝を経て奈良時代に入り、姪の元明(がんめい)天皇=天智天皇の娘=の御世に再開され、天皇は、和銅(わどう)4年(711年)9月18日、太朝臣安萬侶(おおのあそみやすまろ)=に、阿礼の記憶している帝紀と本辞を撰録し、提出するように命じました。

安萬侶は、阿礼の記憶に従って帝紀と本辞を統一併合し、筆録、献上しましたが、和銅5年正月28日のことで、5ヶ月に満たない作業でした。

古来、賀茂真淵(かものまぶち)ら高名な学者による偽書説(ぎしょせつ)も絶えませんが、偽書説が今も絶えないのは、天皇家の系譜と「背景」との間に違和感があるためですが、安萬侶自信が違和感を承知の上で記したとすれば、「偽書」にはあたりません。

古事記の編者・正五位上勲五等太朝臣安萬侶について説明しておきます。

660年、大国の唐が進出したため、朝鮮半島は緊張に包まれていました。

百済は、以前から人質として日本に差し出していた百済王の王子・豊璋(ほうしょう)を、百済国王として擁立するため返還を求め、斉明天皇(さいめいてんのう)もそれに同意し、豊璋は帰国にあたって多臣蒋敷(おほのおみこもしき)の妹を妻に迎えました。

その蒋敷の孫が太朝臣安萬侶とされていますので、正式には多朝臣(おほのあさみ)安萬侶だったかもしれません。

多(おほの)氏の先祖は、神武天皇の皇子・神八井耳命(かみやいのみみのみこと)とされ、神武天皇の皇位を弟の建沼河耳命(たけぬかわみみのみこと)=綏靖天皇(すいぜんてんのう)=に譲り忌人(いはひひと)=祭り行う人=になっていますので、武門の一族ではなかったようです。

大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)が、まだ実兄の天智天皇(てんちてんのう)の皇太子だった頃の諸行地(しょぎょうち)は、美濃の安八(あんぱち)郡の湯沐(ゆのう)にあり、その地からの納められる食料や賦役(ふえき)をもって生活の糧にしていました。

大海人皇子が吉野に隠遁して以来、近江の朝廷が途中でその食糧を遮り、それが壬申の乱の直後の原因になった、と書記には記されています。

大海人皇子は自らの決起にあたり、まず、湯沐の令=役人=多臣品治(おほのおみほむぢ)に軍事行動を起こすことを命じていますので、多臣は天武天皇の側近中の側近だったはずです。

奈良県磯城郡田原本町大字多字宮の内に、多神社(多坐弥志理都比古)(おほにますやしりつひこ)=神社があり、祭神として神武天皇、神八井耳命、神沼河耳命、玉依姫(たまよりひめ)を祭っており、南に隣接する小社(こもり)神社の祭神として太朝臣安萬侶が祭られています。

境内由緒書によれば、多氏一族はこの地に住んで、大和平野の水稲耕作の開拓者として栄えたとされています。

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