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原始仏典(ダンマパダなど)コミュの大乗の矛盾。上座部の不可能性

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大乗は最後は祈りの世界になります。
しかし祈りはまず叶んないといった方がよいのかもしれません。
しかし自分の心と折り合いをつけ、祈りが叶わなかったことになにかしらな理由付けをします。

反対に上座部は祈りという概念が希薄であり、悟りは自分の力でしか勝ち取るしかないとかんがえます。
しかし生存欲さえ否定するほどの執着からの解脱が涅槃の道だと考える教義はあまりに何度が高すぎ、悟りはまるで、自転車で富士山の頂上にたどりつかないといけない程の、東京大学医学部を首席で卒業しなくてはならないほどの可能性のあまりの低さを感じずにはいられないのです。

大乗にも上座部にも本当に民衆を救う力などあるのか疑問に感じ出しています。

コメント(8)

あの天才といわれた親鸞上人でさえ、自力は捨ててしまったのですから、いわんやわたしが自力など語るのもおこがましくさえ、感じます。
しかし弥陀の救済などわたしには信じられませんし、上座部の教えとあまりに相反しすぎるのです。。
このことにみなさんはどうお感じなのか教えていただきたいとおもいます。
>>[1]

仏教は本当に幅の広いさまざまな教えの総称になっていますね。その一つ一つが結構異なるから、なかなか仏教はどうだとか、大乗仏教はどうだとかって一言では論評できないと思います。その中にはあまりに違う教えが一つの看板の下におさまっている。
だから僕はどれがいいか、どれが悪いかという考え方ではなくて、自分の考えをどのように作ってゆくか、仏教のどういう考え方によって自分を律したり生活を律したりするかという見方を常に持ちながら、学んでいます。
>>[2]
ずはりお伺いしますが、自力でのさとりは可能だとおもいますか?
>>[3]

自力と他力は一枚だと思います。
自力で悟ったなら、それはまさに他力が働いていたからだと深く受けとめることができます。
自分には他力が何ら働きかけてくれやしない、自分は他力と無関係に汗水たらして精進するだけだ、という考え・とらえ方は、あまりに自と他を区別することにこだわった一つの自への執着になりかねない。
自が働けるのも他が支えて下さっているからだ、自の手柄も実は他が見守り助けてくれたからだという心を持ってこそ、自への閉じこもりや固着を脱して、自他ともに働く幸せの修行道が実現してくるものだと思います。
>>[4]

神仏に祈願しての悟りは可能ですか?
>>[5]

自然と出てくる祈りは切実な真心から出てくるものだと思いますが、安易な人頼りは安易な結果しか生み出せないでしょう。
心の姿勢こそが鍵ですね。
親鸞上人でさえ、自力を諦め、阿弥陀にすがることでしか救済はないとかんがえたのです。。
簡単にいえば、肉食をし、女性をだいたりと、釈迦のいう戒律を破り、釈迦が目指した方法での悟りをあきらめたのです。

わたしたちが親鸞上人より上をいき、釈迦のめざした瞑想で悟りを開けるとはどうしてもおもえない。。
かといって阿弥陀にすがる教義は上座部では否定され、私もそれには同感でもありますし、わたしはどうしたらよいのかわからなくなっています。。
>>[7]は親鸞さんにもとても惹かれるし、上座部の教えにも同じようにとても惹かれていらっしゃり股裂き状態の葛藤を感じているということですね。

親鸞さんの考えについての理解の仕方が鍵になるように思います。
親鸞さんには比叡山の外の庶民の苦しみを救わなければ本当の仏教ではないというお気持ちがあったんだと思います。
そして一旦、自分の僧である、エリートであるという意識を捨て去って自分も衆生のひとりに過ぎないという所から徹底的に自己を見つめられたら、それこそ庶民とまったく同じ欲望や執着や苦しみが間違いなく自分の中にもあることを赤裸々に見ることができた。
この庶民と何ら違わない自分を救う仏法こそ庶民を救う仏法であるはずだ。
この庶民と何ら違わない自分を救ってゆく生活の仕方こそ庶民を救う生活の仕方であるはずだ。

そこで親鸞さんが思ったのは、庶民に肉食妻帯を捨てよという仏法ではなく、肉食妻帯しながらも救われる仏法を自分の身で明らかにこの世に実現することだった!

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