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このコミュニティで、発言していかなければならない話題として、
日本基督教団常議員会で採決された、Kさんに対する「教師退任勧告議案」
に、触れない訳にはいかない。
この議案、上程に関して採決、そのまま議案採決にはいり、賛成16で可決。
強行採決されたわけ。全国から、たくさんの非難や署名が届いていたにもかかわらず。

いろんな立場を切り捨てないはずの日本基督教団であるのなら、
それぞれの思いや願い、各人や教会の発言を切り捨てる、この暴挙は許せない。しかし、聞く耳があるなら聞きなさいとイエスもいっているのだから、やっぱり日常的に意見や愚痴をぶちまかし合う、そんな関係や環境が必要場の必要を感じる。
この間、Kさんへの暴挙のことで、何人かとメールのやりとりをした。
みんなの了承を得て、ここに書き込みます。

A: Kさんへの、めちゃくちゃな勧告決議。ますます教団は世界の笑い者。この国と同じ。
「正しい」なんてことを神は求めてないと思う。以前通っていた教会は、そういう意味では「凄く正しい」セイサンだった。
なんせ、あの「お道具」には牧師婦人か女性役員しか触れちゃならない。
そこもIさんが主担だった頃は、イースターとベンテコステと世界聖餐日とクリスマスしかセイサンはしなかったし、「お道具」に対する決まり事はなかった。
今通ってる教会は聖餐をしてないけど、それは、聖餐に疑問を感じてではなく、単に牧師が「補」教師だからだと思う。
これからどうするのか、論議するつもり。いっそナシでもいい。
だいたい、洗礼受けてるから最後の審判でヨシとされるかどうか、なんて分からない。なにも「神の国」への免罪符ってわけじゃない。馬鹿馬鹿しい。

B:おっしゃる通り。大体聖餐の原型を考えれば、誰もが招かれていると考えるのが妥当。
クローズになったのは、迫害時代にスパイを警戒したため。
あの頃の授洗基準で行けば、今の威張っている牧師達全員が洗礼受けられないです。自然の水溜まりで皆が見守る中、全裸になって全身洗礼受けたわけじゃなかろう。と言うわけで全員無効。洗礼も聖餐も時代に応じて変化して当然です。

C:たぶん、各教会での聖餐理解はバラバラで、片付け係は、誰誰でなくてはといった、根拠のない在り方がまかり通っているのでしょう。そこは不問で「オープン」のみがやり玉というのがひどいですね。多様な伝統、考えの教会が教団にはあって、特に礼拝や聖餐についてこれといった共通理解があるわけではないのに。これを機に聖餐について論議するというのもしんどいですね。教団執行部がかなり極端な結論を押しつけてきたので。各教会が声をあげにくいとしたら、教区として声明を出すことが大事になると思います。

D:Kさんの教会が、応じないという決断するのは可能だろう。
ただ、一度不服の手続きをしてからになると思う。
議長不信任署名もやる意味はあるね。あちこちから異議が出るのがいいよね。

A:常議員会の決議に、教会が不服を申し立てるのは、手続きがいるのね。
セクシュアル・ハラスメント問題で戒規が発令されたE教会の場合は、そもそも戒規が発令されたことすら、教会員に報告されなかった。で、無視が通った。
教団からの指導もなかった。
教師委員会決議と常議員会決議との違いは何?
Kさんの教会の総会が、各個教会の権利として、勧告に応じないという選択は取れるんだろうか?別に罰則とかないだろうし。
E教会A教師の戒規には7年近くかかって及び腰。今回のようなスケープゴートなるイジメは寄ってタカって即決する。
許せん!やれることはまだあるのか…何でもやらにゃ!!

D:教憲教規にはリコールに関する規定はないみたいだ。ファシスト教団だ!!

A:日本切り捨てファシスト教団!!

C:返答になってませんが。
戒規には、教師に対してか信徒に対してかのみ、定めがあって、教会への戒規はみあたりません。そして戒規は、教師委員会で、3分の2の同意でなされること。常議員会の取り扱うことではないので、実際的には効力のない勧告決議をしたのでしょう。
それに対して、教会が抗議するのは、役員会決議などではダメなのでしょうか?
A教師の場合、戒告を受けた際に、各個教会でどう扱うか、定めがないので無視をしたということなのでしょう。停職、免職、除名なら別でしょうが。

A:そもそも、神の側から「正しい」なんて発想は求められてはいない。
上から目線ではなく、生きてる現場から突き上げていく必要があるね。
向こうはひとつひとつに応えられないから、十把一絡にごり押しして来るんだろうから。そう、何が問題なのかを明確にしてアクションしなくっちゃね。
正しいセイサンと言うけど、正しい正しくない、と線引きすることこそ裁きなんだし。受洗や信仰告白をして「ふさわしい」とするなら、受洗の対象になりにくい、「しょうがい者」といわれる人たちは除外される。
受洗のための諮問会に出て発言したり、信仰告白したり出来ないから。
そう考えれば、色んな方面からアクション出来るだろうね。性差別問題全国会議で関連の講演は無理?

E:セイサンに関しては、ホントそれぞれにやり方があってしかるべきでしょうね。それぞれの場が負っている現実や課題が違うように、それにそくしたやり方が各現場で話し合われることが大事と思う。
オープンクローズどっち!?な論議とは、違う気がするなぁ。だって、必要ないとの判断もあり得るわけだし。やはり、そのそれぞれなことを画一化し、排除して異端者のレッテルを貼る行為そのものが問題ですよね。
生きる現場をバカにし過ぎ。全国集会で取り上げてみるのも、一つかもですが、
やっぱりセイサン論議になってしまう可能性はなきにしもあらず…かなぁ、と。
教団のおバカなやり方で、性差別問題特別委員会もつぶされたわけだし、
課題はつながってますよね。全国集会に関しては、また考え合いましょう。

F:きっと声があちらこちらから出てきます。クローズの人でも、このやり方には眉をひそめるはず。
そしてWCC辺りから顰蹙買って原理主義と批判されるでしょう。とにかく発信しましょう。

C:常置委員会では、教区として抗議、来年の教区総会に教団問安使を受け入れるかの論議をしていくことが考えられますね。東京の教区として取り組んでいないところの人たちが動かしている教団政治、ホントひどいです。

A:教区での論議を経て、教団への糾弾はしないといけない、と思ってます。実際に、各教会でどのように行われているか、調査するのではなく、これからも各個教会の考えや方法が大切に守られるように保障しなくちゃね。「うちも独自でこうしてる」と、オープンのところが声をあげるのも、紅葉坂を孤立させない方法かなあ…

D:Zさんによると、あんな採決しても、法的には効力はないとのこと。
実は、いわゆる右が三役を狙ってた時、教団の教勢が下がってるのは左が実権を持っているからだ、と主張してた。が、奴らが三役に就いて10年たって、教姿は益々下がるばかり、で「正しい」セイサンをやらないから、といちゃもんつけ始めた…という次第らしい。
T教会で、今回の件を祈祷会の後で話したら、「ようは、自分たちがどう考え行動するか明確にする事ですね」と信徒が言ったとか。

A:何だと?!益々下らん!これで教団は世界の笑い者。この国と同じ。
Tは力ある教会だね。各個教会の考えと方法が保障され、Kさんの教会が孤立しないように声を挙げなきゃね。

E:なるほど・・・教勢か…(笑)。
日本伝道会なんて作っちまうわけだ。で、沖縄教区切り捨てて、個人攻撃か…
なんなんだろね、ヤツラの頭の中って。
Mさんとドライブ中、この話をしてたら、Mさん曰く「もうこの際、名乗り出る!って気分。教団の膿を出し切った方がいいのかも…」と。
そ〜だよ、ホント。ある人ががこの件で、「うちもやばいや〜ん」って言ってたのを何度か聞いて、かなりの違和感だった。やばい…って言っちゃうことが、結果権力の横暴を支えることにつながる気がする。
やばいのは、今の教団。まったく。
嗚呼…今度の常置委員会では、按手式があるんですよね。
やだやだ。でもわたし、見に行ってみようかとも思ってる。どんな雰囲気か。
で、按手式の方法を変えて、何が変わるのか…疑問ですね。

C:人間のやることだから、絶対的な正しさなんてどこにもないと思う。教会の決断が尊重されるべきと思うし、今までそれでやってきたのにいまさら処分とは何考えてんだという感じ。
うちの教会では牧師主導で決めることではないし、教会内で論議を深めていなくて、これまで通り(「正しい聖餐」)のやり方してますが。
片付け忘れて、次回の準備の際、かびのはえたパンと杯に遭遇し、「正しさ」なんて、怪しいもんだといつも思います(といってもカビちゃったのは2、3回ですが)。

E:何かできないか…と、昨日はFちゃんと話してたんだけど、常議員会決議を覆せるのは、教団総会だろう、と。
あの決議は間違いでした!って議案とか。とにかくしつこく取り消しの要求ですよね。あとは…わたしは、Kさんの教会を孤立させて、その教会の問題にしてしまうことを恐れるなぁ。規則違反してる教会なんてたくさんある。それらが、決してビビらない姿勢を打ち出せたらなぁ。難しいだろうけど。「うちも規則違反ですが、なにか?」みたいな。一ヵ所集中攻撃なやり方がキタナすぎる!

D:東○教区は、教区としては関わらないけど、個人がやる事にはとやかく言わない。中○教区は個人の動きにもチェックが入る。閉まってるよね。

A:えーっ?!個人に教区のチェックが!どうやって?まるで諜報。怖い!よく黙っていられるね。
いかなる熊○地区でもそこまではない。ま、Nさん(E教会で抗議の座り込みと、ゼッケン付けての礼拝参加を続け、「礼拝妨害罪」で、E教会A教師から訴えられている)が、セ・ハラA教師に初めて談判に行った時、
A教師の犯罪をわたしから聞いてたから、「かのじょの言うことが本当なら、あんたを許さん!」と言ったら、
「あの人は過激な活動家!注意した方がいい」と言ったらしいですぜ。バカが!

D:中○は、例えばセイサンをオープンでやる牧師は招聘しない、という申し合わせがある。集会なども「左」とおぼしきものは、信徒には知らせない。
E教会状態。まあ、中○じゃ左様な集会そのものが、まずないけどね。

コメント(14)

セイサン… 悩ましい問題。昔「ふさわしくないままで云々」に反応、手を出せなかった。引っ越して九州のS教会に行くようになって「ふさわしくないままで」ではなく、「誰でも招かれている」と言われてセイサンに参加(?)。 
 中部のK教会での出来事。そこには、「住所はちょっと言えない(事情があって)」ヴェトナム出身の青年が来ていた。セイサン式があり、彼の横をセイサンのパンと葡萄酒が素通り、牧師が「ふさわいくないままで云々…1日も早くわたしたちの群れに加わっていただけるようお祈りしています」と神妙な顔で言った。ここで彼と共にできないセイサン式をする意味があるのかexclamation & questionわたしは、その日を限りその教会に行っていないので、彼がその後どうしたのか知らないけれども、この国の教会は彼と彼の事情に誠実だったのか…と今も思う。わたし自身ももっと行動すべきだったし。
 今はまた引っ越して別の県に来たけれど、教会には行ってない。
 私が思うに、「牧師」だと称して威張っている連中は、勉強もろくにしていないし、社会情勢に関しても全然無関心。たまにお祈りで社会問題に関して祈る人がいる(今MJにいるH牧師とか)が、ほとんどは新聞記事の要約している程度で、深みがない。結局自分の問題ではない、他人事なんだと思う。
 だから馬鹿らしい自分たちの勢力争いにだけ関心を持つ、そしてセイサン論議にかこつけて、非生産的な騒動を巻き起こす。そう言えば10年ほど前の「同性愛者牧師」問題も似たような政治的争いでしたね。これでますます「強制縮小」に向かうことでしょう。
 まあ、年寄り男ばっかりの「牧師」達にとっては、後10年ほどでやってくる自分たちの死ぬ日まで教会とやらが建っていて、給料や年金がもらえれば良くて、後はどうなろうと知らない・・・と言うところでしょうね。お前ら、地獄に堕ちろ!
セイサンについて、実のところ苦手な理由はもうひとつあって、パンと葡萄酒がわたしたちの(つまり自分の)罪を担って十字架刑に処されたと言われるイエスの肉と血を象徴している、という点。教義的には、そのことを心にとめて感謝し身を律せよ、ということなのかもしれないのだけれど、具体的に存在した人の肉だ血だと言われると、辛いふらふら理屈でなく、感覚としてだけど。だから、もしまた礼拝に出られるようになったとして、フリーにしてもらえると嬉しい。教義には反するけど、「セイサンはしません」という所だともっと嬉しい。
 因みに、そういうわけでイースターも辛い。わたしは、キリスト教会的には「国賊」で、死んだ人が生き返るなどと思っていないから「イースターおめでとう」とは言わない。ただ、十字架上で失血死した人の苦悶を想像すると、それが救いに繋がるという神学のベクトル(?)が苦しい。
 だったら、クリスチャン辞めろexclamation ×2って話だよね。
 
 アッシ、この一連の事柄で思うのでありますが、なんで「退任勧告」議案が通ったとき、そこにいた常議員たち、「オレんとこもやってるぜ!まとめて退任勧告しろよ!」と名乗らなかったのでしょうか。聖餐は、教会の執行する行事ではあるけれど、司式は自分たちなワケだから、勝手に公言しても、全然OKなハズでしょ?
 アッシは、ヤマキタもくだらないが、「ウチもやばい」(=オレ、クビきられる)と、ビビッている人たちも、同じ程度にくだらない、と思っています。ましてや、その後、おとなしく常議員会にて、ほかの協議を続けているいけるなんて、その場にいられるなんて、(以下、省略)。
 そして、それ以前に、キリスト教にとって、聖餐って、大事なの? …最近は、それをオオマジメに考えています。

 すみません、自己紹介を忘れていました。
 京都に住んでます。いま、無任所の耶蘇ボーズです。ときに「レズ牧師」と新聞に書かれたりもしました。よろしくです。 
今行っている教会では、凄惨、いや、聖餐をやっていない。
実に気持ちが良い。しかし、前にも書いたように、それは聖餐に疑問を感じているからではなく、単に牧師が「補」だからだと思う。
この教会でこれから聖餐をどうするのか、これから考えていくことになると思う。北村さんに対しての退任勧告に対しては、教会で抗議の署名を出したことだし。
今回のことは、北村さんに対する「憎しみ」が先行し、ただ単にかれを外すことのみが目的だったんだね。聖餐なんかどうでもよかったんだし。ヤツらが後生大事にしている「正しい」やりかたなんか、実はどうでもいいってことになるね。うちの教会は、E教会A教師にから、土地建物明け渡しを迫られ、裁判で地裁、高裁とも勝訴。これから宗教法人格を所得する申請の準備が進んでいる。このことが、教会の力にもなっているし、教団のなりふり構わぬやり方に対して、怒りも感じている。聖餐をどう捉えるのか、今の教団のあり方に抗議する意味でも、いっそ聖餐をしない方向でいくことになると思う。
前に行っていた教会では、「正しい」聖餐を守っていた。毎月の第一主日礼拝では、教団信仰告白を唱え、長々と「洗礼を受けているかたは、進んで・・・そうでないかたは、いましばらく・・・」云々の「お奨め」があり、あのお道具で、しずしずとパンと葡萄酒が配られる。
わたしも役員をしていたので、配餐のお役目をせねばならない時があり、ホンマに苦痛だった。わたしは、受洗していない人たちは取らないと分かっていても、一応全員に勧めていた。取らない、というか、取れないのは決まっているんだけど、素通りだけはしたくなかったし。でもある日、ホームレス支援をしているNさん(かれは、E教会A教師に対する抗議行動として、E教会で「牧師のセクシュアル・ハラスメントは許せません」と書いたTシャツを着ての礼拝参加を続け、教会内に立ち入るな、との提訴をされている)が、ホームレスのかたを連れて礼拝にみえた。そのホームレスのかたにも勧めたら、受けられた。かれは受洗されていなかった。で、礼拝後に、責任役員のジジィから、「何で聖餐を勧めたんですかっ!」と、抗議された。あきれたもんだ!見ているんだねぇ!監視しているんだよ。ちゃんと「正しく」配っているかどうか。教会って怖い!
この教会、いろんな差別がまかり通っていた。前任の牧師は鬱を患っていたので、テイのいいクビになった。かれが移動するのと共に、わたしも今の教会に転会。そのかれが「独身」だったため、凄惨のお道具を洗う役割が、わたしのもとに回ってきた。あのお道具に触れることができるのは、ボクシフジンか、役員たる女性に限られるから、だと。女性役員はわたしだけだったから。
洗えばいいんだろ!と思ったわたしが甘かった。わたしに与えられましたるは、ふきん、ボール、ざる、タオル、ポット、ガーゼ。そのすべてに「聖餐」と書いてある。ポットは何に使うですか?と聞いたら、熱湯消毒しろ、だと。そして、タオルはボールうんぬんを拭くため、ふきんはあの十字架が付いている金属の入れ物や皿を拭くのに使い、あのサカズキは、誇りがいや、埃が付かないようにガーゼで拭いてくれ、と言われた。ここまでくると、もう笑っちゃうしかねぇっつうの!
で、教区のみんなに「どうやって洗ってるん?」と聞いたら、「誰でもいいから適当に洗ってる。」「適当に、ボールに入れて、ガラガラーっとやってるよ。」
えーっ!アサリ貝じゃあるまいし・・・
ともかく、あのお道具の扱いに関しては、かなり教会で違っているんだね。三種の神器なみの扱いをしろ、と言われ、抗議どころか話し合いさえできぬまま、我が家の食器さえ台所に山積みのこのわたしに、教会のアサリは熱湯消毒してガーゼで拭けと言われ、「ざけんじゃねーっ!!」だったぜ。
ま、いつも「独身牧師」が後片付けを手伝ってくれてたから、一回だったか二回だったかな・・ゾウキンで拭いてやったことがある。
「正しさ」なんて、どんなもん!?
kaorinです。たーみんのアサリ貝の話、何度聞いてもスゲェよね…。
あたしがいる教会にも、「聖餐道具」あると思うけど(いや、以前見たんですよ。あるな、と。)、使ったことないので、今や何処にあるのやら…分からんごとなった。
聖餐って必要なの??と思い巡らす日々。いろんな場で、聖餐についてチラホラと論議??になったりするけど、な〜んとなくな違和感ばかり。その違和感が、ズバッと表現出来ればいいな、と思いめぐらせているわけだ。
とりあえず、みなさん、今年もヨロシクです。
本当に情けない話ですね。「正しい」関係を作るためにはお互い話し合うのが当たり前のことなのに、それを抜きに、形だけの「議論を尽くして?」自分たちの思いを数で決着つける。そうすることによって教会が一致し、分裂を阻止できると嘘ぶく。まったく逆じゃーないですか。
東北教区の常置委員会で、教師試験の面接があり、「あなたは未受洗の人への聖餐についてどう思いますか?」という質問が出されたそうです。その質問をした人は、この教団常議員会の決議の後、「教会の崩壊を招く未受洗者への陪餐を許容することなく、むしろ、教憲・教規を遵守し、日本基督教団の信仰告白を宣教の言葉とするなど、伝道協力を推し進めるうえで、最低限の土俵作りをこれからする必要があるでしょう」と息巻いています。
ドイツナチズムが教会を巻き込んでいった動きに連動していると思えてなりません。この動きに、どう対峙していったらいいのか。
ある方が、教団三役こそが辞任するべき決議ではないか、と書いてこられたのですが、同感です。どうしてら、それを進められるのか。そんなの無理な労力なのでしょうか。
「勉強もろくにしてない」のでコメントするのも気が引けますが・・・。
特に宗教改革者の書いたものを、ほとんど勉強してこなかったので。

私が「教団の課題」について、しばしば相談にのっていただく本、
横田勲さんの『傍らに立つ者(?)課題の中の教団教会論』に
参考になる言葉がありますのでご紹介いたします。

この本に、「聖餐」をテーマにした説教が、6ページくらいの文章に
なっています。
教団教規第135条、136条、138条を根拠として、
「オープンな聖餐式」について「教規違反だ」という主張がある。
でもそれらは法的根拠にならない、百歩譲って「教規違反」を示すもの
だしても、その「教規違反」を覚悟で、自分の働いていた教会で30年
以上「オープンな聖餐式」をしてきたと横田さんは書いています。

そしてその中に「カルヴァンの聖餐論」と小見出しのあるところがあり、
長くなりますが引用してみます。以下引用です。

 この恵みのしるしである聖餐をある資格のあるものに限定しようと
する傾向は初代教会にもありましたが、とくに中世において強かった
ようです。カルヴァンは、このような傾向に対して、怒りをもって
次のように言っております。
「キリストは、その聖餐において差し出された杯から皆のものが飲む
ことを命じておられる(マタ二六・二六)。ところがコンスタンツの
会議(横田注・一四一五年六月一五日)では、これを一般信徒に
与えることを禁じ、ただ(ミサをあげる)司祭だけが飲むように
求めた。このように、キリストの制定語と真っ向から対立するものを、
かれらはその『解釈』であるとみなそうとする」(『綱要』?九章一四)
「神の永遠の規定は『みな飲め』ということであった。ところが、これを
人間が新規な反対の法則を作って、(中略)『みなが飲んではならぬ』
と規定したのである」(『綱要』?一七章四七)
 カルヴァンが『綱要』のなかで繰り返し強調しているのは、ただ聖餐は
信仰をもって受けるべきものだということです。もちろん、だからといって、
『綱要』を読む限り、未受洗者も受けてよいとは言っておりません。しかし、
聖餐は信者に限定するべきだということも言っておりません。宗教改革から
五〇〇年近くたった今、礼典におけるサクラメンタルな考え方を排し(信仰
においてイエス・キリストの出来事のみがサクラメント〔秘義・奥義〕です)
このカルヴァンの指し示した方向に進むべきです。(以下、続く)
(前の書き込みの続き、横田さんの文の引用です)

 では聖餐に与るに際して条件がないのか。否です。無視しては
ならない条件があります。それはふさわしくあるということです。
今日のテキスト(引用者注・コリントの信徒への手紙一 11章
23から26)の次の二七節にはこうあります。「従って、ふさわ
しくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、
主の体と血に対して罪を犯すことになります」(一コリ一一・二七)。
しかし、このふさわしさとは神の前における謙虚です。カルヴァンは
ルターの説に賛成しつつ次のように言っております。
 「われわれが神に差し出すことのできる唯一のそして最善の
『ふさわしさ』とはこれである。すなわちかれの憐みによって
『ふさわしい』ものとされんがために、われわれ自身の無価値さと、
さらに『ふさわしくなさ』をかれの前に差し出すことである」
(『綱要』?一七章四二)
 「ふさわしくないもの」を招きたもう主のあわれみに心から感謝
することが聖餐を受けるための唯一の条件です。

以上、横田さんの文の引用でした。

聖書も、『綱要』も、教憲教規も、横田さんの文章も、読み方しだい
なのだろうと思います。

教会のおかれた場所、積み重ねの歴史などが、それぞれ違う中での
合同教会なので、一つの執行方法のみが「正しい聖餐」とは言えない
と思います。フリーもオープンもクローズも、それこそが「正しい聖餐」と
言い出したら、違うよなと思います。

数年前ですが、隣島の名瀬教会和光伝道所の聖餐をメインにした礼拝に
出席したことがあります。ハンセン病元患者の方々が暮らす療養所の
不自由者棟の一室の集いでした。聖書や説教の言葉が理解しにくい方々に
とって、よりどころとしての神の恵みの確認として、聖餐の意義を考え
させられました。

今後、「聖餐なしのあり方」も考えられるのではとも思います。
ただ、聖餐によって神の恵みを味わってきた方々もいるので、その方々
との対話が必要になっていくように思います。
「聖餐なし」の方向が、「牧師の説教中心」の方向になるような気も
して、どうにかならないかなとも思います。

どうも、すっきりしない、はっきりしない(私の性格でしょう)、
矛盾を抱えながら、聖餐の司式を先日もいたしました。

まとまりのないコメントですみません。



>あお様

 解説ありがとうございました。私は神学者と言うより、歴史学者兼宗教学者なので、その視点で見ていってしまいますので、それから雑感をいろいろ。
 ヒュッポリトスの使徒伝承(原始教会の状況を伝えているもの)でのさまざまな「聖なる儀式」が歴史的変遷を経てカトリック教会の「7つの秘蹟」となり、さらにルターがその中で洗礼と聖餐だけを聖礼典として残しました。私の見るところ、では残り5つのカトリック教会の秘蹟は馬鹿らしいことかと思うかというと、洗礼や聖餐ほどの秘蹟性はないにしても、人生における重要な転換点を意味する儀礼なので、確かに「準聖礼典」と考えていいかなとも思います。
 洗礼も聖餐もないキリスト教教派(救世軍、クリスチャン・サイエンス、無教会など)もありますが、それはそれで「一切の秘蹟をなくして、説教と実践活動に集中」と言う意味でプロテスタント的な価値観を追及すればああなるかも知れないと考えたりします。でもそのグループでの「入会式(一般キリスト教の洗礼式に当たる儀式)」に到達するまでのチェックはずっと厳しいのが現実です。救世軍の士官、クリスチャン・サイエンスの教師、無教会聖書集会指導者などになるには非常に厳しい関門がありますし、基督教団あたりの試験のレベルとは大違い・・・。と言うわけで、「そこまで厳しくしないといけないかな〜〜」と思わないではないです。

 カルヴァンの時代に関しては、全員が一応キリスト教という状況があって、それをカルヴァンがさらに選別して「ふさわしくないもの」はパンや葡萄酒を与えないどころか、ジュネーブを追放したり、処刑したという歴史的いきさつもあります(今ならキリスト教過激派としてカルト扱いされるかも知れない)から、そうなっていくと怖いものです。そう言う意味で、あまり「教義絶対主義」となるのはさまざまな副作用があるので、「良い加減」と言うのが実はポイントなのではないかと考えたりします。
去年になりましたが、東京教区総会(2日の予定が1日で終わった!)の
最後に教団議長が挨拶し(そんな予定ってそういやあったけか?)。
会場は東京山手教会でしたが「この教会は現在東京教区議長が就任して
いる。かつてこの会場で行われた総会では、『教団解体』という横断幕が
掲げられたこともあった。しかしその勢力に我々は勝ったのだ!」みたいな
宣言をしてました。
それは、当時の教区議長の「弔い合戦」に勝利したのだというノリでした。
(「でも、あの人いい年だったでしょ?」という声もありました…。そこは
よく知らないのですけど…。でも、当時問題提起をした青年が亡くなっている
ことは事実なんだけど。それは無視。)

先の教団総会の教団議長総括も「荒野の40年」(ヴァイツゼッカーが泣く)とか
いうものでしたが、彼らの「悲願」「怨念」なのだろうな。
今回の退任勧告決議も、ひるがえれば機構改正に名を借りた運動つぶしも
「三里塚教会問題」抹殺もその延長線上にあるものです。
彼らは、「教団紛争」以前に戻したい、リセットしたい。なかったことに
してしまいたい。ですよね。

ところで、カルヴァンはスイスのジュネーブでの宗教改革やったひとですが、
要はそれまでのヨーロッパキリスト教といえば基本カトリックだったわけ
ですから、カルヴァンも含めて当時みんなはじめは「改宗者」ですよね。

カルヴァンはフランスで弾圧されて亡命、ジュネーブの市参事会に要請を
受けて活動しました(はじめはゴタゴタいろいろあったらしい)。
それは、ジュネーブ市の政治的独立をつくりだすための運動でした。
それまでは、宗教的権力を有したひとびとが政治的権力も握ってましたから。

で、それに対抗するために、『キリスト教綱要』も書かれたわけですが、
すげー何度も改訂しています。
で、実際は、スタンダードだったカトリックに対抗するため、強硬な神権政治を
行ってもいます。例えば、「性的な快楽は悪」みたいな信条により、各戸を夜
パトロール(のぞき?)したりとか。
あ、処刑についてのコメントもありましたけど、ほんとに具体的状況のなか
(だからってよくはないのだが)でのことなんですから、さらにそれを全く
違う時代、地域にて絶対化なんてできないはずです。
使徒言行録のペトロだって全くカルト(献金ごまかしただけで殺されちゃう
んだよ〜)じゃん、と批判していくことは必要かと。
いずれにせよ、「正しさ」は具体的な時代状況のなかで「作られた規範」にすぎ
ないと思います。
「退任勧告」自体、教憲教規的にすら根拠はありません。
「聖餐論」であればきちんと議論すべきですし、戒規の適用でもない。
現在の信仰職制委員会がそんな答申を出しただけの話。
常議員会がそんな決議をしたこと自体がむしろおかしい。
「宗教裁判所」(異端審問)かってーの。

あ。やぎかおり@千葉です。三里塚教会牧師です。よろしくお願いします。
(とは言え、常議員会でこの所属を書いたら2回陪席拒否にあいました。
一度ヤマキタに「なんでですか?わたしの現場は三里塚です。」と言ったらば
「僕は分かるけどね、それ言うとナガサキくんが過剰反応するからねえ」
 (↑ゾゾっとしました。)
 「荒野の40年」などと言ったら、ヴァイツゼッカーどころか、モーセが泣いて、神様に撃たれちゃうかも知れませんよ。その前にどこぞの「セクハラ牧師」みたいに燔祭で「豚の丸焼き」にされたほうがよいかもしれませんが(宗教法人認可日に、意味も分からず作らせた「恵みの座」の上で、バーベキュー大会をやる予定。そのとき豚人形にカラー付けて、セクハラ牧師の名前書いて焼き尽くすつもり。みんなその日は日程明けといてね。私も海外赴任になっても、何とかその日は熊本に戻ってくるから)。
 旧約の神様は「ねたむ神」ですから、安易に言葉遊びしたらいけませんね。

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