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言語学コミュの修飾という機能主義的な発想の限界

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日本語では、語と語とを並べるときに、「赤い家」の場合には対象それ自体が属性を持つ実体であって、属性を「赤い」に実体を「家」にそれぞれ概念として捉え表現したのであるから、この二語の結びつきは対象の結びつきから規定された文法上の規定だといえよう。これに対して「花が咲いている」では、「花」の属性をまず具体的なありかたで「咲い」と捉えて<助動詞>「て」を加え、次にそれが継続しているという抽象的な在り方で「いる」と捉えている。「咲い」と「いる」は、一つの属性を認識において具体的と抽象的とに分離して捉え、これを二語に表現したのであるから、この二語の結びつきは認識の分離から規定された文法上の規定だといえよう。同じように二語の結び付きであっても、「赤い家」の結び付きとは異なった段階から規定され過程的構造が違っているから、文法論はこの違いを取り上げる必要がある。

しかしながら、現在の文法論はこのような過程的構造を取り上げない。語と語の結び付きは、【修飾】であるといい、修飾語と被修飾語という機能関係で片づけてしまう。これはヨーロッパの文法論から借りて来た扱いかたであるが、「赤い」はこの場合<体言>の「家」を修飾する語であるといい、「咲いて」はこの場合<用言>の「いる」を修飾する語であるから、<連用修飾語>であるといい、語と語との機能的な結び付きで解釈する以上には進まない。

これでは<副詞>とは何かの定義も意味不明になり、品詞区分のゴミ溜めと云われることになる。そして、継続を表す「いる」を本来の意味が薄れた<補助動詞>などという機能主義的な品詞区分を行っている。

このため、補助動詞とは何かという質問が繰り返され、連体修飾を内と外に分けて、ピント外れな問題に苦しむという情状を招いている。

こんな解釈で文の構造を法則的に説明したかのように思っているとしたら、大きな錯覚である。文法学と称していても科学ではなく、受験生たちを苦しめる以上の有用性も合理性もない。

コメント(347)

>>[306]

>「話す」という属性の具体化で主従の関係ではありません。言語表現は意味を表すもので、主従の関係ではありません。

最初からこういう意見を言っていくださいよ。いい子いい子。三浦の本に書いてないから間違いだなんていう稚拙な意見は時間の無駄ですから。

>副詞は属性表現としては、動詞形容詞あるいは静詞に従属する性格ですが、

>言語表現は意味を表すもので、主従の関係ではありません。

・ゆっくり話す

あなたは品詞の定義と語と語の組み立てとを混同しています。副詞は品詞の定義の中に従属があるということです。従属するものがあるということは従属されるものがあります。副詞と動詞の関係は主従関係になります。実際、「話す」が大きい入れ子になり、「ゆっくり」が小さい入れ子になります。繰り返しますが、たまたま副詞は品詞の定義の中に従属があるに過ぎません。

>また「育てて楽しむ」「煮て食べる」「遊んで過ごす」「困って泣きつく」などのように、動詞に動詞の連用形ないしそれに助動詞の加わったものが【副 (そ) う】場合も少なくない。

・煮て食べる。

これも語と語の組み立ては「煮て」は「食べる」に従属しています。【副詞のように「副う」わけですから。】実際、入れ子の大きいものが「食べる」で、入れ子の小さいものが「煮る」です。動詞は従属することを本質としないだけですから、

・大根を煮る。

この場合は従属していません。使い方によって従属するということです。
>>[312]

>>最初からこういう意見を言っていくださいよ。

最初からそう言っていますがネズミ脳には理解できないということを露呈しているだけです。

>>たまたま副詞は品詞の定義の中に従属があるに過ぎません。

繰り返しますが、「品詞の定義の中に従属がある」のではありません。それは単なる現象、結果で、<副詞>という語の性格の問題です。

それを誤って語と語の組み立てに拡張しているだけです。語と語の組み立ては対象の構造に規定された認識の反映で、主従の関係、問題ではありません。

語と語の組み立てを主従という形式的な側面で捉えても、修飾、限定などというのと同じでなんら言語表現の本質の解明にはなりません。
>>[313]

>最初からそう言っていますがネズミ脳には理解できないということを露呈しているだけです。

もともと「私は病気だ」脳が間違っていることを露呈していただけです。

>「品詞の定義の中に従属がある」のではありません。

いいえ。副詞の定義は他の属性に「依存」的に使われることを本質としていることです。動詞や静詞の定義は他の属性に「依存」的に使われることを本質としていないことです。こられは立派な品詞の定義です。これらが基準になり、品詞を分けています。これらを基準にしないのであれば、どうやって

・美しく咲く。
・ゆっくり話す。

これらを静詞と副詞に品詞を分けるのですか?

>それは単なる現象、結果で、<副詞>という語の性格の問題です。

いいえ。現象、結果ではなく、品詞の定義そのものになります。

>語と語の組み立てを主従という形式的な側面で捉えても、修飾、限定などというのと同じでなんら言語表現の本質の解明にはなりません。

いいえ。語と語の組み立てを入れ子に捉えることによって、言語表現の本質の解明になっています。そして、入れ子は主従となっています。
>>[788]

>「明日」と「弁護士」には何の関係もありません。

時間的起点による関係があるではないですか。

>先に教示した三浦の論を良く読んで理解して下さい。

私は、修飾語の定義を山田の言う「制限」ではなく、三浦の言う「結びつき」と何度も言っていますが。

>けれども時枝文法では、これらの語もみな属性の語を修飾するものとして、つぎの修飾語格に入れている。

時枝の言う修飾は、制限といよりは入れ子の統合です。入れ子がわからないあなたがわからないだけです。【三浦は入れ子による拡張を批判しているのではなく制限による拡張を批判しています。この文はただ拡張したことだけを言っているだけです。】私は制限という意味で修飾をずっと使っていませんでした。

・花子は画家だ。

>形式ではなく、意味を正しく捉えることが必要で、「花子は」で、「花子」の特殊性の認識が示され、この文の主語になっています。

なぜ副静辞の「は」が主語の条件なのですか?「公園には誰もいない。」は「公園」が主語ではないではないですか。

>主語と述語は単なる実体と実体の結びつきの認識の反映、表現ではないからです。

主語も制限ではないということと、論理学の命題と混同していませんか?主述の結びつきは特別ではありません。

>日本語では、語と語とを並べるときに、「赤い家」の場合には対象それ自体が属性を持つ実体であって、属性を「赤い」に実体を「家」にそれぞれ概念として捉え表現したのであるから、この二語の結びつきは対象の結びつきから規定された文法上の規定だといえよう。

「花子」と「画家」とが対象の所属関係の結びつきにあるから「花子」が文の主語になっているのですよ。私の意見は三浦の説通りではないですか。
>>[313]

以前、あなたは主語は述語の内側にないと言いましたが、三浦は時枝の入れ子を継承しています。入れ子と風呂敷を混同していたあなたの間違いだったのか、三浦がそのようなことを言っているのか教えてもらえないですか?
>>[313]

・私は本を読む。

以前、あなたは「本を読む」は述部になると言いましたが、あなたは句「本を」と句「読む■」の主従を否定するのであれば、なぜ述部と言えるのでしょうか?

あなたの意見で、句「私は」と句「本を」とは何の結びつきもなく主述の結びつきのないものが、なぜ述部の中に入れるのですか?不純物ではないですか?あなたの意見は形式主義以下です。

「なんとなく」という根拠も別に完全に否定はしませんが、科学的ではまったくありません。あなたは科学的な文法を目指していると言いますが、言っていることとやっていることが違うではないですか?

トピックに即しているので、責任を持って答えてください。




>(国語学原論・上・336ページ)「走り」は結局に於いて「去る」という概念の【中に】【統合せられてしまう】のである。

私の根拠はこれです。時枝のこの説が形式主義の根拠は一体何ですか?まったく実質主義で正当です。
>>[339]

>>実質主義

これは何ですか?

もう少し問題点を整理しTopi に纏めましょう。
>>[340]

>これは何ですか?

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AE%9F%E8%B3%AA/

形式の反対語です。

>もう少し問題点を整理しTopi に纏めましょう。

いやですから、あなたの発言について質問しているのですよ?なぜあなたが答えないのですか?無責任ではないですか?



・私は本を読む。

以前、あなたは「本を読む」は述部になると言いましたが、あなたは句「本を」と句「読む■」の主従を否定するのであれば、なぜ述部と言えるのでしょうか?

あなたの意見で、句「私は」と句「本を」とは何の結びつきもなく主述の結びつきのないものが、なぜ述部の中に入れるのですか?不純物ではないですか?あなたの意見は形式主義以下です。

「なんとなく」という根拠も別に完全に否定はしませんが、科学的ではまったくありません。あなたは科学的な文法を目指していると言いますが、言っていることとやっていることが違うではないですか?

トピックに即しているので、責任を持って答えてください。




>(国語学原論・上・336ページ)「走り」は結局に於いて「去る」という概念の【中に】【統合せられてしまう】のである。

私の根拠はこれです。時枝のこの説が形式主義の根拠は一体何ですか?まったくの実質主義で正当です。
>>[342]

>>私の根拠はこれです。

断片的な思い付きを並べるのではなく、論理的な根拠、主張をTopiとして纏め検討しましょう。■

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