ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

言語学コミュの「は」と「が」の本質

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「は」と「が」の本質

 助詞「は」と「が」については、日本語学習者の難関として良く知られ、論じられています。しかし、現在の形式主義・機能主義的な言語論、文法論ではその本質を明らかにすることができず、個別の文での機能を羅列する現象論となるしかありません。その典型が、『「は」と「が」』 〔新日本語文法選書: 1996/11/1;野田 尚史 (著)〕で、5項目の使い分けが記されています。この書については、Amazonにカスタマーレビューを入れてあるので参照下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R7LORX3DSRR0N/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=487424128X

 しかし、この本質は1967年初版の『認識と言語の理論〈第2部〉 』( 2002/6/1:三浦 つとむ ;勁草書房)ですでに明らかにされているので、少し長くなりますが、まず引用しておきます。
 この書は、東大はもとより各大学の図書館に一冊は置かれ、読まれていますが、残念ながら正しく理解されず、理解したとしても生徒に説明できず、展開もできないため無視されているのが現状です。そして、欧米言語論、文法論に追従しているのが実態です。

「第四章 言語表現の過程的構造 四 判断と助詞との関係」から最初の部分を引用し、追って、それに基づき野田説の5項目の批判を展開したいと考えています。

 判断と助詞の関係

  まず「が」であるが、この使いかたはいくつかあるにしても、そこには共通点がある。「わが涙」「わしが在所」「梅が枝」「夢が浮世か浮世が夢か」など、体言をつなぐかたちのものが文語に多く、また「言わぬが花」「知らぬが仏」「目に見るがごとく」など、用言の下につくこともある。これらは、むすびつきとして意識する以上のものではない。

  風【が】吹いて、木【が】ゆれる。
  彼【が】行かなければ、私【が】行きます。

 これらの形をとっても、物ごとのありかたはやはり単純なむすびつきでとらえられていることは同じである。風については吹いていることだけをとらえ、目を転じて、木についてはゆれることをとらえている。彼と私は対置させられているが、彼のありかたも私のありかたも単純な結びつきでとらえている以上のものではない。

  これ【が】父で、これ【が】母です。
  これ【は】父で、これ【は】母です。

 たとえ同じ対象をとりあげても、この対象をとりあげる話し手の意識にはちがいがある。「が」を使うときは個人を一人一人別々にとりあげているにすぎない。ならんでいる動物を、「これが犬で、これが猫です」というのと同じような意識である。しかし「は」を使うときには、父のときはそれ以外の人間ではなく、母のときはそれ以外の人間でないことを意識して、集団の中での特殊性においてとりあげている。山田のいいかたを借りれば、「排他的」なとらえかたをしている。

  誰【が】何といっても、私【は】平気だ。
  彼【が】行かなくても、私【は】行きます。

 ここでは「排他的」なことがさらに明らかである。他人のことは単純なむすびつきでとらえるが、それと対置されている自分のほうは、全体の中の自分として異質な存在であることを意識したり、彼と自分とは異質な人間で自分は主体性を持っていることを意識したりして、「は」でその差異を強調する。

  梅【は】咲いたか、桜【は】まだかいな。
  梅【は】春に咲く。

 この二つは、「は」の使いかたがちがっている。前者はこれまた「排他的」で、花全体の中での梅の花や花全体の中での桜を、それぞれ他を意識してとりあげているのだが、後者は「梅」といわれているものすべてに共通した普遍的なありかたをとりあげている。この二つは正しく区別しなければならない。

  反作用【は】つねに作用と方向【が】反対で大きさ【が】等しい。
  全体【は】部分より大きい。

 科学の法則は、普遍的に存在する関係をとりあげているのだが、このときもわれわれは「は」を使っている。
 以上のように見てくると、われわれは、対象を概念としてとらえて言語で表現するとはいうものの、その概念がまず個別的概念か、特殊的概念か、普遍的概念かに区別することができるし、これらの概念の自己自身による規定作用としての判断も個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かに区別することができる。そしてこれらの判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついているものと見なければならない。宣長は直観的に、【てにをは】における係と結とのつながりをとらえたのだが、この表現構造における現象の背後にはいろいろな判断のからみ合いという認識構造がかくれていたのである。用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、係助詞そのものが「支配する」わけでもない。(『認識と言語の理論 (第二部)』第四章より)
 
 ここでは、「が」が個別的判断に使用され、「は」には特殊的判断と普遍的判断の二種類の使用法があることが明らかにされています。これこそが、これまで、だれも明らかにすることが出来なかった「は」と「が」の本質の解明です。■

コメント(6)

 野田による、「は」と「が」の主題/主語論は下記に簡明に纏められています。

 しかし、誰も主題や主語を表そうとして「は」と「が」を使い分けてなどいないのは自覚的に反省してみれば明らかです。結果としての構文機能の解釈以上の意味はありません。


 野田尚史 稿
5 「は」と「が」

(井島正博[編著]『日本語ライブラリー 現代語文法概説』:朝倉書店 2020年11月1日 初版第1刷)■

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

言語学 更新情報

言語学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング