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言語学コミュの<名詞>とは何か 機能主義的言語観の混迷

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 先に、
  <形容動詞>説は誤りである
  https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=95985374

を提起しましたが、未だ理解されずに学校文法では受験問題で活用の理解の混乱を招き受験生を困惑させているのが実情です。日本語文法では<イ形容詞>、<ナ形容詞>と名称を変え同様な混乱を招いています。

 <形容動詞>説で問題になるのは<名詞>との相違、区分の根拠の明確化ですが、そのためには前提となる<名詞>とは一体何なのか、<名詞>という品詞区分の明確化です。この点が曖昧であるために、<形容動詞>との関係が混乱するすることになります。

 <名詞>がどのように理解されているかの典型を元日本語教師の方の<形容動詞>に関する議論に見ることができます。次のブログの内容を検討してみましょう。
 
 広辞苑と形容動詞:再び・第一版の「国文法概要」
https://niwasaburoo.hatenablog.com/entry/2022/11/27/153327

 ここでは、『広辞苑 第一版』(1955)の「国文法概要」の<名詞>の解説が取り上げられています。先ず、それを再掲します。
  

名詞
 名詞とは、思想の主題となる事物・概念を指示し、それに名づける名目である。
例えば、「机」「草」「酒」「赤」「厚み」「悲しさ」「勉強」「こころ」「政府」などである。国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化  および格語尾変化は無く、格の相違は助詞によって表示される。ヨーロッパ文典  にならって普通名詞・集合名詞・物質名詞などの別を立て、また、いわゆる数詞  を別の品詞として立てる説もあるが、日本語では特にその区別が必要・有用であるという根拠は見出されない。従って本書では、それらの区別を一切記さなかった。
また、本書には多数のヨーロッパ語を取り入れたが、それらは原語の品詞の如何を  問わずすべて名詞として取扱った。本書は国語辞書であり、それらの単語は国語としては文法的にはすべて名詞としてはたらくからである。例えば、ヒット、スチール、ゴチック、ロマネスク、シャン、アベックなど。
 名詞の中で問題になるのは世にいう形容動詞の語幹である。
  (1)静か のどか 明らか さわやか 綺麗 厳重 急 突然など
  (2)堂々 駸々 洋々 泰然 端然 断乎 確乎 縹渺など
右の(1)は、「なり」「に」「な」「で」「だ」などを従えていわゆる「ナリ活用の形容動詞」を形づくり、(2)は「たり「たる」「と」「として」などを従えて「タリ活用の形容動詞」を形づくる。この形容動詞という一品詞を認めるか否かは、現代の学界に両説がある。形容動詞を認める説の根拠は、その語幹が文中で独立して用いられること無く、「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つことが無く、連体修飾語を承けることが無いという点にある。一方、形容動詞を認めない説があるが、その論拠は次の通りである。まず、その語幹が独立して用いられることが全然無いとは言えず、例えば、「静」(しずか)という名前、「確か」という副詞、「ここもにぎやか、あそこもにぎやか」のような用法がある。また、われわれはその語幹を独立して思い浮かべることも出来る。元来、この語幹は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではそのような抽象的な属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していないために、それらが「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つことが無いに過ぎない。
また、形容動詞語幹は連体修飾語を承けることが無いというが、世に名詞と信じられているものも必ずしもすべて連体修飾語を承けるとはかぎらない。例えば、東・西・南・北・前・後などは連体修飾語を承けず、連用修飾語「少し」「やや」などを承ける。これら東・西・前・後などの語は、形容動詞語幹「静か」「のどか」「堂々」「突然」などと性質が同じである。このように考えればいわゆる形容動詞というものは、それらの属性概念を表す名詞に、指定の助動詞「なり」「たり」が付着して成立したものであると見られる。つまり、形容動詞の語幹は、意義として用言的な属性概念をもつものではあるが、品詞としては名詞とも見られるものである。それ故特別に形容動詞としう一品詞を立てる理由はない。本書は後者の見解に従い、形容動詞なる品詞を立てず、その語幹をすべて名詞として取扱った。
『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2300-2301

 これに対し、次のような問題点が指摘されます。


さて、「名詞」の節で大きな分量を占める形容動詞に関する議論で、

  元来、この語幹は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではその
  ような抽象的な属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していな
  いために、それらが「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つこと
  が無いに過ぎない。

というところはどう考えても無理があります。「主格・目的格に立つこと」がないのだったら、それはつまり名詞ではないということだと考えるべきです。名詞の最も中心的な文法的役割は、述語に対して「格」になることなのですから。//

 つまり、<名詞>とは、【中心的な文法的役割は、述語に対して「格」になること】と、その語の内容ではなく、【文法的役割】、つまり機能の側面で捉えられ、機能と本質がすり替えられています。辞書自身もまた、「名詞とは、思想の主題となる事物・概念を指示し、それに名づける名目である。」と「指示」「名目」という機能を取上げています。このような機能主義的言語観のもとに、ブロガーの纏めた『現代日本語文法概説』では<名詞>次のように定義しています。


1.名詞・・・・後に「が」「を」「に」などがついて、補語になる。
・述語になる場合は「だ」がつく。「代名詞」も含む。
・  例 ・日本 ・ 佐藤 ・ 木 ・ 愛 ・ 動き ・ 重さ ・ もの ・ こと ・ 私 ・ あれ


 これでは、リンゴの山を指し「その赤い【の】がほしい。」、「私があれこれ言った【の】は間違いだった。」などの抽象(形式)名詞「の」は主語にはならず<名詞>ではないことになってしまいます。実際「の」については、


 「の」は名詞とは言いがたいのですが、よく形式名詞に入れられ、「こと」や「わけ」と比較されます。//


とされ、上記の例には「はず」「ため」のような抽象(形式)名詞は挙げられていません。さらに、辞書の


形容動詞語幹「静か」「のど  か」「堂々」「突然」などと性質が同じである。このように考えればいわゆる形容動詞というものは、それらの属性概念を表す名詞に、指定の助動詞「なり」「たり」が付着して成立したものであると見られる。つまり、形容動詞の語幹は、意義として用言的な属性概念をもつものではあるが、品詞としては名詞とも見られるものである。//


という<形容動詞>否定論に対し、


そもそも、そのようなごく少数の「例外」と同じだから、形容動詞の語幹も名詞と見ることができるのだ、というのは、論理に大きな無理があります。//


と、【ごく少数の「例外」】と否定的な見解を示していますが、「平和の維持」「親切の押し売り」など“ごく少数の「例外」”という単なる数の問題ではありません。

 ここでは、形式と内容を一対一の「あれかこれか」の形式主義的な発想でしか捉えられず、一語多義という根本的な言語の在り方の理解が抜け落ちています。このような機能主義、形式主義的な発想では言語表現の在り方を正しく捉えることはできません。

 <名詞>とは実体概念を表す語であり、主語になるか否かという機能は本質的な問題ではなく、「足る」「流れる」「流す」という動詞の内容を実体的に捉え「走り」「流れ」「流し」のような連用形名詞が生まれるのも、形式と内容の相対的な独立の事実を明らかにしています。

 このように、形式主義、機能主義的な発想では<名詞>という語の本質を正しく捉えることが出来ず、それに関連する<形容動詞>という品詞区分の誤りを正しく捉えることができないのは論理的必然ということになります。

 当然、このブロガーの<形容動詞>理解も混乱したものになる他なく、幾つかの辞書の<形容動詞>の扱いが論じられていますが、ピント外れの議論となる他ありません。それについては、別途論じたいと思います。◆

 

コメント(1)

前項で取上げたブロガーは名詞について他で次のように述べています。

https://niwasaburoo.hatenablog.com/entry/2022/08/30/231420
==============引用開始
前回紹介した「文法概説」で例として出されている「男性」と「親切」で言えば、「男性の母親」「親切な母親」の「の/な」の違いです。(「×男性な母親」「×親切の母親」とは言えません。)

日本語教育の立場から言うと、初級段階でこの名詞と形容動詞の区別をしっかり教えておかないと、いつ、「〜な」の形で連体修飾するのかということがわかりません。

よく話題になる例をあげると、「病気の人」と「元気な/健康な 人」という対になる表現の「〜の/な」の使い分けがあります。

その人の身体の状態を表すちょうど反対の概念なのですが、「病気」は「病気な人」とは普通言いません。「病気の人」と言います。
それに対して「元気・健康」は、名詞を修飾するには「〜な」の形を使います。
そこで、「病気」は名詞とされ、「元気・健康(な)」は形容動詞とされます。

ここで注意すべきことは、「病気」は<名詞だから>「〜の」の形で名詞を修飾する、と考えるのではない、ということです。<「〜の」の形で名詞を修飾するから>名詞と見なす、のです。
============引用終了

 ここでも、ある語が<名詞>であるか否かの根拠は、

>><「〜の」の形で名詞を修飾するから>名詞と見なす

と、語の機能に依拠しています。その結果、

>>「病気」は<名詞だから>「〜の」の形で名詞を修飾する、と考えるのではない

と、語の内容(意義)とは無関係に品詞区分がなされ、因果関係が逆転しています。それゆえ、

>>ここでもう一つ注意すべきことは、「元気・健康」は「〜の」の形で名詞を修飾することもある、つまり名詞でもある、ということです。「元気が出る・元気を出す・元気の源」「健康が大切だ・健康に気を付ける・健康の重要性」のように、名詞としての用法を持っています。
(「きれい・しずか・すこやか」などはそうでないので、名詞ではありません。)
形容動詞の中には、この「元気・健康」のように名詞としての用法を持っているものがあり、そのことが形容動詞と名詞との区別を複雑なものに見せているということがあります。//

と、「元気・健康」は「つまり名詞でもある」ことにされますが。しかし、<形容動詞>とされているのは「元気だ」「健康だ」という異なる形であり、活用を持つ語であることは全く無視されています。これは、形式との関係を無視した全く非論理的な展開でしかなく、「形容動詞と名詞との区別を複雑なものに見せている」ことになるのは論理的必然ということになります。

 結局、語とは何か、語の活用とは何かという本質を明らかにしない限り、単に用例という機能や形式を基に品詞を判定しようとしても現象に振り回されるだけで、論理的な兼用などできないということになります。

 対象の本質を捉えることができずに、機能に基づく論理を展開し、形式の相違を無視した論理を展開するのでは混乱を招くのは論理的必然という他ありません。
 
 このブロガーは辞書の<形容動詞>の説明を機能主義的な発想により批判、検討していますが、当然ながら何の結論も出ない、現象の解説に終わる結果になっています。それについては、別途Topiを立てることにします。◆


 

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