ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

エディット・ピアフの人生コミュの42、北南米ツアー 〜 「群衆」を見出す

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
56年のオランピア公演が済むとエディットは9月にNYを皮切りに、翌57年の8月まで11ヶ月間のツアーへと旅立ちました。ここまでの長い国外ツアーは彼女にとっても初めての経験でした。

 その間、57年の1月には再び前年と同じくカーネギーホールへ登場しました。
 エディットは歌のうまさや完成度による人気のみならず、外国人に対するステージマナーもよく、音楽評論家の蒲田耕二氏もライナーノートで述べておられますが、「一曲一曲の歌を始める前に、きちんと英語で解説している。いま日本に来る外国人歌手でいったい誰がそのような行動に出るだろうか」と。
 もともと、どんな歌手にとってもそうなのですが、エディットは海外公演の場合、必ず現地の言葉に合わせた歌詞や歌い方を工夫することを大事にしていました。
 前述した通り、ここでの公演内容がほぼ完全な形の記録として残っていたものが、約20年後の1980年代に見つかり、市場にも出され大きな反響を呼びました。歌そのものだけでなく、プログラムの構成や観客の反応なども細かに録音されています。例えば「アコーディオン弾き」や「道化師万歳」といったヒット曲の紹介をエディットが英語で語り始めただけで拍手が起こる人気ぶりや、エディット自身が次曲の紹介を語っている内にイントロ演奏を始めた楽団に向かって「ちょっと!ココが一番大事よ。」と英語で軽くたしなめ観衆の笑いを誘う様子などが鮮明に記録されています。


 この公演後、エディットは恒例となった「エド・サリヴァン・ショー」への出演やカナダ、シカゴなどでの公演巡業を重ねました。折しも、この間になりますがエディットは57年の5月15日に、5年間連れ添ったジャック・ピルスとの離婚を届け出ています。発表そのものは前の年に行っていました。しかし離婚後もジャックとは共演もしており、お互いに憎んで別れたのではないようです。後に記したエディットの自伝にも、麻薬中毒から救ってくれたジャックに対し、彼女は感謝の言葉を述べています。



 さらに、3月にはアルゼンチン、リオデジャネイロ、ブラジルなど南米を廻りました。
 このアルゼンチン、ブエノスアイレスでの滞在の頃と思われますが、エディットは現地である曲を耳にし、その曲にインスピレーションを感じました。
 曲の題名は「Que Nadie Sepa Mi Sufrir」(誰も知らない私の悩み)。

 この曲は、実際には1953年に発表されたもので、アルフレッド・デ・アンジェリス楽団(歌:カルロス・ダンテ)でヒットしました。アンヘル・カブラル(1911〜?)が作曲、エンリケ・ディセオ(1893〜1980)が作詞しました。
 長い間、この曲は「バルス・ペルアーノ」(ペルー風のワルツ)という名前から、ペルーで作られたものと伝えられてきましたが、最近になって実のところはアルゼンチンで作られたということがわかってきました。作詞者のエンリケ・ディセオはアルゼンチンでも著名な作詞家で、タンゴなどの曲の詞を主に手がけました。一方、作曲家のアンヘル・カブラルについては自身が歌手であるということも生かして作曲にも取り組むようになり、やはり数曲のタンゴを作ったことで知られています。また更に最近わかったのは、この歌詞もカブラルとディセオがふたりで共作しているということのようです。
 詞の内容は
「愛する人 あなたが私を愛さなくなったとしても心配いりません 他人はそんなこと誰も知りはしないでしょうから 人々は私をあざけることでしょう 誰も私の悩みを知らない・・・」
という失恋を歌ったものです。
 8分の6拍子の速いテンポの中に複雑で激しいリズム、起伏がありながら流れるように展開するメロディー。普段のレパートリーにはないこのような新鮮な曲を、エディットはぜひ歌ってみたいという手応えを感じたことでしょう。早速エディットはフランス語への翻訳をミシェル・リヴゴーシュ(写真)に依頼しました。
 リヴゴーシュは1923年生まれ(2005年に死去)。作詞家としては以前、ドーヴィルのシャンソンコンクールでリーヌ・アンドレスが歌い、エディット・ピアフ賞を取って優勝した「メア・キュルパ」(のちにエディット自身もレコーディング)を作詞したことから、この大歌手とのつながりが生まれました。以来、リヴゴーシュはエディットの歌手活動に大きな影響を与えます。特に1958年のオランピア公演では彼の作詞が大幅に起用され、名を上げました。
 リヴゴーシュは、この曲の翻訳依頼に応え、早速いろいろと訳詩を手がけたもののなかなかエディットのOKが出ず、なんと10回も書き直しを命じられたといわれています。そうしたなかからということなのか、苦心を重ねた上に生まれた新曲
「La foule」(群衆)
は、原詞とは意味が違う、新しいストーリーをもったシャンソンとして生まれ変わりました。
 エディットはようやくできあがったこの歌を、フランス帰国後に開かれる予定の3回目のオランピア凱旋公演の目玉として取り上げることを、すでに決意していたのでした。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

エディット・ピアフの人生 更新情報

エディット・ピアフの人生のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング