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エディット・ピアフの人生コミュの61、最後の舞台?

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 ボビノ座はパリのモンパルナスにある小規模の劇場です。
パリにはオランピアのような大劇場の他に、小さな劇場も数多く存在しました。ボビノはその一つで、エディットも若い時分からよく出演していました。
しかしシャンソンは時代とともに少しずつ形を変え、それにともなって大体1980年頃から、多数の観客を収容できる体育施設等(パレ・デ・スポール、パレ・デ・コングレなど)に次第に会場が変わってきています。日本での歌謡曲のコンサートが、劇場から日本武道館、そしていまアリーナなどで行う流れと似ています。


 エディットはボビノ公演について、新曲のレッスンに余念がありませんでした。
 自身の再起であると同時にテオの本格的なデビュー公演でもありました。(写真左)この公演は二人のリサイタルとして位置づけ、テオのレパートリーに関しては、全曲とも作詞はエディットが担当しました。そこに彼女のいわゆるプロデューサーとしての意気込みが感じられます。
 作家陣にも新たなメンバーを加えいくつかの曲が出揃いました。 

 女性作詞家のミシェル・ヴァンドームや歌手でもある女性作曲家のフローランス・ヴェラン、ロベール・ギャルです。ロベール・ギャルの娘はのちに歌手としてデビューし、「夢見るシャンソン人形」などのヒットで、新たなフレンチ・ポップス界のアイドルとなったフランス・ギャルです。
 テオのレパートリーには、フランシス・レイが作曲した「LES MAINS(手)」ロベール・ギャルとフローランス・ヴェランの「LA BANDE EN NOIR(黒いベルト)」などの新曲が並びました。
 中でも「UN DIMANCHE A LONDRES(ロンドンの日曜日)」という歌は、エディットがバックヴォーカルを務めたデュエットとしてのレコード録音が残されていますが、ボビノではソロで歌いました。(写真中)

 ボビノ公演の特徴は、全体に短めな曲が多く、伴奏体制も小規模なのですが、それが逆に聴きやすく、半年前のオランピア62公演の時よりも声が安定した印象を受けます。
 実際、この時の公演を聴いた関係者が大いに感激して、これを機にカナダやロスアンゼルス、そして日本でのコンサートを提示してきたというエピソードが残されています。また、アメリカ大統領からホワイトハウスへの招待があったという話もありました。もしほんとうに日本公演が実現していたら、エディット・ピアフの日本公演も夢ではなかったと思うと全く残念です。
 また、フランシス・レイの成長も著しく、やや難解なシャンソンから力みが抜け、将来の大作曲家へつながる片鱗が聞き取れるようです。
 ピアノ担当であり、伴奏指揮者のノエル・コマレは指揮者としては初めての起用でした。さすがにエディットのレパートリーでは伝統的なアレンジスタイルを保っていますが、テオの出番では、この頃はやりだしたロックンロール的なアレンジを試みています。



 果たして、このボビノ公演はまたも大変な観衆達の熱気を受けながら1963年の2月21日から3月13日までおこなわれ、盛況のうちに幕を閉じました。
 この公演もライブ録音され、二人の連名のレコードも発売されました。(写真右)

 エディット・ピアフはいつも奇跡を起こし、すべてにおいて許され受け入れられる、実に稀有な存在の歌手でした。
 もし、この好調が続けば、まだエディットの歌声は響き続けたことでしょう。

 しかしながら、パリでの公演はもうこのボビノの舞台が人生で最後の公演となってしまったのでした。
そして、このボビノの楽日から半月後のの1963年3月31日、フランス北部にあるリール市のオペラハウスにて行ったリサイタルが、エディット・ピアフの47年の歌手人生における、最後の舞台でした。


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