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ラテン(イベロ)アメリカ文学コミュのニホンのラテンアメリカ文学の歴史とその影響

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 周知のようにラテンアメリカ文学は、50年代から80年代ぐらいにかけて、世界文学のなかでも際立った存在感をみせつけた。
 そしてその影響はおそまきながらもニホンにまで及ぶことになる。
 英文学者系のひとは、海外での世評に惹かれてラテンアメリカ文学に近づくことになる。
 たとえば篠田一士とか丸谷才一といった面々であろうか。
 その一方で、ニホンの文芸編集者も、ラテンアメリカ文学の魅力を感じ取り、雑誌などで特集したり、あるいは知り合いの作家たちに吹聴したりする。

 おそらくラテンアメリカ文学云々以前において、たとえばボルヘスとかネルーダは、個人的な価値で単独に読み手を集めていたことと思う。
 しかしニホンではラテンアメリカ文学への傾倒(とその醒め具合)が急激であったようにみえる。

 ちなみにわたしの知っている範囲内では、はじめて文芸雑誌にてラテンアメリカ特集を試みたのは、71年の「文藝」の9月号で、寺田博名編集者のした、鈴木孝一が担当したという。
 七人のラテンアメリカの作家が取り上げられた。

筒井康隆もある時期から、ラテンアメリカ文学通を標榜するようになる。
 しかし筒井らにラテンアメリカ文学の魅力を教えたのはこれも名編集者であった塙嘉彦である。
その筒井が、このところ朝日の読書欄にて読書コラムを担当しており、いままでに二度、ラテンアメリカの作家を取り上げたので、それを採録。


遊戯の終(おわ)り [著]コルタサル
[掲載]2010年5月23日
• [筆者]筒井康隆(作家)
■夢や虚構が現実に勝つ
 国書刊行会から出ていたラテンアメリカ文学叢書(そうしょ)の、ぼくが読んだ最初の一冊が木村栄一訳、フリオ・コルタサル『遊戯の終り』だった。この短篇(たんぺん)集はまさにぼくの当時の文学的思考を実現させたものだった。短篇のそれぞれがぼくの考えのそれぞれを表現していた。それまでの小説にはない奇妙な考え、しかもぼくと同じ考えを持っている南米の作家の存在はぼくを驚かせた。
    ◇
 現実の中に夢が侵犯してくる「河」「水底譚(たん)」「夜、あおむけにされて」などは、まさにぼくが以前から思っていた夢の芸術的価値を証明していた。「河」では、「セーヌ河に身投げしてやるわ」が口癖の愛人と寝ていた主人公は、覚醒(かくせい)してみると今まで夢うつつの中で抱きしめていた愛人がすでに溺死(できし)していることに気づく。「水底譚」では、夢の中で主人公の見た溺死体が、実は自分の溺死体であったことを知る。「夜、あおむけにされて」では、病院にいる主人公が、モテカ族の戦士となり、何度も処刑されるに至る夢を見るうち、本当に処刑されそうになってやっと、実は病院にいる方が夢であったと気づく。このテーマではぼくもすでに「だばだば杉」など何篇もの短篇を書いていたし、のちに長篇『パプリカ』を書くことにもなるのだ。
 現実と虚構の対立というテーマもぼくが以前から考えていたことだった。「続いている公園」では、殺人を犯そうとして公園から走り出た男の話を読んでいる主人公は、公園から走り出て家の中に入ってきたその男に背後からナイフで殺されてしまう。「誰も悪くはない」では、なかなかセーターが脱げなくて苦しんでいる主人公がついにセーター相手に大立回(たちまわ)りを演じた末、自分の手が反逆しているという妄想に駆られて十二階の窓から飛び出してしまう。「殺虫剤」や「いまいましいドア」などもやはり主人公たちの妄想が現実を侵犯し、「山椒魚(さんしょううお)」では水族館のアホローテに魅せられた主人公が、ついには自分を見つめている少年をガラスの内側から眺めるに至る。こうした作品に刺激を受け、ぼくは「野性時代」誌に「虚構と現実」というエッセイを連載し、のち、それを作品化した「虚人たち」という作品を「海」に連載することになる。当時の「海」の編集長は故・塙嘉彦であり、彼は大江健三郎の示唆を受けてぼくに原稿を依頼してきたのだった。
    ◇
 これまでの、現実と夢との対立では夢が勝ち、現実と虚構では必ず虚構の側が勝ったように、狂気と正気の対立ではもちろん狂気が正気に勝つことになる。「バッカスの巫女(みこ)たち」ではオーケストラに熱狂した観客が舞台にあがって楽器を破壊し、指揮者を連れ去り楽団員に大怪我(けが)をさせる。「黄色い花」はバスで見かけた男の子を自分の生(うま)れ変(かわ)りだと信じた男の話である。この狂気のエスカレートというテーマはぼくもすでに「『蝶(ちょう)』の硫黄島」など何篇かで書いている。狂気は必ず現実を侵犯して勝つ、というのもコルタサルと同じだ。そして、のちに翻訳された彼の最高傑作『石蹴(け)り遊び』という無限循環形式の長篇に、ぼくは仰天することになるのである。
    ◇
 1977年、国書刊行会から刊行。90年に新装版も。古書か図書館で。
http://book.asahi.com/hyoryu/TKY201005250191.html



族長の秋 [著]G・ガルシア・マルケス
[掲載]2010年6月20日
• [筆者]筒井康隆(作家)
■南米作家たちによる洗礼
 ノーベル文学賞を受賞したマルケスの『百年の孤独』は、ラテン・アメリカ文学が多く含まれている「新潮・現代世界の文学」シリーズの、他の多くの作品と共に、ぼくは彼が受賞するずっと以前に読んでいた。翻訳者の鼓直はその解説で、まだマジック・リアリズムという言葉こそ使っていないが「戯画化やデフォルメを可能にして笑いを巻き起(おこ)す、作品中の現実的な要素と非現実的・空想的な要素とのかかわり方」について、「前者と後者は何らの異和もなく共存していて、その鍵は文体にある」と書いている。ぼくが大きく影響されたのもまさにそれだった。
    ◇
 受賞の翌年、集英社の「ラテンアメリカの文学」の一冊として『百年の孤独』の次に書かれた『族長の秋』が、同じ鼓直の訳で出た。ベストセラーになった『百年の孤独』の大衆性に比べてこれは時間の進行やエピソードが錯綜(さくそう)していて難解だった。しかしぼくはこの作品の方が明らかに現代文学として先鋭的であると思ったし、何よりも超現実的な挿話が優れていた。カストロと親交があったマルケスは前作と同様、ここでも独裁という権力の本質を鋭く追究しているのだが、その方法は極めてシュールである。のっけから独裁者の死で始まる時間の逆行に加え、大統領府のバルコニーを牛が歩いていたり、列車がレールの上で眠りこけている猿や極楽鳥やジャガーを蹴散(けち)らして走ったりするという描写の連続だから、ちょっとついて行けない読者も多かっただろう。
 大統領府に大浪(おおなみ)が押し寄せてエボシ貝が鏡にびっしり張りつき、鮫(さめ)が狂ったように謁見(えっけん)の間を泳ぎ回る。どうしても治らない男色を恥じて、尻の穴にダイナマイトを突っこみ、はらわたを吹っ飛ばす将軍。不穏な歌を歌うオウムを、政府転覆をたくらんだというので杭(くい)に縛りつけて銃殺にする。多雨地帯では陸の動物たちが歩いているうちに肉が腐り、タコが木々のあいだを泳ぐ。弾薬を節約するために十八人の将校を二人ずつ重ねて銃殺にする。子供の撃った反動砲で海のはらわたが引っくり返り、かつての奴隷貿易港の広場にテントを張っていた動物サーカスは吹っ飛び、投網にかかった象や溺死(できし)した道化が引き揚げられ、空中ブランコに放り上げられたキリンが引き降ろされる。貧民窟(ひんみんくつ)の露地をとことこ入っていった驢馬(ろば)が、反対側から骸骨(がいこつ)になって露地を出てくる。こうしたシュールな笑いも、独裁者たる主人公の暴虐に満ちた行為の描写との相関によって、そうしたこともあり得たかもしれないと思わされてしまう。
    ◇
 「パリへ行き、現代文学の洗礼を受けた彼が故郷のコロンビアに帰って来て見れば、そこはもうシュール・リアリズムそのものの地だったんですね」と、故・塙嘉彦はぼくにレクチュアしてくれたのだったが、これはマルケスだけに限らなかった。次つぎに読んだカルペンティエール、リョサ、ドノソ、カサーレス、プイグ、多くのラテン・アメリカ文学の旗手たちの作品群はぼくに、自分も含めた日本の作家がいかに遅れているかを教えてくれたのだった。
    ◇
 1983年、鼓直訳で集英社から刊行。現在は新潮社から他6編と合わせて刊行。

http://book.asahi.com/hyoryu/TKY201006220213.html

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