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ラテン(イベロ)アメリカ文学コミュの新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏

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(今年、毎日新聞にてこんな連載があったことを今になって知る)


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/8 セルヒオ・ピトル=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年02月23日 東京朝刊


 ◇メキシコ現代文学の醍醐味

 メキシコは、20世紀のスペイン語圏において最も豊かな小説文学の「伝統」を築き上げた国かもしれない。1910年の革命に始まり、60年代の高度経済成長、それに続く失速を経て、2000年の政権交代に至る現代史、その流れに沿う形で、時代ごとに政治・社会的状況を的確に反映する作品が発表されてきた。

 革命の動乱を描き出したマリアノ・アスエラの「虐げられし人々」(15年。邦訳収録は学芸書林『全集・現代世界文学の発見 第9巻』、70年、品切れ)、農村部の荒廃を背景にしたフアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」(55年。邦訳は岩波文庫、92年)、急激な都市化をテーマとしたカルロス・フエンテスの「澄みわたる大地」(58年。邦訳は現代企画室から来月刊行予定)、停滞に伴うノスタルジーを映し出したホセ・エミリオ・パチェーコの「砂漠の戦い」(81年。邦訳収録は集英社文庫『ラテンアメリカ五人集』、95年)。メキシコ文学を特徴づけるのは文壇の求心力であり、作家たちは、友情、怨恨(えんこん)、ライバル心、様々な形で相互に影響を受けながら創作を進めている。後進の作家は、時に先達の指導を仰ぎ、時に反発しつつ、前世代の業績を引き継ぎながらそれを乗り越えていく。

 こうした状況にあって、「ブームの世代」と世紀末に台頭する新世代の繋(つな)ぎ役となったのが、33年プエブラ生まれのセルバンテス賞作家セルヒオ・ピトルである。メキシコ小説の「伝統」を引き継ぎながら彼は、そこに広範な外国文学の知識を持ち込むことで新たな道を切り開いている。幼少から現在まで絶えず世界文学の名作を読み続け、27年にも及ぶ海外生活で得た知識と語学力を糧に、これまで40にのぼる文学作品のスペイン語訳と、20冊近い小説・評論集を積み上げてきた。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/8 セルヒオ・ピトル=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年02月23日 東京朝刊


 『愛のパレード』(邦訳は現代企画室、2011年)において、デル・ソラールというイギリスで大学教員を務める歴史家が主人公に選ばれるのは偶然のことではない。小説と現代史が緊密に結びつくメキシコ小説の本流を汲(く)んでいるのはもちろんだが、この人物によって作者の膨大な知識を物語に注ぎ込むことが可能になる。幼年期に隣家で起こった殺人事件をめぐって鋭い洞察力で歴史的調査を進めていく彼は、やがてメキシコ現代の抱える深刻な問題の数々に行き当たる。小説を読むことでメキシコ社会への理解を深め、歴史・政治問題への興味をそそられる、そして、メキシコへの理解が深まれば小説をさらに楽しく読むことができる。『愛のパレード』はそうしたメキシコ現代小説の醍醐味(だいごみ)に満ちた作品だと言えるだろう。(フェリス女学院大准教授)=毎週木曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇「ブーム」と違う潮流

 現在病気療養中のため、思うように言葉も出てきませんが、私の代表作『愛のパレード』が日本語に訳されて大変嬉(うれ)しく思います。

 この20年というもの、ラテンアメリカの小説は劇的な変貌を遂げました。コルタサル、フエンテス、バルガス・リョサ、ガルシア・マルケスといった名前は、日本でも知られていることと思いますが、現在文学界を賑(にぎ)わせているのは、そうした「ブームの世代」とは違った潮流に属する作家たちです。

 チリのロベルト・ボラーニョ、グアテマラのロドリゴ・レイローサ、メキシコのマリオ・ベジャティン、コロンビアのフアン・ガブリエル・バスケス……。今後そうした作家たちの日本語訳がますます進行していくことを祈っています。




新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/9 ロドリゴ・レイローサ=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年03月01日 東京朝刊


 ◇「ラテンアメリカ臭さ」を脱して

 2003年、新世代の旗手だったロベルト・ボラーニョが創作の絶頂期に急逝したものの、前世紀末からスペイン語圏の文学は順調に世代交代を続けている。すでにこのコラムでも紹介したハビエル・セルカスやオラシオ・カステジャーノス・モヤのほか、フアン・ビジョーロ(メキシコ)やセサル・アイラ(アルゼンチン)といった1950年代生まれの作家たちはもちろん、フアン・ガブリエル・バスケス(コロンビア)のようなもっと若い世代も着実に脚光を浴び始めている。日本も含め世界中の文学に精通し、語りの手法にも習熟した彼らの小説作品は、ラテンアメリカの特殊性を売り物にすることもなければ、手法的実験をひけらかすこともなく、それぞれに独自の文学的地平線を切り開いている。

 そうした新世代のなかで最も「コスモポリタン」な存在と目されたのは、58年グアテマラ生まれのロドリゴ・レイローサだが、邦訳を担当した杉山晃氏が嘆いておられたとおり、長い間その人物像は謎に包まれたままだった。82年にモロッコでポール・ボウルズに才能を見出(みいだ)され、彼自らの英訳によって文壇にデビューした作家、この伝説めいた触れ込み以外、90年代末までロドリゴの伝記的事実はほとんど何も知られていなかったのである。事実、彼は人前で話すことを極度に嫌がる作家であり、講演などはほとんど引き受けないし、インタビューに応じることも少ない。国際交流基金の招聘(しょうへい)に応じて来日した際、エスコート役を務めた私も最初は非常に不安だったが、直接会ってみると大変気さくな方で、日本食を楽しみながら文学談議を交わす姿が印象に残った。現在は、故国で比較的平穏な生活を送っているようだ。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/9 ロドリゴ・レイローサ=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年03月01日 東京朝刊


 モロッコを舞台にした彼の代表作『アフリカの海岸』(現代企画室、2001年)は、実に爽快な読後感を残してくれる。中心人物の一人がコロンビア人とはいえ、そこにガルシア・マルケスのような「ラテンアメリカ臭さ」はまったくないし、バルガス・リョサのような凝った文体や形式もない。といって、モロッコの物珍しい風物を前面に押し出しているわけでもない。幼少から世界を旅し、時にはボラーニョを驚愕(きょうがく)させるほどの冒険をしたロドリゴの文学には、もはや特別な国など存在しない。モロッコ人、コロンビア人、フランス人が次々に登場し、一匹のフクロウをめぐって淡々と進む物語は、独特の哀愁に満ちた世界を作り上げていく。ラテンアメリカ文学への「先入観」を打ち破るには絶好の作品かもしれない。(フェリス女学院大准教授)=毎週木曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇タンジェとの別れ

 最初に訪れてからほぼ20年後、タンジェを後にすることを決意するまで、この町を舞台にした小説を書くことなど思ってもみませんでした。私が作家になったこの町について、個人的記録のようなものを残しておきたいと思いついたのです。そのせいか、主人公のコロンビア人が遭遇する冒険には、ノスタルジーの前触れが感じられるかもしれません。毎日のように通った中心街の狭い通りや地中海の眺め、遠い昔に戻ったような街角、もうそんなものを再びこの目で見ることはないかもしれません。

 モロッコを離れてはや11年になりますが、聞くところでは、タンジェの町はすっかり様変わりしたようです。今思い出すと切なくなりますが、別れの儀式のようにこの小説を書いておいたおかげで、それが少し和らぐような気がします。





新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/10 サンティアーゴ・パハーレス=ナビゲーター・内田兆史

毎日新聞 2012年03月08日 東京朝刊


 ◇もがく若者たちを爽やかに

 マドリードのプラド美術館は開館以来はじめて、存命中の画家の作品を収蔵することになった。除幕式のさなか、老いた画家はスペイン絵画の至宝居並ぶ壁に掛けられた自作を見て、愕然(がくぜん)とする。そして、外界とのパイプ役を務めてきた息子に、絵を取り戻したいと告白する。

 このように幕を開けるサンティアーゴ・パハーレスの新作『キャンバス』(ヴィレッジブックス、2011年、原著は09年)は、芸術家と作品との関係−−美術館に収蔵されている絵はだれのものか−−をめぐる話を縦糸に、父と息子の複雑な絆を横糸に紡いだ小説だ。ただ一人を除いて誰もその正体を知る者のいない小説家を捜す物語『螺旋(らせん)』(同社、10年、原著は04年)と同じく『キャンバス』もまた、プロットと人間模様とが絡み合うにつれ、時間を忘れて読みふけってしまう作品である。

 作者パハーレスは1979年マドリード生まれ、スペイン文学のもっとも若い世代に属している。「文章を書くのは好きだったけれど、20歳の頃ですら、自分が作家になるなんて考えたこともなかった」と言う。大学を出たのち、コンピューター関係の仕事をするかたわら、短篇を書いては友人に読ませたり、ショートフィルムの脚本を書いていた。やがて長篇小説に取り組んでみようと思い立ち、それがデビュー作『螺旋』となる。第3作にあたる『キャンバス』を書き始めるにあたって専業作家になったというから、これからの作品が楽しみだ。

 作家自身の若さが反映されているからであろうか、もがき苦しんで生きる若い登場人物たちの、そのじれったさも含め、明るさ、爽やかさが気持ちいい。いっぽうで「絵画というのは、画家が自分と同じようにものを見るようにと貸し与えるメガネのようなもの」といった芸術論をぶつ画家をはじめ、初老の登場人物たちがまた魅力的で、人物造形の妙を感じさせる。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/10 サンティアーゴ・パハーレス=ナビゲーター・内田兆史

毎日新聞 2012年03月08日 東京朝刊


 彼の作品には、ときに屈折しているとはいえ、愛や友情、優しさ、といったものがあふれ、読んでいて、包み込まれるような気分になる。尋ねてみると、読書とは愛のかたちのひとつ、読者から作者への時間のプレゼントだからだと思う、という答えが返ってきた。なるほど、彼の作品の温かみは、物語という贈り物と、読書という贈り物、作者と読者の目に見えぬ交歓の結実なのかもしれない。

 <作家本人から>

 ◇生は一枚の絵

 一枚の絵画がその作者自身の手によって盗まれたらどうなるだろう、そんなアイデアから小説が生まれるのはとても不思議なことです。もっと不思議なのは、そうしたアイデアが、父親と息子の関係の難しさを物語る口実になりうることです。

 ところがさらに不思議なのは、一冊の小説が、あなた自身の人生を理解する助けになるかもしれないということです。わたしたちはみんなそれぞれに絵画であり、そこに絵を描いているのは自分自身だけではありません。ときには自分が染みだらけの絵であるように感じたりもする一方で、まさにそこにこそポエジーが、おもしろさが、詩的な感動があると人に思ってもらえたりもするのです。近くからつぶさに観察するか、遠くから眺めるのか、その距離の問題にすぎないこともよくあるのですから。





新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/11 フリオ・リャマサーレス=ナビゲーター・内田兆史

毎日新聞 2012年03月15日 東京朝刊


 ◇水の中に生まれる音楽のように

 フリオ・リャマサーレスは1955年、スペイン北部のベガミアンという山間の村で生を受けた。大学の法学部を出てからマドリードでジャーナリズムの仕事をし、70年代後半から詩人として活動したのち、小説を書くようになった。紀行文やエッセイなどでも名が知られている。

 彼が2歳まで過ごしたベガミアンは、60年代後半にダム湖の下に沈み、消失する。「小説は思いつくものではありません、熟した果実のように自分の重みで落ちてくるものなのです」と語るリャマサーレス。いままさに消えていこうとしている村というテーマが、彼を選んで落ちてきたのだろう。『黄色い雨』(ヴィレッジブックス、2005年、原著は88年)は、発展の一途をたどってきたスペインの都市部や沿岸部と対照をなしながら山間部各地で消えていった村へのエレジーである。忘却と死に脅かされた世界で、もはや闘う力も残されていない最後の人間が、自らと自らの世界の末路を語りつつ、それでも記憶と時間を支える存在となる。彼が生きているからこそ、いまだに村に時間が流れているのであって、生者の記憶なしにはさまよう亡霊すら存在しえない。

 スペイン内戦で敗走した人民戦線の兵士たちの行く末を描いたデビュー作『狼(おおかみ)たちの月』(同社、07年、原著は85年)にせよ、この『黄色い雨』にせよ、商業的には成功するはずがないだろうという作家本人の予想を大きく裏切り、国境を越えて受け入れられている。スペイン北部の寒村を描きながら、ヨーロッパ各国で翻訳が出されるほどになったのは、リャマサーレスの詩人としての視線、詩人としてのことばによるところが大きい。彼は、見ているものにひとつの主観的枠組みを適用することを詩的行為と呼び、この土台なしに文学は成立しないと言っているのだ。




新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/11 フリオ・リャマサーレス=ナビゲーター・内田兆史

毎日新聞 2012年03月15日 東京朝刊


 『黄色い雨』では、耳を聾(ろう)する静寂、凍(い)てつく静寂が圧倒的な力を行使している。そして聞こえてくるのは雨音、家の崩れる音、白蟻(しろあり)の歩く音、死んだ者たちの囁(ささや)き、すなわち、時間が自らを蝕(むしば)む音だ。「川が石を磨き、やがて水の中に、ある音楽が生まれるように、作家はことばを磨き、やがてそこから音楽と詩が生まれてくる」というリャマサーレスの言葉通り、彫琢(ちょうたく)されたことばが、悲愴(ひそう)な風景に音楽的な美しさを醸し出す。冒頭に添えられた「アイニェーリェ村は存在している」という但(ただ)し書きは、彼のことばから生まれてくる幻想的な世界が、過酷な現実に基づいていることを読者に思い出させてくれる。(明治大専任講師)=毎週木曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇日本人への文学

 誰のために書いているのかと尋ねられて、日本の読者に向けてだと答えたことが何度かあります。誰かのことを、とくに自分のそばにいる読者のことを考えて書いているわけではないと説明する必要があったからです。

 ですから、私の小説が日本で紹介されたときの悦(よろこ)びは、今も鮮やかに覚えています。私の物語と私の語り方が、精神性や歴史を異にする人々に興味をもってもらえる、それがわかるだけで、自分の努力は無駄ではなかった、すぐそばで起きている現実について語りながらも世界中に向けて語ることが可能なのだ、そう思えるからです。ときおり作家たちの間で蒸し返される、地域性と普遍性をめぐるまやかしの議論において、私は19世紀のロシアの小説家たちのように、世界のことを語る最良の方法は、自分の村の瓦一枚がどんなものか語ることだと考える人間でありたいと思っています。





新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/12 ベルナルド・アチャーガ=ナビゲーター・金子奈美

毎日新聞 2012年03月22日 東京朝刊


 ◇真摯に問い続ける文学の可能性

 ベルナルド・アチャーガ(1951年生まれ)は、バスク語で書くスペインの作家である。バスク語というのは、スペイン北部とフランス南西部にまたがるバスク地方固有の言語で、周囲のロマンス諸語とも、世界のいかなる言語とも類縁関係をもたない。その孤立した言語で書かれた『オババコアック』(中央公論新社、2004年)が、89年にスペイン国民文芸賞を受賞したことは大きな反響を呼び、世界各国語への翻訳が相次いだ。99年には英紙『オブザーバー』で「21世紀に活躍が期待される書き手」に選ばれるなど国際的な評価も高く、今日のスペインを代表する作家の一人である。

 アチャーガ文学の原点と言える『オババコアック』では、架空の村オババ(タイトルはバスク語で「オババの人々、物事」の意)を主な舞台に、農村と都市、人間の孤独や疎外、記憶と語りといったテーマが、緩やかに繋(つな)がり合うストーリーの数々を通して語られる。80年代に発表された短篇(たんぺん)群から2003年の長篇小説『アコーディオン弾きの息子』までアチャーガ作品の主要な舞台として登場するオババは、近代化以前の「古い世界」の佇(たたず)まいを残す、幻想的な空間だ。迷信や非合理的なものの見方が根強く残るその村で、しばしば余所者(よそもの)である登場人物たちは次第に理性と現実感覚を失っていく。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/12 ベルナルド・アチャーガ=ナビゲーター・金子奈美

毎日新聞 2012年03月22日 東京朝刊


 オババはまた、伝統と近代、そして現代の文学との対話が生まれる小宇宙でもある。『オババコアック』でとりわけ愉快なのは、バスクの民間伝承をはじめ、『千夜一夜物語』、チェーホフ、モーパッサン、ボルヘスなど古今東西の文学に言及しながら、登場人物たちの間で展開される文学談義だ。文学的伝統に乏しい少数言語の書き手として、いかに新しい文学を生み出していくことができるかを問う作者は、そこである人物の口を借りて、世界のあらゆる伝統を我がものとする「剽窃(ひょうせつ)」を正当な文学的戦略として主張するに至る。

 こうして文学の可能性を常に問い続ける真摯(しんし)さや独特のユーモア、思わず引き込まれる物語の巧みさがアチャーガの魅力だ。この他にもバスクのテロリズムの問題を扱った90年代の2部作、ベルギー領コンゴを題材としたブラックユーモア溢(あふ)れる『フランスの七つの家』(09年)など、バラエティに富んだ小説を次々と発表しているだけに、ぜひ多くの人に読んでいただきたい作家である。

 <作家本人から>

 ◇文学理論の「発明」

 かつて伊ナポリ考古学博物館を訪れた時、ポンペイのフレスコ画に描かれていた少女たちの遊びに目を見張りました。なぜなら、それから2000年経(た)った当時でも、バスクの農村の女の子は同じ遊びをしていたからです。そこで気づかされたのは、世界は2000年の時を経ても、テレビが出現してからのこの50年に比べれば、さほど大きく変化したわけではないということでした。そこから『オババコアック』のもととなるアイデアの一つが生まれたのです。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/12 ベルナルド・アチャーガ=ナビゲーター・金子奈美

毎日新聞 2012年03月22日 東京朝刊


 私は自分の生まれたバスク地方について、それがあたかも古代の世界であるかのように語る必要がありました。オババの村は、フロイトもマルクスも存在しない世界です。ですが、この作品を書き上げるために、私はある文学理論を「発明」しなければなりませんでした。本の中で、剽窃やその他の文学的問題が語られているのはそういうわけなのです。



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新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/13 マリオ・バルガス=リョサ=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年04月16日 東京朝刊


 ◇思春期の力溢れる世紀の文学

 1960年代初頭、バルセロナの有力出版社セイス・バラルの責任者だったカルロス・バラルは、自分の仕事にすっかり嫌気がさしていた。フランコ独裁政権の検閲を気にしながらの編集、スペイン人作家の低迷、毎日同じ作業の繰り返し……。そんなある日、書庫に眠っていたボツ原稿の山をでたらめに探り始めた彼は、3番目に手にした草稿に直感的な興味を覚え、心を決めて最初から読み始める。<「四だ」ジャガーが言った。>この書き出しから物語に引き込まれたバラルは「たった数ページで世紀の大発見をしたことに気づいた」と、後に語っている。

 作者の名はマリオ・バルガス=リョサ、1936年生まれ、パリ在住のペルー人。勇みたってその住所を訪ねてみると、そこは場末のボロアパート、出てきたのは口髭(くちひげ)の目立つ、「タンゴ歌手のような」風貌の男だった。この「疑(うたぐ)り深い目つきの」男をやっとのことで説得し、同出版社の主催するビブリオテカ・ブレベ賞に応募させたカルロス・バラルこそ、バルガス=リョサ、そしてラテンアメリカ文学の世界的成功を陰で支えた仕掛け人だった。彼の目論見(もくろみ)どおり、この作品、『都会と犬ども』は審査員の満場一致で受賞作に選ばれる。最新の長編『ケルト人の夢』(2010年)まで、すでに半世紀も続いているバルガス=リョサの長い作家人生の始まりだった。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/13 マリオ・バルガス=リョサ=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年04月16日 東京朝刊


 彼の主要作品の邦訳は長い間、入手困難になっていたが、10年のノーベル文学賞受賞を機に、新潮社から『都会と犬ども』『世界終末戦争』、岩波文庫から『緑の家』『密林の語り部』、そして集英社文庫から「小犬たち」(『ラテンアメリカ五人集』所収)が再刊された。いずれも甲乙つけがたいほど素晴らしい出来栄えだが、『都会と犬ども』には他の作品に見られない新鮮な輝きが溢(あふ)れている。一言でいえばそれは、「思春期」の力ということだろう。でたらめな急成長の過程にあったペルーの首都リマで、厳しい軍隊式規律に耐える少年たちの姿が、一途(いちず)な情熱で創作に臨む駆け出し作家の手で描き出されていく。ひとたび過ぎ去ってしまえば二度と戻ることのない三つの過渡期が重なり、この作品に独特の緊張感を生みだす。

 今や大御所となった作家バルガス=リョサ、そしてその成功とともに世界的ブームへと駆け上がっていくラテンアメリカ文学。50年を経過した現在、両者の出発点へと思いを馳(は)せるのにこれほどふさわしい作品はあるまい。(フェリス女学院大准教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇空想・情熱・規律

 この物語を書くことができたのは、少年時代にアルベルトやジャガー、カバや奴隷のようにレオンシオ・プラド軍人学校の寄宿生活を体験し、その後、サルトルのアンガージュマン理論、マルローやロスト・ジェネレーションの作家、とりわけ我が師フォークナーの小説を読み漁(あさ)ったからです。

 あとは、空想と若者ならではの情熱、そしてフロベール的規律で題材を練り上げました。亡霊のようにあてもなく出版社を渡り歩いていた草稿が陽(ひ)の目を見たのは、セイス・バラルの編集者カルロス・バラルのおかげです。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/13 マリオ・バルガス=リョサ=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年04月16日 東京朝刊


 私のすべての作品のなかで、最も大きな驚きとなったのも、作家になるという幼少時代からの夢に現実味を与えてくれたのも、この『都会と犬ども』でした。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/14 ラウラ・レストレーポ=ナビゲーター、サンドラ・モラーレス

毎日新聞 2012年04月23日 東京朝刊


 ◇コロンビア史に組み込んだ虚構

 ラウラ・レストレーポは世界的にその名前が知られる数少ないコロンビア人女流小説家のひとりである。ジャーナリストであったレストレーポは、1980年代にコロンビア政府とゲリラの間の和平交渉に仲介者として参加、交渉が失敗に終わると脅迫を受け、コロンビアからの出国を余儀なくされる。亡命中、86年マドリッドで最初の小説を出版する。

 99年の作品『サヨナラ 自ら娼婦(しょうふ)となった少女』(現代企画室、2010年)は彼女の4作目の小説。物語が紡ぎ出される糸口は、語り手となる作中ジャーナリストが大規模なガソリン盗難事件のルポを書くため、石油基地のあるトーラという町を訪れたことにある。その町で語り手は石油会社労働組合の記録文書の間にひとりの少女の写真を見つける。その少女の名前が「サヨナラ」。小説の主人公となるこの少女は、読者を驚かせる決断力を発揮し、幼い身で娼婦となることを決意する。サヨナラが成長し、その仕事に精通していくなか、トーラの町もまた変わっていく。北米の石油会社が町にやってくると人々の暮らしや習慣は一変する。一時は仕事とあり余るほどの富に溢(あふ)れた町は、石油会社のスト封じが災いし、すさみさびれていく。語り手は少女の人生の物語を町の盛衰記に織り込んでいく。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/14 ラウラ・レストレーポ=ナビゲーター、サンドラ・モラーレス

毎日新聞 2012年04月23日 東京朝刊


 作品には類似の歴史的事件や、コロンビアのいくつかの町の名前を思い出させる仕掛けがちりばめられている。トーラは現在バランカベルメハと呼ばれるコロンビア有数の石油産出地の旧名。トーラの石油会社のストは、前世紀の20年代から30年代にかけて北米企業に対する現地労働者たちの最初の抵抗が始まった頃の記憶へと読者を誘う。こうして呼び起こされる背景が、虚構の物語をコロンビアの現代史に組み込むことを可能にする。まさに小説中スポットが当たる時代から始まり、現在もバランカベルメハはゲリラや民兵そして軍隊といった武装組織の対立の中心地のひとつとなっている。『サヨナラ』は虚構の力によって、今や混迷を極め、コロンビア中を震撼(しんかん)させている抗争の根が張り出す瞬間を描き出す。直截的(ちょくせつてき)でユーモアに溢れながらも、詩的な趣さえ漂わせるその語り口は親しみやすく、深層の主題がもたらす悲劇的な重さを和らげる愉快なエピソードもふんだんに盛り込まれている。=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇「サヨナラ」の行方

 サヨナラは生まれつき意志が強く手なずけられそうにない少女で、コロンビアの密林地帯で娼婦として働くことをひとりで決意します。慣習に従い、娼婦たちは客をとる部屋の扉に出身地に因(ちな)んだ色の灯(あか)りをともします。フランス女たちは赤、イタリア女たちは緑、国境周辺からやってきた女たちは青、地元の娼婦たちは白、先住民だったら黄色といった方式です。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/14 ラウラ・レストレーポ=ナビゲーター、サンドラ・モラーレス

毎日新聞 2012年04月23日 東京朝刊


 主人公は切れ長の大きな目をした先住民の謎めいた美少女です。この目の魅力を知る女将(おかみ)たちは、初の日本人娼婦が町にやってきたことを宣伝し、扉には見たこともない紫の灯りをともし、彼女たちが知っていた唯一の日本語「サヨナラ」を少女の源氏名にします。小説『サヨナラ』は日本語に訳され、紫色の装丁で読者のもとへ届きました。作者のわたしは、サヨナラが、彼女の名前がそこから来た遥(はる)かなる地へ無事辿(たど)り着けたのか、その行方を案じています。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/15 エベリオ・ロセーロ=ナビゲーター、サンドラ・モラーレス

毎日新聞 2012年04月30日 東京朝刊


 ◇コロンビアの疲弊感が生んだ小説

 2006年に『顔のない軍隊』(作品社、11年)でトゥスケツ小説賞(スペイン)を受賞して以来、エベリオ・ロセーロの名前は広く知られるようになった。しかしロセーロは大衆読者のための作家ではない。『顔のない軍隊』はその作品世界へのよい手引となろう。

 この小説はコロンビアのどこにでもあるような村で、静かな生活を送る元教員の主人公イスマエル・パソスの日々を描くことから始まる。彼の日課は中庭のオレンジもぎ。それは庭を裸で歩きまわる隣人女性の姿を盗み見るための絶好の機会でもある。

 単調な生活の描写に、ある行方不明者のエピソードが挿入される。残された夫人を慰撫(いぶ)するためやってくる村人たちの集まりは、やがて、飲み食べ踊るための集会と化す。すぐに幕が切っておとされようとしている悲劇の最中でも、この無責任でどこか浮ついた雰囲気は主人公の態度につきまとうだろう。周囲の出来事にまるで関心を示さないパソスも、すぐに行方不明者がただひとりではないことを知らされる。殺人事件や強制失踪のニュースが、村の占拠が間近いことを伝えていた。主人公の隣人たちが、さらには彼の細君が姿を消す。村を出て行く住民たちを横目に、パソスはそこに残る決意をする。

 予告されていた村の占拠は果たされ、今や破壊と混沌(こんとん)が支配する。主人公は笑う。恐怖が彼を笑わせる。そして笑っているのが自分自身なのか、かつての彼の亡霊なのかすらわからなくなる。死体が散乱し廃墟(はいきょ)と化した村を歩きまわる主人公の顔に浮かぶ笑みは、人間の無関心のもっとも赤裸々な相に他ならない。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/15 エベリオ・ロセーロ=ナビゲーター、サンドラ・モラーレス

毎日新聞 2012年04月30日 東京朝刊


 語りのトーンは飾り気がない。ユーモアはあっても、後味が悪い。なぜならそれは不条理な状況の皮肉に対する冷笑なのだから。だが時にロセーロは戯れをよしとし、読者を読書の快楽へと誘う官能的な情景を描き出す筆力で、過酷な崩壊の物語のすさまじさを緩和する。

 この小説は事実に取材した作品だ。語られているのは現在のコロンビアにのしかかる切実極まる問題以外のなにものでもない。この作品は、長引いている武装闘争、忘却への惧(おそ)れ、他者の痛みが無化されることへの怒りなどが多くの人々にもたらしている疲弊感から生まれたものだ。コロンビアの悲劇が読者の憐憫に訴えることなく見事に語られている。それだけではない。主人公に自分とどこか似たところを看取する読者はすぐにも自分の分身を彼に見出(みいだ)してしまうだろう。(早稲田大非常勤講師)訳・真下祐一(駒澤大准教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇不条理な紛争

 このおよそ60年の間に、血に染まったわたしの国の歴史は、以前にも増して苦痛に満ちた悲劇的なものとなってしまいました。重要な指導者たちは暗殺され、国家の政治腐敗は日増しに深刻になり、民衆の利益の代表者を自称していたゲリラは、今やまったくの別物に成り果て、人々の口を封じ手足を鎖に繋(つな)いでいます。

 目前の利益に応じ時に協力し合う四つの武装組織がコロンビアには存在します。政府軍、民兵、ゲリラと麻薬密輸組織がそれです。わたしは『顔のない軍隊』で、同胞同士が殺し合うこうした不条理な紛争を描き出そうと努めました。とりわけわたしが語りたかったのは、武器を持たない市民、暴力組織に自分の家や村を追われ、大都市の交差点で人目を避け善意の施しを受け取らなければならない人たちの存在です。なぜなら無関心こそが、わたしたちに敵対する、もうひとつの恐ろしい軍隊なのですから。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/16 レオナルド・パドゥーラ=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年05月14日 東京朝刊


 ◇純文学志向のミステリー作家

 レオナルド・パドゥーラは、国外にも読者を持つキューバのミステリー作家で、米国のハードボイルド小説の影響を受け、自国の推理小説を世界の水準にまで引き上げた。酒と文学が好きな刑事マリオ・コンデが事件の謎を解くシリーズは、ハバナの裏町や庶民が描かれていることもあって人気を博し、その中の『秋の景色』(1998年)はダシール・ハメット賞を受賞した。やがてコンデは退職し、今は古本の売買を手掛けるが、犯罪捜査を依頼されることでシリーズは続いている。

 『アディオス、ヘミングウェイ』(ランダムハウス講談社、2007年)では、ハバナ郊外の文豪の元邸宅で見つかった白骨死体の謎の解明に乗り出している。そして昨年、この人気シリーズに加わったのが『蛇の尻尾(しっぽ)』で、舞台はハバナ旧市街の中華街である。

 中華街といっても横浜や神戸の場合とは規模が異なり、映画のセットみたいな狭い場所なのだが、全体が古びて傷み、時間が止まってしまったような空間なので、街そのものがミステリアスな雰囲気を湛(たた)えている。ここで中国系の老人が絞殺される。遺体は手の指が一本切り取られ、胸にはナイフで二本の線と輪が一つ刻まれていて、どうやらアフリカ系宗教サンテリーアと関係があるらしい。元刑事のコンデがその不可解な事件を回想する形で物語は展開する。

 著者によれば、この作品はかつて書いた中華街のルポルタージュと短篇が下敷きになっているという。中国系移民の苛酷(かこく)な歴史が背景に垣間見えるのはそのためだろう。

 もともと純文学志向のパドゥーラには、コンデ物以外にも『わが人生の小説』(05年)のような本格的な長篇があり、作家としての力量を示している。亡命先から久々に故国に帰還した主人公が、19世紀の詩人について調べる一方で、自分が失脚した理由を探るというものだ。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/16 レオナルド・パドゥーラ=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年05月14日 東京朝刊


 題名がチャンドラーの短篇に因(ちな)む『犬が好きだった男』(11年)は、亡命者トロツキーがメキシコに辿(たど)り着くまでの旅、暗殺者ラモン・メルカデールの人生、そして暗殺を果たしキューバで暮らしていた彼が若者に明かす自らの素性の3部構成になっている。いずれの長篇も著者が敬愛するバルガス=リョサ張りのスケールを備え、実に読み応えがある。=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇スペインと祖国

 『犬が好きだった男』は調査に2年、執筆に3年かかりました。問題は、スペインの読者なら知っていても、キューバの読者は知らない情報があることです。トロツキーに関しては伝記があるのに対し、メルカデールの方は幽霊みたいなものだから、わずかな情報で歴史的な本質を変えずに造形しなければならなかった。物語の山場は読む前から暗殺とわかっているので、読者が興味を保てるように時間の使い方と構成を工夫し、キューバ以外のスペイン語の使用にも気を配りました。

 『蛇の尻尾』は短篇を長篇に拡大したものを、さらに書き直した作品で、手間はかかりませんでした。今書いている新作も、マリオ・コンデのシリーズのひとつですが、個人の自由の希求というテーマを持っていて、17世紀のオランダから始まり2009年のキューバで終わる、これまでとは性格が異なる作品です。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/17 カルロス・フエンテス=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年05月21日 東京朝刊


 ◇一途な情熱、突然の死

 あまりにあっけない最期だった。「出版されて50年、『澄みわたる大地』の日本語版(現代企画室、2012年)が日の目を見て大変嬉(うれ)しく思います」という感謝の言葉を彼自身から頂いたわずか2週間後、カルロス・フエンテス(1928年、パナマ生まれ)の追悼文を書くことになろうとは夢にも思っていなかった。数日前までパーティーに元気な姿を見せていたというし、蘇(よみがえ)ったニーチェと対話するという新作を書き上げたばかり、しかも、10年から20年に至るメキシコを舞台にした次作の構想まですでに出来上がっていたというのに……。

 カルロス・フエンテスといえば、50年代末から「ブーム」を牽引(けんいん)し、ラテンアメリカ文学を世界に売り込んだ立役者、ガルシア=マルケスやバルガス=リョサと並んでノーベル文学賞候補に名を連ねてきたメキシコ文学の最高峰である。だが、彼の作品は邦訳に恵まれなかった。代表作『アルテミオ・クルスの死』はかつて新潮社から出版されて現在ほぼ入手不可能、80年代までに訳されたのは『脱皮』(集英社)や『聖域』(図書刊行会)といった、今や評価の落ちた実験小説ばかり、評論『メヒコの時間』(新泉社、93年)は問題の多い翻訳となり、傑作『我らが大地』(75年)は出版の目途(めど)が立っていない。『アウラ』(岩波文庫、95年)や『老いぼれグリンゴ』(集英社文庫、94年)は面白い作品だが、この大作家を語るには物足りない。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/17 カルロス・フエンテス=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年05月21日 東京朝刊


 今、巨匠の死に直面してみると、3月に『澄みわたる大地』の翻訳を出版しておいて本当によかったと思う。「ブーム」の始まりを告げるこの長編第1作は、良くも悪くも彼の作家的特質すべてを反映した作品であり、そこには思春期から続けてきた「メキシコ探求」のすべてが注ぎ込まれている。50年代初頭、人口400万の国際都市となったメキシコ・シティの乱雑な生成過程を背景に、100人にのぼる登場人物が複雑なドラマを織りなしていく。物語を読んでいると、〓(ほとばし)る情熱の言葉を小説の枠内に押しとどめるべく、様々な語りの技法を駆使して悪戦苦闘する若きフエンテスの姿が目に浮かぶようだ。58年の発表から改版と増刷を重ね、2008年にはスペインの有力出版社から50周年記念版が出されるなど、長きにわたってこの作品が読者の支持を得てきたのも、この一途(いちず)な情熱の賜(たまもの)だろう。

 大作家の宿命か、生前はとかく非難に晒(さら)されることの多かったフエンテスだが、今こそ強く思う。悪口を言うのは結構、だがその前に『澄みわたる大地』を読んで欲しい、と。(フェリス女学院大准教授)=毎週月曜日に掲載

      ◇

 カルロス・フエンテスさんは15日死去。83歳。

 <作家本人から>

 ◇力溢れる時代

 1940年代末から50年代にかけて急激にバロック化したメキシコ・シティは、次々と障壁を打ち崩し、大きなエネルギーを発散させていました。思えば、あの頃怪しげなキャバレーでマンボーを踊ったのが『澄みわたる大地』の出発点でした。革命後のメキシコ生活を、メキシコ・シティを主人公にして描き出す、こんな小説は書かれたことがないと感じていました。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/17 カルロス・フエンテス=ナビゲーター・寺尾隆吉

毎日新聞 2012年05月21日 東京朝刊


 法科の大学生だった私は、本来なら弁護士を目指すべきなのに、『澄みわたる大地』に取り組んでいたのです。あの頃の私はなんとエネルギーに満ち溢(あふ)れていたことでしょう。法律の勉強、大学の仕事、毎晩のように酒盛りとマンボーダンスに明け暮れながら、4年でこの小説を書き上げたのですから。

 『時の領域』(99年)より

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/19 ホセ・エミリオ・パチェーコ=ナビゲーター・石井登

毎日新聞 2012年06月04日 東京朝刊


 ◇仕掛けられた記憶の迷宮

 2011年はホセ・エミリオ・パチェーコが『砂漠の戦い』(集英社文庫『ラテンアメリカ五人集』所収、11年)を出版してから、30周年に当たる。メキシコの出版社エラ社は、この小説の表紙に写真家ナチョ・ロペスが撮影したメキシコ市を用いた記念版を発売した。多くのメキシコ人に愛読されるこの小説の作者は、同年アルフォンソ・レイエス賞を受賞する。

 今世紀に入り、パチェーコはスペイン語圏の名立たる文学賞を複数受賞してきたが、特に重要なのは「スペイン語圏のノーベル文学賞」の別名を持つセルバンテス賞だろう。09年に彼はメキシコ人で4人目の受賞者となった。体調が優れない中、セルバンテスの生地アルカラ・デ・エナレスを訪れ、受賞の演説で、「セルバンテス賞はセルバンテスのためにあればよかった」と述べた。謙虚ではあるが、僅(わず)かに「不可能」の皮肉な毒も含むその言葉は、詩人・作家・批評家としてメキシコの文学界を牽引(けんいん)してきた彼の作風をよく表しているように思える。

 代表作『砂漠の戦い』の舞台は1940年代末、アレマン大統領時代のメキシコ市。主人公カルリートスの通うローマ区の学校は人種の坩堝(るつぼ)の観を呈していた。級友はアラブ系、ユダヤ系、日系など。世界中から移民や亡命者を集めたかつてのメキシコの一面を知ることができる。また<砂漠の戦い>とは、中東戦争を模した少年たちの遊びである。カルリートスは級友らに比べ常識的な思考の持ち主で、人種間の対立も批判的に見ている。そのため、何の偏見もなく米国生まれのジムと親しくなる。ある日ジムのアパートを訪れ、その母で大変美しい女性マリアーナに一目惚(ひとめぼ)れしてしまう。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/19 ホセ・エミリオ・パチェーコ=ナビゲーター・石井登

毎日新聞 2012年06月04日 東京朝刊


 この短篇(たんぺん)は一見、米国化(アメリカナイズ)途上の古き良きメキシコを背景に、誰もが経験しそうな初恋とその悲劇的な結末を扱う、筋を追い易(やす)い小説だ。だが注意深く読んでみると、主人公の経験は回想で、齟齬(そご)さえ見られる。これがまるで毒のように回り、読者は仕掛けられた記憶の迷宮へと嵌(はま)り込んでしまう。作品冒頭の、「覚えてはいるが、はっきり思い出せない」という言葉が、文中のいかなる詳細な記憶にでさえ、疑問符を付してしまうのだ。

 さらには、時代の証言、政治・社会批判、教養小説的側面など、多様な読みの可能性を含んだメキシコの傑作小説である。=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇存在しない都市

 「1981年に私が書いた都市は、もう存在していない都市でした。ですが今では81年に存在していた都市もまた、もはや存在していません。これは大変悲しいことです。暮らしにくくなった、汚くて悍(おぞま)しい都市を持つということになるのは、人間への尊厳が欠けているためです。唯一、変わらずに残っているのは、私たちがその都市に留(とど)めている記憶なのです」(09年2月、メキシコ市のブックフェアで)

 「『砂漠の戦い』はもう私の本ではありません。つまり私がそれを作ったのではなく、私は読者であるということです。まるで実際に私がその作者であったかのように、まるでこの作品の唯一で比類のない運命が解(わか)っていたかのように、この作品について話すのは極めて傲慢なように思えます」(11年10月、メキシコ大学院大で)

 「『砂漠の戦い』は私の自伝ではありませんし、こんな幼少期を過ごすことができていたらよかったと答えますね。なぜならば、私の場合はひどいものでしたから」(同)

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/20 セサル・アイラ=ナビゲーター・柳原孝敦

毎日新聞 2012年07月02日 東京朝刊


 ◇おかしく悲しく、ぞっとする世界

 アルゼンチンの作家というと、ホルヘ・ルイス・ボルヘスやフリオ・コルタサル、マヌエル・プイグなどは外国文学好きにとっては、今や「古典」と言っていい存在だろう。残念ながら、いずれも故人。

 イギリスの文芸誌『グランタ』が2010年に発表した、スペイン語圏で現在注目すべき若手作家22人のうち8人がアルゼンチンの作家だった。「古典」もいれば有望な若手もいる。アルゼンチンは文学大国だ。

 では、ところで、「古典」でもない若手でもない存在はどうなのか。中堅どころやベテランと呼んでもいい存命の作家たちは? かろうじてマルコス・アギニスの紹介は最近、相次いでいるが、他は日本への紹介がいまだ手薄だ。しかし、この層も、実のところ充実しているのが、文学大国たるゆえんなのだ。

 1949年生まれだから、セサル・アイラは、中堅というよりはもうベテランといってもいいだろう。これまで60作以上の小説やエッセイを発表している。中には『ラテンアメリカ著作家辞典』(01年)などという著書もあるから、その教養のほどがわかるというもの。小説はほとんどが中編だ。

 そしてその小説が、一筋縄ではいかないくせ者ばかりだ。今月翻訳出版される『わたしの物語』(松籟社、原著は93年)は代表作だが、とりわけおかしい。原題を直訳すると、「わたしはいかにして修道女になったか」。しかし結局、この「わたし」、修道女になどならないのだ。しかも「わたし」は自分を6歳の女の子と認識しているらしいのだが、名前はセサル・アイラ。周囲からは男の子とみなされているらしい……。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/20 セサル・アイラ=ナビゲーター・柳原孝敦

毎日新聞 2012年07月02日 東京朝刊


 「らしい」を繰り返すのは、何しろ風変わりな6歳の女の子が語る「わたしの物語」だけあって、描く世界が歪(ゆが)んでいて、読者としても確信が持てなくなるからだ。腐ったイチゴのアイスクリームで食中毒になり、熱に浮かされて幻覚を見たりするので、ますます世界は歪んでいく。

 初めてのアイスクリーム体験、病院、学校、ラジオ、母親との関係など、確かに私たちの誰もが通過してきたはずのトピックを描く成長の物語なのだけれども、誰も認識できなかったような世界がそこには展開されているのだ。おかしくて、悲しくて、ぞっとする世界が。しかもこの小説を、作家自身は「自伝的小説」と呼んでいるというから驚きだ。作品と同じくらい、一筋縄ではいかない。(東京外国語大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇偶然の思いつき

 私はこういうことを書こうという決然とした意識を持って小説を書き始めることはありません。常に突然の思いつきから始めるのです。夢に見た言葉の連なりやイメージ、子ども時代の思い出、あるいは街中で見聞きしたことなどからの思いつきです。いつも偶然です。だからなぜそれがそうなのか、なぜ他のあり方ではだめなのかは説明できません。ともかくその着想から始まって、思いつくまま、妄想するままに書いていくのです。

 書くときも、やはり偶然の思いつきにまかせていきます。あっちへ行ったりこっちへ来たりと落ち着きのない道のりですが、この道の最後には、何らかの意味が生まれるだろうと確信して書くのです。あるいは、読者がひとつの意味を夢見てくれるだろうとも思っています。その意味というのは、私が夢見たものと同じかもしれないし、違うものかもしれませんけれども。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/21 アルベルト・ルイ=サンチェス−−ナビゲーター・斎藤文子

毎日新聞 2012年07月16日 東京朝刊


 ◇立ち上る官能的な手触り

 ラテンアメリカの作家には政治への関心を作品に反映させる人が多い。不条理な現実、過酷な状況を生き抜いた経験が、物書きとして社会への責任を果たそうとする強い思いを生むのだろう。しかしメキシコの作家アルベルト・ルイ=サンチェス(1951年生まれ)はそういう小説を書かない。彼の物語世界は、ラテンアメリカの地域性から遠く隔たったところにある。

 75年、メキシコの大学を卒業したルイ=サンチェスはフランスに渡り、パリで暮らしはじめた。古い街並みを歩き、カフェや本屋や図書館に通いつめ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・ランシエールらの講義を聞いて学生生活を送り、7年間を過ごした。この経験が文学の下地を作った。ロラン・バルトに師事し博士論文を準備中、この恩師が交通事故で急死する事件にも遭遇した。

 ある年、冬のパリを逃れて南に向かい、北アフリカはモロッコの大西洋に面した港町エサウイラ(旧名モガドール)に到着した。強い貿易風、荒々しい波、潮風の味、石壁に張りついた塩のきらめき、市場の匂い、物売りや語り部の声、そしてイスラーム文化への驚きと憧れ。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/21 アルベルト・ルイ=サンチェス−−ナビゲーター・斎藤文子

毎日新聞 2012年07月16日 東京朝刊


 この体験から最初の小説が生まれた。モガドールを舞台にした87年の『空気の名前』(邦訳は白水社より2013年刊行予定)は、窓辺に座って海を見つめる娘ファトマの話である。いったい彼女に何があったのか、町の人々は好き勝手に推測し、うわさが飛び交う。娘の気持ちを読み解こうとするあまりイスラームの禁書本の世界に入り込んでしまった若者、娘の呪いを解くために魔術を使う女、自分に恋していると思い込み、母親に頼んで見合いの席を設けてもらう青年。一方少女は、大人へと脱皮する前の、自分でもうまく説明できない焦燥と不安、身体の変化をもてあまし、自分の殻のなかへ閉じこもっていく。ところがある日、公衆浴場の湯煙と喧噪(けんそう)のなかで、彼女の秘密が思いもよらない形で開花する。

 起承転結のある筋運びというより、密度の濃い詩的な文体と、ストーリーに織り込まれた奇妙な人々のエピソードが忘れがたい。同時に、人の声、風、光、湿り気、町をおおう赤紫色のもやが、官能的な手触り感をもって行間から立ち上ってくる。

 『空気の名前』は大きな反響をもって迎えられた。スペイン語圏で版を重ねるだけでなく、仏訳、英訳、アラビア語訳がある。作者はこの小説でモガドールという魅惑的な創作の井戸を掘り当てた。短編集も含めモガドールを舞台にした物語をこれまでに6冊出している。=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇「場」を書きたい

 私は話し好きの家族のなかで育ちました。大家族で、週末に集まっては競うようにおしゃべりをして過ごしました。そのせいか小さい頃から話をするのが好きです。小説を書こうと思って書いたことはありません。人に語りたくて書いています。その根本にあるのは、発見と驚きです。この世界や人間のことをもっと知りたいという欲望です。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/21 アルベルト・ルイ=サンチェス−−ナビゲーター・斎藤文子

毎日新聞 2012年07月16日 東京朝刊


 モガドールを舞台にした一連の物語で私が書きたかったのは、「場」そのもののような本です。メッセージを伝えるというよりは、例えば部屋や庭園であるような本。読む人が本のなかに足を踏み入れ、あらゆる感覚を動員させて読んでいく、するとさまざまな感情や眩惑(げんわく)が生まれ、その流れ−あるいは詩といってもよいもの−のなかに取り込まれ運ばれていく、そんな物語です。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/22 エレナ・ポニアトウスカ=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年07月23日 東京朝刊


 ◇二つのジャンルの往還運動

 いつも笑顔を絶やさないこの小柄な女性のどこにあのエネルギーが潜んでいるのか、誰もが不思議に思うだろう。80歳を過ぎても創作意欲は衰えを見せない。頭角を現したのはジャーナリストとしてだった。大物文化人相手のインタビューでも物怖(ものお)じせず、大女優マリア・フェリックスを怒らせるほどだった。その姿勢こそ最大の魅力であり、エレナ・ポニアトウスカの名を世界的にした1971年のノンフィクション『トラテロルコの夜』(2005年、藤原書店)を生んだと言えるだろう。

 68年10月、メキシコ五輪の直前に三文化広場、通称トラテロルコ広場で起きた軍による学生大虐殺事件を、犠牲者、家族、関係者、現場にいた人々らの証言、シュプレヒコール、会話、貼り紙の文句から夫の手紙にいたるまで、ありとあらゆる声を集めて再現しようとした凄(すさ)まじいまでのコラージュである。それらをつなぐ糸が巻末に置かれた日誌風の「歴史記述」だが、主役は声であり、著者はあくまでも黒衣に徹し、聞き役に回っている。価値判断はありながら、あえて矛盾する声も交えることで、事件と混沌(こんとん)がより生々しく甦(よみがえ)る。読むうちに息苦しくなってくるほどだ。中東の学生たちはこれを読んだだろうか。日本でも今こそ読まれるべきだろう。力で声を圧殺するとはこういうことなのだから。

 ポニアトウスカの関心の対象は一貫して人間である。そこからいくつもの伝記が生まれる。詩人のオクタビオ・パス、写真家のティナ・モドッティ、画家のレオノラ・カリントンをはじめ自分の母親についても書いている。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/22 エレナ・ポニアトウスカ=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年07月23日 東京朝刊


 一方、彼女はフィクションの書き手でもある。宇宙物理学者だった夫を主人公にした『天空の牡牛(おうし)』(2001年)でスペインのアルファグアラ賞、鉄道労働者たちの運動を描いた『最初に列車が通る』(07年)ではラテンアメリカの最大の文学賞であるロムロ・ガジェゴス賞を受賞するなど、評価は高い。以前、本人にインタビューする機会があり、ジャーナリズムとフィクションの棲(す)み分けについて尋ねたところ、関心はフィクションにあるが目の前にあるジャーナリズムの仕事に時間を食われがちだと言っていた。だが、総体として見ると、二つのジャンルの往還運動こそが彼女の持ち味ではないかという気もする。送った質問への答えから、今、夫の伝記を準備中と知り、一層その思いを強くした。(東京大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇大統領選の空白

 私は現在、父方の家系であるポーランドのポニァトウスキー一族についての小説を執筆中ですが、ここ数カ月、中断していました。というのも、こちらは今、大統領選の最中で、私が左派のアンドレス・マヌエル・ロペス=オブラドール候補を応援していたからです。もちろん、投票日が過ぎたら再開するつもりです。

 あなたが想像されているとおり、メキシコでは、カルロス・フエンテスが亡くなったことを、皆とても残念に思っています。というのも、彼には小説の執筆計画がまだたくさんあったからです。私も彼同様、執筆計画がいろいろあり、小説の他に、天文物理学者のギジェルモ・アロの伝記を書く準備をしています。以前、同名人物の小説を書きましたが、今度の本は伝記ですから脚色せず、すべて事実に基づいています。これから大統領選による空白を埋めなくてはなりません。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/23 アレハンドロ・サンブラ=ナビゲーター・松本健二

毎日新聞 2012年07月30日 東京朝刊


 ◇普遍的情趣を詩のように

 今日のチリ文学においては、1973年9月11日のピノチェト将軍によるクーデターから89年の民政移管まで16年間続いた軍政時代にどう向き合うかが、非常に重要な課題として現れてくる。故ホセ・ドノソなど多くのベテラン作家がこの時代の暴力や亡命といったテーマを正攻法の小説的リアリズムで扱ういっぽうで、故ロベルト・ボラーニョのような詩人型の作家は軍政の恐怖を透かし絵のように浮かび上がらせる迂回的(うかいてき)手法を採用した。が、そのボラーニョにしても53年生まれ。彼より若い、たとえば73年以降に生まれた書き手たちにとって、軍政とはもはや倫理的に総括すべき事象というよりは、幼少期の心象風景として記憶にあらかじめビルトインされた日常そのものなのだ。

 日常である以上、そこには私たちと同様に恋をし、不在の他者を思ってあれこれ悩んでいる愚かな人々がいる。75年生まれのアレハンドロ・サンブラの小説『盆栽』(2006年)および『木々の私生活』(07年)は、スペイン語で書かれていなければ場所が世界のどこであっても通じる、出会いと別れの物語である(両作の邦訳は1冊本として13年夏、白水社から刊行予定)。

 ただし、私たちが通常思い浮かべる日本の恋愛小説とは趣が違う。たとえば『盆栽』の書き出しはこうだ。<結末で彼女は死んで彼は孤独になるが、実際には彼女つまりエミリアの死の何年も前から彼は孤独だった>。この小説は万事がこうした要約調であり、お涙頂戴の展開には決してならないので、恋愛小説を読んで泣きたい人には向いていない。『木々の私生活』では妻の帰宅を待つ小説家が娘に物語を聞かせる第1部があって、第2部では成長した娘が(死んでいるのかも分からない)父のことを回想する場面へ移行し、その間の事情説明が一切ない。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/23 アレハンドロ・サンブラ=ナビゲーター・松本健二

毎日新聞 2012年07月30日 東京朝刊


 サンブラは、極端な省略文体を用いることで、親しいものとの別離という人間に普遍的な情趣を詩のように再現する。要するにサンブラは、ボラーニョと同じ詩人の系譜につながる作家なのだ。上記2作はガルシア=マルケスではなく村上春樹を読んで育った昨今のスペイン語圏の若い読者のあいだで圧倒的な支持を得た。近作『帰宅の方法』(12年)では親子のやり取りを通して、軍政時代のやはり日常を描くのに成功している。=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇引き算の文体

 『盆栽』がいつ小説(のようなもの)になり始めたのかは覚えていない。私にはいわゆる虚構というものに対する不信感があった。なかでも特に、自分に物語を書く能力というものがあるのか、また自分のなかに語るべきことなどあるのか自信があまりなかった。私が書こうとしたのは小説ではなく小説の要約、つまり小説という植物の盆栽なのだ。

 かつてボルヘスは既に書かれたテクストを要約するつもりで書くのを勧めていた。それこそが私のしたこと、しようと試みたことに他ならない。つまり存在していない書物の副次的場面だけを要約していくのである。足す代わりに引くのだ。10行書いて8行を削る。10ページ書いて9ページを削る。そうやってほとんど加筆というものを行わない引き算の文体を練っていくうちに、いつの間にか『盆栽』の形式を手に入れていた。(10年刊行の自著『No leer』の解説より)

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/24 セネル・パス=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月06日 東京朝刊


 ◇世界と繋がる歓びと切なさ

 セネル・パスの作家としてのデビューはほろ苦いものとなった。地方から奨学生としてハバナに出てきた彼は、短篇(たんぺん)を書き、それが大学の雑誌に載ったのはよかったのだが、主人公の少年が自殺を企てるというのが革命的でないとして批判されてしまうのだ。文化に対する締め付けが最も厳しかった1970年代のことである。

 彼は引きこもって短篇を書き続け、それが80年に『あの少年』という短篇集に結実する。彼の分身ともみられる少年は純粋で、革命社会で育った、どこかチェ・ゲバラの唱える<新しい人間>を思わせる。

 91年の中篇『狼(おおかみ)と森と新しい人間』(邦訳『苺(いちご)とチョコレート』集英社、94年)に登場するダビドは、そんな少年が大きくなった地方出身の大学生で、革命社会の優等生である。だが彼に好意を寄せる中年のゲイ、ディエゴと出会ったことから物の見方が変わり始める。自国と世界の文化に通暁するディエゴは、ダビドの書いた社会主義リアリズム風の小説をこきおろし、教条主義に囚(とら)われることの貧しさを教えるのだ。

 大きく見れば学生ダビドの成長物語であるこの中篇は、不寛容の洗礼を受けたパスがトラウマを克服するために書いた物語のようでもある。さらに体制右翼の若者を加えるなど、異なる言説を対話させることで新たな見方を提唱しているとも言える。このあたりのニュアンスは、キューバの読者と外国の読者では受け取り方が違うかもしれない。

 この中篇を基にパスが書いた脚本で巨匠グティエレス=アレア監督が映画『苺とチョコレート』(94年)を撮ったことで、パスは脚本家としても注目された。実際彼は、それ以前から脚本を手掛け、それを生活の基盤としているほどだ。そのせいか小説を書かないのを物足りなく思っていたところ、ついに長篇『ダイアモンドをもって空へ』(2007年)を発表した。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/24 セネル・パス=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月06日 東京朝刊


 脚本を含めパスの青春物の総集篇とも言えるこの作品は、ダビドと恋人ビビアンの物語だが、それを第三者的に語るアルナルドも登場する。題名が暗示するように、60年代には禁止されていたビートルズの音楽が鍵となっている。それをこっそり聞くことで、同時代の世界と繋(つな)がっていることを実感する若者たちの歓(よろこ)びや切なさが痛いほど伝わってくる。(東京大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇寛容さと多様性

 僕の小説はプイグの『蜘蛛女(くもおんな)のキス』に似ていると言われることがありますが、主人公は同性愛を受け入れるかどうかではなく、自分とは異なる人物を受け入れるか否かということで葛藤するのです。異性愛、無神論、マルクス主義という三つの道を通らなければ道を踏み外すことになると教えられてきた人物が、異質な人間と出会ってしまう。それを受け入れられること、つまり寛容さと人の多様性を学ぶこと、それが僕の小説のテーマで、キューバでは大きな反響を呼びました。

 また同性愛の問題も、反響があったことは確かです。この問題はキューバでは日常の実践レベルで解決されることがなかったし、それについて語られることもなかったからです。僕の小説が映画化されてから、同性愛者に対する見方が大きく変わってきたと多くの人が考えています。もっとも同性愛は、有名なレサマ=リマをはじめ詩人や作家など、実はキューバの芸術に少なからぬ先例を見出(みいだ)すことができるのです。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/25 エドムンド・デスノエス=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月13日 東京朝刊


 ◇革命の中の異邦人「それは私だ」

 エドムンド・デスノエスは1930年生まれのキューバ作家で、映画『低開発の記憶』(68年)の原作小説(65年)を書いたことで知られる。映画も小説も実は最近まで『いやし難い記憶』として紹介されてきた。それには理由がある。

 作家の故小田実が69年にキューバを訪れたとき、名匠グティエレス=アレアが撮った映画を見て感動し、原作小説の英語版を訳した。そのタイトルが小説で引用される映画『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』の科白(せりふ)から採られた「いやし難い記憶」だった。

 だがそれだと、小説や映画で繰り返される「低開発」というキーワードが隠れてしまう。そこで、その後キューバとスペインで出た新版を著者から贈られたのを機に筆者が試みた新訳(2011年、白水社)では、原題に戻した。

 小説は主人公<僕>の日付のない手記という形式による一人称小説で、革命直後のハバナと人々の変化、それに対する<僕>の感想が様々な薀蓄(うんちく)とともに語られる。<僕>はブルジョア階級に属し、家族も友人も亡命したために、今は一人暮らしをしている。ドストエフスキーやカミユなどが参照され、アパートは地下室に喩(たと)えられる。実存主義小説と見なされたりもするのはそのためであり、<僕>は革命の中の異邦人なのだ。<僕>の目で見ればキューバは国も人々の意識も低開発ということになる。優越意識の持ち主であれば、<僕>は鼻持ちならない男であり、しかも女性に目がない。作者はなぜこの人物を主人公にしたのだろう。ブルジョアによる自己批判のためか。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/25 エドムンド・デスノエス=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月13日 東京朝刊


 作者は同じ頃、「僕はここにいる」という短篇(たんぺん)を書き、砂糖キビ刈りに奉仕する作家のグループの会話を通じ、革命とインテリの関係を考察した。<古い人間>となったブルジョアが国に残る根拠を、作者は小説を通じ模索したのかもしれない。革命批判ができない状況下でどこまでものが言えるか。詩人パディーリャが一線を越えたとして自己批判させられるのは、映画の完成から3年後のことだ。彼らは炭鉱のカナリアとも言える。79年にデスノエスは米国に亡命し、続篇『開発の記憶』(07年)を書いた。だが時が経(た)ち、しかも国の外なので、やはり言葉の毒が薄まることは否めない。それでも彼は言う。映画でセルヒオという名を与えられた主人公、それは私だと。(東京大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇夢と悪夢の目撃者

 あらゆるテクストの読みは、1970年代のフェミニズムの誕生を境に根本的に変化しました。それまでの偉大な小説は女性蔑視的、それどころか女性嫌悪とみなされたのです。セルバンテスもフエンテスも、スウィフトもヘミングウェイも例外ではありません。私の小説の主人公が「女たらし」であると見られても、彼の性格が、私が女性をこよなく愛するところから生まれるのなら、不快ではありません。あの小説の続篇では、女性が男性を差別します。それでも私は女性を愛している。私が今いる米国ではそれが「政治的に正しい」のです。

 作家は自分が生み出した人物を、神の視点で眺める必要があります。主人公はキューバ革命という夢と悪夢の目撃者なのです。日本で出た翻訳に対する反響は、『低開発の記憶』をさらに豊かにしてくれたと思います。新たな読者、それも異なる文化圏に属し、異なる言語を用いる読者ならばなおのこと、新たな思想や感情を見出(みいだ)してくれるはずです。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/26 ブライス=エチェニケ−−ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月20日 東京朝刊


 ◇感受性鋭いダメ男の内的現実

 アルフレード・ブライス=エチェニケは1939年生まれで、同じペルー出身のバルガス=リョサの3歳下だが、<ポストブーム>の作家としてリマや欧米の都市を舞台とする軽妙洒脱(しゃだつ)な作品を発表してきた。

 まず書いたのが、リマの都会生活を中産階級の少年の目で捉える連作短篇(たんぺん)である。そこにはバルガス=リョサのフォークナー的暴力や性はない。このことも彼が<ポストブーム>の作家であることの証になっている。中でもうだつの上がらないサラリーマンの父親とその上司の生意気な息子を<僕>が回想する「パラカスでジミーと」の新しさは新鮮な驚きをもたらし、それらは『垣根囲いの果樹園』(68年)にまとめられる。

 一方、彼の出世作となった長篇第1作『ジュリウスの世界』(70年)では、短篇に窺(うかが)えた教養小説的な性格が前面に出る。上流家庭に生まれた少年の成長を追うのだが、最愛の若い乳母との別れが少年に精神不安定をもたらす。垣根で囲われた世界の少年が外に出る直前までを語った作品であり、垣根は階級差を表しているとも言えるが、重要なのは、客観的現実ではなくあくまで少年の内的現実が描かれていることだろう。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/26 ブライス=エチェニケ−−ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月20日 東京朝刊


 彼の作品特有の感受性の鋭い孤独な少年が成長するとどうなるか。第2短篇集『は、は、楽しいね』(74年)収録の「リナーレス夫妻に会うまで」に登場するのは、そんな少年のなれの果てと言えそうだ。バルセロナが舞台のこの作品は、ユーモアや言葉遊び、枠小説というポストモダン的性格が特徴で、77年の長篇『幾たびもペドロ』(邦訳は83年、集英社)の誕生を予告していた。学生気分の抜けない中年のペルー人で作家志望のペドロが、理想の女性の幻影を払うために、新旧大陸の都市を巡り、女性遍歴を行う。そしてついに理想の女性に出会う。ここで悲劇が起きる。彼と小説『幾たびもペドロ』の原稿が破壊されてしまうのだ。

 60年代後半の若者文化の中にいながらそれを自分のものとできない男の悲哀というのもモチーフのひとつで、自伝的要素の濃淡はあるが、この手の主人公は『マルティン・ロマーニャの大げさな人生』(81年)など、後の作品にも現われる。18世紀的感傷性の持ち主のダメ男は、権力と闘い敗北するバルガス=リョサの英雄的主人公とは好対照をなしている。(東京大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇現代のヒーロー

 人はいつでも多くの事実を本に書き記しますが、それには自伝ばかりでなく、想像上の人生も含まれています。絶望、欲求不満、挫折、達成できなかったことについて書くのはおそらく実際の人生には盛り込めなかったことを盛り込むためにです。その意味で、私の本には伝記以上に、私の世界観、世界における私のありかたが書かれていると言えます。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/26 ブライス=エチェニケ−−ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月20日 東京朝刊


 20世紀のヒーローは、自分が知っていることに確信を抱く伝統的ヒーローではなく、疑うヒーロー、アンチヒーローと呼ばれるヒーローです。今日のヒーローとは、役に立たないと見なしている世界と常に向き合って生きるヒーローで、世界が役に立たないというのは、彼にはそれが理解できず、また自分が決定的な真実にはたどり着けないことが分かっているからです。だから何ごとにも至らない探求を続け、最後には世界を笑い飛ばすしかないのです。(M・クラクシン著『ブライス・エチェニケの小説と感傷的小説』より)

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/27 ロベルト・ボラーニョ=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月27日 東京朝刊


 ◇早世の詩人作家、ユーモア漂う悪夢

 昨年、来日したバルガス=リョサが、下の世代で優れた作家は誰かと問われ、直ちに挙げたのがロベルト・ボラーニョの名前だった。それにしても、2003年にスペインで50歳の生涯を閉じたチリ出身の作家がなぜ一目置かれるのだろう。

 典型的な散文作家であるバルガス=リョサにとって詩人はリスペクトすべき存在で、ボラーニョは何よりもまず詩人だった。15歳のときにチリからメキシコに移住した彼は、一種のダダと本人が言う前衛運動<インフラリアリズム>を実践する。その体験はロムロ・ガジェゴス賞を受賞した1998年発表の長篇(ちょうへん)『野生の探偵たち』(邦訳は2010年、白水社)にたっぷり描き込まれている。

 一人はボラーニョの分身らしき詩人、もう一人はその親友という二人の若者の生態が、本人ではなく多くの関係者によって語られる。そこから二人が伝説的女性詩人の行方を追っていたことが分かり、ここに探偵小説の性格が二重に現れる。

 ただし、ユーモアやナンセンスに富む点で通常のミステリーとは大きく異なるばかりか、至るところに文学的教養がちりばめられている。大学に行かず、図書館や書店で本を貪(むさぼ)り読んだ著者の読書体験が、敬愛するボルヘスの作品並みに詰まっているのだ。またプイグに通じる映画など大衆文化への偏愛ぶりも窺(うかが)える。青春グラフィティー特有の熱量と牽引(けんいん)力、権威を冒〓(ぼうとく)する大胆さ。過去がもたらす切なさも大きな魅力だ。

 だがボラーニョの真骨頂は死後出版となった2004年の超大長篇『2666』(白水社から来月刊行予定)で発揮された。謎のドイツ人作家を探すヨーロッパの研究者たちの旅に始まる五つのパートそれぞれが一冊の本に相当するというスケールが想像できるだろうか。



新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/27 ロベルト・ボラーニョ=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年08月27日 東京朝刊


 五つを結びつけるのがメキシコ北部の架空の街サンタテレサで起きた女性連続殺人事件である。今日の世界のさまざまな矛盾が集約された場所としての米墨国境地帯にチリ人哲学教授、アメリカの黒人ジャーナリストなど、登場人物たちはなぜか吸い寄せられていく。彼らが感じる不安や恐怖が生む悪夢の幻想性は詩人作家ならではだ。そこにはかつて母国チリを訪れたときに遭遇したクーデター体験も反映しているのだろう。ユーモアや遊び、知的要素が恐怖や不安を引き立てる。連続殺人の犯人は誰か? 読み始めたとたん、読者は探偵として参加することになるだろう。バルガス=リョサが一目置くわけである。(東京大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

 <作家本人から>

 ◇「よそ者」の自覚

 私は自分を亡命者だと思ったことは一度もありません。チリに始まりどこにいても、自分自身をよそ者と感じてきたからです。

 私は自分がラテンアメリカ文学の<ブーム>の継承者だとはまったく思っていません。コルタサルやビオイ=カサーレスなどの作品はちょくちょく読み直しますが、たとえ自分が飢え死にしそうになっていても、<ブーム>の施しなどこれっぽっちも受取るつもりはありません。

 剽窃(ひょうせつ)を行う人間は公共広場で首を吊(つ)られるに値する。そう言ったのはスウィフトです。……ところが今日では、剽窃者が首を吊られることはありません。それどころか、奨学金を与えられ、文学賞を与えられ、公的なポストを与えられ、最良の場合には、ベストセラー作家となり、オピニオンリーダーとなるのです。=『Para ROBERTO BOLA〓O』(05年)より抜粋。

新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/28 脱ラテンアメリカ主義=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年09月03日 東京朝刊


 ◇ポスト「ブーム」、クラック世代の行方

 ある時代の文芸思潮を端的に表現するために、ジャーナリズムや批評は様々なネーミングを行う。やがてそれがコンセンサスを得て定着すると、文学史に用いられることになる。スペインなら19世紀末の米西戦争敗北後に現われた<1898年世代>、内戦前夜に現われた<1927年世代>などがよく知られている。

 ラテンアメリカの場合は19世紀末の詩の刷新運動<モデルニスモ>が有名だが、後にネルーダやO・パスらノーベル賞詩人を生む30年代の<前衛詩>の運動という呼び名は個性が無さすぎて、それだけでは何だか分からないかもしれない。その意味では60年代の<ブーム>世代や、そこで試みられたことを繰り返している<ブーメラン>世代というのも同様に漠然とした呼び名なのだが、前者はコルタサル、ガルシア=マルケス、フエンテス、バルガス=リョサの4人を中心にしていることや実際に起きた世界的現象を言い表していることもあり、嫌う作家がいながらも、今では研究者も使っている。

 しかし、下の世代にとってそれは抑圧的なものでもある。<ブーム>世代とは一線を画そうということから、メキシコのホルヘ・ボルピのように断裂音を表す<クラック>を世代の名前に使う作家も現われた。たしかに世界は変わった。冷戦が終わり、グローバル化が進み、何年か前に、インターネットを習っている最中だと言っていたポニアトウスカが今はそれを使いこなしている。

 魔術的リアリズムもトレンドだった時期はとうに去り、むしろ地方性とエキゾチシズムを温存するものとして攻撃の対象にさえなり、挫折と敗北を意味しラテンアメリカと親近性があったはずのフォークナーの影も薄くなりつつある。若い世代はむしろロベルト・ボラーニョやロドリゴ・レイローサ、ポール・オースター、村上春樹と時代を共有しようとするのだ。


新世紀・世界文学ナビ:スペイン語圏/28 脱ラテンアメリカ主義=ナビゲーター・野谷文昭

毎日新聞 2012年09月03日 東京朝刊


 この世代は、前世代と異なり、地域ナショナリズムとしてのラテンアメリカ主義にこだわらない。だから彼らにとっての重要な先行作家は、ボラーニョが、ラテンアメリカを讃(たた)えた「後期モデルニスモの詩人たちに似てくる気がする」と評したガルシア=マルケスではなく、普遍性と世界文学を追求したボルヘスなのである。言い方を変えれば、アイデンティティーを一つに限定せず、移動を常態化しているのが特徴だ。

 だがもちろん、はっきりとポストモダンの姿勢を示す作家以外にも、自国の現実にこだわり、コロンビアのラウラ・レストレポやホルヘ・フランコのようにガルシア=マルケスの後継者と言われる作家もいる。一方、今年急逝したフエンテスや、バルガス=リョサら<ブーム>の作家にしても、メキシコやペルーの現実を書き続けているわけではない。最近の作品では時間や場所から自由に離脱しながら小説的現実を創っている。バルガス=リョサの『楽園への道』では画家のゴーギャンとその祖母が主人公であり、『ケルト人の夢』ではアイルランド人の人権活動家の冒険が描かれている。フエンテスの遺作は彼がニーチェと対話するというものだ。60年代の彼らからは考えられない作品である。ラテンアメリカ主義という求心力が失われたことで、文学は自由になったが、それはどこに向かうのか。クラック世代の行方と絡め、興味はつきない。(東京大大学院教授)=毎週月曜日に掲載

    ◇

 スペイン語圏編は今回で終わります。次回からポルトガル語圏編が始まります。

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