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ラテン(イベロ)アメリカ文学コミュの若手作家の傾向

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 メキシコシティのPalacio de Bellas Artesのポンセ・ホールでは、「メキシコ文学のあたらしい声」と題された、若手作家の集団発表会がシリーズとして催されている。
 四五人程度の若手が、十分程度、自分の作品を読むという。
 聴衆と対話・質疑応答がもたれることがあるが、毎回ではないらしい。

 先日は、このシリーズ中のマリオ・ゴンサレス・スアレスというひとが、自分たちの文学観を語っていた。

 「現在では、書かれるテーマというのは、あまり大事なものではなくなっている。商業出版社にとってのみ、テーマは欠かせないものになっている。
 国民的なテーマ、ナショナリズム的テーマ、たとえばメキシコ革命といったものはこのところ、おとろえている。
 いまの若手の関心は、個人的なもの、インティメイトなもの、家族的なもの、あるいは、イマジネーションによる冒険といったところにある」

 一般的には、最近は歴史小説系の売れ行きがよさそうだと思っていた。
 しかしそれも、出版社の戦略(および読者のウケ)といったところにありそう。
 ニホンでもおなじであるが、スケールのおおきい話を若手は好んではいないらしい。
 たとえば、カルロス・フエンテスは自分のかかげる全体小説世界のようなものを考えているようであるが、そういう傾向が若手には好まれてはいない、というのは十年以上もまえから言われてきたこと。

 しかし、つまりはいまの若手は、ミニマリズム化、「私小説」化するということで、おそらく世界共通にちかいものなのだろうか。
 かならずしも健全とはいえないので?


http://www.jornada.unam.mx/2008/11/10/index.php?section=cultura&article=a13n2cul

コメント(3)

「ミニマリズム」化というか意図しなかった、結果としての「ミニマリズム的」化なんでしょうね。
ポストモダンが社会の中心性や大きな物語を否定し、過去からの影響の拒否を表明・表現する中で生まれたのがミニマリズムで、このミニマリズムというものはあくまでポストモダンに含まれているのだと僕は思ってます。
これは逆説的にいうとポストモダンが過去の影響を強烈に受けているということで、本当の意味で過去と決別しているのは、今の若手が書いたものだろうと思います。
彼らは大きな物語を書くといった戦後派的「無理」もしないし、過去からの地続きを否定して解体・破壊をしてみせるようなポストモダン的「無茶」もしない。
高橋源一郎が言うような「文学の白紙化」が起こっているのだろうと思います。
その中で、彼らのとらえる世界がミニマムなので表層的にはミニマリズムになるんだと思います。
そのミニマム的にみえる世界の輪郭の不確かさをうまく書いているのは青木淳悟の『いい子は家で』だと思います。
大げさに言うとハイデガーの世界-内-存在のような人間主義が復古したのかなという印象を受けています。
↑に付け足しですあせあせ(飛び散る汗)
あえて今の若手と過去の文学を接続するなら日本では『第三の新人』か『内向の世代』になるのかなと思います。
この二つのグループはやはり、無理も無茶もしていないです。
それだけに政治性がないだとか、物語の筋が弱いなどと批判もされたようですが……。
 最長老様、的確なコメント、ありがとうございました。

 まず一般的にいえることは、メキシコならカルロス・フエンテス、コロンビアならガルシア=マルケス、ペルーならバルガス=ジョサといった具合に、巨人がひかえている場合は、若手のもの書きは何を書けばいいのか、どこから書き始めていけばいいのか、ということで当惑することがあるらしいです。

 巨人を乗り越えるのはあまりにもむずかしいので、やはり身の回りに眼をむけることになっているようです。
 ムリにニホンの図式をあてはめると、フエンテスらが戦後派、若手らは内向の世代ということになるでしょうか。

 ラテンアメリカにてもの書きに従事するひとたちは、ニホン以上にもの書き自体では喰えないので、どのみち、生活にこまらない階層が従事しているものと思われます。
 ニホンでもフリーター系のひとたちで、もの書きを目指すひとが多いようですが、いくらフリーター系で暮らしがツライといってみても、なんらかの稼ぎは意志さえあれば得られるわけで、メキシコ等のお金に当面こまらずにもの書きを目指しているひとたちと似通った境遇かもしれません。

 ポストモダンの派生物としてのミニマリズムというのは、たしかにそうなんでしょうけど、やはりどこかで、全体を見る眼を志向していてほしいとわたしなどは思ってしまいます。
 もちろんいまは、いわゆる敵がみえにくい時代(そしてそう言われてからもうかなり時間がたつはず)、あるいは「世界の輪郭の不確かさ」だけしか眼にはいらない時代なんでしょうが。
 それだけに全体の構図をつかむのはタイヘンなんでしょうが、ミニマリズム一辺倒では、いつかしっぺ返しを喰うのではないかと怖れてしまいます。

 あるいは、うがった見方をしてしまうと、踏みつける立場のひとたち(米国とかニホンとか)はミニマリズムに安住してしまい、踏みつけられる立場のひとたちは、より関係性というのに意識的なのでしょうか。

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