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mixi文芸コミュの橋本治 著   夜

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橋本治 著  2008年初版

集英社 刊 

ISBN978-4-08-7712-445 C0093



「小説すばる」に2006年から2008年にかけて発表したものを纏めたもののようだ。 80年代の終わり前から20年以上文芸雑誌には毎月一当たり眼を通していたが小説なんとか、というような雑誌にはあまり興味がなかった。 それは幾分か嵩をくくっていたという自分の若さからだったのかもしれない。 直木賞ものは読まなかったしそのころにはもう芥川賞の作家たちについてももういい、だの、読まなくともいい、という気分になりそれを自分の気まぐれと歳が行って辛抱が利かなくなったのだろうし、また、35年も日本に住んでいない者には社会の移り変わり、若い世代のことにも取っ掛かりがつかなくなっていたこともあるのだろうと受け取っていた。 小説すばる、というのが面白い。 文学なのだろうが純文学畑ではないと見做されているところで、橋本の主な活躍の場所は純文学から距離を置いたところでありそれを言えば村上春樹に通じるかもしれないが似て異なるものである。 彼らの著作が向かうベクトルが違うように思う。 両者とも文字を書くからには文学が頭にあることは当然なのだが彼らの軌跡をみると幾分かはっきりしてくるのではないか。 多分橋本には文学などと取り立てていうこともなくそれらは自身の経験・思索からの抽出物であり常に肩の力を抜いた等身大の創造物なのだ。 村上のいい読者でない自分の感じるところは自然体を演じようと肩に力の入った経験・思索の結果が村上の創作物なのかもしれないと直感している。 尤も、肩に力が入って何が悪いといって悪いことはないことは言うまでもないことなのだが肩に力が入ると視野狭窄の気味が現れる。

何年かおきに帰省して、さて、と入った書店で気分が高揚し時間を忘れて過ごし何冊も抱えて帰りの電車に乗るということもなくなっていた。 そんなことがこの何年か続いていて3月に帰省していた時にそれまで気に入っていた梅田にある本屋のビルが2年前に店を畳んだので仕方なくだだっ広い駅下の混雑する書店に行けば寒い国から帰ってきた者にはそこでの正月の暖房にはむせるようでとても本を選べるようなゆとりはそこにはなかった。 企業が生き残りになる必死の姿がそこにあるようで、考えもせずに体裁のいい惹句で気をもたせほら、早くこれを買って早く近くのカフェーにでも行って駄弁ればいいとも人に嗾けているようなのだとシニカルなことも頭をよぎる空間になっていた。 

本屋とはそういうものになっているのだ。 だから古書店に入って愕然とする。 こんないいものが可哀想な値段がついて並んでいる。 若者は本を読まなくなっていると聞くし自分もその嫌いがあるのだから何とも言えないけれどオーディオ・ヴィジュアルの時代といわれて久しくその結果がここに現れているのだろう。 文字なのだからヴィジュアルだろうという者がいるかもしれないけれど本は「見る」のではなく読むのだ。 「見る」のは漫画、アニメなのだ。 週間漫画雑誌の創世期に少年時代をすごし、そんなものを見るんじゃない、バカになるよ、と言われて育った刷り込みが頭のどこかにあるのだろう。 60年代の終わり、70年代の初めには漫画雑誌にも文学的なものがあってすべてがバカではないとも思っていた。 好きな漫画家を挙げろといわれると「山上たつひこ」と答える。 文学的な無茶苦茶さが学生時代から好きだ。 山上ほどはしっとりとしてはいないけれどからっとした町田康にどこか通じるところがあるかもしれない。 そして近年山上の作を纏めたものなどを何冊かスーツケースにいれて持ち帰っている。 

古本屋に入った今時の若者の多くはペラペラとページを繰って値段を見てその安さに、高くないから価値がないのだろうと思うかもしれない。 それは我々が書店の高い棚に並ぶ高価な書籍を価値のあるものと眺めていたことのミラー・イメージとも言えるけれど同じ本がそのようなものとなっていれば話は少々変わってくる。 読者がいない、需要がないというのがその理由だそうでその本に価値を見出すものには天国でもある。 

こんな事を書くつもりもなかったのだが書店での想いが湧いて出たのと自分が子どもの頃から利用するターミナルの近くに大きな書店ビルが出来ていてそこの書架に並ぶものを眺めていて自然と手に取ったものを見ると橋本のものばかりだった。 別段初めから橋本のものを集めようと思ってもいなかったしその日の興味がそこに行ったということだろう。 そしてそれを読み始めた時のことを前に次のように書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64660621.html



さて、本作である。 目次には

暮色、灯ともし頃、夜霧、蝋燭、暁闇 と50ページほどの短編5つが納められ、その3つ目の夜霧の中頃まで読み進め、ああ、女性の中身の話なのだなあと感慨を持った。 この間、島田雅彦の「悪貨」を読んで島田の対話の描き方からこの人の強みはストーリー性だと思い、本作での橋本には男の自分には「この人は女性の中身が上手く書けるのだなあ」と今までの作を思い起こしてもいた。 男が離れていく女たちのことを纏めたものなのか、女の感性ばかりなのかと思い帯を見たら「男の夜は霧の中」「男の心の中には何があったのだろうか?」「男の性と愛を描いた橋本文学の新境地」の惹句が見えたので、あれ、っと思った。 自分の読んだところまでは女性ばかりだったではないかと思い読み進めていくうちに3番目の話、夜霧で於初と源太郎との対比が続き俄然源太郎が前面に出てきて終わり、ああ、これだったのかと納得した。 実直な男ではなく女たらしと言われ自分でも訳の分かっていなそうな頭の飛び抜けて良くもない男の中に橋本は入っていく。 

考えてみれば桃尻娘のころから少女のことを書き、そこでの若い男は添え物だったような気がする。 去年初めて読んだ文庫本「桃尻娘の逆襲」でも定年老人の印象に残ったのは無花果少年より弾けたお嬢様だった。 そこでは高校・大学生という世代のこともあるのだろうが本書では登場人物の年代が30−40代であることが桃尻ではないことを明らかに示しており社会の中で焦燥を経験する人物たちの関係の紡ぎ方が展開される。 そして寂しさ、哀しさの色が話が続くにつれて女から男にシフトされていくように仕組まれているように思う。 どの話も男が女から離れて別れで終わるようなのだがそのシフトが女の描写から男の内面にすこしづつ移動しているように思えるのだ。 

けれど本書で一番印象に残ったのは5作目の暁闇だ。 ここに来て男と男の性的関係が描写される。 性描写ではない。 そこに一ひねりが効いているところなのだ。 ゲイ小説ならもう既にいくつもあるのだし今更なのだがここにきてそれまであいまいになっていた性的関係を巡って権力関係が細やかな感情描写で展開されることだ。 性事は政治であると言われるのは二人寄るとそこには政治が発生するというのと同義であり政治というのは権力をめぐるものであるのだから男女の関係における権力関係と同様といえば、それではゲイの男同士ではどうかというのとそこにゲイでない男とゲイの男の性的関係が絡んだ時の描写が示されるとそこには俄然我々の性とは何か、という問いが浮かび上がることになり退屈なストレートである自分にはない感性と関係の紡ぎかたに初めて見る世界を垣間見たような感覚にとらわれる。 自分の周りには何人かのゲイだのレスビアンだのがいるけれど彼らの内面をこのように捉えたことはなかったから自分の蒙を啓かれた思いがする。 

10代の終わりから20代の桃尻娘たちではあっけらかんな印象ではあるが本書では30代、40代、若しくは50代の初めの登場人物たちでそこでの印象は誰かしらが、哀しいなり寂しいというところで夜の彼方に消えていくというような体裁になっているのではないか。 帯に書かれた「男の{性}と{愛}を描いた」というのが初めからして入れ子構造になってはいるけれど作者の一番力の入っているのは夜明け前の一番暗い闇と言われる「暁闇」でありもっとも細やかな描写に魅入られる経験がそう思わせるのだとの印象をもった。

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