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mixi文芸コミュの島田雅彦 著  悪貨  を読む

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悪貨

島田雅彦 著

2010年9月9日 第5刷 280頁

講談社 刊

ISBN978-4-06-216248-7



島田雅彦のものを読んだのは随分前、20年以上前だっただろうか。 まだ中上健次が存命の頃で島田は文学の次代を背負う中心の一人になるのではないかと言われるようなことを文学雑誌で読んだような気がする。 けれどいくつか読んでもピンと来なかった。 これが次代を背負う文学なのか、と言う、自分に些かパラダイム変換を意識させられるものだった。 当時は既に村上春樹のものはベストセラーだったし文壇はそれを無視し、自分も個人的な好みから村上は態のいい新しい娯楽文学でまだ純文学の域ではないとみなし今日に至るまでもその考えは変わっていない。 海外で受けるからそれが日本の文学に対する評価だと思うのは文学の世界を知らない蛙のやかましいノイズでしかない。 あんなそのまま簡単に欧米語に訳せるものはないのだから苦労して言葉の壁を渡る営為をしてきた翻訳家たちのため息が聞こえるようだ。 正に戦後アメリカナイズされた文化が村上に結実しているのだからそれも分からなくもない。 翻訳者たちは世界中の各地で中途半端に日本文学をやったという40代の学者崩れの自我を持ち上げるいい手段にもなる。 それは吉本ばなながイタリアで大当たりしていた頃だろうか。

さて、島田雅彦だ。 自分は島田のいい読者ではなかったように思う。 それは彼の文体に見えるスカスカさ、味気無さ、そこにない瑞々しさに引っかかっている自分を見るからだったのではないか。 文学が横書で書かれることが始まりその中に様々なフォントから繰り出されるカタカナ、アルファベットに数字、略号が溢れ挙句の果てが絵文字で書かれた携帯文学とまで名乗るものがでるような世の中なのだ。 それが現在の文学の置かれた場所なのだから多少の馴れをこちらに要求してもそれは強ち時代だと受け入れその質を見ながらも多少は社会の退行でなければと危惧する「進歩」に譲歩しなければならない種類のものなのだろう。 

ロシア文学を外大で勉強した島田にはそれまで読んできた国文との幾分かの齟齬は彼自身自分の興味の向かう異語とのすり合わせの結果なのでもあり、けれど書物の書かれる精神、その動機が文学を推進するものと感じているゆえ郊外文学なるジャンルを自分の持ち場として著作を生産し続けてきたのではないかと忖度する。 上に書いた自分の当初の感想も当時の芥川賞選考委員たち、とくに自分の読んできた選考委員たちの作から類推すればほぼエスタブリッシュメントが崩壊しつつある彼ら日本文学界の守り人たちには受け入れがたいものだったのだろう。 それまでの作は文学雑誌に掲載されたものに眼を通したけれどどれも最後まで行かなかった。 けれど「彼岸先生(92年)」では後に読むことになる水村美苗の「続明暗」にも柔らかく別の角度から見て共通するところもあり、また、ポンちゃんシリーズの山田詠美の作に繋がっているようにも感じた。

その後、無限カノン三部作(2003)には楽しませてもらった。 それには現在にも続く皇室継承問題の可能性、皇室に入る女性の内部を想像しそれをロマンとし、その後幾分かの軌道修正により難を逃れたというサヨクらしい功績も現代的な文学の試みとして評価されるべきものだろう。 その後、戦後のどさくさをどのように生きて来たかを姉妹の軌跡を辿った「退廃姉妹(2005)」も小津と原のロマンス?を思わせるプロットも含めて水村の「本格小説(2002)」と絡めて理解できた。 そして本作は自分にはそれ以来初めての作となった。



悪貨と題を見て刑事ものか、それとも何かを抽象的に現しているものか分からなかったものの面白いものがどんどん日本の書店から消えていく中でまだこれでも、と選んでいたものだった。 この時点で島田がどのようなものを書くか朧げに分かってきていたから態々文庫本でなく嵩になるものを求めたのだろう。 この2,3年前、帰国したときに買って来た本作をオランダの中の異国、マーストリヒトの真夏を思わせるテントの下アーチスト・マーケットで店番をしつつ前を行く人の波を眺めながら読み始めた。

読み始めて誰かに呼ばれたので読むのをやめて何というのか単行本の間にチョロチョロと挟まっている色のついたリボンを探そうとしたのだがなく、その代りに日本銀行発行の零円札が出てきた。 この間使い慣れないポンドをイギリスで使ったけれど日頃はユーロだけで生活しているものにはこの広隆寺の弥勒菩薩と思しき像の刷られた札はオランダのパーティー・グッズの店で売っているものより数等よくできている。 すでに70年代に問題になった赤瀬川源平の偽札・剽窃事件の二の舞を踏まないように工夫されているのか普通の日本人なら一目で分かるはずのものものがドイツ人・フランス人・ベルギー人・アメリカ人・中国人・日本人?が行きかうここでは日本の紙幣と受け取られるだろうし家人の作品の装飾品にもマネー・クリップにもなる銀製品に挟まれた何枚かの本物の10ドル札と比べても遜色がない。 ただ、よく見るとゼロが5つ並んでいるのに気が付けば笑い出し、よくできていると頭を振り振り悪い冗談だと言って彼らは歩き去ることになる。

後ほどこの悪貨の紙幣?にはいくつかのクルーが施されていて読後こういう遊びも悪くはないと思った。 それは旨くできた犯罪小説なのだがその犯罪が大きければ大きいほど罪は罪としても国を動かすものとなる、という一人殺せば犯罪なのだが数万人ずつ殺し合えば罪は負けた方に行く、という今ではそれをモラルや法律で被せて見えないようになっている世界の皮をはぐようなことにも視座が行っていて経済犯罪日中政治小説の態にもなっているからそこでは甚だ面白い展開になる。 読み進めるうちにそれぞれの登場人物がどんな具合にそれぞれの関係の中で変化していくのか俄然興味のいくところであって、あるときにこれは何年も前に村上龍が彼のやり方で当時の情勢を見て書いていた小説の現代版、ヴァリエーションではないかともそういうことに想いが行った。 村上にも当時金銭のことに言及した作もある。 ただ当時とは事情が大きく変わり自分がこの目で見るこの10年余りの中国の進展ぶりには自分の想像していた以上のダイナミズムを感じる。 

1979年の9月、日中国交・大平訪中前に新聞記者団と北京・西安・上海・蘇州と3週間ばかり旅行したことがある。 それはオランダに来る前の年で貿易会社で営業マンを辞めて1年半ほどブラブラしていたときに誘いがあって出かけたのだが、その当時見聞した中国の姿と今メディアで眺めるそれから35年経った中国のその勢いには予想していたものの矢張り圧倒される。 そして最近、中国経済がくしゃみをして世界が初めて中国風邪を引きかけるという現象に行きつくわけである。 

善玉・悪玉というのは話を単純にするのに必要なものであるらしい。 純文学というのは人間のそんな善・悪に陰りを付け灰色の中に何が善なのか何が悪なのかを状況を設定して人物を置くようにする作業でもあるのだが話の組み立てになるとそこでは何が善で何が悪かというのを国と国とのせめぎあいの中に置くと些か文学が背景に引くのも致し方がないのかもしれない。 実際そうなのかもしれず、力の根源が暴かれかなりの人間がそうかもしれないと漠然と思っている方向に筋が行くとなると警世小説となるかもしれないがしたたかな隣国に対してそれ以上にしなやかで強かに対応しなければならない国の政治・国民に作者はため息をつきながら悪い夢シナリオの一つとして大きな勢いに呑まれるような体裁にしている。 助け合う隣人同士というのは互いに利するものだけれど世界の覇権を競う大きなグループ同士の一つとの接点としての隣国とはどのようにして付き合っていかなければいけないのか、ことにプロパガンダが効いている国に対して柔らかく対応するのは並大抵ではないだろう。 それをしないと国が傾きかねないのだから始末が悪い。 

歴史上どんな時でも成金の趣味の悪さを毒づきながらも結局金の力に左右されるという人類普遍の理についての話でもあるのだからこの作からはいくつでも話の糸口がでてくるように思う。 文学に政治・経済が具体的にエンターテイメントの形をとって入ってきたというものでこれも文学の批評家たちの視座を問うものとなっているのだから試みとしては幾分かの評価はされてしかるべきだろう。

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