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クラシックマジック研究コミュの木村荘六

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木村荘六

明治27年生まれ、昭和40年 12月18日 (1965年)没
経歴20歳で東京・浅草の映画館・大正館の弁士となり、来日した米国の奇術師マリニの舞台通訳も務めた。やがてマリニのマジックの仕掛けを見よう見まねで覚え、大正8年奇術師の木村マリニーとして本格的にデビュー。妻の木村靖子、弟子の荘一(のちアダチ龍光)らとステージを行い、弁士仕込みの話術を生かした奇術で活躍した。木村マリーニともいう。

大正期に大魔術や読心術で興行し、昭和期には奇術指導を行った。本名は木村荘六。東京生まれ。父の荘平は、いろは牛肉店の経営で知られる実業家で政治家。兄弟には作家・翻訳家の荘太、経済学者の荘五、作家の木村曙 (栄子)、新派女形の木村春夫(荘七)、洋画家・随筆家の荘八、『雲南守備兵』で直木賞を受賞した荘十、松旭斎天勝主演の映画『魔術の女王』や『エノケンの魔術師』を監督した荘十二らがいる。

理由は定かでないが、マリニーは1920年代(まだ20代である)にはプロマジシャンを引退して大阪・東区南久宝寺に「マリニーキムラ写真館」を設立、写真家に転身している。

コメント(56)

龍光からさかのぼる、木村マリニー、マックス・マリニ、松旭斎天勝の流れ by tonrecobran · 2010年3月25日 松田道弘「トリックスター列伝」(東京堂出版)着。 近代マジック小史。お目当てはマックス・マリニについて。 アダチ龍光の師匠木村紅葉が、映画が無声映画からトーキーに移行することを察知して活弁士として限界を感じ、名前を木村マリニーとして奇術師を志したのは、来日中マックス・マリニに付いて通訳というか、演技の代弁をしたことがひとつのきっかけとされています。 この時、身近でマックス・マリニの演技を見た木村は、奇術を自分のものとしたわけです。 松旭斎天一・天勝一座の活動を見ると(土屋理義「マジックグッズ・コレクション」東京堂出版)、同時期に活躍していた読心術師として木村マリニーの名が出てきます(大正9年(1920年)9月11日〜15日 明治座出演:確認は取れてませんが、この時既にアダチ龍光は木村マリニーの弟子入りをして初舞台を踏んだあとです。アダチ壮一の名で出演していた可能性大です)。 龍光さんからさかのぼると、木村マリニーからマックス・マリニへ、そしてその同時代に松旭斎天一・天勝がいたわけです。 わくわくいたします。
中川一は 1916年(大正5年/20歳) 本郷の区役所の屋上で徴兵検査を受ける。 身体が小さいため丙種(国民兵役に適するが、現役には適さない)とされ、徴兵免除。 当時の身長体重 身長 5尺2寸5分(約160cm)/体重 11貫8百目(約44.25kg) 「その時は『ああ、残念だと』思ったけれども、区役所の2階を降りて外に出たら『ああよかった 』と思った。」 「どうせ兵隊にもなれねぇんだったら、世の中面白おかしく自分の思うようなことをやって暮ら してやろうと思った。」 *8 5月 新派俳優の見習生になる。 口入屋(職業紹介所)で「新派俳優見習生募集」という大きな看板を見て。 入会金5円を払って入会。この5円は当時持っていた銀時計(2年前に会津で買ったもの?)で 工面した。 *9 *8 *9註:立川談志 CD「席亭 立川談志ゆめの寄席」(コロムビア/竹書房)収録/漫談:アダチ 龍光「僕の人生」
1918年(大正7年/22歳)頃 20歳で新派俳優を志し1年か2年。新潟なまりがとれず、女方になる。 「おしろいつけて衣装着て、カツラかぶって、舞台上がってしゃべるとお客が笑う。」*10 *10 註:立川談志 CD「席亭 立川談志ゆめの寄席」(コロムビア/竹書房)収録/漫談:アダチ龍 光「僕の人生
さても中川一、齢二十二──
新派の舞台に立って、早や二年。

だがこれがどうにもいけなかった。
「なぁに、なんだい、これからおいらが……」
一口きけば、
新潟の訛りがズズッと残る。

「ダメだこりゃ、男の役は向いてねえ」
と先輩に肩をすくめられ──

「じゃあ女形(おんながた)で行ってみようか」
と、すすめられるままに白粉ぬって、
衣装をまとい、かつらをのっけて、
舞台に立つやいなや──

「アタシの気持ちは、もう……」

客席、どっ──!!

「なんだい、あの女形は! しゃべるだけでおかしいや」

まったく不本意──されど妙にウケる。

芝居で笑わせ、あとには喋って笑わせる、
ここに話芸の芽が、ひょっこり顔を出したわけでございます。
1919年(大正8年/23歳) 木村マリニーに弟子入り。役者時代、楽屋が相部屋であったの友人の女形、木村春夫(本名: 木村荘七)に活動弁士になりたいと相談。春夫の兄貴が大阪千日前の映画館、敷島倶楽部 (現・ 敷島シネポップ)で主任弁士をしていた木村紅葉(本名:木村荘六)。紹介状を書いてもらった 。それが大正8年か9年。 しかし紅葉は、すでに木村マリニーと名を変えて弁士をやめ、魔術の道へ。龍光もこれにな らう。1〜2ヶ月稽古して、浜松の歌舞伎座で初興行。 *11 【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その1】 「近藤幸三・著『奇術 その魅力 その世界』には、奇術師・木村荘六について次のように書か れている。大正2、3年の頃、新富座で、ポーランド生まれのア メリカ人奇術師マックス・マ リニーに会い、その興行の司会を引き受けることから、木村荘六と奇術とが結びついた」 *12 【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その2】 弟に木村壮八(洋画家、随筆家)、異母弟に木村荘十二(映画監督)。 →木村荘十二(映画監督)の手掛けた作品には松旭斎天勝主演「魔術の女王」(1936年)、「エ ノケンの魔術師」(1934年)もある *13 【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その3】 身体は大柄「20何貫ありましたからね」(75kg以上) *14 【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その4】
木村荘六の父、木村荘平(1841年〜1906年) ※実業家にして、市議会議員をやったり、上野に競馬場を作ったり。正妻の他に多数の愛人を 持ち、授かった子供が男13人の女17人の30人。 木村荘平(1841年〜1906年)チルドレン <息子> 長男:荘蔵(いろはチェーンを引き継ぐが、数年でダメにする) 二男:? 三男:? 四男:荘太(作家) ※荘八と同母兄弟 ※異母妹の四女清子と同棲 五男:荘五(経済学者) 六男:荘六(活動弁士:木村紅葉→奇術師:木村マリニー) ※アダチ龍光の師匠 七男:荘七(女形の新派役者芸名;木村春夫) ※同部屋だったアダチ龍光が活動弁士を志し相談した。 八男:荘八(挿絵画家・洋画家・随筆家) ※荘太と同母兄弟 九男:? 十男:荘十(直木賞作家) 十一男:? 十二男:荘十二(映画監督) ※手掛けた作品には松旭斎天勝主演「魔術の女王」(1936年)、「エノケンの魔術師 」(1934年)もある 十三男:荘十三
<娘> 長女:栄子(木村曙:作家) ※愛人→のちに正妻岡本政との子 次女:伸子 三女:林子 四女:清子(新劇女優) ※異母兄の荘太と同棲 五女:? 六女:六女 七女:七女 八女:八女 九女:九女(クメ) 十女:十女(トメ) 十一女:士女(シメ) 十二女:十二(トジ) 十三女:十三(トミ) 十四女:十四(トヨ) 十五女:十五(トイ) 十六女:十六(トム) 十七女:十七(トナ)

*15 木村マリニーの弟子には、アダチ龍光、ドラゴン魔術団の保田春雄、薫陶を受けたメンバーには 近藤勝、赤松誉義ら、多数がいた。また、昭和30年代には「荘 六会」という名称のマジッククラ ブが奈良市(本部)、名古屋、草津、京都、大坂、東京、神戸、姫路にあった。*16 龍光、最初の芸名は、アダチ荘一(荘六の一番弟子だから)。 初舞台は23、4歳の時。浜松の歌舞伎座にて。 出し物:ひもを2本持って輪を作って結んで、解く手品。 衣装:フロックコート 「さぁ、と喜び勇んで舞台に上がったら緊張でぼーっとしてしまって、何にもわからなくなって しまったの」 「蜃気楼のごとく」 「で、手品のタネ忘れてしまったの」 *17 木村マリニー一座、4〜5人で奇術だけの興行。樺太、朝鮮、台湾にも。1回旅に出ると1年は掛か った。 *18 *11 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より *12 註:日本奇術博物館  http://tenichi.exblog.jp/6544752/ 「荘六は、マリニーの公演の司会を続けるうちにマリニーの奇術をすっかり覚えてしまった。そ して大正8年、プロ奇術師としてデビュー。芸名も木村マリニー とした。」 *13 註:日本映画データベース  http://www.jmdb.ne.jp/person/p0360330.htm *14 「アサヒ芸能」1966年8月21日号「吉行淳之介対談 人間再発見」 *15 http://tonreco.s197.xrea.com/mt/2010/04/post_326.html  wikipedia、さすらいのカ ンチョーマンの日記「男の甲斐性」 http://plaza.rakuten.co.jp/tsurugika zuwo/diary/201002010000/ *16 註:日本奇術博物館  http://tenichi.exblog.jp/6544752/ *17 註:立川談志 CD「席亭 立川談志ゆめの寄席」(コロムビア/竹書房)収録/漫談:アダチ龍 光「僕の人生」 *18 註:「婦人公論」1973年3月号「私自身のタネあかし
1921年(大正10年/25歳) 9月15日から7日間 大坂・角座で興行。連日満員の大盛況 「魔術王来る」と大書された公演ポスターには、木村マリニー、木村靖子(マリニーの妻)、ア ダチ荘一(龍光)の顔写真が掲載。*19 *19 註:日本奇術博物館  http://tenichi.exblog.jp/6544752/
1923年(大正12年/27歳) 関東大震災(9月1日午前11時58分32秒発生の大地震による被害)により、新潟へ帰る*22 9月1日 関東大震災(9月1日午前11時58分32秒発生の大地震による被害)にあう 「九月の一日に川崎の大正座で名人会をやるから来いっていう太夫元からあれが来て、震災 の二、三日前に、台湾巡業から東京にへ先生と一緒に帰って来た。」 八丁堀の製薬会社ハクジンボウ(商品キャッチコピー「三日つけたら鏡をごらん色白くなるホ ーカー液」)の3階で、同社がスポンサーで名人会の全国巡業を行 う打ち合わせ中、震災に あう。 「のぼりつくってあげましょう、舞台でまくカードこさえてあげましょうといろいろ相談してい るときにガタッと来ちゃった」 「鉄筋だからつぶれなかったけれども、ゴーっと来たでしょう、陳列の棚がひっくり返りそう になったから押さえていたよ。ずいぶん大きいよ、この地震は、い うて。」 「そこから八丁堀から夕立の合間ぬっちゃァ歩いて宮城のお堀まのそばまで来た。」 その後火事の被害が広がる。 「火事になってからが阿鼻叫喚だよ。だれも火を消すやつがいなかったんだから。車坂の宿屋に 泊まってたから、火の中をくぐって車坂まで奇術の道具やなんか とりに帰ってきたんだよ。」 「宿屋の浴衣着て奇術の道具持って、上野の駅へ行った」 「食うもの、飲むもの、一切なし。広小路あたりをうろうろ探して、森永のキャラメルと蜂印の ぶどう酒を買っただけや。」 これらを飲んで食べたら胸やけがするが、外国人が井戸に毒を入れたのというデマがあった。 「谷中の墓地通って日暮里へおりてね、水が湧いてんだよ、モクモク。一升くらい飲んだね。 」*23 9月2日〜3日 故郷へ帰ることを決意 「よくる日また上野の山へ来たら、東京、野っ原になっちゃった。なにもない。浅草の観音 様だけ残った。これではしょうがない、ひとまず故郷へ帰ろうと。」 赤羽の鉄橋が地震で落ち、赤羽まで歩く。 途中「20銭で川口まで(船で)渡す」というどさくさ紛れ商売人。 「手品のカバン二つしょって向こうへ渡ったよ。」 川口の駅の前は黒山の人だかり。 移動する罹災民(災害にあった人たち)を運ぶための貨物列車に乗る。 「三日も何も食っていないでしょう。めし食いたくてしょうがないんだよ。蕨あたりまで行った ら炊き出しが出ていた。うまかったよ。(道中の駅で)次から次 に出ているんだよ。」 「それで会津の若松まで行って、手品の道具と洋服のカバン持っていたから、小汚い浴衣捨 てちゃって、ちゃんと紺サージの服に着かえてそれでうちへ帰ってい きましたよ。」*24 10月 松本へ (「九月の一日に川崎の大正座で名人会をやるから来い」と連絡した太夫元から?) 「信州の松本座へ来いっていう手紙が来たわけや。」 ・松本に出かけると、川崎の名人会はメンバーが変わっていた。 ・さらに興行のビラには「猫八独演会」の文字が。 「下ビラや、こっちは」 「居直ったって行くところがねぇんだから。もう前金もらってるんだから。」 「いや応なしに行ったよ。いや、入ったの、入ったの。」 この時の一座のメンバー:7人 「私に猫八に、なんとかという噺家、それから前座がいて、セコ漫が一組いてさ、それだけな んだ。」 *25 この猫八は初代 江戸家猫八(wikipediaより:初代 江戸家猫八。1868年3月 - 1932年4月6日。 本名:岡田信吉。かつては歌舞伎役者片岡市之助(3代目片岡市蔵門の女形)。寄席芸人に転じ、3 代目柳家小さんの預かり弟子。)だろ う。 *22 註:藤山新太郎氏談 2010年1月7日 *23 *24 *25 註:「芸双書4 めくらます−手品の世界−」編者/南博、永井啓夫、小沢昭一 (白 水社) 1981年 より
木村一族 by tonrecobran · 2010年4月14日 なんとはなしにアダチ龍光の師匠、木村マリニーこと木村荘六の家系をたどっていたら実に面白い。 何が面白いって、荘六の父親の木村荘平(1841年〜1906年)。 この男が実にすごい。 牛鍋屋チェーン店”いろは”を20数箇所に展開。 葬儀会社東京博善株式会社も設立。現在も神田「博善株式会社」として続いている。アダチ龍光さんの葬儀をこの神田博善が担当したのは単なる偶然ではないと思う。 またサッポロビールの前身、日本麦酒醸造会社も設立。ヱビスビールを発売。 実業家にして、市議会議員をやったり、上野に競馬場を作ったり。 そしてそして、何よりびっくりなのが正妻の他に多数の愛人を持ち、授かった子供が男13人の女17人の30人。 で、作家だったり、俳優だったり芸術面の才能を持って活躍された方が多かったりするのです。 一体誰が誰との子かはひとまず置いておきつつ、追いかけてみます。
●息子
長男:荘蔵(いろはチェーンを引き継ぐが、数年でダメにする)
二男:?
三男:?
四男:荘太(作家)  ※荘八と同母兄弟  ※異母妹の四女清子と同棲
五男:荘五(経済学者)
六男:荘六(活動弁士:木村紅葉→奇術師:木村マリニー)  ※アダチ龍光の師匠
七男:荘七(女形の新派役者芸名;木村春夫)  ※同部屋だったアダチ龍光が活動弁士を志し相談した。
八男:荘八(挿絵画家・洋画家・随筆家)  ※荘太と同母兄弟 九男:?
十男:荘十(直木賞作家)
十一男:?
十二男:荘十二(映画監督)  ※手掛けた作品には松旭斎天勝主演「魔術の女王」(1936年)、「エノケンの魔術師」(1934年)もある
十三男:荘十三
●娘
長女:栄子(木村曙:作家)  ※愛人→のちに正妻岡本政との子
次女:伸子 三女:林子 四女:清子(新劇女優)  ※異母兄の荘太と同棲
五女:?
六女:六女
七女:七女
八女:八女
九女:九女(クメ)
十女:十女(トメ)
十一女:士女(シメ)
十二女:十二(トジ)
十三女:十三(トミ)
十四女:十四(トヨ)
十五女:十五(トイ)
十六女:十六(トム)
十七女:十七(トナ)
嗚呼素晴らしい哉。木村荘平チルドレン。
【参考】 ・wikipedia ・さすらいのカンチョーマンの日記「男の甲斐性」 →アダチ龍光さんのこと
■ 木村荘平という人物

生年没年:1841年〜1906年(明治期を駆け抜けた実業家)

主な業績:

牛鍋屋「いろは」チェーンを20数店舗に拡大

東京博善株式会社(葬儀会社)を創業:現在も神田に存続、アダチ龍光の葬儀も担当

日本麦酒醸造会社(サッポロビールの前身)設立、ヱビスビール発売

市議会議員や上野競馬場の設立にも関与

家庭面:

正妻のほかに多数の愛人を持ち、子どもが合計30人(男子13人・女子17人)

子らの多くが芸術・文化・芸能方面で活躍

■ 木村荘平の子供たち(=マリニーの兄弟姉妹)
● 息子(抜粋/※「荘」は代々共通の接頭名と見られる)
番号 氏名 職業・業績など 備考
長男 荘蔵 「いろは」チェーンを継ぐも短期間で事業失敗
四男 荘太 作家 同母妹・清子と同棲
五男 荘五 経済学者
六男 荘六 奇術師:木村マリニー/活動弁士・木村紅葉 アダチ龍光の師匠
七男 荘七 女形の新派役者(芸名:木村春夫) アダチ龍光が弁士を志すきっかけ
八男 荘八 挿絵画家・洋画家・随筆家 荘太と同母兄弟
十男 荘十 作家/『雲南守備兵』で直木賞受賞
十二男 荘十二 映画監督、「魔術の女王」(天勝主演)・「エノケンの魔術師」等

※全13男のうち未詳の者あり。

● 娘たち(抜粋/判明分のみ)
番号 氏名 職業・特徴 備考
長女 栄子 作家(筆名:木村曙) 愛人政との子、のち正妻
四女 清子 新劇女優 異母兄・荘太と同棲
九女〜十七女 クメ〜トナまで名前の語呂合わせ的命名 末期には数字の当て字
天勝一座の立ち上げと新たな挑戦 明治44年(1911年)、師匠である天一が直腸ガンで引退することとなり、天勝は天一のあとを継いで「天勝一座」を立ち上げた。 26歳の時、浅草で一座の旗揚げ興行を行い、好評を得た。天一は59歳でこの世を去ったが、その後も天勝一座は朝鮮や中国などで意欲的に興行を続けた。 大正4年(1915年)、天勝は一座の辣腕マネージャー・野呂辰之助と結婚した。 この結婚には打算的な部分もあったが、座長とマネージャーの結婚に反対した一部の座員達が一座を脱退した。 野呂は一座の新企画を考え、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』に目をつけた。天勝のサロメは、彼女の肉体美と奇術を融合させた演目として大ヒットし、話題となった。 魔術の女王の引退と最期 その後も天勝一座はアメリカ巡業や台湾公演を行うなど活動を続けた。しかし、次第に野呂の健康状態が悪化し、昭和2年(1927年)に野呂は亡くなった。 天勝は一時一座を解散しようと考えたが、多くの人々の励ましと協力で立ち直った。 昭和6年(1931年)、帝国ホテルでのクリスマス出演をきっかけに、新橋にレストラン『ふもと屋』を開き、そこで初めて「お子さまランチ」を提供した。しかし、店は赤字が続き、開店から2年足らずで閉店した。 天勝は50歳を迎える直前に引退を発表し、引退披露興行として日本全国を回り、中国や朝鮮を巡業した。 帰国後は映画『魔術の女王』に特別出演し、2代目天勝を姪の絹子に襲名させた。
松旭斎天勝。明治大正昭和と三代にわたって文字通り、魔術の女王として君臨。その一座は各地の巡業で爆発的な人気を集めた。天勝は明治34年、15歳ですでに松旭斎天一一座の花形としてアメリカ巡業に参加、その五年間でアメリカ仕込みのマナーとモダンな洋装を身に着け、帰国するや、そのアメリカナイズされた華やかな舞台で、多くの人びとの度肝を抜いた美人魔術師である。天勝は魔術だけでなく、日舞、洋舞、芝居と幅広いエンターテイナーであった。 師匠の天一亡きあと、松旭斎天勝一座を結成。多くの踊り子を養成し、魔術とショーを一体に構成して上演、興行界をあっと言わせた。大正初め、芸術座の松井須磨子がサロメを演じてヒットすると、すぐさま天勝のサロメとしてアレンジし、劇場も須磨子と同じ有楽座で公演、女盛りの豊満な肉体美をみせながら、たっぷり踊って、もちろん魔術も入っている。大ヒットとなった。さらに大正天皇ご即位の御大典の奉祝番組として京人形を発表。これは空の木箱に等身大の京人形を収めてフタをして一回転させると、木彫りの人形が天勝にかわり、そのまま舞台いっぱいに踊るというもので、大胆なヌードも見せる一方、日舞もこなすという、まさに天勝ならではの独壇場であった。座員も多い時には80名を超えるというほどの大所帯で、寄席とか、お座敷には見向きもせず、大劇場でしか公演しなかった。 天勝は昭和九年に引退を発表、十年後の昭和19年11月11日、食道がんのため、59歳でその華やかな生涯の幕を閉じた。 松旭斎天勝の全盛時代、その魔術の女王に挑戦した人も少なくない。その中のひとりが木村壮六である。
まず、木村壮六のルーツから、壮六の弟は「親父はね、しこ名を”いろは梅”といってね。大相撲の横綱、梅ケ谷の弟子で、引退後は牛鍋屋を始めたんですよ」引退とはいえ、こうなり遂げての引退ではなく、病気とか怪我とかの引退らしい。 「牛鍋ってわかりますか? すき焼き? ちょっと違うんですよ。すき焼きは肉を炒めてから野菜などの具を入れるでしょ。牛鍋はたれを煮立ててから肉とか具をいれるんですよ
日本のチェーン店の走りで、しこ名のいろはから、48店舗を目指していた。しかもそのシステムが「それらの店の経営をめかけにさせるんですよ」もっとも子供たちが妾というと父、荘平は怒って、第二夫人、第三夫人と呼べと言ったそうだ。 「普通なら、妾一人で充分だが、親父は違ってましてね。妾本人だけでなく、その家族もろとも面倒見るわけです。店を与え、その店ごと、すべてをまかせるわけです。本人も家族もそれが職業というわけで、一生懸命にならざるを得ない。番頭とか、お手伝いを雇えば金がかかるし、仕事もさぼる。しかし家族ならその心配もいらない。」 確かに父、荘平は商才があった。 「本店は芝浦館、芝浜館といって、旅館もやっており、ここが親父の本居でした」 本妻、つまり第一夫人がとりしきり、第一夫人亡きあとは第二夫人が後妻にはいるなど人事異動もあった。 「妾が多い時には30数人、常時20人はいましたよ、そのうち19人に店を持たせていました」 しかしこの19店舗目で荘平は志半ばで亡くなる。 「認知した子供は多かった。30人はいた。腹違い、タネ違いを含めたら60人はいたでしょう。親父が死んで、実は隠し子だったという人が10人くらいはいました」 認知した子供のうち、男は荘一、荘二、荘三、…から荘十三まで各数字が並んでいる。 荘一、荘二は早死にしたが、荘三は二代目荘平として店を継ぐも、19店舗すべて人手に渡る。荘太は文学者、荘五は経済史家、荘六が奇術師、荘七が俳優、荘八は絵描き、荘九も絵描き、荘十は大衆作家、荘士は美術教師、荘十二は映画監督、荘十三は電気会社経営。 「兄弟は多いが大学出たのは荘五ただひとり。中学までは出すが大学は自分で行けというのが親父の方針でした。当時流行の福沢諭吉の独立自尊ですよ。もっとも福沢諭吉は一夫一婦制が違っていましたがね」 「親父も牛鍋屋なんてやらずに実業界に乗り出せばよかったんですよ。そうすれば今頃は三菱や三井などの大財閥になっていたかもしれません」
木村荘六は明治27年に生まれている。文字通り六番目の男の子である。 「小さい頃は見世物、香具師ですね。とか楽隊、相撲取りなどやりたい放題やっていました」は本人談。 つまり与太っていたということだろう。 「当時の言葉で精神科学といっていました。今でいう姓名判断といか読心術のようなものでそれを得意としていました」 20歳前後で当時の花形である弁士になり、木村紅葉を名乗る。 「子供の頃、浅草の大勝館で、木村紅葉といえば売れっ子弁士で、身内として鼻が高かった」と荘十二は述懐する。 荘十二は明治36年生まれだから、計算すると大正2,3年あたり事だろう。 その頃、新富座でポーランド生まれの米国奇術師マックスマリニーに会い、その興行の司会を引き受けることから、木村荘六と奇術が結びついた。 マックス・マリニー(1873〜1943)は”ナイトクラブやホテルなどの演技の先駆をなす奇術師で、カード奇術にかけては当代随一の名手。近代の奇術理論に大きな影響を与え、近代クロースアップ奇術の父とも言われている” 元々弁士には洋画担当と邦画担当とがあり、洋物といって洋画担当のほうが、ギャラが良かった。荘六は一時、相撲取りになったり、浅草で与太っていたくらいだから、英語が分かるはずもない。しかし英語が分かるふりをした。 その頃の衛が解説といっても「春や春、春、南方のローマンス…」などとやっていた程度で、まったくでたらめだった。だから英語の分からない荘六が分かるふりをしたところでそれを見破れる人もいるはずがなく、また誰からも文句はなかった。 まんまと洋画担当となり、英語の分かる司会者を探していた興行主は、荘六が返事を延ばしたり、出演料を倍にしろなどと言って引き延ばした。それが英語が分からないことに気づかれないためとは思っても見なかった。 もっとも日本語で司会をするから英語をしゃべる必要はなかった。ただ打合せがスムーズにいかず、マックスマリニーの希望通りの司会ができなかっただけのことである。 マックスマリニーは日本語が分からないから司会の荘六が何をしゃべっているのか、もちろんわからない。打ち合わせ通りにしゃべっているだろうくらいにしか思わない。 荘六は活動写真の様に勝手にしゃべっていたが、二三回とくりかえすうちに要領がわかり、的を得た視界ができるまでそれほど日数はかからなかった。 荘六は余裕ができると奇術そのものに興味を持った。マックスマリニーも最初のうちはタネを仕込む際に隠すようにしていたが、司会者という事もあり、目の前で仕込むこともあった。毎日同じことをするので、その現象もタネも、演技もおのずから見当がつくようになった。 ある時、タネがあってあの程度のことなら自分にもできると見よう見まねでやったら、皆があまりにも驚くので自信を持ち、その巡業中にすっかりマックスマリニーの演技を覚えてしまった。教えてもらったのではなく、見て覚えたのである。 その後、機会があると活動写真の合間に、アトラクションとして簡単な奇術をやりますます自信を深めていった。
と同時に天勝に対するライバル心も、この時からめばえたともいえる。それらの奇術をやるたびに、引き合いに出されるのが天勝だからである。 「よお、天勝そっくり」 「天勝よりうまいぞ」 「弁士より魔術師に商売替えして天勝一座にはいったらどうだ」
はじめは天勝の人気に対する嫉妬心だったかもしれない。しかし天勝の魔術を詳しく知ると、今度は反発心が芽生えた。 「魔術はあんなもんじゃない」 「裸になったり、踊ったりするのは魔術じゃない」 「大仕掛けな道具なんか必要ない」 それは天勝奇術への否定だった。 「小さなものだって、充分に人を楽しませられるはずだ」 「客の反応をもっと素直に取り入れなければならない」 荘六の頭にはマックスマリニーの奇術があった。 その後、ロシア人のショール・キウスという奇術師が来日した際も自分から進んでその司会を引き受け、弁士の仕事キャンセルしてまで全国を一緒に巡業して回り、その間にそのロシア人のやる奇術を全部覚えてしまった。 マックスマリニー、ショールキウス、松旭斎天勝、この三人が荘六を弁士から魔術師へと転身させたと言える。天勝が大仕掛けな魔術を得意としていたのに比べ、後の二人に共通していたことは、旅から旅の芸人だけに大仕掛けでない、小さな道具で手練(スライハンド)による奇術を得意としていた。そしてふたりとも客に接して客とのやり取りをしながら、時には客席にまで降りてその舞台を進めていた。 荘六は弁士だけに話が旨い。それに身についた話の間のうまさも持っていた。2人から覚えた奇術をそうした方向へ演出方針を変えた。 荘六にとって幸いだったのは、タネから覚えたのではなく、彼らの演じる現象から覚えたことだ。種や仕掛けはできる限り単純化し、それを得意の話術で補った。奇術の一つ一つに荘六の個性が加わった。
奇術に興味を持ち始めた大正5、6年頃に「兄貴は大阪の千日前、敷島倶楽部にスカウトされ、主任弁士として大阪に移ったんです」とは実の兄だけに言葉を飾ったが、木村紅葉の前歴もあり、何か不都合があり、東京を離れたと解釈した方が良いと思う。だからこそ弁士に見切りをつけ、あるいはつけさせられ、やむに已まれず魔術師木村マリニ―へと転身したとも考えられる。木村マリニ―という芸名も如何にももっともらしい松旭斎天勝に対抗して、師匠のマリニーからとり、あえて西洋風な名前にしたのだろう。
マリニー日記 キムラマリニ―一行大阪市南区逢阪ノ町4939 アサヒ亭主人五島善太郎氏と契約、9月20日をもって道頓堀朝日座を去り、25日より魔法師として社会に立つ。 29日東京市芝区南佐久間町2丁目10番地南館に投宿。 9月30日、10月1日2日と横浜・横浜座にマリニー氏と出演。 10月4日5日6日7日8日の5日間を東京新富座に出演。 マリニー氏は12日横浜より帰米 これはかつて”荘六会”のメンバーで、関西奇術連合会会長の赤松タメヨシ氏が、荘六夫人から形見分けでもらったという「マリニー日記」の書き出し部分である。 この五島善太郎がパトロンというか、スポンサーであろう。更にプロとしての初舞台が師匠のマックスマリニーと務めているわけである。
その後、独立となり、浜松市歌舞伎座を11月2日より4日まで3日間開演し、名古屋帝国座を5日初日にて9日まで5日間開演す。浜松は浜松座の方、人気よろしく、歌舞伎は3日にて400余円。歩合なれば、1百円のもうけ。名古屋は5日間にて200円、大失敗。 その後の日程をみると次のようになっている。 11月18日より3日間、津市曙座、15円 11月22日より25日まで、静岡県若竹座、35円 11月27かより28日まで、豊橋東雲座、35円 これを見る限り荘六がいかに用意周到な男だったかが分かる。つまり弁士を辞めて、独立した時にはパトロンがいて、2か月3か月先までのスケジュールまで決まっていたことになる。 あるいは五島善太郎をパトロンに見つけ出したからこそ、独立したのかもしれない。
マリニー日記には独立した時の、自分の持ちネタを6ページにわたりぎっしりと書き込んでいる。全部で159種。 1. 剣先の神様 三社当て(天照皇大神、八幡宮、春日神社) 2. 陰現自在の袋 3. 変現コップ(ミルク、砂糖、コーヒー) 4. 豆タンバリン(大砲丸、ツリネタ) 5. 菓子の製造(スリヌカ、パイプ3つ) 6. 支那の壺 7. 桶万倍 8. 底抜け無尽蔵 9. 小鳥がえし 10. 五色の紙切り 11. 大タンバリン 12. 丼つり 13. ふりけし玉子(テーブルネタ、パイプ、スリヌカネタ) 14. 小豆割り 15. おわんふせ 16. 新式さいと帽子 17. 五色の酒 18. 二つ割れ、変化の筒 19. 水とコップ(底抜け重ねコップ) 20. パン時計(音のするニッケルサック) 21. レーストン 22. 金魚つり 23. 積立さいの変化 24. だら棒 25. だら帽 26. メリケンハット 27. 変化の額縁 28. 変現傘 29. 小豆と大豆の変化 30. ステッキの飛行 31. 紙中の時計 32. 天保銭 33. 水つり 34. 掌中ボール 35. シンブル 36. 染分けハンカチ 37. 米と水 38. コップの消失 39. 玉子の消失 40. ハンカチの墨 41. リン 42. ハンカチほどき 43. 瓶さきのカード 44. 瓶と人形 45. 片手の悪戯 46. 首切 47. ビュウスツウ 48. ソンナヤウ 49. ブラチカ 50. シラチカ 51. ヤイツ オフ プラトーク 52. カリツ オフ アレフ 53. グラフィン プラトーク 54. コリツイン シノローク 55. フラアギ 56. ヤシチキ ヤシチキ 57. バックカード 58. チェンヂカード 59. ダークカード 60. 呼び出しカード 61. 断片カード 62. 最後の一枚 63. カードの移転 64. ストップカード 65. 一致するカード 66. 幻覚と錯覚 67. 打ち付けカード 68. 突差しカード 69. 読心カード 70. たたき落としカード 71. ラテン語カード 72. 飛び上がりカード 73. あくまで追従するカード 74. 意外のカード 75. クレッカ 76. カリツオフ 77. ボールモルモット 78. 瓶とハンカチと指輪 79. 空中花の出現 80. パイプの花 81. 魔の数字A 82. 魔の数字B 83. テープ切り 84. 紙切り 85. テープ結び 86. テープの輪切り 87. コップ抜き 88. コップ投げ 89. ナイフつり 90. シガーつり 91. ステッキつり 92. フラギの交換 93. カード差し 94. 幣玉子 95. ボタンちぎり 96. 空中ハンカチほどき 97. シルクハットとハンケチ 98. 果実のカード当て 99. 幣やぶき 100. 銀貨つかみ 101. 掌中カード 102. もみ出し国旗 103. 銀貨の移動 104. 国旗の札当て 105. 男女交換袋 106. 水中落花 107. 送りカード 108. 小手返しカード 109. 五枚のカード 110. タンバリン キャビネット 111. 運命を占う手 112. 皿上銀貨の交換 113. アーゴニー 114. ハンケチの打ち消し 115. 内ち抜きの小鳥 116. 重力転換術 117. 小鼠 118. 空中紙幣 119. 振らずして鳴るベル 120. 水中の美人の首 121. 銀貨の投げ込み 122. 口中玉子 123. カードの帽子ぬき 124. ポケットカード 125. 生々しき人指 126. 掌中たばこ、マッチ、煙 127. 不思議のふろしき 128. ファイバーの奇術 129. 四人十六枚カード 130. セリ上げカード(新指) 131. ポケット呼び出しカード 132. 手カクシカード 133. 両手にぎり押えカード 134. 空中ハンケチ結び 135. 銀貨目より耳へ 136. 銀貨のなげこみ(五枚) 137. ハンケチと銀貨 138. 銀貨の消失 139. インキと金魚 140. 銀貨ウデスリコミ(耳) 141. 時間当て 142. ローソクの変化 143. 真田切り 144. 鈴投げ 145. 染分けの水 146. ハンケチ通し 147. 玉子の袋 148. 夕涼み 149. 伸縮自在のカード 150. 円幣やき 151. 胡蝶の舞 152. 目かくし国旗当て 153. コレトー 154. モルモット 155. 花の取り寄せ 156. さいと筒 157. 綿食い 158. 鳩鍋 159. 火ふき支那紙
木村荘六が独立して、4日目の9月28日に谷口清一が、続いて10月6日より阿達一がそれぞれ弟子入りしている。 阿達一、のちのアダチ竜光である。のちに日本奇術協会会長となる。昭和47年、奇術師としてははじめて勲五等双光旭日章まで受章、寄席を中心に奇術歴60年の男は、奇術師になりたくて弟子入りしたのではなく、弁士としての弟子入り志願だった。 竜光は「新潟から飛び出してきて、役者に憧れ、新派の喜多村縁郎の弟子になったものの、体力が無いし、女形も性に合わん。同じ役者でも、菊五郎や団十郎の息子なら、菊之助や新之助、海老蔵にもなれ、大きな役ももらえるが、私のような田舎もんでは、芽がでそうにない」 それで役者はあきらめたわけですか? 「その頃、活動写真が人気を集めていた。その弁士になろうと思った。弁士なら役者と違って、ひとりでできるし、それに新しい職業だから、世襲制もない」 東京にいたあなたがどうして大阪の木村紅葉さんのところにいったのですか? 「役者の仲間に木村春男さんというのがいて、『弁士になるなら、俺の兄貴を紹介してやる』っていうんですよ。それが先生(荘六のこと)だったわけで、春男というのは芸名で、本名は荘七さんといって、先生の異母兄弟だったんです。」 弟の荘七さんは兄の荘六さんが、まだ弁士だと思っていたわけですが、それで弁士になるつもりで大阪に行った。 「そう、ところが、先生は弁士でなかった。奇術師になっていたんです。弟の春男さんも知らなかったらしい。先生は『役者から弁士への乗り換えもいいが、活動写真は先が見えている』というんです」 確かにこれより十数年後にトーキーが始まり、当時3000人とも言われた弁士や、楽士たちが職を失い、大辻司郎、徳川無声、牧野周一らのように漫談に転向したり、役者や紙芝居屋になったのを除けば、ほとんどが消えている。荘六には先見の明があった。 「先生は『活動写真よりも、魔術をやれ』っていうんです。私は魔術なんか知りませんから、私にできますか?って聞いたんです。そしたら『やればできる』って」 それでその日のうちから魔術師として弟子入りした。魔術も知らない役者崩れになんとなくやれそうな気がしたというから、荘六の説得力も大したもんだ。 これが大正8年10月6日、荘六28歳、竜光26歳のことである。この時、竜光は荘六から荘一という芸名を貰っている。本名の一(はじめ)に荘をつけたのである。 「まるで、先生の兄弟子か、先生の先生みたいでしょ」 アダチ竜光とは独立後、東京に出てから改名したもので、名付け親は高峰築風である。高峰築風は筑前琵琶の名手で、従来の琵琶の伴奏的演奏を楽器としての奏法に改め、高峰流を創始した人で、女優高峰秀子の父でもある。 「荘一という名前では出世できない」というのがその理由、そのくせ竜光は自身の一番弟子にはアダチ荘一という名前を付けている。
アダチ竜光が弟子入りしたその日から特訓が始まった。 「タバコ持ってるか?」と聞かれ、竜光が箱ごと渡そうとすると、荘六は右手でそのうちの一本を抜き取り、左手に握り込んだ。荘六はにやりと笑って、一呼吸置いてから左手を開けるとたった今握り込んだはずのタバコが消えていた。 竜光はあっけに取られて荘六の顔を見た。タバコは右手から出ていた。荘六はもう一度さっきとまったく同じことを繰り返した。二回目を見ても竜光には不思議だった。あまりの驚きに声も出ない竜にそのタバコを返すと、荘六は今の奇術をやってみろと言った。 全てがこの調子だった。手取り足取り教わるよりも体で覚えろというのである。 同じ奇術をやる場合も目の前にある品物でやったらもっと効果があり、さらに相手の持ち物でやるともっと効果が上がると竜光が知ったのはずっとあとになってからだ。それは客にとって自分のものなら種や仕掛けのないことは分かっており、自分の物となるとより身近かな気持ちで奇術を見てくれるからである。竜光は、そんなことも荘六のいう体で覚えていった。 そしてひとつの奇術をやると荘六はかならず、「今のは面白かったか?」「どこが面白かったか?」「不自然なところはなかったか?」としつこいほどに聞いてきた。どこをどう改良すればもっと良くなるか、より不思議でより楽しいものになるかが荘六にとって常に宿題だった。
これより前、大阪、市岡にあった荘六の家には、近所の商店の旦那や奇術の好きな仲間が何人か集まっていた。はじめは荘六がその人たちに奇術を色々見せては批評してもらい、その意見を取り入れて、さらによくするための工夫をしていたが、竜光が弟子入りした頃には、奇術教室と荘六の後援会とを兼ねたようなものになっていた。これが荘六会である。 「弟子入りしてすぎに、どういうわけか先生に代わって、代稽古に出ました」(竜光談)というからこれまた奇術のような話である。 ひとつの奇術を確実にものにするには、それを人に教える方が良いという荘六の教育方針であろう。人に教えるからには中途半端のところやうろ覚えがあってはいけないわけで、教えると同時に自分自身もそれをものにしていくというわけである。 荘六には何人もの弟子入りしたが長続きはせず、プロで大成したのは、このアダチ竜光と保田春雄の二人きりである。それほど教え方が厳しかったということであろう。保田春雄は大阪を中心に活躍、ドラゴン魔術団を結成し、師匠の荘六や、兄弟子竜光がいわゆる小ネタをやっていたのに対して、大ネタ、大仕掛けの魔術を得意としていたが、昭和49年11月23日、63歳で亡くなっている。 プロではこの二人、アマチュアにも二人いて、ビオフェルミン製薬社長(当時)の百崎辰雄氏、日本精蝋社長(当時)の伊藤真一氏の二人である。伊藤氏は明治の元勲、伊藤博文の子息である。 伊藤博文と松旭斎天勝の親交は良く知られており、 春夏秋冬一手裡 為天勝女史 春畝 と揮毫して贈ったこともあるほどである。(ちなみに春畝とは、伊藤博文の雅号である) 天勝が博文と親交があるというなら、その子息真一を弟子にして…という対抗意識をどこまで持っていたかは謎として、百崎、伊藤の両氏は、荘六の弟子というよりもパトロンに近い存在であろう。 ともかく荘六の弟子はこの四人だけで、荘六自身は「四人持つだけで充分だ」といっていた。
魔術師木村マリニ―にとって得意絶頂のときの話を進めたい。 大正10年9月15日から7日間の大阪角座の舞台がそれである。松旭斎天勝が三日間興行し、浪曲の天中軒雲衛門が四日間の興行を打った後という時期も最高であり、場所も大阪芸人であの小屋に出られるようになったら一人前と言われた角座である。 木村荘六自身が考えたというポスターを見るとその意気込みが伝わってくるようである。 特別大興行 魔術王来る! 世界的大魔法マリニー一行公演 と大書きしたあと、 見落とす勿れ!! 想像以上の大魔術exclamation ×2 二度と見られね面白い不思議の公開 不思議とは真に此れの事なり 世の中にこれ以上面白い不思議な事はありません と、書き込み、入場料は特等が参円、一等が二円、二等一円、三等七十銭。 プログラムも嶄新奇術と独創大魔術とにわけて載せ、嶄新奇術には、煙草の妙技、不思議な紙片、浮かれカルタ、自在の金輪、水中落花、出現フライキ、玉子の曲技、タンバリンなど、そして独創大魔術には掌中火炎の出現、美女の行方、平和の世界、隠現自在の妙術、懸賞銀貨つかみ、カリツ・オフ・アレフ、空中自在の物品、命令心理怪現術、魔の数字、と三人の得意芸を書き出し、ほかには、コミカルマジックと読心術も付け加え、荘六(マリニー)、妻の靖子、竜光(荘一)の三人の顔写真まで載っている。 「天勝一座の三日間はガラガラで空席が目立ったが、後の七日間は超満員だった」とは当時荘一と名乗っていたアダチ竜光の言葉である。当事者として割り引いて聞くとしても荘六にとってはまさに一世一代晴れの舞台だった。なぜなら後にも先にもワンマンショウはこれっきりだったのである。
この頃、松旭斎天勝の威光は想像を絶するものがあり、松旭斎と名乗っただけで出演料が二倍三倍になることもざらだった。その松旭斎という名前だけでも客が入ったわけであり、またそれを利用する悪徳興行屋も少なくなかった。もちろん偽の天勝も多く現れている。地方では天勝の名前は知っていても男か女かすら知らないくらいだから、顔を見ても分からないし、その舞台を観ても分かるはずがない。そんな偽物でも結構評判を呼んでいた。本物の巡業先をどこでどう調べるのか、その先々で、あるいは隣の街でと、本物と一緒になって巡業した一座もあったほどである。 しかし荘六は逆に、後にずらして、その地方を巡業した。天勝一座が巡業したなら、その地方で魔術が話題になっているのは想像できる。そこへ、天勝と同等の、いや、それ以上の魔術王が来るという事になれば、天勝以上の人気を集めることができるというのが、荘六の理論である。そして、それは成功した。たった一つの誤算は、木村マリニー一行が魔術師だという前触れにもかかわらず、どこへ行っても、奇術・木村マリニ―となっていたことである。興行主や客にとって、魔術はあくまでも天勝だったのである。はじめは何度も抵抗した荘六だったが、これだけはどうにもならなかった。しかし前触れだけは常に魔術師・木村マリニ―一行としていた。
この一行の楽屋乗り込みは、ちょっとした見ものだったいう。荘六、靖子、竜光の3人がそれぞれトランクを持って劇場に着くと、迎えた劇場側がまずびっくりした。 「荷物はいつ届きますか?」 「これだけですよ」 「出演の皆様は?」 「この三人ですよ」 「先生、今日の余興は四時間あるんですよ。三人で、これだけの荷物で大丈夫ですか?」 その前に興行した天勝一座が、大型の自動車に道具を山と積んで、しかも、踊り子も含めて30人もの人間がいただけに、劇場側が驚くのも無理はない。むろん、木村はそれを承知で、そうした演出をしているのである。劇場側はそこまでは分からない。すでに契約してあり、切符もさばききっているだけにどうしようもない。ただ、木村マリニ―一行(と言っても3人だけ)に任せるほかはない。 4時間たっぷりに客を飽きさせることなく公演が終わると、劇場側はうって変わった態度で挨拶し、決まって日延べを申し入れたという。 この時点で、局地的な瞬間風速ではあるが、木村マリニ―の人気、実力ともに、天勝一座を凌駕していたかもしれない。少なくとも荘六はそう信じた。 「これで東京に出て、どっちが本物の魔術か、どっちが日本一の魔術師か、あの天勝と勝負ができる」 荘六は、彼にとっての、その偉業に酔っていた。
角座の舞台から一年後、大阪北新地の花月倶楽部の盆替わり特別大興行の中で、国際的大魔術、東洋唯一の読心術として、木村靖子嬢、マリニー師一行数名(実は三人)が出演している。もちろん、「昨年角座開演の節、連日満員の光栄を得たる」との注釈付きである。 余談ながら同じプログラムに”東京落語界流行児”桂文楽の名も見える。
荘六、靖子、竜光の三人で舞台に出たのは実際には前後4年しかない。大正12年、竜光が独立し上京したからである。 竜光は上京後、15分から20分という持ち時間を「自在の金輪」といって、金属の輪をつないだり外したりする奇術だけで通した。竜光の十八番芸である。あれもこれもと手を広げるより、ひとつの得意芸で名前を打った方がいいという荘六の作戦だった。 9本の金輪を使って、当時まだ珍しかった燕尾服を着て、しゃべりながらやる竜光の奇術はウケにウケた。仰々しい口上を言ったり「うまくまいりましたら、拍手ご喝采を…」と時代掛かっていたことを言っていた今までの奇術師に比べて、竜光の奇術はより身近な芸で、寄席向きだった。 後年竜光は歳を取り9本のリングを持っているのがつらくなり、ここ十年くらいはやっていなかったが、東宝名人会の舞台で久しぶりに演じた。 リングを持って舞台に出た竜光は1本ずつ示して「どこかにタネがあるから、こうしてつながるんですよ」と、二つのリングをつないで見せ、それを客に渡してしまい、残り全部、客に改めさせた。種がどこかにあるはずだから、それを見破ってごらんなさいというわけである。 客がリングを引っ張ったり、叩いたりすると、竜光は「壊さないでくださいよ。それには私の生活が懸かっているんですから」と客を笑わせた。 客に渡したリングを返してもらうとそれをつないだり外したりし、人力車だとか、三輪車、風鈴といったいろいろな形を作ったりして、最後に9本全部つなげるというものだった。 不思議は不思議に違いないが、リングの奇術よりも話が非常に面白かった。そのしゃべり方には新潟訛りに、東京弁が交ざり、独特の間があり、当たり前のことを、当たり前にしゃべるだけなのに、客席には拍手と笑いが渦巻いていた。
弟子の竜光に続いて、荘六も東京進出を狙っていた。弟子がリングだけで、そんなに人気を集めているのなら、その師匠がもっとたくさんの魔術をやれば、もっと人気を集め得るだろうと考えたのである。荘六の打倒天勝に燃える一念が、そう考えさせたのであろう。 しかし、世の中ままならない。竜光が東京に来て半年もしないうちに、大正12年9月1日を迎えることになった。関東大震災に見舞われたのである。東京中の劇場は壊れているし、とても奇術どころではないと判断した竜光は、焼け残った奇術の道具かついでそのまま、郷里の新潟へ帰ってしまった。 びっくりしたのは荘六である。自分が付けてやった名前まで、勝手に変え、東京進出の足掛かりにと東京へやったのに、いくら大地震で劇場が無いからといって、大阪に戻ってくるのならともかく、そのまま新潟に帰ってしまうとは何事だ、と妻の靖子を相手に毎日毎日怒鳴り散らしていたという。
東京では舞台に立てないと判断したのは竜光だけではなく、天勝もそうだった。焼けた道具を早々と修復すると帝国ホテルの演芸場で華々しく”渡米さよなら公演”をやったあと、一座26名とともに横浜出帆の天洋丸でアメリカ巡業に出発してしまった。
荘六がそのことを知ったのはそれから一か月も後のことだった。荘六夫妻は名古屋から津、伊勢を巡業していた。それで情報が遅れたのである。
同じ地震に遭遇しながら、ライバルの天勝はアメリカに行き、弟子は新潟に引っ込んだ。そして自分はドサ周り。この事は荘六の自尊心を痛く傷つけた。荘六はあまりにも自分が惨めだった。気が付くと巡業の途中から何もかも放り出してそのまま大阪に帰ってしまった。その巡業がたまたま大阪の興行界の有力な元締めの口利きだったことを忘れていた。
荘六にとって、これがこの世界で後、致命傷となった。以後、荘六ははその元締めのいいのかかった劇場には出られなくなる。元締めに詫びを入れ、ほとぼりが冷めるのを待てばよいのだが、荘六も強情だった。
舞台に立てないということは、当然無収入となった。荘六はだから金儲けをするんだといって、写真屋を始めるのだった。
なぜ魔術師を廃業したのかは本当のところは分からない。
天勝に完敗してやる気をなくした、または荘六自身が人間愛に目覚め、刑務所の囚人たちの更生のために奇術を役立たせた。あるいは奇術師では儲からないため商売替えして写真屋になったなどなど人によって意見が違った。
はっきりと言えるのは、商売として舞台に立つのはやめたこと。写真屋を開いたこと。全国の刑務所を回って囚人たちに奇術を見せたこと。この3つは事実のようだ。
と同時に荘六会の指導に力を入れ、支部も、今までの大阪だけでなく、京都、神戸、和歌山、のほかに草津、明石、姫路などと増やし、大正末から昭和初めにかけて会員も合せて300人になった。
一方、新潟に戻ったアダチ竜光は東京から芸人が来たと歓迎され、地元ではお寺の住職のの兄という事で信用もあり、あちこちで頼まれ、ひっぱりだこになった。役場から役場へとまわって、時には一人で二時間も三時間やり、奇術のアダチ竜光として有名になり、新聞にも「新潟が生んだ天才奇術師」と大々的に報道されるなど、もてはやされていた。その頃、役場の助役の給料が85円、竜光の出演料は300円で、さらに米が五升も付いたほどのもてかただった。
もし、竜光が天勝一座の人間だったら、とてもこうはいかなかったであろう。天勝一座では、大道具を使ったものばかりで、とてもひとりではやれないし、また何人かでやったとしても、田舎ではそれに見合う舞台が無かった。荘六のもとで奇術を覚えたからこその成功である。
松旭斎天勝引退披露特別興行!!
もう二度と見られぬ天勝の大魔術!
という大きなポスターが東京の街々至る所に貼り出されたのは昭和9年の春だった。
天勝の引退興行は、新橋演舞場で3月19日より10日間打ったのをはじめ、宇都宮、栃木、郡山から東北をまわり、続いて九州、四国、中国から山陰を一巡、さらに満州、朝鮮、台湾と3年がかりのあいさつ回りだった。
「引退興行をわざわざやるなんて、のぼせるんじゃないよ。芸人は舞台に出られなくなったらそれでお終いなんだ」
荘六は、魔術師が商売でなくなったとはいえ、天勝へのライバル意識だけは残っており、天勝の噂が耳に入るたびに毒づいていた。
天勝と聞いただけでも不機嫌な荘六をさらに苛立たせるような手紙が、東京にいる弟の荘十二から届いた。荘十二は東宝の映画監督で、演出・監督として、こともあろうに天勝の映画『魔術の女王』を撮るというのである。その映画の魔術場面での指導を願いたいという内容だった。
前には一番頼りとする弟子が裏切り、今度は身内から、また裏切り者が出た。
荘六はこう考え、怒ったに違いない。
荘十二は荘六の天勝に対する気持ちを知らない。父荘平が幼い時に亡くなり、数多い兄弟の中で親代わりに面倒を見てくれた兄に対するせめてもの恩返しのつもりである。荘十二はあくまでも兄孝行だと思っている。
兄から、時間が無く、上京できないという返事があっても、素直に受け取っていた。だから映画のスタッフを連れてまで、大阪に出向いたのである。
「映画なら、いくらでもトリック撮影できるから、魔術だといっても客が納得しないだろ」
「魔術というのは臨場感が無くてはダメなんだ。舞台の前には生の客が必要なんだ」
「天勝が若い女優に演技を付け、指導するならともかく、五十、六十の婆さんが大写しじゃ、いくら化粧しても、皴が出るだろうよ」
兄の口から出る言葉は辛らつなものだった。それは映画批判であり、天勝批判だった。はじめは首に縄付けてでも東京に連れて帰り映画作りを手伝ってもらうつもりだったが、嫂から天勝と兄の関係を聞くと、そのまま帰ってしまった。
天勝一座総出演の映画「魔術の女王」は昭和11年3月に完成。日劇で封切りされ、たちまち大評判となった。
「引退興行が終わって、もう二度と見られないと思っていた天勝がまた見られる」
「しかも、今までやっていた魔術のほとんどが同時に見られる」
天勝ファンは大挙して押しかけた。荘六が指摘し、天勝自身も危惧していたトリック撮影云々も、天勝がそんなことをするわけもないというファン心理で吹き飛ばされてしまっている。
荘六はそれが気に入らなかった。弟の荘十二が映画の「魔術の女王」を監督したのも、その映画が大評判となり、大入り満員なのも、すべてが気に入らなかった。
その荘六はさらに追い打ちをかけるような事件が重なった。天勝の二代目襲名問題である。映画が封切られて一か月後、4月21日から10日間、天勝の引退興行と同じ新橋演舞場で「松旭斎天勝二代目襲名披露特別大興行」を催した天勝一座は、また三年がかりで全国巡業に出たのである。
「名人に二代無しとよく言うだろう。天勝は名人でも何でもないんだな。天勝と言っても、それほど御大層な名前でもあるまいに…」
荘六は口ではそう言うもの、天勝に先を越された悔しさで一杯だった。映画はともかく引退興行と二代目襲名、これは絶対にやるつもりでいたらしい。アダチ竜光は何度もそれを聞かされていたという。
しかし、その計画は成らなかった。
荘六は夢を夢と残したまま、昭和41年帰らぬ人となった。実に20年間も、引退興行と二代目襲名を思い続けていたのである。
荘六の死後、未亡人の靖子を盟主にして”日本奇術連合会”を結成しようという計画があった。荘六会の各支部を基盤にして、全国組織の奇術クラブを作ろうというものだった。
前例はある。日本奇術連盟がそれである。昭和32年長谷川智会長亡きあと、治子未亡人が後を継いだのである。それを真似しようとしたが、またまた計画倒れに終わっている。昭和の初頭、荘六会の全盛期ならともかく、戦後はもはや、抜け殻同然だったのだ。
木村荘六にとって、戦後の20年間はまるで蛇足だったように思う。酷な言い方だが、天勝と同じころ(天勝は昭和19年死去)、あるいはそれ以前に死んでいたら、という気がしないでもない。そうすれば、木村マリニ―という名を残せたであろう。
あれほど本人が”魔術師・木村マリニ―”を名乗っても、遂に認められず、彼の死後、そのことを知る人も少なくなった。
だが、彼の名前は、浅草の活動写真記念碑の中に刻まれており、”弁士・木村紅葉”として永久に記されている。
木村荘六(木村マリニー)年表

1894年(明治27年)
東京に生まれる。本名・木村荘六。
父・荘平(実業家・政治家)、兄弟に荘太(作家)、荘五(経済学者)、木村曙(作家・栄子)、木村春夫(新派女形)、荘八(洋画家・随筆家)、荘十(直木賞作家)、荘十二(映画監督)ら。

1914年頃(大正3年・20歳前後)
浅草・大正館で活動写真の弁士を務める。
来日した米国奇術師「マリニ(マリーニ)」の通訳を務め、奇術を覚える。

1919年(大正8年)
木村マリニーとして奇術師デビュー。
妻・靖子、弟子・中川一(のちのアダチ龍光、当初はアダチ荘一)とともに舞台に立つ。

1923年(大正12年)
関東大震災。
東京に進出していた弟子アダチ竜光は新潟に帰郷。荘六は裏切られたと激怒。

1920年代半ば(大正後期〜昭和初期)
大阪・南久宝寺に「マリニーキムラ写真館」を開業。
舞台奇術から写真業に転身する一方、奇術の指導・興行も継続。

1934年(昭和9年)
松旭斎天勝の「引退披露興行」に毒づく。ライバル意識を燃やし続ける。

1936年(昭和11年)
弟・荘十二が監督した映画『魔術の女王』(天勝一座出演)が公開、大評判となる。
これを苦々しく思う。

1936年(昭和11年4月)
天勝二代目襲名披露。荘六も「引退興行」「二代目襲名」を夢見ていたが実現せず。

戦前〜戦中
「荘六会」を結成し、各地に支部を持つ奇術団体を運営。
しかし戦後は衰退。

1945年以降(戦後)
写真館を継続しつつ奇術家としての活動は減退。
戦後20年は「蛇足」とも評されるほど不遇。

1965年(昭和40年12月18日)
死去。享年71。
生前望んだ「木村マリニー」の名は奇術史に残らず、浅草の活動写真記念碑に「弁士・木村紅葉」として刻まれる。

没後
妻・靖子を盟主に「日本奇術連合会」設立計画があったが、実現せず。
木村荘六(木村マリニー)年表(年齢入り)

1894年(明治27年)0歳
東京に生まれる。本名・木村荘六。
父・荘平(実業家・政治家)、兄弟に荘太(作家)、荘五(経済学者)、木村曙(作家・栄子)、春夫(新派女形)、荘八(洋画家)、荘十(作家)、荘十二(映画監督)ら。

1900〜1910年頃(明治33〜43年、6〜16歳)
香具師の手伝いや相撲取り見習いなどを経験。興行の世界に出入りし、博徒や芸人たちと交際。
与太(不良少年)と呼ばれる生き方をしていた。

1912〜1913年頃(明治45〜大正2年、18〜19歳)
読心術を行っていたと本人談。舞台の世界へ関心を深める。

1914年(大正3年)20歳
浅草・大正館で活動写真の弁士を務める。
来日した米国奇術師マリニ(マリーニ)の通訳を務め、奇術を習得。

1918年(大正7年)24歳
既に独立的に多くのマジックを覚えており、演芸界に足場を築き始める。

1919年(大正8年)25歳
木村マリニーとして奇術師デビュー。
妻・靖子と共演。弟子・中川一(のちのアダチ竜光)を迎える。
角座に出演、「読心術」「国際的大魔術」で評判を得る。

1920年(大正9年)26歳
大阪・北新地花月倶楽部に出演。「木村靖子嬢、マリニー師一行数名(実際は三人)」とプログラムに記載。
「昨年角座開演の節、連日満員の光栄を得たる」との注釈付き。
同プログラムに「東京落語界流行児」桂文楽の名。

1923年(大正12年)29歳
関東大震災。東京での活動に大打撃。
弟子アダチ竜光は新潟に帰郷し、荘六は「裏切り」と感じ激怒。
自らは地方巡業へ出るが、途中で放棄して大阪に戻り、興行元締めの信用を失う。

1924〜1925年頃(大正13〜14年、30〜31歳)
舞台での立場を失い、無収入となる。
「金儲けをする」と宣言し、大阪・南久宝寺に「マリニーキムラ写真館」を開業。
奇術師を事実上廃業。

1926〜1929年頃(昭和初期、32〜35歳)
写真館経営と並行して「荘六会」を組織、奇術の指導に力を注ぐ。
支部は大阪・京都・神戸・和歌山・草津・明石・姫路などに広がり、会員は約300名に。

1934年(昭和9年)40歳
松旭斎天勝が「引退披露興行」を行う。
荘六はこれに毒づき、天勝への対抗意識をますます燃やす。

1936年(昭和11年)42歳
弟・荘十二監督による映画『魔術の女王』(主演:松旭斎天勝)が公開、大ヒット。
荘六は苦々しく受け止める。

1936年(昭和11年4月)42歳
松旭斎天勝、二代目襲名披露。荘六も「引退興行・襲名」を夢見るが実現せず。

戦前〜戦中(40代〜50代)
写真館を継続しつつ奇術団体の運営に尽力。だが舞台の第一線には戻れず。

戦後(1945年以降、51歳〜)
終戦後は写真業を続けつつ、刑務所を巡って囚人に奇術を披露する活動を行う。
戦後20年は「蛇足」とも評される不遇な時期。

1965年(昭和40年)71歳
12月18日、死去。
生涯夢見た「魔術王」の名は残らず、浅草活動写真記念碑に「弁士・木村紅葉」と刻まれるに留まる。
講談調一人芝居構成(90分想定)
第一幕 天勝(約15分)

内容:大正時代の松旭斎天勝全盛期

MC(講談調)で「天勝女史、その華々しき技と名声」と導入。

天勝の舞台、全国巡業、華やかなポスターや看板、客席の熱狂を描写。

偽天勝、地方での混乱、興行屋の策略、天勝の圧倒的存在感を強調。

目で見て、耳で聞いた人々の興奮を通して、観客に天勝の凄さを伝える。

見せ場:

天勝の大掛かりな奇術や美女登場の演出描写。

MCによる「天勝とその偽物、誰が本物か」の語り。

第二幕 木村マリニ―(約15分)

内容:荘六夫婦のプロマジシャンデビュー

MCが木村荘六と靖子の舞台デビューを紹介。

大阪角座、花月倶楽部などの公演。

「国際的大魔術、東洋唯一の読心術」として看板に載ったこと、入場料やプログラム、観客の熱狂を描写。

荘六、靖子、弟子の荘一(三人一行)の軽妙なやり取りを演劇的に表現。

見せ場:

トランク3つで楽屋入りするシーン(劇場側の驚きと観客の期待)。

独創大魔術やコミカルマジックの演出紹介。

第三幕 荘六の生い立ち(約15分)

内容:青年期から弁士・マジシャンまでの成長

幼少期の家庭環境(父・荘平、兄弟)を描写。

香具師、啖呵売、相撲取りなどの職を転々とした青年期。

木村紅葉としての弁士時代。

マックス・マリニーとの出会い、魔術の習得過程。

靖子との出会い、結婚までの経緯。

見せ場:

与太坊時代の逸話(不良との交流や読心術)。

弁士として舞台に立つ様子の語り。

第四幕 弟子入り(約15分)

内容:中川一(後のアダチ竜光)の弟子入り

新潟から上京した役者志望・中川一。

木村春男を通して荘六を紹介され、弁士志望で大阪に訪れる。

荘六の説得で魔術師となる決意。

芸名「アダチ荘一」をもらう(後の竜光)。

見せ場:

荘六によるタバコ消失の実演指導(弟子入り初日の奇術特訓)。

「体で覚えろ」と弟子に伝える荘六の教育方法。

荘六会の様子(商店主や奇術仲間への披露)。

第五幕 角座での興行(約15分)

内容:小規模一行で天勝をしのぐ人気を獲得

大阪角座、花月倶楽部での公演詳細。

プログラム紹介:嶄新奇術・独創大魔術・コミカルマジック・読心術。

観客の反応、劇場側の驚き、満員の状況。

見せ場:

荘六、靖子、荘一の三人だけで4時間の舞台をやり切る描写。

弟子・荘一の「自在の金輪」のパフォーマンス(寄席向け演出)。

第六幕 天勝との勝負と転換(約15分)

内容:東京進出・関東大震災・引退

弟子を東京に送り、東京寄席で人気獲得。

東京進出を狙うも、大正12年9月1日関東大震災発生。

東京の劇場壊滅、弟子・荘一は新潟へ戻る。

荘六、失意のうち大阪に戻り、魔術師を事実上引退。

写真館開業、後進指導、荘六会の拡大。

弟子・荘一は芸名をアダチ竜光に改め、日本奇術界に名を残す。

見せ場:

荘六の失意と葛藤(毒づきながらも後進指導に専念)。

東京の劇場公演準備シーン、地震発生の混乱描写。

弟子の独り立ち、成功への道のり。

電球 ポイント:

MC(講談調)が舞台と観客を繋ぐ語り手として全編に登場。

幕ごとに時代背景・会場・舞台装置・観客反応を詳細に語る。

弟子とのやり取り、妻・靖子との会話で舞台に動きを出す。

一人芝居でも90分を埋めるため、エピソードや奇術演出描写を随所に挿入。
浪曲講談調 台本「魔術の女王に挑む、木村マリニ―の生涯」
第一幕 天勝

(MC)
さて皆の衆、今宵は大正の世に華々しく咲いた、あの魔術界の花――松旭斎天勝の話から参りましょうぞ。

大正の都、天勝一座の舞台は、まことに華やかでござった。大掛かりなイリュージョン、舞台いっぱいに広がる大道具、火と水と煙と光の饗宴。踊り子たちは絢爛豪華、時には肌の露出もいとわず、観客の目を奪い、耳を魅了し、心を踊らせる。団員は三十人以上、まるで一座が一つの国のようでござった。

しかし、木村マリニ―――いや、この時はまだ木村紅葉と名乗る男――は目を細め、心に怒りを燃やした。
「こけおどしの大道具、肌の露出、それが魔術か! 真に人の心を惑わす技とはこうではない!」
ライバル心が、ふつふつと胸に湧き上がるのであった。

第二幕 木村マリニ―

(MC)
さあ、ここに現れるは、後に木村マリニ―と名乗る男――木村紅葉。夫婦でプロマジシャンデビューを果たすのでございます。妻の靖子もまた舞台を彩るべく、相棒として名を連ねる。二人三脚、魔術王を目指すのでござる。

第三幕 荘六の生い立ち

(MC)
さて、この木村紅葉、いや、荘六。生まれは明治二十七年、東京にて。香具師、啖呵売、相撲取り――さまざまな職を転々とした青年期を経て、映画館の弁士として活動することになる。
大正八年、来日した米国の奇術師マリニの通訳を引き受ける。しかし英語はろくに分からぬ、しかも舞台経験も浅い。されど、引き受けたのが彼の行動力、いや度胸であった。

弁士としての話術を磨きつつ、マジックも見よう見まねで覚える。やがて妻・靖子との出会い、夫婦での舞台活動へ――まさに運命の序章でござった。

第四幕 弟子入り

(MC)
さて、物語は次の展開――役者志望の青年、中川一。新潟から上京するも、女形や新派役者としては芽が出ず、弁士になりたいと願う。そこで、知人の木村春男、いや実は荘六の弟にあたる男の紹介により、大阪の木村夫妻のもとを訪れる。

ところが――夫妻はちょうど興行に出ており、留守。やむなく追いかけ、弟子入りを願うと、荘六はこう言ったのでございます。
「弁士より、魔術師として学ぶ方がよい。やればできる。」

かくして青年は木村夫妻の弟子として、魔術の道へ。荘六は彼に芸名「荘一」を授け、技の手ほどきを始める。

第五幕 角座での興行

(MC)
さて、弟子荘一と共に、大阪角座の舞台に立つ日が参りました。たった三人――荘六、靖子、荘一。しかして、舞台の人気はうなぎのぼり。天勝一座の後に立つこの小規模な一行に、観客は舌を巻く。

ポスターにはこう書かれておる。
「特別大興行! 魔術王来る! 世界的大魔法マリニ―一行公演!」
日々超満員、四時間の公演も息つく暇なく進行――木村マリニ―、その名が大阪の魔術界に轟いたのでございます。

第六幕 東京公演と関東大震災

(MC)
時は来たり、木村マリニ―は弟子の人気を確かめ、満を持して東京での公演を準備。劇場の契約も整い、期待に胸躍る――その矢先。関東大震災が発生、東京の街は灰燼と化す。

木村マリニ―、絶望の中、大阪へ戻る。弟子の荘一もまた、新潟の実家へ退避。計画は水泡に帰し、二人の未来は別々の道へ。木村マリニ―はこの時、魔術師としての幕を閉じる決意を固めたのでございます。

第七幕 弟子の成功とマリニ―の余生

(MC)
さて、時は流れ――弟子の荘一は、やがて「アダチ竜光」と名を変え、奇術界にその名を残すことになる。しかし、それはまだ誰も知らぬ秘密でござる。

木村マリニ―、かつての魔術師としての名を心に秘め、再び木村荘六として生きる。舞台の世界には戻らず、靖子とともに写真館を営み、後進の指導に心を注ぎ、もどかしい日々を送ること四十四年――昭和四十一年、その生涯を閉じた。

木村マリニ―として活躍したのは、わずか五年。今やその名を知る者はほとんどない。しかし、皮肉なことに、弁士としての名「木村紅葉」は浅草の活動写真記念碑に永遠に刻まれ、世に残るのでございました。
講談高座台本「魔術の女王に挑む、木村マリニ―の生涯」
第一幕 天勝

(語り)
さて皆の衆、耳をかたむけよ、今宵は大正の世に花咲いた、魔術界の華――松旭斎天勝のお話から参る!

大正の都、天勝一座の舞台、まことに華やかでござった。
大掛かりなイリュージョン、舞台いっぱいに広がる大道具、火と水と煙と光の饗宴!

踊り子たちは絢爛豪華、時には肌の露出もいとわず、観客の目を奪い、耳を魅了し、心を踊らせる!

団員は三十人以上、まるで一座が一つの国のようでござった。

しかし、木村マリニ―――いや、この時はまだ木村紅葉と名乗る男――は目を細め、心に怒りを燃やす。

「こけおどしの大道具、肌の露出、それが魔術か!
真に人の心を惑わす技とはこうではない!」

ライバル心が、ふつふつと胸に湧き上がるのであった。

(間)

第二幕 木村マリニ―

(語り)
さあ、ここに現れるは、後に木村マリニ―と名乗る男――木村紅葉。

妻の靖子もまた舞台を彩るべく、相棒として名を連ねる。
二人三脚、魔術王を目指すのでございます。

第三幕 荘六の生い立ち

(語り)
さて、この木村紅葉、いや、荘六。

生まれは明治二十七年、東京にて。
香具師、啖呵売、相撲取り――さまざまな職を転々とした青年期を経て、映画館の弁士として活動することになる。

大正八年、来日した米国の奇術師マリニの通訳を引き受ける。
しかして英語はろくに分からぬ、しかも舞台経験も浅い。それを承知で引き受けた――それが木村紅葉、いや、荘六の度胸であった。

弁士としての話術を磨きつつ、マジックも見よう見まねで覚える。
やがて妻・靖子との出会い、夫婦での舞台活動へ――運命の序章でござった。

(間)

第四幕 弟子入り

(語り)
さて、物語は次の展開――
役者志望の青年、中川一。新潟から上京するも、女形や新派役者としては芽が出ず、弁士になりたいと願う。

知人の木村春男――いや、荘六の弟の紹介により、大阪の木村夫妻のもとを訪れる。

ところが夫妻はちょうど興行に出ており、留守。
追いかけ、弟子入りを願うと、荘六はこう言った。

「弁士より、魔術師として学ぶ方がよい。やればできる。」

かくして青年は木村夫妻の弟子となる。
荘六は芸名「荘一」を授け、技の手ほどきを始める。

(間)

第五幕 角座での興行

(語り)
さて、弟子荘一と共に、大阪角座の舞台に立つ日が参りました。

たった三人――荘六、靖子、荘一。
されど、舞台の人気はうなぎ登り。天勝一座の後に立つこの小規模な一行に、観客は舌を巻く。

ポスターにはこう書かれておる。
「特別大興行! 魔術王来る! 世界的大魔法マリニ―一行公演!」

日々超満員、四時間の公演も息つく暇なく進行――木村マリニ―の名が大阪の魔術界に轟いたのでございます。

(間)

第六幕 東京公演と関東大震災

(語り)
時は来たり、木村マリニ―は東京での公演を準備。劇場の契約も整い、胸躍る日々――その矢先。

関東大震災が発生、東京の街は灰燼と化す。

木村マリニ―、絶望の中、大阪へ戻る。
弟子の荘一もまた、新潟の実家へ退避。
計画は水泡に帰し、二人の未来は別々の道へ。

木村マリニ―は、この時、魔術師としての幕を閉じる決意を固めたのでございます。

(間)

第七幕 弟子の成功とマリニ―の余生

(語り)
さて、時は流れ――弟子の荘一は、やがて「アダチ竜光」と名を変え、奇術界にその名を残すことになる。
しかし、それはまだ誰も知らぬ秘密でござる。

木村マリニ―、かつての魔術師としての名を胸に秘め、再び木村荘六として生きる。
舞台には戻らず、靖子とともに写真館を営み、後進の指導に心を注ぐ。
もどかしい日々を送ること、四十四年――昭和四十一年、その生涯を閉じた。

木村マリニ―として活躍したのは、わずか五年。今やその名を知る者はほとんどない。
しかし、皮肉なことに、弁士としての名「木村紅葉」は、浅草の活動写真記念碑に永遠に刻まれ、世に残るのでございます。
マックスマリニは1913年が初来日。3/26に帝国ホテルでショーを演じた。妻はリジー。
2度目の来日は1919年8/1 横浜グランドホテルに妻と6歳の息子のオゼールと当宿し、8/7朝日新聞社で、銀座の交詢社にてオゼールと読心術を披露。
8/17から3日間は有楽座に立つ。午後7時開演、特等席3円、一等2円50銭
8/29.30京都南座出演 魔術師ナポレオンマリニー
9/30から3日間は横浜座、10/4から新富座に5日間、午後6時開演 出演料は4000円
3ヶ月滞在 10/12横浜港からサイベリア丸で帰米
新富座で共演したのが木村マリニー

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