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アコースティッククラブ25時コミュの五月のそよ風をゼリーにしてもってきてください

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「五月のそよ風をゼリーにしてもってきてください」立原道造


「星とたんぽぽ」 金子みすズ

青いお空の底ふかく
海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる
昼のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ  
  見えぬものでもあるんだよ

散ってすがれたたんぽぽの
瓦のすきに だァまって
春のくるまでかくれてる
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ
  見えぬものでもあるんだよ

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昭和初期に活躍した叙情詩人の第一人者。東京日本橋に生れる。大学の専攻は建築学。高校時代から短歌をつくったが、三好達治の4行詩に感動して詩作に入る。1937年(23歳)、『萱草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』の2つの詩集を刊行する。立原は詩集を楽譜のように自ら装丁し、収録詩をすべて音楽的な響きを持つソネット形式(十四行詩)とした。彼が愛した信州の雄大な自然に、自身の心を重ねてうたいあげた、はかなくも美しい珠玉の詩群は、読み手の心に深く沁み込み、堀辰雄、室生犀星らによって将来を期待されたが、詩集発表の翌年暮れに肺結核が悪化し入院する。立原は見舞いに来た友人に「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい」と願ったが、その5月まで命は持たず、3月29日に24歳の若さで夭折した。死から8年後、堀辰雄が第3詩集「優しき歌」を編んだ。青春の憧れや痛みがうたわれた立原の詩集は多くの若者に愛され、今でも命日近くの日曜日には、立原を慕う人々によって「風信子忌(ヒアシンスキ)」が催されている。墓は谷中墓地に近い多宝院の壁際にある。

萩原朔太郎は立原の死後、「不思議なことは、彼の肉体の亡びた後でも、彼の抒情詩のエスプリだけが、不易に実在して居る」 (不易、ふえき=変化のないこと)と評したが、萩原がこの言葉を語ってから60年以上経った現在でも、立原の繊細で透き通った音楽は詩集から鳴り響き続けているように思う。


●またある夜に(抜粋)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
なげやのやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに


●落葉林で

あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶えて行つた

私は 身を凭(もた)せてゐる
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる

私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに

雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに

私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらうか


●ひとり林に‥‥

だれも 見てゐないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥

通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう

草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる

うたふやうな沈黙(しじま)に ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる


http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-sijin.htm
ゴロンとくつろぐ立原道造。こちらも死の前年に撮影。


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