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音楽書を読み込もう!コミュの『音楽と社会』(バレンボイム/サイード:みすず書房)

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ピアニストであり指揮者でもあるダニエル・バレンボイムと文学や文化について批評を展開する批評家エドワード・サイードとの6編の対談を軸にして、音楽と社会について論じている本です。厳密には音楽書とは言えないかもしれませんが、「音楽家として行動する」ということが哲学的にはどういう意味を持つのかを考えるうえでは、様々な示唆を与えてくれます。

私が読んだ限りでの印象に残った発言をピックアップし、それがどんな文脈で言われているか、どういう意味で言われているか等の解説を織り交ぜてご紹介します。

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るんるん教育とは大人としての生活を立派におくれるように子どもたちに準備させることだ。どのように行動し、どういう人間をめざすべきかを、子供たちに教えるものだ。他のすべてのことは情報であり、とても単純な方法で学ぶことができる。音楽を上手に演奏するためには、頭と、心と、気分のあいだのバランスをとる必要がある。この三つのどれか一つでも欠けていたり、あるいは強すぎたりすると、それは使いものにならない。どうしたら人間らしくなれるかを子供たちに示すのに、音楽にまさる方法があるだろうか?(バレンボイム)(P32)

【解説】
バレンボイムは「教育」と「情報」とは別だという意味のことをこの本の随所で述べています。バレンボイムによれば、知識を与えることは単に情報提供に過ぎず、それは教育ではないということでしょう。


るんるんベートーヴェンが精神的に強かったというのは、耳が聞こえなかったからだけではない。超人的なチャレンジを克服しなければならなかったからだ。音楽をつくるという行為そのものが、自然の物理法則の多くを拒絶しようとするものであるがゆえに、勇気ある行為なのだ。(バレンボイム)(P41)

【解説】
バレンボイムはピアニストであり指揮者ですから、音楽へのコミットメントは広い意味での「演奏者」という形でのコミットメントになります。バレンボイムは、演奏者として行動するときの「勇気」について随所で主張しています。


るんるん自分が人に教えたり、ものを書いたりするとき、門弟が欲しいと思ったことは一度もない。教師や作家や知識人のなかには、しきりに門下を育てたがる人たちがいるようだけれど、そういうことには全然興味がわかない。教師として僕にできる最高のことは、自分の生徒たちに僕をある意味で批判させることだろう。(サイード)(P91)

【解説】
サイードのこの発言に接したとき、私はヴァイオリニストの『堀米ゆず子:未来へのおくりもの』と題するテレビ番組における堀米さんのある発言を思い出しました。堀米さんは現在53歳、指揮者のご夫君と娘さん、息子さんの4人でベルギーに暮らしています。日本を含め世界各国で演奏活動するほか、地元ベルギーの音楽大学の客員教授に2002年から着任し、後進の指導をしておられます。

学生を指導するということに関しては、堀米さんは、当初例えば「自分が苦労してあみだした演奏技術や演奏の奥義を、将来自分のライバルになるかもしれない人になんで教えなきゃいけないのか」という考え方から、ためらいがあったそうです。ところが、実際に教育活動をしてみて、教えた生徒が自分が教えたことを消化してめきめき上達し、成果が実感できると、本当に嬉しいと感じるようになったそうです。

このことは、教わる側にとっても重要な教訓を与えていますね。教わる側にしてみれば、上達することがすなわち教師への恩返しであるといえそうです。このことを教師の立場から言うと、サイードの「教師として僕にできる最高のことは、自分の生徒たちに僕をある意味で批判させることだろう」ということになりましょうか。

番組では堀米さんの子弟である日本人男子学生が登場し、興味深いコメントをいっていました。それは、教師というものは、生徒が進むべき道にともし火をともしていくような存在だというのです。そのともし火がともされた道に生徒が自分の努力で進んでいくのです。生徒がその道を進む決意を固めるには、生徒の、教師の人格に対する信頼が重要になる。「この人が進んできた道ならば、自分もあとを追って大丈夫だろう」そういう信頼が重要になるというのです。


るんるん僕はサイクルというものに大きな信頼を置いているよ。作品は一つのサイクルとして提示されるべきものだと思う。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全作品を連続公演するピアニストは、それぞれの個別ソナタについて、明らかにずっと幅広く理解しているはずだ。(バレンボイム)(P98)

【解説】
この場合の「サイクル」とは同一作曲家の同一カテゴリーの作品群全体を指します。例えばベートーヴェンの交響曲なら1番から9番までの全体、ピアノソナタなら1番から32番までの全体です。バレンボイムは、演奏家が演奏会のプログラムを組むときは、個々の作品をアラカルト的に並べる組み方だけでなく、つねに「サイクル」を念頭においた組み方、具体的には例えば「ベートーヴェン交響曲全曲演奏会」のような形式も考慮するべきだとしているわけです。


るんるん本物であるというのが過去についてのことだと考えるのは、大きな誤解をまねくと思う。それは現在についてのことだ。現在がどのような過去を見て、どのように過去を構築するか、どのような過去を望んでいるのかということについてだ。(サイード)(P170)

【解説】
この場合の「本物」とは、いわゆる「オーセンティシティ」のこと、すなわち、楽曲の演奏に先立って、歴史考証的に「正しい演奏とは何か」を考えて演奏に臨むアプローチのことを指すわけです。このため、私たちは「オーセンティシティ」とは過去についてのことだと考えてしまいがちです。サイードはここに警鐘を鳴らしており、「オーセンティシティ」とは現在の視点からの過去の構築であると言っているわけです。


るんるん今日の世界では、僕らに与えられている選択は、一種のグローバリゼーションか―誰もが同じであり、誰もが同じ音を出す―さもなければファシスト的な、ナショナルな固有の価値を維持するかどちらかだ。だがこれは両方とも間違っている。(バレンボイム)(P208)

【解説】
バレンボイムは、グローバリズムも偏狭なナショナリズムも両方間違いである理由として、例えばドイツ風サウンド、フランス風サウンド、イタリア風サウンド等の素晴らしさが誰にとっても理解でき、表現できる点にあるとしています。ところで「ナショナリズム」とは何か。この問題について、バレンボイムは、巻末のエッセイで、次のような発言を紹介しています。


るんるん愛国心をナショナリズムととり違えてはなりません。愛国者とは自分の祖国を愛する人です。ナショナリストとは他の人々の祖国を軽蔑する人です。(ヨハネス・ラウ)(P234)

【解説】
ヨハネス・ラウはドイツの大統領。この発言とほぼ同様のことは藤原正彦が『国家の品格』の中で主張しています。ヨハネス・ラウの場合は、「ナショナリストとは他の人々の祖国を軽蔑する人だ」とすることにより、愛国者と区別しようとしている点が興味深いと思います。

なぜかというと、もしその人が真の愛国者ならば、他国の人が自分の国を愛する気持ちに対しても共感をもって理解できるはずだからです。ところがナショナリストの場合はそうならずに、「他の人々の祖国を軽蔑する」方向に思想が向かうというのです。
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なお、この本は、英語版も手に入るようです。タイトルは
「Parallels and Paradoxes」
です。

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