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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのヤハウェの言葉により産まれたイエス

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とある教会のクリスマス礼拝では、普段は共感福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を用いるが、今回は、ヨハネ序文の「言葉(ロゴス)が肉となる」という所から引用された。
言葉が肉となったのが、創世記の天地創造の概念を、使徒ヨハネが逐語霊感的に表した序文でもある。
父ヤハウェが救い主メシアたるイエスを聖霊たるキリストにより生んだ。
ヨハネ福音書には「栄光」が良く用いられる。キリスト教会から信徒への手紙においては、「「敬具」「早々」「かしこ」などにあたる締め言葉に「栄光在主」(主に栄光あれ)が用いられる。
ヨハネ福音書・ヨハネ書簡・ヨハネ黙示録に、逐語霊感表現が表されている。

コメント(28)

ヨハネ福音書 口語訳1955
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
***
人となりたる神のことば、イエス・キリスト
ですね。
ヤーウェのことば「から」ではなく、ヤーウェのことば、ロゴスそのものとされている気もします。
ことばから生まれたのがこの世界かと?
ヨハネ福音書1:1
1:1 εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

εν in 〜において 与格支配前置詞
αρχη 初めに
ην was あった 
λογος ロゴス(全ての根源、本来対訳はない)言葉、神託、真理
και and そして
προς 〜のそばに、対格支配前置詞
θεος 神、デウス

初めにロゴスがあった。ロゴスは神の傍らにあった。神はロゴスであった。
1:14 言は肉となって、
και ο λογος σαρξ εγενετο

σαρξ 肉、肉体
εγενετο なった

ロゴスは肉体となった。

肉体となったロゴス(神の言葉)
=キリスト
>>[5]
良い質問ですね。
有名な文学作品にも下りがあります。
まず、ロゴス哲学の通説から
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9-152729#:~:text=%E7%90%86%E6%80%A7%EF%BC%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%EF%BC%8C%E7%90%86%E6%B3%95%EF%BC%88%E6%B3%95%E5%89%87,%E7%A5%9E%E3%81%A8%E5%90%8C%E4%B8%80%E8%A6%96%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
理性,言語,理法(法則),比例,定義などさまざまに訳されるギリシア語で,古代哲学,神学における重要な概念。ヘラクレイトスはロゴスを万物の生成を支配する永遠の理法とし,ストア派は世界を合目的的に支配する原理として神と同一視した。なおストア派は個物を形成する能動的理性を種子的ロゴス(ロゴス・スペルマチコス),分かたれて個々の人間に内在する思想 ratioとしてのロゴスをロゴス・エンディアテトス,ことばとして表出された oratioとしてのロゴスをロゴス・プロフォリコスと呼んだ。ユダヤ神学とギリシア哲学の融合を試みたアレクサンドリアのフィロンは,ロゴスを神と同一視せず,神と世界とを仲介し世界形成に関与する神的存在とした。これは『ヨハネによる福音書』における神のひとり子イエス・キリストとして受肉したロゴスと近似しており,直接の依存関係はないがキリスト教神学に与えた影響は大きい。
+++
ヴェノーヴァの練習中なので、
教会が終わったらまた。

ゼロポストの

>父ヤハウェが救い主メシアたるイエスを聖霊たるキリストにより生んだ。

どこの異端の言葉なんだろ?

キリスト教の三位一体(カトリック・新教諸派)・至聖三者(正教)とはまったく別なもの。

>>[7]
いわゆる多数派でなく、少数派の考え方ですね。
>>[5]

>ユダヤ神学とギリシア哲学の融合を試みたアレクサンドリアのフィロンは,ロゴスを神と同一視せず,神と世界とを仲介し世界形成に関与する神的存在とした。」
アレクサンドリアのフィロンのロゴス哲学と聖書解釈はキリスト教との関係が深いようです。
まずまずのレポート
https://seesaawiki.jp/w/minatetu/d/%A5%D5%A5%A3%A5%ED%A5%F3
>>[8]

ゼロポストの人はたしか、「ウェストミンスター信仰告白」「ウェストミンスター大教理問答書」「ウェストミンスター小教理問答書」(この三冊を一冊本にして「ウェストミンスター信仰基準」と表題を付けて新教出版社から出ている)を用いる教会の人だったと思いましたが、ゼロポストに書いている内容は全くそれとは違いましたね。

>>[9]

違う。
アレキサンドリアのフィロンの思想は、
キリスト教も影響を受けたプラトン主義との融合の産物。
>>[11]

「フィロンのロゴス論「フィロンのロゴス論の真の意図は、伝統的なへブライ的神観から、神と世界、啓示と理性、信仰と哲学との二つの異質的原理が、なんらの第三者的中間者を媒介し、あるいはまた直接的に連続することなく、それぞれ絶対的断絶性を保持しつつ、しかも相互に関係しうる原理を確立することであったとみるべきであろう」(平石、285)、「神は世界を創造し、摂理をもって支配するが、世界もまたこのような神的生命の創造過程に参与しているのである。フィロンはこのような神と世界との「非連続の連続」の関係を成立せしめる原理を、象徴的相関性としての「神のロゴス」として把握したのである」、「ロゴスの二重性」、「フィロンの「ロゴス」は神の世界創造の宇宙論的原理であると言いうるであろう」(286)、「第二に、神がこのような純粋思惟内容の中から、この感覚的世界の範型として、自己の外部に表出したいわゆるイデアの総体としての「英知的世界」を意味する。フィロンが本来的意味で「神のロゴス」と呼ぶところのものは、この第二の意味の「ロゴス」であること」、「フィロンはイデアをプラトン哲学の本来的意味で理解し」(286-297)、「第三に、以上「英知的世界」の模写としてのこの感覚的世界が造られたということは、「神のロゴス」がこの世界に内在化され、「世界法則」、あるいは「人倫の原理」として、万物を結合、保持、存続せしめる力として働くことを意味するのである」(287)。「フィロンがプラトンから学んだ「範型─模写」の図式は、世界創造における創造者と被造物との根源的な象徴的関係性を示す基本的図式として、新たな意味が付与されるに至ったのである」(288)。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://tillich.web.fc2.com/sub5an3.pdf&ved=2ahUKEwiDmeWgmeXrAhWROnAKHcOHCrkQFjAKegQICBAB&usg=AOvVaw2mbA4LxvKlqAVjRXxtx2Ck&cshid=1599968068788
>>[12]

日本語の公開論文は一つしかない。
引用されている平石先生の本も唯一の日本語本。
フィロンは45年頃没だから、ヨハネは著作を知っていた可能性がある。
>>[13]
フィロンの哲学は本来のブラトンの再解釈にあったとも云われている。特に「ティマイオス」の影響が大きいとされる。
https://philosophy.hix05.com/Plato/plato06.nature.html
無からの創造とは異なり、創造論としは0番の理解に近い。
>>[11]
キリスト教神学では神だと思いますが。
特に、三位一体における御子、キリストとして解釈される。ヨハネ福音書が代表
>>[20]

真理なるロゴスという意味での神だと思います。
ここからキリスト者には聖書の言葉を神聖視しすぎるところがありますが。
聖書の言葉は人間が伝承し書いてますからね。
>>[20]

ことばと訳されてるが、ロゴスは知恵や論理、理性を表すから。
まあ、プラトンの「ティマイオス」にある、
「創造者がまず世界霊魂を創造し、世界霊魂が世界を創造した」
という考えからの援用。

えっ?
アラム語の「ことば」を表す単語には、
そんな意味はないって?

人の子への冒瀆は赦されるが、
聖霊への冒瀆は赦されない(震え声
>>[22]
確か、荒井、田川先生あたりが、イエスの言葉が大胆なので付加したと解説しているところだと思います。
イエスにキリスト教の聖霊の概念はなく、人の子も単に自分のことを示したと私は思いますが。
初代教父はともかくフィロンの解釈も大雑把に、自分たちのイエス解釈にしたわけで。
「個の誕生」という本にもキリスト教の解釈はかなり乱暴と書いてました。
>>[20]
>言葉が神…ってよーわからん。 哲学ではなく、信仰。ヨハネ、教父らはそう信じているという証。
>>[23]

全然違うよ。

"1〜18 ≪ロゴス讃歌≫ 有名なロゴス讃歌であるが、構成は複雑である。三人の書き手の文章が組み合わさっている。すなわちこれはもともとどこかで(九分九厘洗礼者ヨハネの支持者の間で)広まっていたロゴス讃歌で、詩文である。詩文と言っても、古典ギリシャ語の韻文のようにきっちり韻をふんだものではなく、ヘブライ語の詩にあるような、リズムのいい散文詩といったところだが、他の同種の詩文(マリアの讃歌、ルカ1・16以下。など)と比べれば、非常にリズムがよく、明瞭に散文詩である。そのロゴス讃歌をこの福音書の著者が冒頭で引用したのだが、そこに散文で註を書き加えている(6-8節)。こちらはいかにも説明的な散文だから、一目で区別がつく。更にそこに、後になってこの福音書全体にいろいろと大量に挿入文を書き加えたいわゆる「教会編集者」が、自己流のドグマを書き加えている(11-13節、15節後半-18節)。こちらも明瞭に散文であるから、本来の詩文とはすぐに見分けがつくが、福音書著者の説明文と似たような散文だから、翻訳では文体的にすぐには見分けがつかない。・・・
 このロゴス讃歌が冒頭に置かれているものだから、ロゴス思想こそヨハネ福音書の根幹だと思っておいでの方が多いが、それはひどい誤解である。・・・序説的に問題を一つだけ片づけておこう、ということ。著者がこの詩を冒頭に引用した趣旨は8-8節にはっきりと説明されている。洗礼者ヨハネを信奉する人たちがこの詩を洗礼者ヨハネにあてはめ、彼こそその詩で言うところの「ロゴス」、「光」であった、と礼賛していることに対して、そうではなく、洗礼者ヨハネは「ロゴス」「光」について証言することを目的としていただけであるのだから、彼自身を「ロゴス」「光」として崇めてみても意味はないと批判しているのである。重要なことは、そのヨハネが証言したイエスのことを知ることだ、と。この著者はその目的のためだけにこの詩文を引用しているのであって、自分で「ロゴス」思想なるものを言い立てたり、展開したりするつもりはまったくない。現にその証拠に、この詩文の後、この長い文章の中で、この著者は「ロゴス」という理念のことはすっかり忘れてしまっている。もはや一度もこの理念に言及することさえしない(logos という語は出てくるがごく普通の普通名詞としての「言葉」のいみである、8・43ほか)。彼はその種の宗教的思弁の標語をかついで、ああだこうだと思弁を重ねるような趣味は全くもっていないのである。
・・・"

「新約聖書 訳と註 5 ヨハネ福音書」(田川建三訳著 作品社 pp.77-78)
訂正

>著者がこの詩を冒頭に引用した趣旨は8-8節には

著者がこの詩を冒頭に引用した趣旨は6-8節には
>>[25]
確かに田川先生の意見は参考になりますね。
ヨハネのイエスは共観福音書以上に歴史的に蓋然性が高いと思える部分もあります。
しかし、私はそれは資料の特性であり、編集長ヨハネ者ヨハネの思想は初歩的ギリシア哲学に有る気がします。
>>[27]

聖書学者によっていろいろな学説があるでしょうね。

田川建三氏の説も一つの説として参考にして、他の学者の説も見てみるのがいいかもしれないですね。

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