ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの新新約聖書。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
CJCの記事より。

新約聖書に漏れているものがあるのではないか、と考えた米国の学者や各派指導者19人で組織された委員会が新たに10点を加えたものを『新新約聖書』としてホートン・ミフリン・ハーコート社(本社ボストン)が3月5日発行した。印刷本の他にキンドルで電子書籍としても読める。

新約聖書とは何か、は現在の日本でも各教会が一致しているわけではない。日本聖書協会が新共同訳に「続編付き」も出していることでもそれが分かる。
キリスト教最初期に成立した文書でも、教会が正典と認めなかったものはあり、宗教改革者のマルチン・ルターも聖書の範囲には独自の見解を持っていた。「新旧両訳合わせれば聖書の数は66」と教え込まれたのはプロテスタント教会だけにことだったのだ。

米国の聖公会、カトリック教会、長老教会(PCUSA)、合同メソジスト、UCC(合同キリスト教会)、福音ルーテル派などの指導者と、ユダヤ教ラビなどキリスト者でない人合わせて19人が『新新約聖書』を策定するための委員会を立ち上げ、その成果を公表したもの。

今回加えられた10点の中には、トマスによる福音書、マグダラのマリアによる福音書、パウロとテクラ行伝などが含まれている。
ハル・トーシグ委員長は「人びとの霊的な旅の養いとなり、刺激を与える。初期キリスト教について公衆がより広い視野を持てることも重要だ」と語っている。
同委員長は、ユニオン神学校の新約聖書客員教授。リコンストラクショニスト・ラビニカル大学初期キリスト教教授、フィラデルフィアのチェストナット・ヒル合同教会担任牧師。

…だ、そうです。

トマスによる福音書が加わると、キリスト教は大分性格を変えてしまいますね。
クリスチャンの皆さんはどう思いますか。

コメント(50)

>>[9]

>続編は新約ぢゃないぞw

まぁまぁ。一応、新約と旧約のブリッジ的な意味合いもありますので。(笑)
>>>格調高く美しい日本語訳を目指す。・義務教育を終了した日本語能力を持つ人を対象とする。・言語と文化の変化に対応し、将来にわたって日本語、日本文化の形成に貢献できることを目指す。

原語の直訳や、教会内だけでしか通用しないクリスチャン用語を排して、受け入れ先である日本語本来の自然な言い回しを尊重する方向を目指すという意味合いなのでしょうが、「言うは易し、行なうは難し」です。


>>>この数十年における聖書学、翻訳学などの成果に基づき、原典に忠実な翻訳を目指す。底本として、旧約(BHQ)・新約(UBS第5版)・旧約続編(ゲッティンゲン版)など、最新の校訂本をできる限り使用する。・文学類型の違いを訳出して原典の持つ力強さを伝達する努力はするが、聖書が神のことばであることをわきまえ、統一性を保つ視点を失わないこととする。固有名詞や重要な神学用語については『新共同訳』のみならず、過去の諸翻訳も参考にして、最も適切な訳語を得るようにつとめる。

『共同訳』から『新共同訳』に移行する際に、ギリシャ語原典・ヘブライ語原典の固有名詞をどのように訳すかという、共同訳翻訳委員会の固有名詞一覧表が出版されたのですが、いったいあの作業は、まったく白紙に戻すのでしょうかねー??

基本的に全部原典に準拠すると、共同訳の固有名詞に戻ることになるのですけど、そうすると、一時期、カトリックの書籍にあった、イシャヤとか、イルメヤとか、シュロモーとか、エボディアとか、フォイベとか、リノスとか、ティモテオスとかになるんかしら。。。

新共同訳も、けっこうヘブライ語の対句や、ヘブライ語のぶっきらぼうな名詞を並べただけの表現とか、それなりに文学類型の違いはよく出していると思うのですけれど、「原典の持つ力強さ」を、どういう日本語の表現にするかは、当代随一の文学表現に優れた作家の協力が必要。

いったいどんな人を文学顧問に迎えるんでしょう。

どうせなら、俳句や和歌の詩人を顧問にいれたらいいと思うのですが。

エレミヤの哀歌を、原文から短歌で訳すくらい、気合をいれた翻訳は、聖書協会じゃ無理でしょうね〜〜〜

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%AD%E6%AD%8C%E8%AA%BF%E5%93%80%E6%AD%8C-%E5%B0%8F%E6%B2%B3-%E4%BF%A1%E4%B8%80/dp/4764273039/ref=sr_1_61?s=books&ie=UTF8&qid=1366196359&sr=1-61&keywords=%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%A4
 新しい聖書の翻訳には、是非注釈を付けて欲しいと思います。
 新共同訳を根本的に変える必要はないのであって、明らかな誤訳を訂正し、最新の研究の成果を反映させるだけで十分だと思います。
>>[13]

僕たちカトリック信者は、「典礼用・朗読用」ならそれ用の小冊子がありますし、ミサに行けばパンフみたいに置いてありますからことさら気にする必要はないですし注釈もついていますが、プロテスタントの皆さんはどうなさるのでしょう。

誤訳があるのなら、翻訳本としては由々しきことで即座に改訂版またはエラッタを配布すべきですけど、新共同訳では「情熱の神」とか「なんという空しさ」とか、意図的な改変のようなものが見られます。

注釈が付いていたら、礼拝説教が「牧師の見解による注釈批判」ばかりになって、困らないかとか。

そんなわけで、通読用としては移行そのものが困難なのではないかと思われます。
> 13 佐伯さん
>  新しい聖書の翻訳には、是非注釈を付けて欲しいと思います。

 共同訳の時のように、カトリックに頼むことだね。
JBSの中の人たちは大方多分「やってはいけないこと」と認識していて、
また「新旧約と続編付きを完全別版に刷る予算的余裕も
注釈が出来上がるのを待つ時間的余裕もない」と言うと思う。

こんな情報がありました。

Hal Taussig
http://www.rrc.edu/administration/reverend-hal-taussig-phd

A new New Testament
http://www.amazon.com/New-Testament-Traditional-Discovered-ebook/dp/B008LQ1B44

正典新約聖書の成立の背景事情を知るために、より広い歴史的な周辺文献を、学者だけでなく、一般のクリスチャン・非クリスチャンに英語で読めるように提供するということのようです。

Hal Taussigが客員教授を務める大学というのも、リベラル神学で知られた大学なのですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Union_Theological_Seminary_%28New_York%29
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E6%A0%A1
>>[14]

 「典礼用・朗読用」小冊子は、新共同訳とは別の翻訳なんですか?
>>[18]

>「典礼用・朗読用」小冊子は、新共同訳とは別の翻訳なんですか?

新共同訳ですよ。
ただ、聖書の翻訳などということにに興味を示す人が少ないので、ある日突然「標準訳」に変わっても無問題ということですね。気が付かないんじゃないかなきっと。

教会の教えが根本から変わるわけではないですし、御聖体は常に安置されておりますので。


>>[19]

 カトリックでは、「典礼用・朗読用」小冊子(新共同訳)に注釈が付いているんですね。
 それは信徒に対する親切であり、プロテスタントも見習うべきだと思います。
聖書と典礼

実物は、こんな感じです。ちょっと古いですが、手持ちのものから。
>>[21]

 なるほど、礼拝に必要なものは全部そろっているわけですね。
 コピー機のない時代はガリ版で作っていたんでしょうか。
> 20 佐伯さん

>  それは信徒に対する親切であり、プロテスタントも見習うべきだと思います。

 プロテスタントには全国一斉に同じ箇所をよむ習慣がなくて
専従者雇って工場で刷って配達すれば済むって訳にいかないのさ。

 そして、まともな説教する教会では注釈なんかいらない。
当然、凌駕する分量で含まれているから。


 
世界に約6900ある言語のうち、聖書全巻が訳されているのは500言語ほどに過ぎない。

むしろ、英語のように何種類の聖書全巻の訳があって、さらにインチキな異教、異端の偽文書を付加しようとしている言語の方が特殊なのである。

少数派であるという理由でプロテスタント正統主義にて確認された66巻の聖書を否定しても意味がない。

英語圏のローマ・カトリックは長いあいだ法的に権利が制限されていた。今日においては人権として認められている権利も含めて剥奪された状態にあった。それはローマ・カトリックの女王が王座にあった時代にプロテスタントを虐殺したり、ローマ・カトリックのテロリストが英議会を爆破しようとした、罪の結果である。

英語圏において66巻の聖書以外をおおっぴらに主張しにくい時代もあったのだ。

ローマ・カトリックはずっと66巻以外の偽文書を聖書であると主張してきた。しかし、ローマ・カトリックは聖書をそれほど読むわけではない。

また、読もうとしてもいまだに断片的にしか聖書を有さない言語も多い。

もちろん原語での学びもするべきだが、母国語で聖書を読むことができるのは大きい。

ある時代のジュネーブやある時代のイングランド、スコットランド、ウェールズに大きな神の恵みがくだり、66巻の聖書が確認された。日本の福音派も66巻の聖書を認めている。

確かにそれは歴史の中でも地域の上でも少数派であってそれを認める者は限定されている。しかし、それこそが神の選びのゆえである。神は選びの民にしか真理を啓示されないのだ。

旧新約聖書66巻は聖霊に霊感された原典において誤り無い神のことばである。聖書は聖書記者によって書かれたその時から誤り無い神のことばとしての権威を持っていた。しかし、神の民の中においてさえ、それが行き渡った時、受け入れた時に時間差がある。

いつ手にしたとしても、新生したクリスチャンは聖書を理解する権利と能力を有する。しかし、他の人たちは聖書を手にしても理解する権利も能力も有さない。


まあ、実際に、マカバイ記やらトビト書やらを聖典とされると、割と萎えるのは事実ですな。
読み物としては面白いですけど。
同じく、トマスによる福音書やマグダラのマリアの福音書も…

むしろ旧約・新約聖書から何冊か外した方が良いと思う。
列王記と歴代誌は、どっちか要らないんじゃないかとか、出エジプト記の「契約の書」から後と、レビ記と民数記を削って(申命記は残すとして)、
雅歌とエステル記、エズラ記、ネヘミヤ記も削るとか。

新約からも、黙示録と擬似パウロ書簡は要らないのでは?
というか、個人的には、明らかにペトロ以外が書いているのに、第二ペトロとかを引用されると少し萎える。
ヤコブ書は付録扱いぐらいで良いような気もするし…
「テクラ行伝」てド偽書じゃなかった???
>>[26]

>「テクラ行伝」てド偽書じゃなかった???

多分、イリア・エレオスさまの言っている『擬似パウロ書簡』って
テモテへの手紙一、テモテへの手紙二、テトスへの手紙のことでは???
>>[27]

いえいえ、ゼロポスト文の話です。たまたま本読んでこの名前を知ってたので・・・・
>>[28]

そうでしたか。 勘違いして申し訳ございません。

女性差別先駆者とも言われているパウロが、
テクラという女性と一緒に宣教活動を行った。という文書は
さすがにキリスト教界では受け入れられる内容ではないと思われますね。。。
>>[24]

>いつ手にしたとしても、新生したクリスチャンは聖書を理解する権利と能力を有する。しかし、他の人たちは聖書を手にしても理解する権利も能力も有さない。

聖書信仰の密教化と呼ぶべきでしょうか。

>>25

>むしろ旧約・新約聖書から何冊か外した方が良いと思う。

単に「66巻のうちこの書物とこの書物は、当教会では使いません」という運用でかまわないのではないかと。

前に見た「大阪弁訳聖書」とやらには、「マタイの第1章はばっさりカットさせてもらいますさかい」と書いていましたが、このような不逞極まる行為をする自称キリスト者は、少なくとも聖書信仰を標榜しないでほしいですね。

「第2章からお読みください」とガイダンスするだけでよいはずなのです。

>>[30]

いや、恣意的に正典を拾い読みする、というスタンスは後々揉めるので…
一番の例が旧約聖書じゃないですか。
>>[31]

恣意的に聖典の拾い読みどころか、思いついた聖書の一部を垂れ流したり、スローガンにしていたりするのは福音派の得意とするところかと(笑)

それにしても、初代教会の異端反駁の歴史を反故にしようという発想は、聖書信仰が宗教的に限界だということなのでしょう。
>>[32]

限界というか、
共同体ありき、だから、聖書一冊でどうにかこうにかなるもんじゃないですな。
カトリックやバルトじゃないですが、教会の様式と生活の座があってこそのキリスト教。
だから、教会から離れたら、あまり意味を感じられなくなるのでしょう。
>>[33]

>カトリックやバルトじゃないですが、教会の様式と生活の座があってこそのキリスト教。
だから、教会から離れたら、あまり意味を感じられなくなるのでしょう。

それクリスチャンの熱・烈な希望ですから。
聖書はクリスチャンに「しか」意味がないんだ、っていう信仰は。
>>[34]

希望というより、
ノン・クリスチャンにとって、意味あるの?
イスラエルの律法たる旧約が、クリスチャンにとってあまり意味を持たないのと同様、
共同体の軸としての使徒伝承が、共同体の外側の人にとって何の意味があるのかとは思いますが。
>イスラエルの律法たる旧約が、クリスチャンにとってあまり意味を持たないのと同様

出エジプト意識に乏しいかどうかも教派しだいだと思うけど。

聖書は携帯電話のマニュアルみたいなもんなの?
「はあ?本体持ってない人が読んで何の意味があるの?
これ読んだって電話かけなきゃ意味ないよ?
もしもし〜とか練習して楽しい?」
みたいに?
勝手に読んだり集ったり祈ったり押し付けたり根拠にして殺したりしていいじゃん。
>>[36]

う〜ん、旧約の613の戒律を守るクリスチャンなんて聞いたこともないですが。
そもそもアウグスティヌスが十戒から、序文の出エジプトの謂れを削除したのを継承している段階で、
西方では、十戒をとなえる度に、イスラエルの律法の無意味さを確認しているようなものでしょう。
第一、僕らはイスラエルではないし、だからこそ新約があるわけだし。
(もっとも、カトリックは長い間、イスラエル同様、利子をとることを禁止してましたけど)

聖書はマニュアルではないけれど、実践が伴わないと意味がないというか、
「美しいイエスさまのたとえ話」や、パウロの神学をただ目で追うだけで、あーだこーだ言うのは意味がないのは確かでしょう。
聖書を読むというのは宗教的体験であり、解釈は共同体の伝統である、ってわざわざ言わなくても、
カトリックで既に「あなたは岩。わたしはこの岩の上に教会を立てる」と解釈しているでしょ。
カトリック以外では、この聖句は、少なくとも使徒首座に関しての文脈では意味を持たない。ペトロの信仰心の話になる。

何というか、バルトの神学と似てくるのですが、聖書は<霊感>を与えて、自分を無意識下でキリスト者共同体の成員として振舞わせるように読む為の本、と考えます。
別に選民意識の中で自己を誇るためではなくて、それこそ、ロマ書十二章のような生き方をさせる為の、自己成就予言の為というか。
人間の脳というのは、一説には95%は無意識下の自動計算で、脳にある神経回路はお互いに矛盾していようがしてまいが乱立していて、前頭葉、すなわち人間の意識だけではコントロールできない。
恐怖と不安でさえ別々の神経回路がある。脳波を調べれば、意識が質問への答えを想起する前に、その想起しようとしている答えが正しいか(記憶を司る側頭葉が活性化)、
間違っているか(質問者に対する態度という、人間関係そのものを司る前頭葉が活性化)が分かる。

その、人間を支配している無意識を、キリスト者共同体の成員として変化させていくように、
様式と生活の座、そして言葉を通じて変化させていく為のツールだと思うのです。
ま、普遍的無意識にある神の元型を育てていくための本、と言い直しても良いですが。

だから、自分を共同体の成員と思っていない、あるいは共同体の成員が嫌だと思っている人には、
聖書の言葉は無意識には何の働きもしない、と思いますね。
ま、自分が嫌っている人間に無意識の内に似てくるという逆説的な現象も中にはありますが…
まして、嫌なところだけ見つめているから、嫌なところだけ似てくる人もいる。
前頭葉は主語を理解しても、そんな「抽象概念」、感情を司る神経回路は理解出来ないから、
それをフィードバックし、咀嚼することに全力を傾けることになる。
シナプスの自己強化というヤツ。
放っておけば、相手がいようがいまいが、勝手に脳の神経回路は強化されていく。
だから、教会というか共同体が、規律訓練を行う場になる。

カトリックは、七つの秘蹟を通して、かつては揺り篭から墓場まで囲い込んだし、
プロテスタントは仕事を宗教的行為としての天職と捉えた。
生活全てがキリスト者共同体の成員としてどう考え、振舞うかの宗教的体験にする、
いわば人生の究極的関心になるように導いたわけですな。
聖書はその中心にあったわけです。

だから、そういう場を離れた聖書という本に、果たして意味があるのかどうか、というのも、やはり問われるべきでしょうな。
「共に祈らない」キリスト者って何だ、ということでもあるのでしょう。
>「美しいイエスさまのたとえ話」や、パウロの神学をただ目で追うだけで、あーだこーだ言うのは意味がないのは確かでしょう

それって聖書の価値を矮小化してるように思えますね。
「共に祈らないキリスト者なら排除していい」
って考える人に共通して言えることなので、
私見がないのが信仰者の証なのかもしれませんが

私見にすぎませんな
>>[39]

信仰なんて本人の感性だから、「私見」そのもので良いんじゃないですか?
私見が完全に圧殺され、感性が全く否定されるなら、別にその教派に留まる必要もないんだし。
教会あっての聖書だな、というのはセンスだから、そのセンスが、教会なり教派なりの成員のセンスの許容範囲ならそこにいるし、そうでないなら、別に離れてもこちらは何の痛手もない。
それこそ、センスが共通する人たちで集まって、「新しい教会」が出来ればいい。
「キリスト者が二、三人集まれば教会」、てなもんですよ。
「聖書は○○という読み方以外は意味がないのが確かでしょう」
ってのは、教派の意見なのか私見なのかってことです。

私見ならば確かじゃない
>>[41]

両方混在してるでしょ。
プロテスタントの解釈は最終的には個人に還元するから。
>>[40]

>「キリスト者が二、三人集まれば教会」、てなもんですよ。

細かいことに突っ込んで申し訳ないですが、「わたしの名によって集まるところにはイエスも共にいる」わけで、キリスト者に限りませんし、教会だとも限りません。

プロテスタントが個人信仰になりがちなのは当然としても、せめてどのコンメンタリーに基いて読むのかは、ある程度決めたほうがよさげです。

そういえば、久しぶりに山本七平の古典的名著「日本人とユダヤ人」を読んだら、「日本にはIncanation(受肉)」という考えが存在しないとのことで、なるほどそれならキリスト教そのものが日本には存在しないということだなぁと思いました。

>>[43]

カトリックとは、教会観が違うのでしたね。
面倒臭いことですな。
ま、いずれにせよ、神の霊からの霊感を共有するキリスト者が共同体たるエクレシアをつくることを、
ただの私見というのは、プロテスタントの存立の否定になるので、
カトリックの方が同
変な所で切れてしまった。

(続き)

カトリックの方がどう言おうと、プロテスタントが応じるわけないですな。
時間の無駄はやめましょう。
霊感を与えるはキリストの霊なので、プロテスタントがそう思うことはただの私見ではなく、
主のお墨付きです。
>>[32]
ロイドジョンズの説教は旧約聖書と新約聖書が有機的に結びついている。

どういうことかというと、今の傾向として新約のそれも福音書においてイエスの言行と思われるものに集中して、それがキリスト教だと主張したがる人たちがリベラル派、エキュメニカル派を中心として存在する。

しかし、ロイドジョンズの説教はそうではない。旧約聖書と新約聖書を関連付けながら、福音を語っている。旧約聖書のうちにイエス・キリストの偉大なみわざがすでにあらわされているのだ。新約だけの自称キリスト教とは違う。キリスト教にとって66巻すべてが聖書である。

リベラルやキリストを拒んだユダヤ人や世人は、ロイドジョンズが旧約聖書にイエス・キリストを見出すのは、単なるこじ付けか妄想にしか見えないかも知れない。しかし、ロイドジョンズが語るこれこそがキリスト教である。

ロイドジョンズが説教で語っている福音の真理を受け入れることができるのは、聖霊様が働いてくださっている者だけである。しかし、ロイドジョンズの説教の構成の見事さは誰でもわかるはずだ。

あるルールの中でそれを構成するということは決して生命を損なうものではない。作曲法のルールの中で作曲された曲に多様性と自由があるが、作曲法を無視してデタラメに音をつなげば耳障りなものとなる。

66巻の聖書ではない偽文書を根拠に真理を語ろうとしても偽りに過ぎないし、66巻から勝手に何かを取り除けば恵みが損なわれる。

66巻の聖書のみを教理の根拠とし、その全巻を結びつけながら語る説教の最良のものの一つがロイドジョンズである。
>>[46]

旧約聖書をキリスト中心に読むのはルターはおろか、中世カトリックの時代からされていることですが。

それはともかく。

あと、ファリサイ派の使っていた暦というのは、ローマ暦に近く、上手く調和するように作られていたそうな。
エッセネ派のクムラン暦は、一日を364日にしてしまって、一年を五十二週にし、一日をうるう日みたいな形で処理してたそうです。これはサドカイ派と同じ。
共観福音書と、ヨハネ伝では、同じ事件で一日ずれがあるが、それはつまり、
共観福音書はファリサイ暦で、ヨハネ伝はクムラン暦に従って書かれた為ではないかという説がありますな。

ファリサイ派の中に、「ファリサイオーン・バプテスタイ」という一派があって、二世紀にユスティノスが残した記録にあるのだが、
後の写本では、「ファリサイオーン・カイ・バプテスタイ」と記され、「ファリサイ派『と』(カイ)洗礼派」と呼ばれるようになってしまった。
洗礼者ヨハネはエッセネ派だという説が強く、ナザレのイエスもその系統だと主張される場合もあるが、
洗礼者ヨハネの洗礼はエッセネ派のそれとは違うので、
あるいは、この「ファリサイオーン・バプテスタイ」の出からもしれない。
クムラン暦に従っているかもしれないヨハネ伝で、洗礼者ヨハネによるイエス洗礼の記事がないのは、つまり、洗礼者ヨハネがエッセネ派ではないからだ、なのかもしれない。

で、ナザレのイエスに対する証言は聖書外資料には薄いのだが、
実はイエスの兄ヤコブの実在性は割と確か。
ナザレのイエスの「フラウティウス証言」に後世の挿入の議論があることは確かですが、
同じ著作の、イエスの兄ヤコブ殉教の記事を挿入だと疑う人はいない。

また、同時代のラビ・ハニナ・ベン・ドーザ(聖書には記述なし。タルムードにはあり)は、
その癒しの物語がイエスと同じタイプ(例:ラビ・ハニナがパウロの師ガマリエルの息子の病を癒した話)

つまり、ナザレのイエスは、やはり今更確認されるまでもなく、旧約聖書の嫡子なんでしょうな。
ファリサイ派直系かその亜流かは分かりませんが。
レビ記四章3節の「油注がれた祭司」というのは、七十人訳ではそのまま「ホ・ヒエロス・ホ・クリーストス」すなわち「祭司キリスト」。
ま、イエスが「油注がれた者」であると自称したかどうかは議論の余地があって(ピラトとの問答は文法的に面倒くさい議論なのだが)、
ピラトの尋問に対して、オリゲネスは、新共同訳と同じく「あなたがそう言った」とイエスは返していると解釈しているし、ヒエロニムスもそう。
三世紀の「使徒教憲」でも、十二世紀のビザンティンの神学者もそう解釈している。

ところが、十六世紀から十七世紀前半にかけて、「わたしがそうだ」と返しているという解釈が優勢だったそうな。
十九世紀では、圧倒的大多数の注解者が、「わたしがそうだ」と返したと解釈しています。
これは日本の口語訳聖書にも影響を与えてますな
(口語訳「マタイによる福音書」二十七章11節で、イエスの台詞は「そのとおりである」になっている。
新改訳でもそう)。

イエスが「主」(キュリオス)と呼ばれたのは、
当時のローマ皇帝を、「キュリオス・ドミヌス・エト・デウス・ノステル」、すなわち「主、われらの主にして神」と表現していたことに対抗する意味もあったのでしょう。
旧約の「アドナイ」や、アラム語の「主」(マル)以前に、ヘレニズム世界での密儀宗教では、オシリスやヘルメスへの礼拝で、その神々を「主」と呼ぶのが普通でした。

キリスト教はヘブル思想のヘレニズム化と言いますが、ナザレのイエスのユダヤ教と、
キリスト教という密儀宗教との差違も考えないといけないですな。

もっとも、ほぼナザレのイエスと同じような黄金律を語ったラビ・ヒレルの息子(一説には孫)が、
ガマリエルで、彼の弟子がパウロ。
ミシュナには、「ラバン・ガマリエルの死と共に、律法の栄光は衰えた、純潔と節制が消えた」と言う嘆きが書かれてます。
その意味では、パウロを通して、キリスト教はヘブル思想の直系とも勿論言えるわけですな。
補足。

マタイ二十七章11節について、少しだけ。

福音派のNIV版聖書では、ピラトには「You have to said so」と答えたとして、
またthe New Oxford annotated Bibleでも同じく「You say so」。
カトリックの、フランシスコ会の聖書でも「それは、あなたの言ったことである」になってます。

ところが、リビングバイブルだと、「その通りです」と答えているから、なかなか解釈が分かれてますな。

短文の「シュ レゲイス」と答えただけなのに、難しいものですな。

で、これにはまた一つ難点が。
ギリシャ語聖書写本には、初期には句読点がなく、句読点がつくようになったのは六、七世紀以後。
疑問符は、九世紀以前には全く見られない。
ということは、疑問文として読むことも可能なわけで、実際そう読むことを提案している人もいます。

すなわち、
「シュ レゲイス?」(あなたはそう言うのですか?)
肯定ではなくて疑問でもない、質問に質問を返すというのは、現代の討論方法ではマナー違反ですが、
ユダヤのラビ間の議論では割と良く見られる手法です。
こうすると、他の箇所も。

つまり、マタイ二十六章63
大祭司「お前は神の子なのか?」
64
イエス「シュ エイバス?(あなたはそう言ったのですか?) それはともかくとして、…」

ヨハネ十八章37
ピラト「それでは結局のところお前は王なのか?」
イエス「シュ レゲイス?(あなたはそう言うのですか?) ホティ バシレウス エイミ(私は真理について証言するために生まれ、この世に来たのです)」

これはこれでニュアンスが変わりますな。
ま、コメンタリーはともかく、多義性を許すとは、霊感も大変ですな。
>>[46]

>ロイドジョンズの説教は旧約聖書と新約聖書が有機的に結びついている。

それは誠に結構。
カトリック教会の「毎日のミサ」において使う聖書箇所も、旧約のどこか、使徒書簡または使徒言行録。そして最後が福音書となっています。
ただ、神父がそれについての講解説教をするとは限らないというだけです。

宗教改革期に「旧約無用論」を唱えた神学者もいたらしいですが(長い名前なので忘れた)、旧約を無視して新約は理解し得ないと、佐藤優や山本七平も言っていますし、近代以前の神学者からイエス自身に至るまで聖書は全文暗記が基本ですから、「エリ、エリ」とか「ヨナのしるし」とか言うだけで共通理解の元、意味がわかる仕掛けです。

誅滅すべき問題は、聖句の「スローガン化」です。我が国でも戦争末期の危機的な状況になると、「一億玉砕」とか「聖戦完遂」とかのスローガンを、ただ唱えるだけで何かした気になるのと同じで、「信仰義認」をスローガンにしていると、実は「信じているオレ偉い」と思い込んでいるだけで、信仰もなければ義なのか悪なのかもわからない状況が現出します。

ログインすると、残り11件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問 更新情報

キリスト教(聖書)への素朴な疑問のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング