ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの原典に近い聖書の原文 新約聖書

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
教派によって、標準とする聖書翻訳が違います。

教えてください。

【 いったい、今のキリスト教会では、原典にもっとも近い聖書原文再現の追及という意味で、どういうトレンドがあるのでしょうか? どれくらい、異なる立場があるのでしょうか?】



http://codexsinaiticus.com/en/manuscript.aspx?book=34&lid=en&side=r&zoomSlider=4

−−− 「キリスト」という言葉だけに飽き足りず、「神の子イエスキリスト」というような長い表現が書いてないと納得できない人が、多数派写本を好むようですが、前の教会の牧師先生からは、写本の量ではなく、質・古さから、より簡潔な表現、より難解な本文のほうが原初に近いのだと教わりました。

新約聖書の翻訳は霊感を受けたものではないと理解していますが、翻訳の元になる原典は、現存する写本の一致・不一致を学者の見識でまとめた、校合作業によって決定版が作られています。

Nestle-Aland (NA27)とか. UBS4とか、標準となる校訂原本が発行されていますが、そっくりそのまま翻訳することは稀で、実際の翻訳のときには翻訳者・委員会が、また独自の判断で、異読を採用したりします。

極端なところでは、Westcott-Hortに始まった校訂の原則を否定して、多数派写本(ビザンチン系写本)が信仰的に正しいとして、新たな翻訳を立ち上げようとする人々も居ます。

文語訳−Textus Receptus
口語訳-Westcott-Hort ??
新改訳-NA24
新共同訳-NA26
現改訳−ビザンチン系多数派写本に、独自の校訂を加える

コメント(54)

メジャーではありませんし、底本がどうとかはわかりませんが、正教の新約も味わい深いものです。明治時代から書体すら変えていませんし、固有名詞が全部お東ですので、非常に読みにくいですが、好きです。
#14 イヌワシさん

新世界訳の実物は、ものみの塔のオフィシャルサイトで、インターネット版が読めますので、もし、読んだことがないのならば、以下のサイトをご覧ください。

日本語版
http://www.watchtower.org/j/bible/index.htm

英語版
http://www.watchtower.org/e/bible/index.htm

(1)
新世界訳の問題点は、いろいろありますが、ひとことでいうと、
・ ものみの塔の教理・信条に合うように、原語の意味を歪曲するような訳し方をしている部分がある
という点です。

具体的には:
・ 三位一体の否定
・ キリストの神性の否定
・ 魂不滅の否定
・ 「信じるだけで救われる」ことの否定
・ 原語の Κυριος(主) Θεος(神) を「エホバ」と訳して、イエスキリストの名が全てに勝る名前であることを否定し、旧約聖書と同じように神の固有名詞「エホバ」が新約聖書にも元々あったかのように主張する根拠にしている
などで、伝統的なキリスト教会の信条の否定にかかわるものです。

(2)
あまり推奨したくないのですが、新約部分の具体的な点は、ギリシャ語聖書、英語と日本語の新世界訳聖書の訳文を対比させたサイトがあるので、ご覧ください。

http://www.kln.ne.jp/jehovah/masaki/masaki.html

(3)
旧約聖書部分についても問題はありますが、教義的に問題になる部分は、そんなに多くないと思います。

下記のサイトは、元エホバの証人だった方が、新世界訳の問題点−−教義的というよりも、翻訳の方針・翻訳がどうあるべきかという問題、また、訳語が適切であるかということについて、主に旧約部分を論じています。

(4)
ものみの塔自体は、「原語に忠実な現代語訳」と吹聴しますが、基本的に、英語版以外は全て、「英語からの重訳」です。これは、言い換えると、英語版以外のバージョンは、もしかするとギリシャ語・ヘブライ語を理解していない翻訳者が、英語を訳し間違えている可能性があることを暗示しています。
英語の新世界訳は正しくても、日本語の新世界訳が間違って訳しているところもあるのです。

また、日本語版新世界訳の製作に関わった人が、ギリシャ語・ヘブライ語の知識をもっていたとしても、彼らにとっての「原典」である英語版新世界訳が枷になり、おかしな日本語の訳文しか綴りようがなかった場合もあったと思います。

(5)
MIXI内で、わたしが管理人の「新世界訳聖書」というコミュがありますので、そちらもご覧ください

http://mixi.jp/view_community.pl?id=822583

(6)
ウィキペディアにも「新世界訳聖書」という項目がありますが、あきらかにエホバの証人が書いた記事です。他の言語のウィキペディアも総じて、エホバの証人の擁護のために書かれた物が多いです。記事内容が、「ものみの塔」の出版物からの引用か、焼き直しに過ぎないからです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8
#13 XOPさん
?聖句?の一部が、後代の拡張・加筆だとして、「削除」されてしまう
ことには、かなりの抵抗があるでしょう。

そうですね。それがもっとも大きな反発の原因だと思います。

英語圏でのKing-James-Version-Only-ismの場合でも、20世紀の新しい翻訳に対する攻撃の対象は、ある特定の聖句の、ある表現が「取り除かれている」という訳の間の異同が多いです。

実は、翻訳の問題とか、訳者による削除とかではなくて、底本であるWestcott-Hort やNestle-Alandの校訂本文がそのような「読み」の取捨選択をしているのであって、本当の問題は、本文批評とか高等批評を信仰とどのように関連付けているかということなのだと思います。

ある翻訳で満足できなくて、新たな翻訳を立ち上げようとするときに、既存の訳の底本と同じものを使うのでなく、別の校訂本文を使っているのに、新しいものを攻撃する人たちは、結果である訳だけをみて批判をします。

わたしは、「キリスト教の根本に関わる重要な教義は、特定の聖句にのみ依存しているのではないから、本文批評が信仰に影響を与えることはない」という立場ですので、普通に買える翻訳で「ニューエイジの影響を受けている」とか、「主キリストへの信仰を貶めている」とかいう非難が当てはまるものは、まずないと思っています。

『普通に買える』というのは、『新世界訳』のように、一般の流通経路で頒布していないようなもの、あるいは、特定の教会が自分の信徒に読ませるために独自に訳出したものは、往々にして、偏った主張が訳文に組み込まれているからです。

みなさんご自身の聖書のいろいろな訳本に関するご意見は いかがでしょうか?
> HK. J.さん
>みなさんご自身の聖書のいろいろな訳本に関するご意見は いかがでしょうか?

どうなんでしょうね…確かに底本に何を使うかは大切かもしれません。

「現改訳」、気になりますね。
いまNA27などの、比較的公平、公正かつ学問的なテキストがあるにもかかわらず何故今更ビザンティン・テキストを引っ張り出してくるのか…
どんな訳になるのか…

…と言いつつも、日本語や英語の流れを大切にしながら本文の味を損なわずに、しかもきちんと訳すのはどの訳、版のものでも難しいと思いますが。

たとえばの話、ヨハネ21:3ですが、
新共同訳では、ペテロが
「わたしは漁に行く」
と言ってます。新改訳もほぼ同じ。
前田訳(というのを初めて拝見しましたが)では
「俺は漁に行く」となってます。
これらの訳は、「間違っている」わけではありませんが、
「正しい訳である」とは到底言えません。
新世界訳に至っては
「わたしは漁に行ってくる」となってます。

これらの訳し方、
「ちょっと漁に出かけてくるわ」ぐらいの意味に取られかねない訳ですが、ギリシャ語テキストでは

υπαγω αλειυειν

となってます。
これ、無理矢理直訳すると、
「私は去る、漁に行き続けるために」
です。

不定法αλειυεινは現在時制を取っており、「〜し続けること」を意味します。
これはアオリスト「〜すること」とは全く意味が異なり、
何かをちょっとやってみることではなく、
元の動詞が現す概念を続けること、ひいてはその道に弟子入りしたり、職業として始めることを意味します。

つまり、ペテロは(日本語訳の多くがそう取られてしまいかねませんが)、
「ちょっと漁に行ってくる」
と言ってはいません。

「俺、もう、ここから出ていくよ。漁師に戻るわ」
と言ってるんです。

新世界訳にある「行ってくる」なんて、また戻ってきそうなニュアンスは全然ありません。
彼はイエスに関する全てを諦め、捨ててしまっているのです。
υπαγω「去る、行ってしまう」という動詞が、彼の失望を雄弁に語っています。

そんな彼らの元に、イエスは来たのです。
イエスの元からυπαγωし、αλειυεινしていたペテロの元に、イエス自ら行ったのです。
イエスとはそのような方であり、弟子とはそのようなものです。
イエス自らが行き、共にいてくれるのでなければ、誰が弟子たりえるでしょうか。
しかし、イエスは来たのです。

でも、いずれの訳も、
このギリシャ語が持つ力を、いわば押し潰してしまっています。
でも、訳文をコンパクトにする必要と日本語の流れのバランスから、このように訳さざるをえない事情はあるのでしょう
(見た通り、新世界訳は論外ですが)。

ぼんぼんさん

興味深い事例をありがとうございます。

(わたしも、原語を分からずに英語から訳している新世界訳は論外だと思いますが)、元の原語のニュアンスを汲み取ることができても、それをどのように目的の言語(わたしたちの場合は現代日本語)にたくみに訳せるか、(あるいは、原語にべったりなのではなく、目的の言語での達意を狙っているか否か)が問題ですね。

昔、平沢弥一郎という無教会派の方が、『小使徒』という薄い雑誌をだしていましたが、新約を塚本虎二訳に沿って、また、旧約はオリジナルで訳して、原典購読するということをずっとなさっていました。
そういう、個人訳の中にも面白いものがありますね。
18> HK_J 様

> Westcott-Hort やNestle-Alandの校訂本文がそのような「読み」の取捨選択

研究の成果によって 特定の箇所が別の箇所を参照している とか
後代の付加っぽい といった事が浮き彫りになるのは、とても価値
のあることです。

聖書が金科玉条 の信仰もあり、
後代の付加 だと神様の霊感を帯びていない
(極端に言えば、聖書ではない)

とする人もあることから

> 本文批評とか高等批評を信仰とどのように関連付けているか

というのは、ある意味、科学的アプローチでなく
宗教的アプローチなのでありましょう。

マニフィカト はマリアが唱えた讃美というより、福音記者が
マリアに謳わせた讃歌かも知れませんが、そこのとを承知
の上で、今でも毎日 晩課で唱えます。

三童子の讃歌 をダニエル書から除いている人達も、
讃歌(朝の祈り) …を守る人達は…では、詩篇とともに
唱えています。

聖書に記されているから、というより、
どう読むか 聖書 が実は課題となっており、
その読み の正統性に関する権威 あるいは信頼性が
信仰 の依り拠だったりするのでしょう。
ある部分が、後代の加筆だとわかったとしても、それはそれで、その写本を作成した人の信仰表明であったわけで、その気持ちはわからなくもないです。

ただ、後世に禍根を残すことになったのは まずいですが。

旧約聖書の続編についても、その正典性にはあくまでもプロテスタントの立場に立ちますが、やはり信仰の先達が信仰を表明した文学としての価値は認めねば公正ではないと思っています。
日本の場合は、日本聖書協会があり、おおまかには「文語訳」「口語訳」「新共同訳」がもっとも広く普及しているという印象があります。

そのほかの訳を出版するために、また別の団体が作られて、「新改訳」が出版されていると理解しています。

こちら、香港では、香港聖書協会があり、中国語圏での決定版の訳本とも言える「和合本」を出版し続けて来ました。ある意味で、英語圏のKing James Versionに匹敵する不動の位置を確立しています。

すでにほぼ著作権が切れていますが、言葉遣い自体も現代語からは食い違う部分も多く、香港聖書協会からは「和合本修訂版」が最近 出ました。

また、聖書協会世界連盟に加入していない団体も、聖書翻訳を独自に進めています。

すでに「新訳本」New Chinese Version の旧新約が出ています。
これは、「和合本」を、現代的な言い回しにするとともに、聖書学の進展成果を取り込むという、近代の英語圏でのKJV / ASV / RSV などの流れに似たことを目指したものです。聖句によっては、ぜんぜん同じ言い回しになっているところも少なくありません。

また、「新漢語訳本」Contemporary Chinese Versionの新約が出版されました。
たいへん詳細な原語に関する脚注のついた版が出ています。また、この訳を製作・出版している団体が、BDAG (Bauer-Danker-Arndt-Gingrich)のギリシャ語大辞典の中国語訳を出版しました。

また、「リビングバイブル」や、英語のGood News Bible, Today's English Version も中国語の翻訳が出ています。

さらに、中国大陸の、まったくキリスト教になじみのない人々にも読みやすい表現・ボキャブラリーを用いた訳、「普通話訳本」「新普及訳本」「中文標準訳本」などというものもあります。

カトリックの訳でも、「思高訳本」「牧霊聖経」という二つが、入手し易いものです。前者は、文学的な、やや硬い言葉で訳されていますが、台湾・香港・大陸でも中国語のカトリック教会では共通して使われているそうです。

礼拝で使われるのは、「和合本」「新訳本」が中心ですが、信徒個人が読むのには、 日本よりも選択肢が多いかもしれません。


そんな感じで、中国語圏では、あまり、訳を作成する団体の間での いがみ合いというか、対立状況はないようです。あまり、底本がどうのいう論議はなく、旧約は、Biblia Hebraic Stuttgartensia , 新約はWestcott-Hort あるいは UBS / NA のギリシャ語聖書というのが、普通に受け入れられて、各団体が翻訳をしています。
#20 ぼんぼんさん

ヨハネ21:3の聖句は、υπαγω αλειυειν ではなくて、υπαγω αλιευειν でしたので、訂正しておきます。

その上で、お伺いしたいのですが、アオリストの不定詞形をつけた
υπαγω αλιευσαι
というのは、可能なのでしょうか?

現在時制の不定詞、アオリスト時制の不定詞、両方が可能である場合に、わざわざアオリスト時制が選ばれているならば、有意義だと思います。

もちろん、続く節のなかで、「(網を)投げてみなさい」λαβετε がアオリストになっていたり、「引き上げる」ἑλκύσαι がアオリストになっていたりするので、3節の部分も選んだうえでの現在時制だとは思いますが。

その辺のアスペクトの違いを、もう少し教えて下さるとうれしいです。もしよろしければ、ほかにも、このヨハネ21:3と同じようなアスペクトの違いが大きなニュアンスを含んでいる箇所があれば、どうぞ、ご教示ください。
伝統的な多数派写本系統が「正しい聖書」だとする意見について、どう思われますか?

http://tak0719.web.infoseek.co.jp/qanda/majorityt.htm

新たな写本の発見は、果たして、何者かの陰謀なのでしょうか?
また、現在 UBS / NA が底本として翻訳されているギリシャ語新約聖書は、改竄されたことになるのでしょうか?

20世紀は、ヘブライ語旧約聖書についても、大きな発見があり、聖書の解明という意味では、進歩があったと思うのは、実は、幻想だったのでしょうか?

聖書学は、誰かの陰謀の手のなかで、コントロールされているのでしょうか?

写本の「量」 vs 「質」−−−これを客観的に、正しく捕らえることは可能なのでしょうか?
> HK. J.さん
いえ、教示だなんてとんでもない。
そうそう、αλιευεινでしたね。
訂正ありがとうございます。
ιとεが逆なってた…

>その上で、お伺いしたいのですが、アオリストの不定詞形をつけた
>υπαγω αλιευσαι
>というのは、可能なのでしょうか?

文法的なことを言えば、もちろん可能です。
そうなれば、ペテロの言った意味は、新世界訳のような
「漁に行ってくる」
といった訳も可能かと思います。
逆に言えば、この訳し方は、いかに「新世界訳」を編んだ人が、
教理ありきで考え、ギリシャ語を見ていないかの証明のようでもあります。

基本的に、現在とアオリストのアスペクトの違いは、申し上げた通り、
「継続的か、スポット的か」の違いです。

網を「下ろし」たり、
「引き上げ」たりする動作がアオリスト命令形や不定法で表現されているときは、
その文脈の中だけで終了しており、
継続という概念を一切加えません。

> HK. J.さん
>新たな写本の発見は、果たして、何者かの陰謀なのでしょうか?

いろんな意見は昔も今もありますが、
すべてを丸呑みにする必要はありません。
いわゆる政治的な「多数派」や「主流」の意見が他を圧迫するような動きを「陰謀」と呼べば呼べるのかもしれませんが、
地道に研究を続ける人たちもまたいます。

>また、現在 UBS / NA が底本として翻訳されているギリシャ語新約聖書は、改竄されたことになるのでしょうか?

ネストレ・アーラント版は、小文字写本も全く無視してはいないはずです。
そもそも、ネストレの仕事、シュトゥットガルトの仕事の真の価値は、
ウェストコット・ホートのアプローチに奴隷的に追従していることではありません。
多くの写本の比較研究の成果に従って編まれ、本文の編成がなされていることに大きな価値があるのです。

極端に言えば、ネストレ・アーラントの版にとって、
「本文」はいわばどうでもいいものです。
むしろ比較研究の成果である、
「脚注や記号(=アパラトゥス)」こそ価値あるものです。

#27 ぼんぼんさん

コメントありがとうございます。

わたしも、Zondervan の William Mounceの新しい文法書で、基礎を学びなおしております。Greek Grammar Beyond the Basicsなども、聖書表現の実例のニュアンスを読み解く面白さがありますね。

新世界訳の訳出は、ギリシャ語の定動詞の部分は、けっこうアスペクトに注意を払っているのですが、このように不定詞の部分は、たぶん、King James Version 以来の伝統的な訳文に引きずられているのだと思います。I go a fishing というのは、英語圏では、「本日休業」の のんきなニュアンスがあるので、そういうイディオムに捕らわれてしまっているのだと思います。

新世界訳は、特に命令形については、
・ 現在形: Do not XXX
・ アオリスト形: Stop XXX-ing
と訳しわけています。
・・・ この部分は、New American Standard Version などと同じ手法です。

むしろ比較研究の成果である、
「脚注や記号(=アパラトゥス)」こそ価値あるものです。

・・・・ この部分、新約ギリシャ語だけでなく、旧約ヘブライ語のBiblia Hebraicaのアパラートゥスにも通じますね。Kittel のBHKから、現在のBHSに展開していく過程で、旧約の本文校合の脚注もだいぶ変わったと聴きました。(私自身は、BHKの現物を見たことがないので、よくわかりませんが。わずかにネット上で、BHKの画像をネット上で見ただけですので)
ちなみに

自分もスキマスイッチ好きです。

また、Ernest Bloch のチェロ・コンチェルトとも言える、Hebraic Rhapsodie Schelomo が好きです。


トピずれついでに:

Ernest Blockでは、"Sacred Service / Avodath HaKodesh"という作品も 大変印象深いです。



http://homepage3.nifty.com/bloch/works/avodath_hakodesh.htm

Part I : Meditation - Ma tovuなんと麗しい ことか、ヤコブの天幕は- Borechu讃美せよ - Shema Yisroel聴けイスラエルよ - Veohavto汝ら愛すべし - Mi Chomocho誰ぞ汝のごとく - Adonoy Timloch主は治めたもう - Tzur Yisroelイスラエルの盤石 (Traditional)
Part II : Kedusham (Sanctification)
Part III : Silent devotion (and response) - Yihyu lerozon み旨とならんことを- Seu Sheorim永遠の門よ頭を挙げよ - Taking Scroll from the Ark - Toroh Tzivoh - Shema Yisroel - Lecho Adonoy主よ汝に
Part IV : Returning The Scroll to The Ark : - Hodo al Eretz - Toras Adonoy主のみ教え - Etz Chayim 生命の樹(a peace song)
Part V : Vaanachuuかくてわれらは (Adoration) - Adon Olom永遠の主
> HK. J.さん
熱心でいらっしゃいますね。
自分はなかなか…

スキマスイッチいいですねー…振られソング多いけど。
ベタではありますが、「ガラナ」なんか好きですね。
いい感じにテンションあがります。

「奏」
「ボクノート」
(歌詞の中国語訳も作りました
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1406546517&owner_id=2235306   )
が好きです。

スキマのデュオの曲じゃないですが、
「SKY」のコード進行も ハマりました。
ここに来られる方は既にご存知かとは思いますが、
エーベルハルト・ネストレの仕事のアイディア自体は、実に単純なものです。

例えば、「太郎くんの一日」という三つの写本があるとして、

テキストAが
「太郎さんは朝起きて、歯を磨いて出かけました」
テキストBが、
「太郎さんは朝起きて、歯を磨いて花子さんと出かけました」
また、テキストCが
「一郎さんは朝起きて、歯を磨いて出かけました」
となっていたとき、

「太郎さん(※)は朝起きて、歯を磨いて[花子さんと]出かけました」

と書いて、欄外注に

(※):テキストCは「一郎さん」
と書きます。

また、「[]に入る単語や文はテキストBからのものである」と、あらかじめ凡例にて約束しておきます。

このテクニックを精密にすれば、かなりの数の写本の異同をコンパクトにまとめることができ、
また、学問的な判断によるテキストの編成にも注意を向けることができるわけで、
クルト・アーラントやそれ以降の校訂・編集した人たちは、このような方針で最新の調査や研究をテキストに反映させ、
「ネストレ・アーラント」の版を重ねたのです。

このメソッドにこそ「ネストレ・アーラント」が多くの聖書学者に支持されている理由があります。

何だか知らないが権威があるらしい「○○先生の編纂」とかではなく、
客観的な資料状況や研究の成果を反映することができるのです。

そこへさらに、{A} {B} {C} という、委員会による確からしさの判断が 付け加えられていると考えてよろしいでしょうか?

A Textual Commentary On the Greek New Testament
Bruce M. Metzger

香港では、この序文の写本系統を略述する部分と、代表的な写本の名称を概説する部分を含めて、中国語訳されており、さらに、UBSのギリシャ語テキストと英語訳・中国語訳を見開き対照にしたreference tool が発行されています。
(便利な代わりに、ボリュームは原著の倍以上です)

http://www.hkbs.org.hk/Common/Reader/Products/ShowProduct.jsp?Pid=51&Version=0&Cid=455&Charset=big5_hkscs&page=0&idx=0&cat=13

こういうものが日本では企画できないのは、聖書協会のせいなのでしょうか、それとも、単にマーケットが小さ過ぎるだけなのでしょうか?

UBS出版の新約ギリシャ語・英語 の小辞典も、ほぼ同じサイズで中国語化されています。
新約希漢簡明字典. 聯合聖經公會(=UBS)

BDAG のギリシャ語辞典も、例文まで含めて中国語訳されて一昨年出版されました。
http://www.myrock.com.tw/product_detail.php?cde=PDT4da2c86c8bb8f

日本よりも、香港のほうが、研究の成果が一般信徒の手の届くような仕組みになっています。日本のほうが研究者はたくさんいるのかもしれませんが、香港・台湾のほうが、こういうレファレンス・ツールを使いこなす裾野が広い感じがします。
> HK. J.さん
委員会による判定はUBS特有のものであったはずです。
本文は同じでしたね。

個人的にはNAよりUBSの活字の方が好きだなあ…あんまし内容とは関係ないけど(笑)

これは、どんなもの何でしょう?聖書協会の出版物でしょうか?

http://egora.uni-muenster.de/intf/veroef/mehr_en.shtml

The Interlinear and Analytical Greek New Testament (Greek-Japanese)

Vol. 1. Matthew, Tokyo 1991, ISBN 4-7642-1911-5
Vol. 2. Mark, Tokyo 1991, ISBN 4-7642-1912-3
Vol. 3. Luke, Tokyo 1993, ISBN 4-7642-1913-1
Vol. 6. Romans-2 Corinthians, Tokyo 2001, ISBN 4-7642-1916-6
36
>こういうものが日本では企画できないのは、聖書協会のせいなのでしょうか、それとも、単にマーケットが小さ過ぎるだけなのでしょうか?

クリスチャン人口が少ないのはもちろん、日本ではばをきかせる聖書学者はリベラルが多く、聖書学はこのように悪用されるので、聖書学に近づかないクリスチャンもいるのでしょう。しかし、福音陣営の者が、さらに、聖書を信仰的にも学問的にも追求し、みことばに学べばいい話です。

同じ資料を使っても、学問に中立性などありません。それをどう解釈し、使うかは、本人が聖霊によって新生しているか、それとも、生まれながらの罪人であるかによって、違ってきます。

福音陣営の本と、リベラルの本があった場合、キリストを信じずに暗闇にとどまりたい人達は、リベラルを選びます。

キリスト教福音派ー狂信者の集団
http://plaza.rakuten.co.jp/derkatze/diary/201007290000/?scid=we_blg_tw01
「貴女は今、どんな翻訳の聖書を使ったいらっしゃいますか?」と聞くと
「新改訳だ」と言ふのである、思ったとおり福音派の連中である
(一応解説をすると、福音派とはプロテスタントの一派、ていふより、ある種の狂信的な異端であり、
 聖書に書かれていることは一語一句神の言葉である、ていふ明らかに狂った立場をとっている
 そして「新改訳」とかいふでたらめな翻訳を使っているので、見破るのはさほど苦労はいらない
 天皇制や靖国神社参拝に反対しているのは、ほとんどがこの福音派である)
 「新改訳ね、あれは誤訳が多いし、そもそもネストレ・アーラントの24版ていふ古い定本を使っているので、翻訳としてはまず使えないんです」
 ネストレ・アーラントははっきり言ってどうでもいい、彼女のしつこい勧誘に辟易して少々高級な聖書学の知識を披露したまでである
(ちなみに、私は個人的に聖書を読む時はフランシスコ会訳か岩波訳しか使わない
 ある理由から、これ以外の翻訳は私には役にたたないのである
 フランシスコ会訳は確か、ネストレの26版、岩波訳は27版を使っているはずである)
 牧師婦人はネストレ・アーラントの何たるかを知らなかったらしい、早くもしどろもどろになっている、いい気味である
 もう少し勉強してくれば、少しはものを教えてやってもいいが、
 彼女は多分しないであらう、そして一生狂信の中をさまようであらう」
主の平和!
今日は失礼します。
こちらでも新しい年のお慶び申し上げあげます。
最近、「パウロ」(青野、岩波新書、2016/12/20)を読んでいるのですが、72ページ以下に1コリント7:21の翻訳について指摘があります。

1コリント7:21−22 新共同訳
7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。
7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。

1955 口語訳
7:20 各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。
7:21 召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。
7:22 主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。
*
「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」(新)
「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。 」(口)
KJV
Art thou called being a servant? care not for it: but if thou mayest be made free, use it rather.

原典は同じで、下記toolを押下。
https://www.blueletterbible.org/kjv/1co/7/1/s_1069001

青野先生の訳は岩波訳ですね。
460721あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい。

原因はχράομαι (chraomai)用いるの目的語がないためです。
パウロが奴隷についてどう考えていたのか重要な点です。
スコポス理論で訳された聖書協会の「標準訳」のパイロット版の新約聖書全巻が販売がされたことは、ニューストピでもすでに取り上げましたが、パイロット版の最後の巻であるマタイによる福音書を読んで、「なにも改善されていない。語訳も見直されていない。ひどいな・・・」という感想をそれまでに出ていたパイロット版と同じく思いました。来年出るペーター版に改善はされるのか、改善されないような気がします。

此れなら教会も新共同訳が継続して販売されるのだから、新共同訳のままで新しい「標準訳」に買い替える必要ないなと思いました。

>>[40]

西南の青野教授ですが、内部でのウケは、あまり良くありません。

外部でウケているようですがね。
早い話、

まずもって追求すべきはキリスト者として生きる指向であり、これを換言した場合、「キリストの奴隷たれ」と言い表すことが出来るが、

その意で「キリストの奴隷たること」は、現世における地位や身分の優位性云々よりも遥かに肝要だという、当たり前といえば当たり前の話ですわな。

ゆえに、
件の聖句が、現世的な地位・身分としての「奴隷」に留まる意義や義務それ自体を説いたものでないことは自明である以上、

まあどちらの訳でも構わないような気がせんでもない(笑)
>>[43]

まあ、新共同訳からして酷いのであり、標準訳パイロット版が酷いのも事実のようだけれど、どんぐりの背比べじゃないかと…。

標準訳のほうは、異議申し立てを受け付けている段階です。まだ、分かりません。これ以上は悪くなりようがないのでは?
>>[044]

少なくとも任意の訳につき、それを酷いと考える者と良いと考える者が居ることだけは確かでしょうな。
>>[45]

カトリックとルーテルが同じ聖書を使う時点で、もう、不可思議極まりない。

ついでに言うと、広尾のシナゴーグが旧約のみの新共同訳を使うなどとは、カオスの極みです。
>>[41]

面倒臭いから、ルター聖書の日本語訳出してくれると良いですな。

二重訳になるが、もうこの際仕方ない。
>>[47]

ルター訳は原書と同じく前書きや挿絵も付いて出して欲しいですね。

新約全体だけでも原書との対照もあると便利ですね。

標準訳になっても、まだ、モリソンやブリッジマンやカルバートソンなどの漢訳聖書の語訳が是正されていないのにはあきれましたね。明治元訳や大正改訳は致し方が無いにしても、それが新しい翻訳でも続いているのにはあきれ果てましたね。底本にUBS版使っていることからもこうなると思っていた通りの仕上がりでしたね。

>>[48]

僕はまだ標準訳を見てませんが、そんな状態では改めて出す意味がないですな。

…やはり、あまり表現を変えると売れないと思ったんですかね?
共同訳の悪夢再び、みたいな。

やれやれ、思わず十字を切ってしまいそうですな。
>>[49]

まあ、新共同訳が継続発売されますから、教会なんかの備え付けはそのまま新共同訳で十分ですね。

聖書を日本語訳で学ぶためなら、田川訳だとか、関根訳、岩波書店聖書翻訳委員会訳の旧約、岩隈直訳などを買うべきでしょうね。

共同訳のようなナイダ理論(Dynamic and formal equivalence)でない分マシと言えるでしょうね。

>>[50]

新共同訳も誤訳は多いし、神学的におかしいところもあるし、
そういう所を標準訳が解消してくれるのでは、と期待したんですけどね〜
>>[51]

残念ながら無理でしたね〜

まあUBS版のギリシャ語新約聖書底本にしていますからね。そういう改善は期待できないですね。

学術的な本文批評をしないことを表していますし、スコポス理論ですしね〜。

今年出る新改訳の改訂版「新改訳聖書2017」のサンプル版も手に入れましたが、感想は「新改訳だな〜」ですね(笑)

>>[52]

相変わらず、新改訳は新改訳ですかw

ログインすると、残り15件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

キリスト教(聖書)への素朴な疑問 更新情報

キリスト教(聖書)への素朴な疑問のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング