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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのノンクリの死後

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ノンクリスチャンが「今は天国にいる私の母が」などと言ったりすると違和感を感じます。亡くなった家族もノンクリスチャンの場合、もちろん黄泉に下られたイエスキリストと出会っている可能性もありますが、
基本、生きている間に自分の罪のために十字架にかかられ、復活されたイエス様を救い主と認めなかった場合、み言葉によれば、罪に対する報酬は死ですから、天国にいるはずがないのではないでしょうか。

昨日、田中好子というノンクリスチャンの芸能人が遺言の中で
「こんにちは、田中好子です。きょうは3月29日、東日本大震災から2週間たちました。被災された皆様のことを思うと、心が破裂するような...、破裂するように痛み、ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。わたしも、一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもその時には、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが、わたしの務めと思っています」
「いつの日か、妹・夏目雅子のように、支えてくださった皆様に、社会に少しでも恩返しができるように復活したいと思ってます。」 

と語りました。
しかし、イエスをキリストとして受け入れていない彼女は、そもそも天国へ行けないのだし、復活もあり得ません。

立派な行いをするのは大変結構なことですが、天国へ行けるかどうか、永遠の命に預かり、復活の希望を授けられるのはひとえにキリストを信じる信仰にのみであって、生前のよい行いで決められるものではありません。

また、幼児洗礼のカトリックである藤村美樹は、弔辞の中で
「スーさんは、一足先に天国へ行ってしまうけど、天国はそれはそれは、素晴らしいところらしいですね。スーさん! どうですかぁ? おばあちゃんとおじいちゃん、かずちゃんやお母さん、まさこちゃんにも会えましたか? 神様は、この世のお役目を果たした人を、そちらへ呼んでしまうようです。スーさんは、もうお許しが出たのですね。これは神様からのプレゼントだってこと。新たな命をいただいて、そちらで幸せに暮らして下さい」
と、万人が天国に入れるかのような誤解を招くコメントをしています。

主にあった兄弟姉妹の交わりとは異なりますが、趣味が合うであるとか、仕事仲間とか、ノンクリスチャンの友人を持っている人もいるでしょう。そうした友人が亡くなった場合、その人もまた「自分と同じように天国へ行ってほしい」と願うのは当たり前です。しかし、本気でそう思うなら、病床での最後の数時間の猶予があったのですから、友人の魂が救われるように、イエス様を信じると告白するよう、伝道すべきだったのではないでしょうか。その努力を怠り、さも本人やその家族が天国にいるかのような言葉は、この世的なご機嫌伺いに過ぎず、極めてリベラル的であると言わざるを得ません。

しかし、先祖崇拝が強い日本において
「あなたの先祖は天国にはいない」
とはっきり告げてしまうと、
「躓き」となり、福音から遠ざけてしまうのもまた事実でしょう。

クリスチャンがすべて天の国へ至るかどうかは分かりません。
み心を行ったものだけが至ると書かれています。しかし、クリスチャンでない者が天国にいるという考え方は、キリスト教信仰の根幹を成すもので、到底受け入れることはできません。

皆さんは、ノンクリスチャンの死後について、どのように考えておられますか?特にノンクリスチャンの家族や友人が亡くなった場合、二度と会えない、または地獄を意識されますか?

コメント(714)

聖書では新しい体で新しい世界に入るしか述べられてなかったと思います。超越的存在も共にいる訳です。神は「ある」存在である訳で似姿の我々もある訳です。
臨死体験から導かれる推測は死後の世界は影のない光の世界で、存在感のある世界だとなるかもしれません。
私はノンクリも神の披造物であるので同じ世界に入ると信じてます。私には愛と恵みの神が、自ら知りつつ滅ぼすとは思えません。
古代の専制君主は従属者の救いと反対者、抵抗者の滅びがないと体制維持は難しく宗教にも反映していると思いますが。
最近、映画「モーセ」を見て神という存在を良く理解できた感がします。「私はある」、旧約の伝承者の霊感は素晴らしい感覚だと思います。マタイもイエス・キリストをインマヌエルと呼んでます。

俗に言えば、理想的と思える彼女がいつも隣にいて支えてくれている、更に俗に言えば優しい昼下がり隣で寝息を立てているという感覚が多少なり近いかもしれません。
臨死体験の超越的存在はそんな感じでした。
夢で幻聴を聞いた時も同じ感覚です。キリストであるイエスが現れた時も。
「最後の誘惑」の夢の場面というか映画「AI 」で超越的ロボットが作り出した母との一日の場面も近い。制作者は絶体近い経験をしているかヒアリングしている。
神は恐ろしい審判者でない。男性には女神に感じられ、女性には映画「コンタクト」に出てくるパパだと思います。
教会の賽銭箱のためにかけば、ノンクリはもしかすると、東北大震災で一家全滅して一人だけ残されたお父さんのような虚無感、虚無、「無」の感覚かもしれませんね。
現行の科学はパルスが止まるのでそうなるのだという訳ですが。
子供向き、童貞向きにかけば、宮前駿の劇画「思い出ぽろぽろ」のやはりラストシーン。主人公は女性が干し草をのせた荷台の後ろ向で彼とよこに成るとずっと先まで共にいる感覚になり、観衆もそれを感じる、そういう世界だと堅く信じてます。
敢えて云えば、最初のイエス・キリストとの対面は未知のものなので、数分間はヌミナーゼでしたが、すぐ映画「AI 」のラストシーン風になりました。
近い体験はやはり更に俗に言えばと同じ気もします。
まあ、神はイデアである「愛」アガペで地上の男女愛はその不完全な投影ともいえますからね(^^;
ロリータ解釈だと以下
みれば解る
「君だけに秘密教えよう」
https://m.youtube.com/?gl=JP&hl=ja#/watch?v=DyfHGxdRUkE
愛とか虚無 神と?

「ネバーエンディングストーリー」
最初に神の授与式がある。いかにもだが。
https://m.youtube.com/?gl=JP&hl=ja#/watch?v=zeRoEBvBL4Y
>>[675]

>聖書では新しい体で新しい世界に入るしか述べられてなかったと思います。超越的存在も共にいる訳です。神は「ある」存在である訳で似姿の我々もある訳です。

すみません。聖書をロクに読まないもので、何を言っておられるかさっぱりわからないです。というか、そういう学問的なところで死後の世界の有る無しを考えられる人の気持ちもわからない。

小学生の社会科見学授業で「川の始まりはどこですか?」という問いがありましてね。

もっともな疑問ですし、実際に答えるとなったら、山の湧水とか、多くの小川が集まって◯◯川という川になるのですから、少なくとも利根川とか四万十川とかいう川の始まりは「どこ」とも特定できないですけど、どこかにいろいろあります。

で、川の終わりは? となったら、まぁ海になるのでしょうけど、太平洋側に流れた水がアメリカ西海岸に行っているかもしれないし、海に行く前に蒸発してまた上流部に雨となって注がれているかもしれません。

水を持ち出すと、「様態論は間違い」と言い出す人もいますが、まぁそれとは別の話ですので、どこかに存在しているとしておくのが一番良い「答え」だと思います。
>>682 のネタも、なにやら「千の風になって」みたいでダメな話ですが、他に良いネタも思いつきませんので・・

とか言っていたら、これは様態論の新機軸でしょうか?
>>[682]

いや、キリスト再臨後に、死者が身体をもって復活し「永遠のいのちに入る」というのが、
使徒信条や黙示録から形成されたキリスト教の信仰なので、アリアさんの言葉は正しいです。
この永遠のいのちというのは「ゾーエー」の事で、固有の生命たる「プシュケー」とは違う、キリストにつながった「いのち」です。

つーわけで、どこぞの誰かが、死後霊だけの存在で行く天国は無い、と言っても、
キリスト教的に全くその通り、そんな天国は存在しない、というしかないですな。
そういう天国はグノーシス主義の考えで、キリスト教正統主義とは違います。

ま、カトリックの、死後の至福直観というのは、修道活動者の「神との合一」を生きながらにして得るという西方神秘主義と不可分な考えでもあるので、プロテスタント的にはちょっと微妙ですなあ…
いや、ルターも、「キリストとの喜ばしい交換」とか言ってますけどね。

…つーか、確かカトリックの方では、死後直後の「私的裁き」で、地獄直行か煉獄行きかが決まるんでしたっけ?
昔、「やっぱり煉獄で魂が炎であぶられるということになっているわけ?」とカトリックの人に聞いたら、
「古っ」とか言われたので、今はどういう話になっているかちょっとわからないです。

辺獄(リンボ)の考えはなくなったそうですが…
>>[683]

…こういうのを見ると、僕の教会の牧師はまともな説教をしているんだなあ、と改めて思ってしまいますなあ…
まあ、大体、死者のための祈りがそのままアウグスティヌスを経て煉獄の概念を形成させ、
オルド・サルティスとして体系化したようなものですからなあ…

プロテスタントでは、救済される人には、死者のための祈りは不要だし、永遠の劫罰を受ける人には、そんな祈りは何の役にも立たない、と言う事で、死者のための祈りという習慣をなくした所もあります。

モルモンは、死者の代理の洗礼をやってますが、セカンドチャンス論だけならまあわからないではないですが、
「代理の洗礼」というのが果たして意味があるのか、キリスト者側としてはちょっと疑問ですなあ…
たとえば、モルモンの一人が、崩御された天皇の「代理で」洗礼をしたら、じゃあモルモンとして彼はモルモンの救済を受けるのか…

(歴史的に、キリスト教側で死者の代理の洗礼をやっていたのは、マルキオン派などの異端のみ)
トマス・アクィナスによれば、霊魂の不滅こそ人格的同一性を保証する(まあ、ヒンドゥーで言うアートマンみたいなものでしょうかね)が、霊魂は身体がその霊魂に戻されるまでは不自然な「尖った」状態で存在を続けるのだと言ってますな。
身体の復活はキリスト教独特(まあ、ラビ・ユダヤ教…古代イスラエル思想ではない…でもその概念はあるけれども)の教えだともトマスは考えていたとか。

ちなみに、霊魂の不滅が教理で決まったのは第五ラテラノ公会議で、
プロテスタントに属する教派(教団)では、霊魂の不滅を否定する所もありますな。
まあ、キリスト教的というか、聖書的には、「死んだら再臨があるまで死んだまま」が一番正しい。
エゼキエル書には、骨に肉と筋がくっついて肉体が復活したあと、神が霊を吹き込む形で完全にするという描写があります(エゼキエル37章)。

霊魂の不滅はプラトン主義から来ているので
(ちなみに、輪廻転生の考えは、ピタゴラスが提唱していて、プラトンも影響を受けている)、
ヘブライ思想とは余り関係がない。

ヘブライ思想だと、生命とは、肉体に霊が吹き込まれた状態。
プラトン主義だと、生命とは、霊魂の受肉。

旧約聖書で、陰府と訳されるシェオル(ハデス)はほぼ墓ないし墓穴と同義だから、
現世的なユダヤ人の特徴が出てますな。
アーメンです!!!!
聖書に従うのが真のクリスチャンなのです!!!!
従って、イエス・キリストも持っていた聖書信仰を遵守し、エサウの道を歩むことなく、聖書の教えを学ぶべきです!!!!
日本人の99%は滅びの子なのです!!!
これは福音派的に真実です!!!!

皆に祝福がありますように!!!
>>[688]

尖った状態ってことは死者の霊は何かと反抗的なのねw
アーメンです!!!!

あなたは、きっと、そうでしょう!!!!

虫たちに祝福がありますように!!!!
>>[692]

やさぐれている感じなんですかねw
>>[695]

死んでしまった自分に少なからずショックを受けたんでしょうなw
>>[699]

日本で最近一部で大流行しているオカルティズム話だと、
「死んだ人は、そのままの感覚を永遠に維持している!!!」
…という、おかしな…もとい、妙な説があるそうですな。

理由がよく分かりませんが、走馬灯のような状況で周囲の動きが鈍くなり、死んだら周囲が静止して、そのままの状況、つまり苦痛やら何やらも永遠に続くのだ、とかいう怪談話(民話?)が何故か人知れず広まってます。

そういう状況だと、そりゃショックも受けるでしょうなw

まあ、それはさておき、事の理非は全くどうでも良いとして、こういう話がどこ由来からは気になりますな。
「自殺した人間は、その事に気付かず永遠に自殺を繰り返そうとする」
…という「怖い話」が割りと昔からありますが、そこからの連想かもしれません。

そうなると、日本人は、感覚というヤツを魂直結というか、肉体を経ずに精神の感じるものと考えているのかもしれません。
仏教が延々と「六根清浄」とか言っていたのも全然無意味だったんだと思うと、なかなか興味深いですな。
>>[700]

まぁ肉体のような痛みは無いにしろ、いわゆる精神的苦痛ってのは有り得ますなw
>>[709]

精神的な苦痛というのは、肉体的な苦痛と同じなんですよw

たとえば、孤独に対する恐怖は痛覚の神経回路を刺激…というか再利用してますし、
嫌悪は苦味を感じる神経回路を再利用してます。

だから、生理的嫌悪というのは子供がノンアルコールビールを飲むようなもので、
抑えたくても抑えられないw
>>[710]

肉体的変化が精神的苦痛を感じさせる可能性も勿論ありますが、精神的苦痛が肉体的変調を誘発する可能性もあり、もし後者であれば霊だけでも苦痛を感じることは有り得るでしょうw
>基本、生きている間に自分の罪のために十字架にかかられ、復活されたイエス様を救い主と認めなかった場合、み言葉によれば、罪に対する報酬は死ですから、天国にいるはずがないのではないでしょうか。
※?
信条、教理では以上のようになりますが、聖書を読み、本文批判、歴史批判をしながらもう一度考える必要ありそうです。
信なきものの救いの問題ですね。
私は救いは我々の努力、ある意味で信仰の行為にあるのでなく、神の一方的な撰びにあると思いますが。神はすべてを選んでいる、万人救済の可能性も高いと思います。
後のものが先になる可能性もある訳です。洗礼を受けたキリスト教徒もその傲慢な罪で後回しという可能性もある訳です。

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