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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【利家とまつ】石川県

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【利家とまつ】にまつわる石川県の史跡写真館です。

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豪姫住居遺址(金沢市)

豪姫は前田利家の四女で、秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁いだ。夫婦仲は良かったが、秀家は関が原で敗れ八丈島に流され、豪姫は金沢に戻って来た。彼女は、兄前田利長が城下のこの地に建てた家に亡くなるまで暮らした。
1995年まで金沢地方検察庁検事正官舎として使われ、2001年には高峰譲吉の屋敷が移築された。
浅井畷古戦場(小松市)

東軍の前田利長は2万5000の兵を率いて、西軍の丹羽長重ら3000人が守る小松城を攻めたが、落とすことができなかった。利長は小松にわずかな押さえの兵を残して、大聖寺城に向かい、これを攻め落とした。
このとき、前田軍が越前・美濃方面に進むことを警戒した大谷吉継が「留守になった金沢城を急襲するため海路を北上している」という虚報を流した。これを警戒した利長は金沢に戻ろうとするが、途中に落とせなかった小松城があった。利長は秘密裏に撤退したかったが、2万5000もの大軍を密かに動かすのは不可能で、長重は浅井畷に伏兵を置き、前田軍を待ち伏せた。浅井畷は沼地の中の細い畦道で、前田軍は大軍の利を活かすことができない。
戦いは雨中の夜戦となり、鉄砲は使えず、白兵戦となった。丹羽軍は3000の兵力だが、前田軍しんがりの長連竜の部隊に襲いかかった。長家の小林平左衛門、隠岐覚左衛門、長中務、鹿島路六左衛門、八田三助、鈴木権兵衛、堀内景広、柳弥兵次、岩田新助の9人が討ち死にし、供養碑は各自の倒れた方向を向いて建てられているという。
関が原の戦い自体は東軍が勝利し、前田家は122万石に拡大、丹羽家は所領を没収された(後に大名に復位)。浅井畷の戦いの後、関が原で西軍主力が敗れたため、丹羽家は前田家に降伏し、戦いは前田家が勝利したかのように伝えられてきた。だが母の身分が低いとはいえ、利長の弟利常が人質として丹羽家に送られている。前田家は「しんがり」部隊に大きな被害が出たことから、実際は戦いに敗れ、かろうじて撤退したのが真相ではないだろうか。
小丸山城跡(小丸山城址公園)(七尾市)

能登一国の国主となった前田利家は1581年、府中から移転し七尾城に入った。七尾城は要害だが、山城で港からも遠く、支配の拠点としては適さないので、七尾港近くの小丸山に1582年城を築いた。河川と海が堀の役割を果たす水城だったが、翌年には本拠を金沢城に移した。
七尾城(七尾市)

畠山満慶が正長年間に築いたと考えられる。松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・龍尾・虎尾の七つの尾根に七つの郭があったので「七尾城」と称した。本丸の置かれた松尾から「松尾城」ともいう。戦国時代に拡張され、最終的に南北2.5キロ・東西1キロにも及ぶ巨大な城となった。
安土桃山時代になると、畠山家の派閥抗争が激化した。上杉謙信は、養子(実質的には人質)として預かっていた上条政繁(畠山義春)を畠山氏の当主に据えるため能登攻めを開始し、遊佐続光の内応により1577年落城した。謙信死後は織田の手に落ち、前田利家が城主となったが、拠点を小丸山城に移したため、廃城となった。
金沢城跡(金沢市)

尾山御坊跡地に1580年、佐久間盛政が築いた。1583年の賤ヶ岳の戦いの後、前田利家が城主となった。

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