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日本の歴史を語るコミュの平安時代

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大陸からの文化を受け入れ吸収した日本は、いったん遣唐使の派遣廃止し、じょじょに日本の風土や慣習に合わせた独自の文化をかたち作っていった。それが、平安時代だったのではないでしょうか。

コメント(46)

早良親王が本当に怨霊となって
桓武天皇の前に現れ
祟ったのかどうかはわかりません。
また
早良親王が
藤原種継暗殺の首謀者だったのか
それとも
無実の罪を着せられたのか
それさえも
真実は謎に包まれたまま。
日本にお彼岸の習慣ができたのは
弟の祟りを恐れた
桓武天皇が
国分寺の僧に命じ
7日間金剛般若経を読んだことが
初まりとされています。
桓武天皇は
征夷大将軍坂上田村麻呂に命じて
3度蝦夷征伐を行い
蝦夷の首長アテルイを降伏させ
志波城を築いたことでも有名です。
その他、
長岡京および平安京への遷都や
最澄や空海といった
新しい仏教を保護した事でも
知られています。
また
日本書紀に継ぐ歴史書である
「続日本紀」の編纂を行った事も
大きな成果だったと言えます。
桓武天皇が69才で崩御されたあと
子の安殿親王が即位し
第51代目の平城天皇となりました。
桓武天皇亡きあと
即位した平城天皇は
病気をこじらせたために
3年ほどで退位してしまいます。

次にあがったのが
息子の嵯峨天皇です。

しかし
譲位から半年過ぎたあたりから
病状が回復。

反対に息子が寝込むようなことが
増えました。

それをみて
おとっちゃんは重祚を画策。

これを境に
親子関係が悪くなっていきます。
旧都の平城京を拠点とする
平城上皇。

平安京を拠点とする
嵯峨天皇。

この時代は
事実上の
二朝対立状態になりました。
その結果
おとっちゃんが負けて剃髪し
余生を過ごすことになります。
嵯峨天皇はその後
京都の治安維持を担う
検非違使を設置します。
嵯峨天皇は次の天皇を
孫の恒世親王に託そうと
考えていました。

しかし
当時の朝廷では父を差し置いて
息子が天皇になることは
タブーとされていました。

なのでまずは
父である大伴新王が即位して
淳和天皇になりました。
淳和天皇は
自分や息子が天皇になることを
望んでいませんでした。

後ろ盾となる有力貴族がいない者が
天皇になれば
政治が安定せず
息子たちが政争に巻き込まれても
命を守り切ることができないと
考えていました。
淳和天皇は約束を無視して
自分の息子ではなく
嵯峨上皇の息子に後を託し
崩御してしまいます。

父としては
嵯峨上皇の息子なら
藤原氏の後ろ楯もあると
むしろ
藤原氏を敵にまわさずと済むと
ホッとされたんだろな。

こうして嵯峨上皇の息子
正良親王が仁明天皇として
即位します。
淳和天皇亡きあと
次の天皇に嵯峨上皇が選んだのは
恒貞親王でした。

息子である仁明天皇には
父の嵯峨上皇を
はねつける力はありません。

継がせたかった恒世親王は
すでに病でなくなっていたので
その弟の恒貞親王を
抜擢してきたのだ。

これには仁明天皇も
藤原良房も納得していません。

嵯峨上皇亡きあと恒貞親王に
後ろ楯が亡くなるのを待って
挽回のチャンスを
虎視眈々と狙います。
恒貞親王は
もともと有力貴族の後ろ盾を持たず
父の淳和天皇も失っていたため
嵯峨上皇の死によって
完全に
孤立無援になっていました。
教科書に乗っているので
聞いたことがあるかも知れません。

これが
承和の変です。

仁明天皇が邪魔者を失脚させ
息子の道康親王、後の文徳天皇を
皇太子にするために起こした
事件です。
55代 文徳天皇 即位後も
同じような事件が起こりました。

先代からあった勢力争いが
まだまだ続いており
藤原良房は自分の孫の惟仁親王を
皇太子にしようとしていました。

文徳天皇は
息子の惟喬親王を
皇太子にしたいと願っていました。

この争いは
高野山を二分する争いにまで発展。

結局
文徳天皇は藤原家の力に抑え込まれ
最終的に
藤原良房の孫である惟仁親王が
皇太子となることに決まります。
56代 清和天皇は
先代 文徳天皇の4番目の子供です。

藤原良房の孫でもあります。

まだ産まれて間もない赤子でしたが
巨万ともいえる藤原氏の
横暴な権力下で
兄をすっ飛ばして
立太子になってしまいます。
父親の文徳天皇が亡くなると
わずか9歳で
天皇の位に就きます。

母方のおじいちゃんで
がっちり脇を固められて
身動き出来ずに成長していきます。
そんな清和天皇。
27歳の頃に突然辞めたいと
息子に譲位して
その3年後には
頭を丸めて出家してしまいます。

厳しい修行に耐えられず
31歳で亡くなってしまう。

たが
政治の邪魔にならないよう
藤原氏が用意した
あの手この手の女性たちとの間に
たくさんの子供が産まれました。

名前や実在が確認されている
皇子や王女だけで36人。
あとは
うやむやでわかっていません。
実は一口に源氏と言っても
いろいろあるのだが
源頼朝の流れを
清和源氏と言っている。
これはこの清和天皇の子孫の
源氏という意味になる。
清和天皇亡きあと
息子が57代陽成天皇となります。
父親と同じくして9才でした。

藤原良房が亡くなり
その後釜に
甥である藤原基経が摂政に
おさまりました。

陽成天皇は子供のころから
凶暴な振る舞いが多かった。

馬好きで
宮中でひそかに馬を飼わせ
飼育の仕方が
上手いというだけの理由で
タチの悪い臣下を何人か寵愛した。

動物を集めるのも好きで
犬と猿を喧嘩させて遊んだり
気に入らない臣下がいれば
剣を抜いて追い回すなど
狂態が多かった。

ついには乳母の子供を殺してしまい
藤原基経に廃されてしまう。
次にあがったは
58代 光孝天皇です。
54代 仁明天皇の第3皇子。
55才での即位でした。
ここで少し
臣籍降下について書きます。

臣籍降下とは
皇族が天皇から「姓」を賜って
臣下になることです。

もっと簡単に言えば
皇族の身分を捨てて
一般国民の身分となること。

天皇がたくさん子供をつくると
ひとりひとりに割り当てられる資金が
減ってくる。
そのため
世継ぎとそうでないものに
振り分けて身分を降格させる制度。
即位が遅かったため
光孝天皇の時代は
あまり長く続きませんでした。

死の間際に臣籍降下していた
7番目の息子を
いきなり源定省に合わせ
次の天皇に推薦したそうです。

宇多天皇は急きょ皇族に復帰して
20歳の若さで皇位につくことに
なりました。
59代宇多天皇は
父親から贈られた黒猫を
大切にしていたことでも有名です。
多くの夫人を持った宇多天皇は
沢山の子女に恵まれていました。

宇多天皇は自身の即位とほぼ同時に
息子の敦仁親王(醍醐天皇)を
立太子しました。

9歳という幼さで
次の天皇として決定されたことから、宇多天皇が何が何でも息子に
皇位継承したかったことが
窺えます。

敦仁親王が生まれた当時
宇多天皇は臣籍降下で
武士の位に落とされ
まだ天皇になっていませんでした。

なので
自身の即位のタイミングを逃せば
息子は武士の位のままです。

のちの醍醐天皇は
臣籍の身分として生まれながら
父親の即位と同時に皇族となり
天皇まで
即位した天皇だったといことです。
60代 醍醐天皇
以降

61代 朱雀天皇

62代 村上天皇

63代 冷泉天皇

と続いていき
万世一系の天皇家として
今上天皇まで
その血統が続いていきます。
次に歴史の舞台で
名前が有名になったのは

72代 白河天皇です。
白河天皇は
天皇が摂政・関白や管理に頼らず
自らが政治を主導する
親政を行い
退位後も上皇として4
0年以上も実権を握った人物です。
白河天皇は譲位後も
堀河・鳥羽・崇徳天皇の
3代にわたって院政を行い
専制君主として君臨。
院政による専制君主としは
後鳥羽上皇までが
最盛期だったのでは。
平家が栄華の頂点に達していた頃の
天皇といえば
80代 高倉天皇でした。
高倉天皇は
大河ドラマなどの歴史ドラマに
よく出てくる人物なのに
どうしても
同じ時代に活躍した
平清盛の影に埋もれて
存在感がなくなってしまう。
わずか7歳で即位した高倉天皇は
父である後白河上皇と
義兄である平清盛に
いつも板挟みにされて
オタオタでした。
7歳からずっと
大人たちに振り回されていた
高倉天皇。

それは結婚したあとも変わらず
平清盛の逆鱗に触れ
父の後白河上皇が幽閉されたあとは
巨大な権力をふるう平清盛の
言いなりでした。

息子の安徳天皇が即位し
高倉天皇は19歳の若さで
上皇になってしまいます。

上皇になった後も
カタチとして
高倉上皇は院政を行いますが
安徳天皇の外祖父となった
平清盛が実質的に政治を支配。

もはや
清盛の傀儡でしかありませんでした。
幼い頃からの心労が祟ったのか
19歳の若さで
亡くなってしまいます。
祖父であり平氏の棟梁でもある
平清盛によって
3歳にして天皇に即位した安徳天皇。

歴史好きならご存知ですよね。

2022年のNHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」にも
出ておられました。
平氏と源氏が各地で一進一退の
攻防を繰り広げるなか
平清盛が病没。

平清盛亡きあとの平氏に
かつての勢いはありません。

追い詰められた平氏たちは
壇ノ浦で源氏を
迎え撃つこととなります。

開戦当初は
有利に進めていた平氏軍でしたが
潮の流れが変化したことや
味方の寝返りなどの理由から
戦況は一変。

敗北は
もはや避けられない状況に
陥りました。
安徳天皇はわずか8才で
祖母とともに入水して
崩御してしまうことになります。

こうして長い長い
平安時代が終わりを遂げ
新たな時代・鎌倉時代の幕開けです。

平安時代には
のちの将軍たちを虜にした
ヒーローが現れます。

坂上田村麻呂。

武人政治家の理想とされ
後世、多くの武将が
辺境征討とは無関係に
天下人の代名詞として
「征夷大将軍」の称号を
欲しがりましたよね。

源頼朝・足利尊氏・徳川家康が
その称号を獲得して
幕府を開いている。

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