ヨハネス･ブラームス（1833 ハンブルグ 〜 1897 ウィーン）
４つのピアノ小品 作品119
自身の老いと、近しい友人たちの死の報せに、自らの死を予感したブラームスは、1890年に、ザルツカマングート中央の有名な温泉療養地バード･イシュルで、遺書をしたためます。しかしその直後、非凡なるクラリネット奏者リヒャルト･ミュールフェルトの演奏に触れるのです。創作意欲を刺激されたブラームスは、91年に晩期の最高傑作である「クラリネット三重奏曲」と「クラリネット五重奏曲」を書き上げます。更に翌年の92年の夏に、「幻想曲」作品116、「３つの間奏曲」作品117、「６つのピアノ小品」作品118と共に、ブラームス最後のピアノ作品であるこの小曲集を、遺書の地バード･イシュルで完成させます。
精神的な死の淵を彷徨ったブラームスが、音楽の力によって再び甦り表現した世界は、寂寞と静寂の灰色の「失われた世界」である一方、書き連ねた楽音は、簡潔ながらその巧みな書法により精緻を極めます。しばしば、同チクルスで演奏される作品116から119の４作品には、大きな起承転結が存在し、この作品119の４曲も、作品内の起承転結によって楽曲が成り立っています。クララ･シューマンはこの小品集を聴き、言葉少なに『黒い真珠のようです』と語ります。それから後５年間、ブラームスは世に留まり、更に３曲、「白鳥の歌」を後世の私達に残します。
Intermezzo Adagio ロ短調 「灰色の調性」であるロ短調によるこの間奏曲は、一聴しただけではロ短調であることを判別することは難しく、浮遊し彷徨う和声は、まるで全く異国の異次元なる世界観を取り込んだが如き響きです。この曲が作曲される２年前の1890年に、元大垣藩主で伯爵の戸田氏共全権大使夫人、岩倉具視の次女で「鹿鳴館の華」と謳われた極子（きわこ）女史が、ブラームスの求めに応じて琴を、ウィーン日本大使私邸で演奏しています。ブラームスが格別に関心をもった曲は、八橋検校の「六段の調」でした。
『言葉にしたところで、その響きは虚空を彷徨い、誰の耳にも届かないのです』。それでもブラームスは、この曲のあらゆる部分に厳密なアーティキュレーションの指示を施します。クララ･シューマンに宛てた書簡には、こう記されています。『この小品はとても憂鬱で、全ての小節、全ての音符がリタルダンドしているように聴こえ、全ての音から憂鬱が吸い込まれるかのように、不協和音から官能的な悦びが感じられなくてはいけません』。主音への解決が、徹底的に回避された主部ですが、中間部で同主調であるニ長調に移ると、協和音が、ゆったりとしたワルツのリズムと共に顔を見せ、曲に新たな息吹が吹き込まれます。中間部の影響を受けて、異なる音型で再び現れる主部は、先に進むごとにいよいよ動きも沈静化し、沈黙の中で、主和音と共に曲が閉じられます。
Intermezzo Andantino un poco agitato ホ短調 第１曲の「失われた世界」を承けた第２曲は、強拍の配置の巧みな変化によって拍感を揺さぶり、不安感を煽る書法や、冒頭の二度音程の主要動機が、曲全体に頻出することにより、「何かを強く求めるブラームスの心」が描かれていますが、セピア色のメランコリーを体現するホ短調の主部では、求めんとする何かが、今に在るのではなく、過去の想い出の中のみに、存在することを伝えています。中間部のホ長調では、同じ主要動機を用いながらも、愛に溢れる雰囲気が漂い、それはまるで過去へのタイムスリップに成功し、想い出に全身を委ねているような感覚です。次第にリズムが伸び、時の感覚さえ揺らぎ、やがて曲は、ホ短調の主部へと再び移ります。ほぼ同じ形で主部が再現されると、最後には、ホ長調の中間部のモティーフに転じ、曲は安らぎの世界に埋没していきます。
Intermezzo Grazioso e giocoso ハ長調 第１曲、第２曲とは趣が全く異なり、清廉純白な少女が野原を駆けるような無邪気な世界が描かれます。主旋律は右手内声に、右手上声と左手は巧みにリズムを操り、第２曲と同じように、拍感が揺さぶられますが、第２曲の不安感とは対蹠的に、典雅な遊び心が感じ取れます。中間部に一瞬の爆発こそあれ、曲全体に宙を滑るような浮遊感があり、鳥が滑空するかのように、緊張から解放された柔らかなる世界が、曲を覆っています。
Rhapsody Allegro risoluto 変ホ長調 行進曲風の力強いリズムに乗って響く和音は、ブラームスに内在する雄弁さを物語り、終曲に相応しいダイナミズムを備えています。 この曲だけは、1892年以前に構想されており、従って、全く異なる性格を呈しています。分厚い和声、流麗なパッセージ、コラール風の神聖な響き、ハ短調の三連符によって蠢く暗い情熱、リュートを掻き鳴らすようにして奏される気高いメロディなど、曲は、多様な要素と共に発展し、同主調である変ホ短調による予期せぬ激しいコーダにより、作品119の４曲のみならず、一連の初作品116から数えて、20曲目に当たる終曲の大役を、見事な力強さで全うしています。それはまるで、自己の弱みを打ち据え鼓舞するかの如く「バード･イシュルの遺書」に決別を宣し、ブラームスの偉大なる生涯における、最後のこのピアノ作品は、遂にその大団円を迎えます。
フランツ･リスト（1811 ハンガリー ライディング 〜 1886 バイロイト）
ピアノソナタ ロ短調 S.178 / R.21 A179
リスト創作の黄金期は、「ワイマール公国時代」です。「宮廷楽長」という地位を得て、カロリーネ･ヴィットゲンシュタイン公爵夫人の厚い庇護の下、リスト唯一の「ピアノソナタ」であるこの曲を初め、ピアノ協奏曲第１番や自ら創始した交響詩、《ダンテ》と《ファウスト》交響曲等々、リストの主要な曲の多くを、この時代に書き上げます。1852年から翌年にかけて作曲されたこの偉大な作品は、ロマン派音楽史上、最高傑作の一つと讃えられています。
この名曲にまつわり、当時の音楽界を二分する大論争が巻き起こります。その発端は、1839年にシューマンが、３楽章構成の古典派ソナタ形式にもかかわらず、「幻想曲」と銘打った作品17をリストに献呈したことに始まります。13年間もの論争の後に、リストはその返礼として、この曲をシューマンに捧げたのです。全く新しい構成であり、曲全体が切れ目の無い単一楽章形式にもかかわらず、この曲に「ソナタ」の名を冠して献呈したのです。『主題変容の技法』によって、場面ごとの音楽的な文脈に沿って、主題がもっている調、拍子、リズム、和声、そして性格を、様々な形に『変容』させて、曲は構築されます。そして、至る所に散りばめられたこの『変容した主題』が、楽曲全体を高次元の統一に導きます。加えて、ベルリオーズの「幻想交響曲」に見られる『固定観念＝イデー･フィクス』や、ワーグナーの『示導動機＝ライトモティーフ』、リスト自身の「交響詩」が有する『叙事詩的世界観』といった管弦楽作品の手法までをも、ピアノ曲に逆輸入させているのです。
初演は、自身の高弟ハンス･フォン･ビューローによりベルリンで行われましたが、予想通りその直後から、嵐のように激しい賛否の論争が巻き起こります。ワーグナーは『偉大で深淵。気高い作品』と絶賛しましたが、シューマン派の音楽評論家エドゥアルト･ハンスリックは『支離滅裂な要素が厚かましく繋ぎ合わされた、音楽による暴力』とまで酷評し、シューマンの貞淑な妻であるクララでさえ『健全な着想はどこにも見当たらず、明確な和声進行は一つとして見出せない』と語気を荒げ、自身の日記に書き綴っています。
この世紀の音楽論争の本質は、単なる形式論などではありません。『作品の形式と精神的内容は、きわめて繊細に一致し、相互に影響を与えていなければならない』との自説通り、リストはこの「ソナタ」において、古典派のみならずキリスト教宗教観の源泉である『二元論的な善悪の観念』それ自体を、混沌の淵に追いやったのです。それぞれ場面ごとに、各主題に「善」と「悪」両者の役割を担わせ、「神」のようでもあり「悪魔」のようでもある『新たに誕生した何者か』に、この「ソナタ」の小宇宙を支配させているのです。
象徴的なのは、曲を閉じる最後の一音です。最低音部を使った「ロ音」。上声ではロ長調の主和音が『神の救済の鐘』のように鳴っているにもかかわらず、最後の最後に「ロ音」だけを弾かせることによって、ロ長調なのか、それともロ短調に転じて曲を終えたのかさえ、混沌とさせています。この『何者か』は、果たして「光」か「闇」か、「善」なのか「悪」なのか。リストは黙して語らず、その判断は、私たち聴衆に委ねられます。
この大曲は、単一楽章で書かれていますが、大きく３部に分かれており、それを「提示部−展開部−再現部」と捉えることができます。
第１部「提示部」Lento assai 導入部 Lento assai の下降音型主題に続いて、主部の Allegro energico に入り、第１主題が提示されます。ff のオクターヴユニゾンにより、荒々しく主要動機 a が提示され、続いて左手によって marcato の同音連打を骨格とした主要動機 b が提示されます。全曲を通して、この２つの主要動機は、極めて重要な働きを見せ、この主要動機によって、曲が展開されていきます。様々な展開の後、オクターヴパッセージに突入し、次いで、冒頭の下降音型主題が展開され、その後、ニ長調の第２主題 Grandioso が、ff で荘厳に提示されると、かの２つの主要動機が、多種多様な働きをもって『主題の変容』を導きます。リリシズムに溢れた叙情的な節など、紆余曲折を経ながらも、曲は次第に『広大なる小宇宙』を形成していきます。fff で冒頭主題が再現され、主要動機 a が従来のオクターヴユニゾンで登場し、f で哀しみに溢れた Recitativo が奏される頃には、悲痛さは更に増幅し、曲は次第に展開部へと向かいます。
第２部「展開部」Andante sostenuto 混沌とした第１部に対して、突如、全く雰囲気の異なる第３主題が提示されます。嬰ヘ長調で奏される第３主題は、慈愛に満ちておりどこまでも優しく、そして温かです。ここから主要動機 b が ppp の dolcissimo で奏され、次いで、地の底からせり上がって来るように暗転した第２主題が登場し、やがて主要動機 a も低音で、荒々しく再現されます。緊張感は、徐々に高まっていき、リストの『叙事詩的世界観』が現出します。ついに、第３主題が fff の感動をもって提示されると、この部の山場が訪れます。叙情詩的な『歓喜の歌』は更に続き、やがて、右手の下降音階と左手の和音により、優しさに満ち溢れた幻想的な楽部が奏されます。しかし、その興奮も落ち着きを見せ始め、音価も弱まり、最後は、消えるように再現部へ入ります。
第３部「再現部」Allegro energico 冒頭主題が、背徳の不気味ささえ伴って再現された後、第１主題が、緻密に動機を展開させた『リストのフーガ』によって奏されます。その後、様々な装飾によって、曲は印象深く展開されていきますが、圧巻は Presto からコーダに入るまでの場面です。まず、冒頭主題がオクターヴユニゾンで力強く提示され、主要動機 a は明転し、オクターヴ半音階が激しく上下行します。第２主題は、提示部以上の荘厳さをもって奏され、「交響詩」の如き高らかさで、『歓喜の歌』が歌い上げられるのです。盛り上がりが最高潮に達するや否や、突然、ロ長調の属七によって、歓びは閉じられます。フェルマータの長い沈黙の後、第３主題がロ長調で回想されます。そして、２つの主要動機が『悪魔的』に再現されますが、かの『何者か』の力は既に尽きており、わずかに冒頭主題が再奏されるのみです。終わりを告げる ppp の『神の救済の鐘』は鳴り、あの『謎のロ音』が低く呟く中、この長大な曲は、ついに大団円を迎えるのです。
本楽曲解説中に、誤りや研究不足の点がございましたら、ご指導下さいますようお願い申し上げます。
piano.ryoma@gmail.com �睫� 竜馬
八橋検校「六段の調」に聴き入るブラームス
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高木 竜馬：RYOMA TAKAGI 更新情報
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