《鐘》という表題こそ付きませんが、ロシアの正教会やクレムリン宮殿の「鐘」の響きに満ち々々ているこの曲は、ラフマニノフ屈指の名曲として、作曲当初から絶大な人気を誇りました。主調である嬰ハ短調から「ミスター・嬰ハ短調」というあだ名を付けられ、当時のラフマニノフ自身の演奏会では、アンコールでこの曲が取り上げられない限り観客は帰ろうとせず、「嬰ハ短調 !!!」と観客が要求することも少なくありませんでした。アメリカでは「The Bells of Moscow(モスクワの鐘)」と標題が付けられて大流行し、ベルリンの夕暮れ時に家の窓を開けると、そこかしこからこの曲を練習しているピアノの調べが風に乗って聴こえたそうです。街という街の中央広場に必ずそびえる教会。その「鐘」の響きは、西洋の人々にとって、切り離すことの出来ない生の象徴です。それは天からの啓示であり、永遠性を有した無限の時の刻みであり、そして警鐘でもあるのです。「もし、私が作品の中で「鐘」を、人間の感情と共震させることに成功しているとしたら、それは、私が人生の大半をモスクワの「鐘」の響きと共に過ごしたからだ」と語ったラフマニノフの心の原風景が、この曲によって描写され尽くされています。
スクリャビンの作品の中でも、最も完成度が高いこのソナタは、初期のロマン派作風と後期の神秘(神智)主義作風の過渡期である中期に書かれました。1907年にスイスのローザンヌにて僅か一週間ほどで書き上げられましたが、その構想は、代表作の『管弦楽のための《法悦の詩》』作品54(仏語:Le Poème de l'extase 英語:The Poem of Ecstasy)と共に、前年のアメリカ演奏旅行中に練られました。このソナタの冒頭にも、スクリャビン自身が作詩した300行にわたる『法悦の詩』の一説が、書き入れられます。
第2楽章 Non allegro - Lento ホ短調 4/4拍子 3部形式 Non Allegro の、彷徨うかのような短い主題によって始まり、Lento の主部へと移行します。この3楽章の導入部分にも登場する Non Allegro は、現在と過去とを結ぶ「タイムトンネル」の役割を果たしています。過去に戻るや始まる主部は、ラフマニノフの幼少の温かい時を象徴するかのように、慈愛に満ちています。しかし、それはあくまでも現在からの幻想であって、それゆえ主部は、哀しみと切なさに溢れたセピア色の心象風景なのです。主題は、その後徐々に盛り上がりをみせ、やがて悲痛な叫びの ff に変化します。その直後、1楽章第1主題の動機が現れ、社会主義への言い知れぬ恐怖へ変質してしまったロシアの「鐘」が不気味に鳴り響いて、近代の即物的で醜悪な情景への怨嗟が表現されます。左右で異なる頂点をもつ不安定で激しい上昇音形により、それらが消え去ると、主部の主題が、よりセンチメンタルな響きをもって再現され、2楽章は静かに閉じられながら、3楽章冒頭の、あの「タイムトンネル」へアタッカで向かいます。
第3楽章 Non allegro - L`istesso tempo Allegro molto 変ロ長調 3/4拍子 自由なソナタ形式 「タイムトンネル」を抜けて、現在に戻るや否や、突然 ff の Allegro molto が鳴り響きます。それは、1楽章の第1主題の展開した「循環主題」であり、なおかつ、変ロ長調に明転した高らかな響きです。やがて、第2主題が厚みのある和声に守られながら朗々と展開し、その後は「循環主題」が荒々しく再現されます。この再現部で、再現と展開と発展が執拗に繰り返された後、ついに第2主題による『歓喜の歌』が誇りをもって歌われます。コーダは絢爛と豪華を極め、この曲の最後に相応しいホロヴィッツの加筆によって、更に一層の派手やかさを増しながら、全曲はついに大団円を迎えます。