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文芸冬夏コミュの読み切り『指輪の向こう・前編』著:幽一

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□前編□ 

 物置に入るのは小学生以来の事だった。
 バイト先から家に帰る途中に立ち寄った書店で購入した単行本を本棚にしまおうとして,そこにはそんな余裕がないことに気づかされた。気がつけば,足下には雑誌が多く散乱し,机に上には読みかけの単行本や小説が積み重ねられていた。もちろん本棚に新しい本を収納できるような隙間など,とっくの昔に姿を消している。たしか,物置に幾つか小さな本棚が置いてあったような気がする。翌日,バイトも休みだったので物置の掃除や整理も含めて,ほぼ数年ぶりにあの物置に入った。
 母屋から二十メートルほど離れた場所にぽつんと佇む木造の小さな物置は,しばらく足を運ばなかった間に,自然と同化しつつあった。生い茂るツタの葉が屋根や壁を深緑色に染めていた。横開きの戸を開け,中に入ると埃臭さとカビの臭いが鼻腔に届く。中は薄暗く,正面の上の壁に小さな窓があり,そこから日の光がわずかに差し込んでいた。足下の床が四角に照らされ,そこで粉埃がちらちらと雪のように舞っていた。窓はそこだけで一つしか存在しない。
 一歩足を踏み入れると,かつんとつま先に固い物が当たった。屈み込んでそれを手に取る。分厚い本のようだ。埃で真っ白に汚れ,タイトルがなんなのか分からない。手で,表紙を拭った。
 深緑色の表紙が埃の下から現れ,記念アルバム,と金刺繍で書かれたタイトルが姿を現した。
 なんだ,アルバムか,っと近くの箱の上にそれを置くと,足下に注意しながら奥へと進んだ。歩くたびに足元の埃が顔の近くまで舞い上がった。
 辺りを見回しながら,本棚を探した。
 結局本棚は見つからず,近くにあった段ボール箱にしまってあった雑誌類に目を奪われ,それを手にして無駄に時間が流れるのにも気がつかずにいた。夕日が窓から差し込み,黄色く黄ばんだ新聞紙の束を茜色に染め始めた。それを見て,ようやく時刻が夕刻へと移り変わったことに気がついたぼくは手にした雑誌類を段ボール箱の中に戻した。結局,掃除なにもすることはなかった。
 立ち上がって背伸びをする。
 ふと,目の先に先ほどのアルバムが目に止まった。早くもうっすらと埃を被り始めている。何となく手を伸ばして,再び表紙を手で拭った。濃い,深緑の表示と金刺繍のタイトルが再び綺麗に浮き上がった。
 とくに何をするのでもなく,本当に何となく,アルバムをパラパラッと捲った。昔のアルバムらしい。モノクロームの白黒写真が,糊で直接ページの貼り付けられている。写真の下には人物の名前や日付や日時などが細く鉛筆のような物で書かれていた。
 写真は所々矧がれて落ちていた。
 おそらく祖父の,祖母の代のアルバムだろう。特に興味はなく,適当の写真の下に書かれている文章を目で追う。簡潔な文章がわずかに添えられているだけなので面白くもなにもなかった。
 ふとその時,次のページに進んだ途端,急に写真の四角ではない別の四角が唐突に現れた。黒いぽっかりとした穴が空いていた。四角で,年賀はがきくらいの大きさの穴で意図的に開けられたものだということが伺えた。穴は数ページに続いていた。
 穴の中には指輪があった。
 銀色の質素な指輪で,宝石などな何もついていない。ただ指にはめるのには大きすぎる。キーホルダーを束ねるための輪っかとあまり大差がないようにも見える。
 手にとって指輪を眺める。
 ただの質素な指輪だ。かっこよくもないし,綺麗でもない。同じ指輪なら結婚指輪のほうがまだましだと思った。どちらにしろ,装飾品を好む性格ではないので特になにも感じない。もし装飾品を好む性格だったとしてもこんな指輪を手に入れて嬉しいとも思わないだろう。
 祖父か祖母の指輪だろうか?
 だとしたらどうしてこのようなアルバムにわざわざかくしておいたのか?一刹那ほど考えてどうでも良くなった。アルバムを適当に置物の上に置き,指輪を手の平の中で転がして弄んだりした。すぐに飽きて,適当にポケットに中に入れると,外に出て戸を閉めて足早に物置を後にした。

 部屋に戻って上向きに寝っ転がった。特に何もすることがない。テレビも読書もする気になれず,ただ天井とにらめっこをして時間を過ごした。一人暮らしを始めてからというもの,自分の人間不信の正確により一層磨きがかかった。とにかく昔から群れることが嫌いだった。人と会話をすることが嫌いだった。学生時代にどうして教室に人間を沢山詰め込んだ場所で生活しなければならないのか,と憎悪を感じた。
 バイト先での仕事はは接客をしなくてよいので助かっている。
 裏で商品や荷物を積み重ねて冷蔵庫や倉庫に運ぶだけでよいのだ。人など,担当者や業者の人間ほど会っていれば良いだけで,会話も簡潔に短くて済んだ。最高の仕事場だ,と感じている。
 家には今は誰もおらず,広くても自分以外だれも使うことがないのでとても静かだった。父や母は都会の方に引っ越して,新しい住居を建てて住んでいるらしい。去年の年賀はがきにそのようなことが書いてあったような気がする。手紙も一緒に同封されていたが読まずに棄てた。おおかた向こうで一緒に暮らさないかという内容だろうと察しがつく。残念ながらそのような気は毛頭無かった。
 一人で居ることが好きなので今の生活を手放すのは惜しい,と思っている。二階の自分の部屋にさえ戻れば,後は自分だけの静かな世界が待っていた。
 特に将来の希望や夢もなく,日々こうして淡々と静かに生活して行けるだけで満足だった。それ以上なにを望めと言うのか。それ以上は贅沢だと思う。友達と呼べる存在は存在しなかった。興味もなかったし必要なかった。きっとこのまま,誰にも関わることもなく静かに一人で生きていくのだろう。きっと象のように一人孤独に死んでゆくにちがいない。それもそれでかまわなかった。それも一つの生き方だ。
 寝返りをうって,ふと上着のポケットに何か入っているのを思いだした。
 指輪だった。
 手にとって照明の光とにかざしてみる。
 丸い輪っかの向こうから照明の光が落ちてくる。表面にわずかに茶色いさびがまだらに浮き出て,銀色の部分も鈍い光沢を放ってた。どうしてこのような物を持って帰ってきたのだろうか。自分でよくわからない。何となく,で自分を納得させると考えることが煩わしく思えてそれ以上考えるのをやめた。
 何となく,は僕にとっての逃げ口上だ。
「…って…」
 ふと何かが聞こえた。
「といて…こないで…」
 女性の声だった。まだ若い。もしかしたら同年代か,それより下か。幻聴ではなくはっきりと聞こえる。
 耳を澄まして,その声の出所を探った。今度はすすり泣く声が聞こえてきた。もの凄く近くで聞こえたような気がした。
「…ほっといてよ…」
 耳元で囁かれたようだった。にわかに信じられらなかった。なぜなら声が聞こえてくるのは手にしたあの指輪からだったからだ。
「う…うっ…」
 とうとう自分の耳がおかしくなったのだろうか。嗚咽がここまで鮮明に聞こえる幻聴などはたしてあるのだろうか。じっと指輪を眺めていた。すると指輪の向こうの丸い視界に別の風景が見えた。声はそこから聞こえてくる。指輪の中をそっとのぞき込む。部屋だった。どこのだれの部屋かは分からない。薄暗く,電気がついていないのだろう。それでも部屋の中の物を見るのに不自由するほどの暗さでもない。指輪はどうやら机の斜めに積まれている本の上か何かに置かれているのだろう。すこし斜めに天井と壁の境界線が見えた。壁紙は灰色に見えたが,暗いので本来の色は分からない。視界の端に棚が見えたが,何が置かれているのかは見えなかった。
 すすり泣く声は今度はしゃっくりに変わり,ただでさえ暗い部屋がさらに暗く感じた。
「…死のうかな…」
 声の主は自殺をほのめかす言動を口にした。流石にいくら人間不信のぼくでもいきなり自殺しようとする人間が目の前に現れて,止めないほど冷酷な人間ではない。思わず,指輪の向こう側の彼女に向かって声をかけた。僕にしてはあり得ない行動だったが、その時は何故だが滑らかに唇が動いた。
「あの,死ぬのはよくないと思いますよ?」
 向こう側で彼女が動揺したのが分かった。
「誰!誰なの?」
 部屋をきょろきょろと見回している彼女の姿が想像できた。もう一度声をかけた。
「えーっと、ここです。机のほうです」
 床を踏みしめる音が近づいてきた。がさがさと机の上の物が移動される音が聞こえる。ぬっ、と目の前に少女の顔が現れた。
「指輪です。指輪」
「ここから?どうして指輪から声がするの?」
「それほ僕にもわかりません。とにかく、自殺はよくないと思いますよ」
 彼女はすこし沈黙した。僕はとりあえず言葉を続けた。
「なにがあったか知りませんが、早まるのは損だと思いますよ。もう一度良く考え直してみてはどうですか?」
 損ですよ、と言い方はまずかったかもしれないとすぐに思ったが後の祭りである。もう少しまともで気の利いた言葉が言えれば良いがそんな芸当は僕には出来ない。
「ねえ、あなたは誰なの?」
「え、僕が見えませんか?」
「ええ、見えない」
 指輪の向こう側からはこちらが見えないらしい。おそらくただの指輪にしか見えないのだろう。こちらが彼女を見てむこうは僕が見えない。一方的な覗きに近いかもしれない。妙で複雑な気分だ。
 とりあえず、こちらも声だけが聞こえることにして、彼女の方が見えることは伏せておくことにした。
「ねえ、あなたは誰なの?」
「僕はただの引き籠もりですよ。あなたは?」
「…澄原夕希」
 澄原夕希。それが彼女の名前だった。

 澄原夕希と会話を始めたのはそれがきっかけだった。
 こっちは指輪の向こう側の彼女の姿を見ることができるが、彼女はこちらの姿を確認できない。声だけだ。なので向こうは僕の顔を知らない。それはそれで良かった。自分の顔を見て会話されるのはあまり良い気分ではない。
 彼女は十六歳。高校生、ただし不登校。
 学校に嫌な友達や、先生がいるので行きたくないらしい。あの時聞こえた声は、母親と口論していたみたいだ。
 彼女は人が沢山いる場所には行きたくないらしく、一人で過ごすのが好きなそうだ。その点、僕と似ているところがあるなと思った。
「勉強は好き?私は勉強自体は嫌いじゃないけど、学校で勉強するのはいやよ。どうしてあんな狭い教室に何十人もの生徒を押し込めて授業しなければならないの?」
 私には理解できない、と彼女は怒ったような口調で言う。僕も同じ事を学生時代に考えていた。まさか自分と同じような考えを持っている人間が他にも居たとは,とすこし感心する。
「君はどんな教科が好きなんだい?」
「私?私は英語と数学。90点以下は取ったことはないわ。それ以外は…一桁以外は取ったことないわ」
 中途半端に極端だ。
「僕は社会かな。あと国語。僕にはわかんないなー、数学なんて」
 僕は数学が苦手である。
「そうかしら?自分の計算して答えが分かったときとか楽しくない?」
「まったく。そもそも、数学なんて将来役にたたないだろ?」
 そうかしら、と彼女は首を傾げる。可愛らしい仕草だ。どうしてこんな子が、不登校になるのかが分からない。よほど悪い友達か教師がいるのか、すさんだ学校なのかもしれない。世も末だ。
「それを言うなら、社会だってあんまり役にたたないでしょう?世界史とか、あんなのこそ役に立たないって」
「でも世界史は楽だろ?僕は好きだよ」
 僕は世界史や日本史は唯一の得意科目だった。
 夕希と会話するのは大体が夜だった。僕は昼間はバイトなので忙しいから、休みを除いて大体五時から二時近くまで話をした。彼女は、学校に行っていないので一日中退屈らしく、僕が指輪に向かって話しかけると向こう側で待ってましたと言わんばかりに嬉しそうな顔をする。
 嬉しそうな顔をした時の彼女の顔は,日の光が射したように輝く。向けられた方が戸惑ってしまいそうな純粋で無防備な笑み。それは彼女が元来持っているものなのだろう。
 僕などが触れてよいのだろうかと時たま思う事がある。
 今日は白いパジャマを着ている。いつもなら真っ黒なパジャマを着ている。病気のような白い肌に彼女の黒い長い髪と服の漆黒が妙にしっくりきてとても美しいと感じていた。でも、白も悪くはない,とも思った。
 彼女は何を着ても似合う。
「今日は何か良いことでもあったのかい?」
 僕は聞いてみた。彼女は分かる?っとにっこり微笑んで指輪を手に取り顔を近づける。
「実はねぇ、学校退学することになったの」
 と彼女は嬉しそうに語る。
「いや,そこは喜ぶところじゃないから」
 僕はやや呆れ気味に呟く。
「ねえ、どうして分かったの?私が嬉しそうだって」
「そりゃぁ、今日は白いパジャマだから」
 何の意味があるかは分からないが。
「えへへへ、そうなの。私良いことがあると白いパジャマに着替えるの」
「へえ、じゃあ黒い時は良いことはないのかい?」
「ううん。あれは普段着」
 あれで普段着とはどうかと思うが人のことは言えないので黙っておく。てっきり機嫌や気分が悪い時用の服かと思っていた。
 彼女はちゃんとすれば顔は可愛いのだから,友達も出来ないことないと思うのだが,それを彼女に教えてあげる気はなかった。
 言っても首を傾げるだけだろうと思う。
「…あれ?」
「どうしたんだい?」
 彼女が少し考え込むように額に皺を寄せる。やがて,何かに気がついたようにこちらの方に目を向け見開く。
「もしかして…あなたの方から私のこと見えるの?」
 しまった、と思った。どうしてばれたのだろうか。黙っていると、彼女は「そうなのね?」と少し低い口調で問うて来た。
「…な、何を言ってるのかな?」
「ごまかさないでよ。だってあなたさっき言ったでしょう?『白いパジャマ』って。それって、見えてるってことじゃないの」
 なんて自分は馬鹿なのだろうか。後悔しても後の祭りであった。彼女はそれからハッとして今度は顔を真っ赤に染めて叫ぶ。
「…!ってことは、き、着替えとか全部見てたのね!最低!信じらんなーい!」
 彼女は顔を押さえて狼狽した。
「い、いや、そういうのは見てないから」
 あわてて否定するが彼女は真っ赤になって僕の弁明に耳を貸そうとはしない。言い訳するのも滑稽に思え僕はそれ以上否定を口にしなかった。視界から彼女の姿が消えてドタバタと物が崩れたり倒れたりする音が聞こえた。部屋を片づけているのかもしれない。そう言えば、脱いだ下着などがベットの上などに放り投げてあったのを見たような見てなかったような。
 走向しているうちに、夕希の顔が戻ってきた。息が荒く、顔はまだすこし火照っている。
「ごめん…」
 僕は一応謝る。
 返答は無い。
 気まずい空気が流る。
 しばらくして、ようやく先に彼女が口を開いた。
「…なんで最初に言ってくれないのよ」
「ごめん」
 何かとてつもなく悪いことをして怒られている子供のような気分だった。

 それからは指輪は彼女の胸ポケットに入れられることになった。彼女の姿が見れなくなったのはすこし寂しい気がしたが,それでも会話を続けることができるだけでもいくばかましな方だった。あれから数日近く彼女は僕のことを無視していた。
 僕は何度も謝った。
 それでもって,ようやく彼女が許してくれたのか,なんとか元の会話ができるくらいまで関係は回復した。
 それでも時々はそのことで揚げ足を取ってくる。
 今日も指輪を覗いても黒い布地が視界を塞いでいた。
 僕は声をかけた。すぐに彼女の声音が返ってきた。
「ねえ、聞いてよ!」
 彼女はすこし怯えた様子だった。しかし語気は強かった。
「何かあったのかい?」
「うん。今日久しぶりに外に出てみたの。お母さんがたまには外出しなさいって、一緒に買い物に……」
 買い物は近所のスーパーに行ったそうだ。食品を買った後,夕希の母親は婦人服売りのコーナーで一時間ぐらい物色していたらしい。それに付き合わされるのが嫌で,夕希は一人で人の少ない書店に立ち寄ったそうだ。彼女は服にも興味がないようだ。
 彼女は基本的には本を読まないらしい。だが、時間を潰す意味合いもあって適当に文庫本や雑誌を捲っていた。人は少なかった。
 五時になると夕食の買い出しに来る人が増えて、気分が落ち着かなくなった彼女は足早に母親の元へ戻ろうと本を本棚に戻した。その時,妙な視線を感じたそうだ。
 彼女は人一倍に人間不信らしく、他人の視線などは敏感に感じ取ってしまうらしい。気がついた時はその視線が自分を追ってきていた。彼女は恐ろしくなった。
「いつからその視線に気づいたんだい?」
「五時を少し過ぎた辺りから。ほら、人が増えてきて」
 彼女が行ったスーパーは僕が働いているスーパーだった。僕はその時間帯はちょうど倉庫で荷物を下ろしていた。なので人が増えたていたのは知っている。
「もう外に出ないことにする」
 彼女はやはり怒ったように言うと、その日読んだ本の話をした。その本は僕がいつも書店で立ち読みしている本だったので話が弾んだ。
 僕にとっての至福の時間。彼女と会話をするだけで、なにか満たされなかった何かが満たされていくように思える。人間不信な人間同士がどうしてこんなに親しい会話ができるのだろうか、と時々思う。
 そして自分に驚く。自分が自分以外の他人に興味を抱くなど考えられないことだった。ましてや異性などと、っと正直驚きを隠せない。自分はいつから変わってしまったのだろうか。
 僕は指輪を紐に通して首に掛けていた。手にとって指輪をじっと眺める。
 この指輪のおかげかもしれない。
 不思議な指輪だと思う。一体どんな力が働いてこのような事が出来るのかは僕には分からない。ただ、それが僕と夕希を繋げてくれる大切な物だということは確かだった。
 僕の中で彼女の存在が変わり始めていた。
 それと同時に、それ故に彼女の不安が僕の不安となって胸に広がっていくのだった。

 今日は沢山の食品や製品を倉庫に運ばなければならなく、自分以外に高校生のバイトが何人かいた。僕は藤方という男と一緒に、それらを倉庫へと運ばなくてはならなかった。彼と一緒に大きな段ボール箱を抱え倉庫へと運んでゆく。
 そんな時、普段は喋らない藤方がめずらしく僕に話しかけてきた。彼は、眼鏡をかけていてぼさぼさの髪をしていた。不器用で仕事中も失敗が多く、よく担当者に叱られているのを何度も見た。
 彼は気弱そうな顔をしていて、つねにおどおどとした軌道不審な性格だった。なので,同じバイトの人間からよくからかわれたりしている。みんな彼を避けていた。
「なんだい」
 僕も彼を避けていた。他の人間が嫌がらせで避ける以前に、僕は他人と話すのが嫌いな性格だったので適当にあしらおうと無感情な返事を返す。
「君は最近楽しそうだね」
 藤方はとても羨ましそうな顔をて言った。
「それはどういう意味かな?」
「そのままの意味だよ。君は最近なんだか楽しそうだよ。おかしいな、僕と同じような人間だったのに急に楽しそうな顔になって……」
 と残念そうに呟く。
 すこし腹が立った。
 おまえと同じ?ふざけるな。
「彼女でも出来たのかい?羨ましいな…」
「僕は誰も好きになったりしない。彼女なんか出来るわけないだろ。欲しいとも思わない。それに僕は君となんかと一緒じゃない。勘違いしないでくれ、気分が悪い」
 僕は苛立った口調で彼にそう言い放つと、ささっさと荷物を運んで仕事を終わらせた。
 帰る途中に、書店に寄ろうとした時、そこに夕希の姿があった。買い物袋を片手に、雑誌類を立ち読みしている。また、彼女の母親の買い物に付き合わされたらしい。顔がうんざり、といった表情だった。だがその割にはなぜか白いジャージを着ていた。顔に現れた表情と彼女の気分は違うのかも知れない。かといって機嫌が良いようにも見えなかったが。遠目に見てたら部活帰りの女子高校生その姿だった。まったく違和感がない。先ほど,紺色のジャージを着た近くの高校の生徒を何人か見た。この時期はインターハイや引退試合が多いので,それに伴いジャージや体操服姿の数も多かった。
 彼女に思わず声をかけそうになって思いとどまる。彼女は僕の顔を知らないのだ。今、ここで声をかけても困惑するだけだろう。もしくは幻滅,失望か…。
 僕は文庫コーナーに回り、適当に立ち読みをして彼女が立ち去るのを待った。数分して覗いてみると彼女はいなくなっていた。多分母親と家に帰ったのだろう。
 僕は適当に文庫本を手に,レジに向かった。
「あなた,いつもここで本を買ってらっしゃいますよね」
 店員の青年が営業スマイルを浮かべて嬉しそうに言う。青年と大人の間を行き来しているような顔立ちを見て最初は高校生かもしれないと思っていたが,すでに二十歳らしい。僕はよくこの本屋に立ち寄るので一応顔見知りだ。
「ええ、ここが一番家に近いですから」
「そうなんですか。いや、じゃあ、彼女も近くに住んでるのかな?」
「彼女?」
 その言葉が引っかかり、青年に聞き返した。
「いや、あそこで良く立ち読みしている子がいるんですよ。可愛い子でしてね」
 夕希のことだろうか。だとしたら、夕希が言っていた視線とはまさか彼のことかもしれない。
「そうなんですか」
 適当に相槌をうって、会計を済ませると書店を後にした。
 途中、入り口の警備員に声をかけられた。
「最近は不審者が多いから気をつけて」
「はい。ご苦労様です、まだお仕事ですか?」
「いあ,いつもなら五時には終わるんだが今日は六時までなんだ」
 彼とは近所なので挨拶くらいはしておかなければならないと思った。
 じゃあ頑張ってください,っと言って僕は家に帰った。
 部屋に上がって電気をつける。本ばかりが散乱した部屋の隅に置いてあるベットに寝ころぶと、暗鬱を吐き出すようにため息が出た。彼女と話そう。何か楽しい話しでも。今日書店で会った事を知らせたらどんな反応をするだろうかと考えてみる。
 だが,その日は,夕希に話しかけても何の応答もなかった。わずかに寝息が聞こえたので、寝ているのかもしれないと思った。
 その日は僕も早く寝ることにした。始めて彼女と会話をしなかった夜だった。心のどこかで不安の影がよぎった。

 翌朝早く目が覚めた。僕にしては珍しいことだった。起きあがって顔を洗って、適当に朝飯をとってから再び布団の上にごろんと寝転がる。意識はまだまどろんでいた。
 携帯で時間を確認すると,朝の八時だった。いつもならバイトに出かける支度をしていて忙しい時間帯だ。
 でも今日はバイトが休みだった。
 暇なので、夕希と雑談でもしようと思い首に掛けてあった指輪にむけて話しかけた。きっと彼女も退屈しているだろうと考えていた。
 しばらく応答がなかったが、突然彼女の声が指輪から返ってきた。
「…引き籠もり君!」
 酷いあだ名だ。
「どうかしたのかい?」
 今日の彼女の声は落ち着きがなく、どこか焦っていた。そしていつもにも増して怯えをはらんだ声音だった。
「た、助けて…」
 彼女は震えながらそう言った。

              □後編に続く□

コメント(1)

幽一先生、いらっしゃいませ。

小生夜勤帰りの身の上の為、ご挨拶のみにとどめさせていただきますがどうぞ宜しくお願いいたします。

今後もごゆるりとご利用ください。

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