ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

信仰と対話コミュの★阿弥陀仏は地球と縁があるのか?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
阿弥陀仏は、西方十万億土の彼方にある極楽浄土に住する仏様です。

「西方十万億土の彼方」は、私達の住む地球からは遥か遠い所です。

そこにまします阿弥陀仏は、私達の住む地球とは縁があるのでしょうか?


このトピックでは、この問題に絞って議論していきたいと思います。


※これまでの議論で明らかになった、互いの主張

【5-1】いとー&Steve共通
a.浄土門は「この世」ではなくて、西方十万億土にある極楽浄土に往生し、
 そこで「覚り」を獲得する教えである。
 根拠・・法然上人『要義問答』
b.『無量寿経』における「阿弥陀仏」
・「本願を信じて念仏を申すものを極楽浄土に救い取る」
 という阿弥陀仏の本願が『無量寿経』に説かれている。
・その阿弥陀仏の救済の対象は「十方衆生」である。
・『無量寿経』おいて、この経に説かれる法門は、
 法滅以後も百年存続すると、釈尊が「特留此経」している。
c.『観無量寿経』における「阿弥陀仏」
・「心を尽くし南無阿弥陀仏を十回唱えれば、八十億劫の生死之罪が除かれる。」
 とある。
・釈尊が「無量寿仏のお名前を保ちなさい」と説いている。
d..『法華経』における「阿弥陀仏」
・化城喩品では、大通智勝仏の十六王子の一人である。
・薬王品では、釈尊の分身である。
 そして『法華経』を聞いて修行すれば、阿弥陀仏の浄土に生まれることができる。

【5-2】いとー
a.【5-1】に加えて、【1-1】の全ての経典は同価値であるという立場を取る。

∴阿弥陀仏は地球と縁のある仏であり、
 経典に説かれた通りにしていれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生でき、
 そこにおいて成仏することができる。

【5-3】Steve
a.【5-1】は、事実として客観的に確認できる。
b.『法華経』方便品で「正直捨方便」として権教は退けられているので、
 『無量寿経』『観無量寿経』の説は無意味である。
c. 『法華経』薬王品の記述は、修行退転によって成仏できなかったとしても、
 極楽浄土において『法華経』修行ができるということある。
 だから、厳密に言うと「即身成仏とは縁がない」ということになる。

∴ 阿弥陀仏は地球と縁のない仏である。

コメント(26)

久々にお邪魔します。
少なくとも仏教について話す者同士がそれが何であれ「縁が無い」事柄を論じる事自体が因縁果という考え方から離れています。
言いたい事は解りますが、言葉の使い方に問題があります。
因縁果と言う事から考えれば「縁の無い」ものごとは論じる事自体不可能です。
>steveさん
 お久しぶりです。
 いや、仰る事はわかるのですが、仏教徒として仏教語であるはずの「縁」と言う言葉の使い方に問題があるのではないでしょうかと考えるわけです。
 もう少し言えば、仏教語としての縁の意味としては、ある事象がおこる事を妨げないという事も縁として言われるので、条件を設定したとしても縁が無いとは言えない訳です。
 それから、私の理解したところでは上で仰る条件設定は「現世での成仏」ということと思うのですが、違いましたでしょうか?
日蓮正宗の教義は私には関係ないので良いのですが、縁と言う語について、佛教では迂濶に無縁と言えないと思うのです。
まぁそれが気になっただけですから・・・
えっと、わりと面白そうなトピックスだったのに、いつの間にか立ち消えっぽくなっちゃってますねあせあせ

「縁」という言葉の是非、および法華経との対比をひとまず置くとして、

要するに、「阿弥陀仏は、この我々が生きている現実世界とどうかかわりがあるのか。「西方十万億土の彼方」とされているけれど、現実世界とほとんど関わらないということなのか、そうではなくて、積極的に関ってくる仏なのか。

もし、積極的にかかわってくるとしたら、「西方十万億土の彼方」とはどういうことなのか、ということが、面白い論点としてあると思うんですよね。

むかし読んだ、一遍上人の語録や、真言密教系の念仏者・道範の「秘密念仏抄」などだと、「西方十万億土の彼方」というのは、本当は間近な阿弥陀仏を、我々の煩悩が隔てているから遠くに感じる、つまり煩悩によって眼がさえぎられていることの比喩として受けとっているんですよね。

それとちょっと似たバージョンなのかもしれませんが、光明主義の山崎弁栄上人は、「西方十万億土の彼方」を、人間の心の限りも知られない広さと可能性をあらわした比喩として受けとっているようです。

それらの解釈だけでなく、むかしから、阿弥陀経の「西方十万億土の彼方」と、観無量寿経の阿弥陀仏は「去此不遠」(ここを去ること遠からず」という記述と、一見相反する記述をどう受けとるか、そこが浄土門の頭をひねってきたところであり、身をもって体解してきたところだと思うんですね。

で、よくある誤解としては、阿弥陀仏の「西方十万億土の彼方」の要素ばかりが強調されて、「去此不遠」の要素が無視される傾向が、浄土門をこの世と関係ない宗教と誤解する方には多いように思われます。

法然上人は、阿弥陀仏を「機縁深厚」だと、この現実世界に生きる人にとって、関係がうすいどころか、最も厚い仏と見ておられたわけですよね。

それがなぜなのか、どういうことなのか、私もとても興味深いところです。
>Steve

年末でバタバタしている上に、
次郎さんとの「一念義」に関する議論が忙しくて、
ガチンコバトルのためのトピックを一杯立てたのに、
放置したままでごめんなさい!!m(__)m

日蓮聖人関係のテキストもゲットして、ちょっとづつ勉強してますので、
しばらくお待ちください。m(__)m



>あなんさん

あなんさんの仰るように「無関係という関係」もあるわけですから、
「無縁」という言葉を使用する際は、気をつける必要がありそうですね(汗)。


ただ、これは同じく浄土宗のあなんさんにもご確認いただきたいのですが、

 往生浄土門というは、まず浄土にうまれて、かしこにてさとりをもひらき、
 仏にもならんとおもうなり。
(『要義問答』昭法全615)

と法然上人の言葉にありますから、

阿弥陀仏には、僕達を太陽系第三惑星の「地球」上で「成仏」するための力は、
確かに「ない」と思うんです。


その上で、本願を信じてお念仏を申す衆生を極楽浄土に救い取り、
その後に、極楽浄土で「成仏」させる阿弥陀仏が、

日蓮正宗の主張するように、
「末法今日の衆生の成仏」に全く無関係と言えるかどうか?

ということを、Steveとこのトピックでは議論していきたいと思っているんですよね。
>あつしさん

諸事情により「放置」してますが、
絶対に「立ち消え」にはしませんので、長い目で見てやってください(汗)。

とりあえず、あつしさんから、
『無量寿経』『阿弥陀経』における「西方十万億土の彼方の阿弥陀仏」と、
『観無量寿経』の「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」
という話が出ましたから、その話をちょっとさせていただきます。


善導大師はこの矛盾を、以下のように会通されています。

「阿弥陀仏不遠」といふは、まさしく境を標してもつて心を住むることを明かす。
 すなはちその三あり。
 一には分斉遠からず。これより十万億の刹を超過して、
 すなはちこれ弥陀の国なることを明かす。
 二には道里はるかなりといへども、去く時一念にすなはち到ることを明かす。
 三には韋提等および未来有縁の衆生、心を注めて観念すれば定境相応して、
 行人自然につねに見ることを明かす。
 この三義あるがゆえに不遠といふ。
(『観経疏』序文義)


これによると、「十万億土」が遠くないことに三つの理由があります。

1)分斉不遠

「分斉」というのは限界・程度・限りということです。

十万億っていうけど、千万億・百万億に比べたらたいしたことないじゃん!
という一番簡単な説明です。

まあ、そうは言っても、
「十万億ってすごい遠いじゃん」と僕達は思いますよね。f^_^;


2)道里不遠

というわけで、こいつになるわけです。

「道のり」「道程」が遠くないというんです。
たとえ百万億・千万億であろうとも遠くはないと。

なぜならば、この娑婆世界を去って極楽浄土に生まれる時には、
「一念」という瞬間に生まれることができるじゃないかという説明です。


3)観念不遠

これはちょっと僕には無理なんですが、
精神を集中して極楽浄土を観念して観察したら、
目の前に極楽浄土があるから、遠くはないじゃないかという説明です。


・・まあ、ちょっと無理がありますね・・。
ということで法然上人にお尋ねしますと、


 善導の、三縁の中の親縁を釈し給に、
 衆生佛を礼ずれば、佛これを見たまふ。
 衆生ほとけをとなふれば、佛これをきゝ給ふ。
 衆生佛を念ずれば、佛も衆生を念じたまふ。

 かるがゆへに阿彌陀佛の三業と、行者の三業と、かれこれひとつになりて、
 佛も衆生も、おや子のごとくなるゆへに、親縁となづくと候ぬれば、
 御手にずゝをもたせたまひて候はば、佛これを御らん候べし。
 御心ち念佛申すぞかしと思食候はゞ、佛も行者を念じ給べし。
 されば佛に見えまいらせ、念ぜられまいらする、
 御身にてわたらせたまひ候はんずるなり。

 さは候へども、つねに御したのはたらくべきにて候なり。
 三業相応のためにて候べし。
 三業とは、身と口と意とを申候なり。
 しかも佛の本願の称名なるがゆへに、こゑを本躰とは思食べきにて候。
(「往生浄土用心」昭法全p.559、勅伝23)

 弥陀の本願を決定成就して、極楽世界を荘厳したてて、
 御目を見まわして、わが名をとなうる人やあるとご覧じ、
 御耳をかたぶけて、わが名を称する者やると、
 夜昼きこしめさるるなり。
 されば一称も一念も阿弥陀仏に知られまいらせずという事なし。
 されば摂取の光明はわが身をすて給う事なく、
 臨終の来迎はむなしき事なきなり。
(「示或人詞」昭法全p.588)


というように、阿弥陀仏は僕たち衆生と三業がかなう仏様であって、
人格的呼応関係のできる仏様であって、

さらに、


 浄土の教、時機を叩いて行運に当り、
 念仏の行、水月を感じて昇降を得たり。

(訳)
 浄土門の教えというのは、末法の時代の劣った人間にふさわしく、
 まさに行ぜられるめぐり合わせに当たっている。

 衆生がお念仏を申したならば、
 水は昇ることがなく月が降りることがなくても、水に月が映るように、
 阿弥陀仏と我々は心を通わせていただくことができるのである。
 (『選択集』16章)


という言葉があるように、一声の「南無阿弥陀仏」のお念仏によって、
阿弥陀仏と僕達は心を通わせていただくことができるから、
「十万億土」という距離は、お念仏を申すならば問題にならないんですよね。


 阿弥陀仏と 心は西に 空蝉の もぬけ果てたる 声ぞ涼しき

(訳)
 心は、もう阿弥陀仏の西方浄土にあり、
 それはまるでセミが殻から抜け出したようで、
 一心に念仏する心はすがすがしい。


 阿弥陀仏に 染むる心の 色に出でば 秋の梢の 類いならまし

(訳)
 阿弥陀仏に染まっていく心が、色に表れるということがあるならば、
 まるで秋の紅葉で木々の梢が紅く染まっていくようなものだろう。


そういう意味で阿弥陀仏は「ここを去ること遠からず」な仏様なんであって、
とっても身近な仏様なんですよね。
今晩和
別のトピから発生した
西方十万億土の彼方とはどこ?
って言う質問を見て
皆さんの説明や自分なりのイメージで
考えてみました

凄く彼方にあるようだけど
実はいつも近くにある
西方十万億土の浄土

ソコにいらっしゃる
阿弥陀仏様

阿弥陀仏の名前の由来を調べてみました
阿弥陀仏とは
アミターバ無量の光(光が届く空間)
アミターユス無量の寿(寿命/時間)

無限に広がる超越した存在の様ですね
なんだか宇宙的ですね!

ところで西って
インドでは
死の世界の方角と云われてるんですね。
それは
太陽が沈む方向だからなのだそうですが
西方の十万億土って
死の向こうに広がる
時間と空間を超越した
静かな世界の事の様に思えます

私達にとって 死とは
非現実的な事の様に思って暮らしているけれど
実はとっても身近なものですよね

絶対死にますよね
人間だけじゃなくて
全部(草、木、水、生物、星)
いずれは形を変えて
個体を無くす事になりますよね

って事は
やはり西方十万億土と言うのは
とっても縁のある世界だと感じます

なんだか
この様に考えると
死と言うのは 消滅では無くて
ただ、形を変えるだけの様な気がしてきました
実際に
私達の質量は死んで肉体を焼かれても
形を変えるだけで
(個体―(焼かれて)→気体)
減る事は無いですからね。

御釈迦様はこの量子論的な事を
覚りを得たときに体感されたのでしょうか…!
そして私達に分かり易い様に
例えてお話して下さったのかな?


妄想全開で語ってしまいました。汗


大きな勘違いがありましたら
どなたかご指摘お願いします><;
すみません
他所のトピのお邪魔して、こちらに書きこんだことを思い出しました。
なんとなく日蓮正宗系の方々と論をかわすのが嫌になって、このトピに書き込むのをやめたんですが・・・。

いとーさんの仰るように、また、同じ浄土宗の者として阿弥陀仏が末法衆生の成仏と無縁、無関係等と考えているわけではございません。
最初に無力増上縁のような話で無関係と言う関係もある云々申しましたのは、彼らは一種の決まり文句があるようにおもいましたので、通仏教的にツッコンでみたらどのような回答になるのかと言う程度のことでした。

他所に書きましたが「浄土」や「弥陀」の実在云々は「私」の実在云々と関連して考えるべき問題と思っております。
浄土の所在についてもそうですが、仏教に於いてすべては私(構成された認識主体もどき)の認識に依ると考えるべき問題では無いかと考えます。
「西方」と言う事一つとっても、これに天文学等々を考えあわせて、西方とはどちらか等と言う問題は起こりえないと考えます。
私が日常「太陽が西に沈む」「地平」「水平」等というように、知識として地球が丸い事、回っている事を知ってはいても、実感としては地面は平で太陽は西に沈むと感じていますし、足の下に南米が有るとも感じていない訳です。
こうした、自分自身に実感、認識される様が今現在の世界在り様です。
これに対し、世界の事実を示すのはブッダの説のみであって、物事の実在に起点をおく科学等々は乱暴な言い方ですが凡夫の妄想の類です。
私が居ない時に私に対して第三者が外界の実在を証明する事は出来得ません。

対して念仏中等に見られる浄土や弥陀の相は私に見られたという事は事実であって、今PCの画面を見ているという事と同様の事実です。
これを、第三者が科学的証明云々として妄想等々と言うとしても、これは事実であれは妄想という区別はどのような根拠を持つのでしょうか。
これは皆が同様に見る事ができるという事も証明には成り得ないと考えます。
同時に同様のものを同じように認識する主体もあり得なければ、他者の認識を共有する事も不可能です。

仏教者は現に実感される自他一切の苦を滅する事をこそ目的とすべきであって「本来覚っている」「煩悩によって蓋われている」云々は不二であるとして理論上成り立つとしても、現に不二を実感せず自他を分別する実感、錯覚妄想された主体もどきが苦を感受するのであればなんの意味も無い事と理解するべきです。
成仏についても同様に知るべきです。
サラダボールさんいわく、

>では、質問。浄土門で云う西方浄土はどこにありますか?
>また、阿弥陀仏はどこに存在しますか?また、阿弥陀仏の親は誰か?
>西方浄土は十万億土彼方にあるんですね。
>理証は道理(因果律)ですから、これを理論的に証明して下さい。
>遠いようで近いんだと言われていましたが、銀河系のどの位置にあるのでしょう?それとも、娑婆世界とは違う世界だとおっしゃるならば、では、その世界を科学的に立証できますか?
>阿弥陀仏は生物ですか? 生物でないなら親はいないわけですが、では、生まれはなんでしょう?

これらの質問に私は答える力がないので、法華経に答えを探ってみます。

薬王菩薩本事品

若如來滅後。後五百歳中。若有女人。聞是經典。如説修行。於此命終。即往安樂世界。阿彌陀佛。大菩薩衆。圍遶住處。生蓮華中。寶座之上。

もし如来の滅後、後の五百歳の中に、もし女人あってこの経典を聞いて説のごとく修行せば、ここにおいて命終して、すなわち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の囲遶せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。

法華経を聞いて修行した女性が向かうのが、阿弥陀如来のお浄土です。
浄土がどこにあるのか私は知りませんが、お釈迦さまがご存じであることが、法華経によってわかります。
その実在を証明する力を私はもちませんが、お釈迦さまが法華経で保証して下さっています。
阿弥陀如来が、その名を唱えれば地獄に堕ちるような存在であるのならば、そんな阿弥陀如来の浄土に、法華経の行者が行くはずがありませんよね。
法華経を聞いて修行すれば行けるのですから、素晴らしい所に違いありません。

そのように法華経に説いてあるのですから、サラダボールさんも納得してくれるでしょうか?
ははあ・・・
8歳竜女の成仏はやっぱり特例なんだ・・・。
あ。ちがうところに視線が行ってしまいました。m(__)m
<12 どろさん

そうそう、けっこう法華経には阿弥陀仏が登場するんですよね。

観世音菩薩普門品でも、どういうわけか羅什訳では省かれているんですが、サンスクリット原文には阿弥陀仏が登場して、人間の御者として表現されて讃えられているんですよね。

まあ、でも、あの教団の理論だと、薬王菩薩品も観音経も流通に過ぎず、文底秘沈の方が大事ってことになるんでしょうかね〜(^^;w
これは「覚りトピ」81のフロルさんへの返信です。

>さて、この女性は阿弥陀仏の浄土へ生まれて、どうなるんでしょう。
>私はお浄土へ行ったんなら成仏するもんだと思っていましたが、その先成仏すると法華経にかかれてあるのかないのかは知りません。

法華経に阿弥陀如来が現れる経緯はこうです。

まず、法華経がいかに優れているかという記述があります。

「また土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山および十宝山の衆山の中に、須弥山これ第一なるがごとく、この法華経もまたまたかくのごとし。諸経の中において最もこれその上なり。
 また衆星の中に月天子最もこれ第一なるがごとく、この法華経もまたまたかくのごとし。・・・」

などなど。
これら法華経をたたえる教えのなかに、サラダボールさんが引用された文章もあります。

 「仏はこれ諸法の王なるがごとく、この経もまたまたかくのごとし。諸経の中の王なり。」

ついで、これほどすぐれた経なので、その功徳も甚大であると説かれます。

 「この経はよく一切衆生を救いたもう者なり。」

 「清涼の池のよく一切のもろもろの渇乏の者に満つるがごとく、寒き者の火を得たるがごとく、裸なる者の衣を得たるがごとく、商人の主を得たるがごとく、子の母を得たるがごとく、渡りに船を得たるがごとく、病に医を得たるがごとく、暗に燈を得たるがごとく、貧しきに宝を得たるがごとく、民の王を得たるがごとく、賈客の海を得たるがごとく、炬の暗を除くがごとく、この法華経もまたまたかくのごとし。」

などなど。
「渡りに船」というのはここからきているんですね。

このように列挙される大きな功徳の中に、女人が阿弥陀如来の浄土の蓮の中に生まれる功徳もあるのです。

つまり阿弥陀如来の浄土へ生まれることが、法華経のすばらしさを証明しているという構造になっています。

「法華経を修行すれば、あの阿弥陀如来の浄土に生まれるのだよ。
ここを見ても、法華経がすばらしいことがわかるではないか。」

ということですね。

それなのに
「阿弥陀如来の浄土なんかわれわれに無関係」
などと言ったのでは、法華経の功徳を否定することになってしまいますよ。

「念仏無間」説は法華経の内容とも矛盾することになるので、善意で解釈しても法華経を讃えたいがための勇み足であって、間違いだと私は思います。
おぉ。そういうことなんですね。
どろさん、ありがとうございます。

女性はお題目を唱えても、お念仏を唱えてもお浄土にいけるのですね〜。
なんだかお得な気持ちになれました。^^←にこにこ。
>阿弥陀仏は、西方十万億土の彼方にある極楽浄土に住する仏様です。「西方十万億土の彼方」は、私達の住む地球からは遥か遠い所です。そこにまします阿弥陀仏は、私達の住む地球とは縁があるのでしょうか?

ここで言われている距離は空間的距離として語られていますが、それは私たちの言語が抱える「距離=空間上のベクトル」という規定に縛られた不可避の表現であって、あくまでも比喩であり、真意は凡夫の心との距離を訴えることにあるのだと思います

したがって、地球から遠く離れているとか地球と縁があるかないかとはまったく関係ないと思います
真さん

すなわち、実際の地理とか天文学とか地球との距離とかは真さんも関係ない、もっと別の次元の話だとおっしゃっているのですね

ただ問題は、それがとんでもなく離れていると表現されるのは一体どうしてなのか、ということですね
<19

<<
ただ問題は、それがとんでもなく離れていると表現されるのは一体どうしてなのか、ということですね
<<

一遍上人は、十万億土の距離にあると書かれているのは、人間の煩悩の深さがそれだけ隔てていると述べています。

一方、山崎弁栄聖者は、十万億土というのを、人間の限り知れない心の広さ大きさのことだと述べています。

どちらも、深い味わいだと思います。

観無量寿経には、浄土は「ここを去ること遠からず」とあります。
あつしさん、ありがとうございます。

まさに浄土は、人間の複雑で底知れない心の世界を厳しく丁寧に見つめた時、数知れない煩悩をそのそれぞれの根の深さ強固さを対治して初めて立ちうる明け開けだとしたら、本当に気の遠くなるほど彼方にあるかのごとく表象されずにおれないけれども、

実は自分の胸一つの中に確かにあり、またそこに至る方法は釈尊その人がはっきりと説き明かしになられて、それを伝承された我々はただそうしてお示しいただいた法に帰依して自らその道を行くだけなのだから、何ら恐れたりたじろいだりする必要のないすぐそこにあるのが浄土ですね。
>親鸞聖人の書かれた中に「法藏菩薩は娑婆世界の菩薩」というような文が書かれていたものがあってビックリしました。錯覚かなf^_^;

えっ、どうして驚かれるのですか?
娑婆世界でなくて、どの世界の菩薩だと考えておられるのですか?
自力で阿弥陀如来を信じようとしている方には遠い。

他力に救われ、仏凡一体になった方には近い。(9番の法然上人はこの信後のお味わいです。)

ということだと思います。

ログインすると、残り6件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

信仰と対話 更新情報

信仰と対話のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング