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信仰と対話コミュの阿弥陀如来とゾロアスター教の関係

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コミュ内全体

【サラダボール】
阿弥陀如来は無量光仏とも無量寿仏とも呼ばれているそうですが、その起源はゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーと創造神のズルワーンがその原型ではないかとする説があるそうです。
また、西方浄土は古代バビロニアかもしくはゾロアスター教のあるイランのことではないかとする説もあります。


あと、アフラマズダーのアフラは阿修羅の語源でもあるそうです。


これについてもっと詳しいことを知っている方はいろいろと教えてください。

【いとー 】
★阿弥陀仏とゾロアスター教の関係

阿弥陀仏の起源に関する研究史をまとめたものとしては、
1)藤田宏達『原始浄土思想の研究』
2)香川隆雄『浄土教の成立史的研究』
3)定方晟「アミダ仏の起源」(『講座大乘仏教5浄土思想』所収)
4)梶山雄一「阿弥陀仏論争」(『インド古典研究』第6巻所収)
などが代表的なものですが、

まずサクッとまとめられている、4)を以下に引用します。
・・・・以下引用・・・・
 インドにおける有神論や終末論が、イランのゾロアスター教とまったく無関係に展開したとは思われない。後一世紀におけるインドの宗教と西アジア・中東との宗教との間には、偶然に帰るするにしてはあまりにも多すぎる並行現象がめだつからである。無量光仏と光明と正義の神アフラ・アズダー、無量寿仏とイランの一神教的な神ズルヴァン・アカラナ(無際時)、インドの三尊仏と初期ゾロアスター教の三位一体観(アフラ・マズダーとミトラ、マナーヒターの三神)、メシアとしての弥勒とゾロアスター教の救世主サオシュヤント、『転輪聖王獅子吼経』に王の象徴としてあらわれる輪宝や仏像の光背(とくに頭光)と、イランのフワルナフ(光輪)との類似などなどは、両地域の文化交流を何らかの形で考えないでは説明できないことである。
 西紀後にほぼ完成の域に達する仏伝とこれも二世紀中葉までに成文化された福音書のあいだに、偶然とは思えない、多くの物語の対応現象が見られ、前世紀以来、西欧の研究者の興味をそそってきたことは、われわれのよく記憶するところである。また、たとえば、阿弥陀仏の極楽・『ミリンダパンハ』の「涅槃の都」、そして「ヨハンネスの福音」にあらわれる、新しいエルサレムとには、宝石の樹木と城門を初めとする光景の一致があり、仏・仏弟子そしてイエススの光明が大陽や月を蔽うというモチーフの一致などが見られる。
 このような並行現象を、インドから中東へ、あるいは中東からインドへの一方的な文化的影響の結果として解釈する学者は今日ではもういないであろう。また文献の上にその対応の明証を跡付けよとする試みも、まはや捨てられてしまった。むしろ、もともとは同根であったインドとイランのアーリヤ人たちが前六世紀以来の交流を経て、同じような思想をおのずから発展させた、あるいはイラン的な発想が西のユダヤ教やキリスト教、東のインドの宗教とに、ひたひたと波及したと考えるほうが、今日では有力な解釈となっている。

次に1)から、アミターバとアフラ・マズダー、ズルヴァン・アカラナを安易に結びつけてしまう説に対して、反証している部分を以下に引用しておきます。
・・・・以下引用・・・・
●太陽神とアミターバ
 なるほど、アミターバという言葉は、太陽神の無限なる光明の理念に想到しうるものを含んでいるように見受けられるけれども、それだからといって、直ちにイランと結びつけて考えねばならぬものであろうか。太陽神崇拝の思想は、インドにおいては、最古の『リグ・ヴェーダ』以来、ミトラ、スーリャ、サヴィトゥリ、プーシャーン、ヴィヴァスヴァットあるいはアーディティア群神の名において認められるものであり、仏教内部にあっても、様々な形で原始経典以来言及されているから、イランの思想を持ち出さなければ説明がつかぬというものではない。
(中略)
かりにアミターバについてはそのように言えると仮定しても、阿弥陀仏の他の名であるアミターユスについてはどうであろうか。これも同じように太陽神と結びつけられるであろうか。この点について、右の諸学者は沈黙を守るか、あるいは後述のごとく別の説を立てている点から見ると、恐らく無理なのであろう。

●ズルバン・アラカナとアミターユス
 このようにズルバン・アラカナ説は、英・仏の有力な学者によって採用されているのであるが、果たしてそのように認容されるであろうか。まず注意されることは、右の諸学者はアミターユスがズルバン・アラカナと類似していることを説くけれども、その詳細について述べるところはない。いわんや、両者の具体的関係の論証を行っているものは誰もいない。それゆえ、ここでもまた批判の材料は決して十分とは言えないのであるが、試みにゾロアスター教の專門学者の所説を参照してみると、およそ以下のごとく批評することができるであろう。
 まず「無限の時間」(ズルバン・アラカナ)という述語は、ゾロアスター教では善神と悪神との両神を超越した根源的存在と見なされる神格であり、本来二元論的性格を持つゾロアスター教に一神教的傾向を助長したものと考えられている。分権的には『アヴェスタ』の成立の遅い部分に表れるもので、すでにアケメネス朝の時代に一体系として存在していたもののようであるが、しかし実際に有力な教説となったのはサーサーン朝に入ってからと見るのが普通のようである。もしそうであるならば、この教説が果たして阿弥陀仏の思想に先行したかどうか、あるいは先行くしたとしても果たして影響を与え得たかどうか、まず疑問といわねばならぬであろう。
 つぎに、この述語は、言葉の上で一見アミターユスに一致するごとくであるが、必ずしもそうではない。すでにフィリオザも注意しているように、アミターユスのアーユスは「時間」ではなく「寿命」をあらわすから、「ズルバン」(時間)と概念的に一致するものではない。もしインドの思想の中で一致するものをあげるとすれば、カーラを指摘すべきであろう。カーラとズルバンが対比されるべきことについては、諸学者の論考があり、とくにオックスフォードのゼーナーは、『マイトリ・ウパニシャッド』(6.14-16)の中に、カーラを世界の根本原理(ブラフマン)と同一視する思想が表れている点からみて、ズルバン・アラカナの観念は、ヘレニズム時代よりは、むしろインドに由来するものであろう、とさえ言っている。『マイトリ・ウパニシャッド』の成立については、学者によって異論が多いけれども、いずれにせよ、このような点からして、ズルバン・アラカナ説の影響によって成立したと見ることは、はなはだ疑問と言わねばならない。
 さらにまた、かりにアミターユスとズルバン・アラカナとが何らかの関係があると認めても、アミターバについてはどうなのであろうか。前記の諸学者の中には、アミターバについては太陽神との関係を認めている者が多いが、それと今のズルバン・アラカナとは如何なる関係にあるのであろうか。学者によっては、ズルバン・アラカナという神格に対しては、ゾロアスター教一般の光明神としての属性が付与されると解する者がいるが、果たしてそのような解釈で、阿弥陀仏の二つの名称を十分に説明し得るであろうか。
・・・・・・・・・・


【あつし】
阿弥陀仏の起源に関しては、ゾロアスター教などとの関連を想定する他にも、仏教の中からの内発的な要素を重要視する指摘もいっぱいありますよね。

阿弥陀仏の成立に関しての内発的な観点を重視する議論としては、私が読んだ少ない知識の範囲なので、もっと他にもいろいろあるのかもしれませんが、小川一乗さんの著作がとても面白かったです。
小川一乗さんによれば、縁起の法をわかりやすく言ったのが「阿弥陀仏」であり、今のこの自分のいのちを支える無量無数のご縁のことを、「無量寿仏」・「無量寿仏」と表現したのであり、そのような無量無数の縁はとても思議し尽くすことができないから「不可思議光仏」と表現されたのだと言います。
阿弥陀経の六方恒河沙の諸仏のことも、無量無数のご縁のことの象徴だとしています。
つまり、阿弥陀仏=縁起の法・空 ということであり、般舟三昧経にも「念仏を用いる故に、空三昧を得る」と書かれ、無量寿経や観無量寿経でも念仏が「無生法忍(空の認識)」に至ると書かれております。

縁起の法をわかりやすく言ったのが阿弥陀仏や本願ということだという見解は、小川一乗さんだけではなくて、浄土宗の方では椎尾弁匡さんや林霊法さんの御著書でも読んだ記憶があります。

それらの意見を見ますと、阿弥陀仏の名号も阿弥陀仏に関する経典の内容も、もともと仏教の縁起の法との深い密接な関係のもとに構築されておりますので、空や縁起の法への洞察と無関係なイランのゾロアスター教とは、やはりかなり異質な要素の方が多いと思いますし、根底は異なっているのではないかと思います。

阿弥陀仏への信仰・浄土教と、キリスト教の類似性を指摘する声もよくありますが、阿弥陀仏の名号や信心が空や縁起と密接に関係している点が、やはり根本的に異なっていると思うんですよね。

ですので、もちろん当時のインドとイランの文化的な交流は活発だったと思いますし、なんらかの相互刺激や触発はあったのかもしれませんが、内容としてはゾロアスター教と浄土門仏教はだいぶ異なりますし、あまり関係はないのではないでしょうか。

コメント(9)

>78910さん
はじめまして!

阿弥陀仏のゾロアスター教起源説というのは、
主として信仰形態の類似性からのものだと思いますが、
それぞれの信仰の背景を無視したまま、
「似ている」ということでもって、あんいに同一視しちゃうようなやり方は、
やっぱりちょっと学問的な姿勢ではない気がしますよね。

以下、このコミュニティは退会されましたが、
私の尊敬する方が別の場所で仰っていた言葉を紹介させて頂きます。
 ↓ ↓ ↓
>>>
面白い例を挙げてみましょう。

1.ドイツ語とオランダ語は似てる
2.日本語とドラビダ語は似てる。
3.砂糖と塩は似てる。
4.味噌と糞は似てる。
5.ウルトラマンとニセウルトラマンは似てる。

1はインドヨーロッパ語族ゲルマン系言語なので、同根と言えます。「同一起源→類似」ということが科学的に証明されます。

2は見かけが似ているというだけで、同起源であるかどうかは、証明されていません(一部大野晋氏という言語学者は強く同起源説を主張しているようですが)。似てること自体はべつに害はありません。似てるだけで明らかに違うので、間違うこともありません。

3は、見かけではちょっと分かりにくい。味覚で体験してみないとわからないかもしれません。これは間違えるとちょっと具合が悪いですね。でも、目くじらを立てるほどではありません。

4はカンベンして欲しいですね。間違ったら大変です。でも、死にません。

5は危険です。かたや正義、かたや悪。なかなか見分けがつかない。正義だと思って従ったら命取りです。

私見ですけどね、「何かと何かが似ている」と主張するときに、きちんとその趣旨を明らかにしないと大変なことになりますよ。
似ているからいいのか。似ているから気をつけなきゃいけないのかきちんと述べなきゃいけません。
そうじゃなかったら、ただの遊びです。学問とは言えません。そんなんだったら誰でも学者になれます。
>>>
どの観点、どのレベルで物を見てものを言っているかを理解することが大切ですね

見る観点、レベルによって違いが強調されたり、同じことが強調されたりしますね

固定的な観点、レベルに固執することなく、様々な観点、レベルに柔軟に立つことのできる自分でありたいと思います
こちらでははじめまして。

>0 あつしさん
>小川一乗さんによれば、縁起の法をわかりやすく言ったのが「阿弥陀仏」であり、

つい最近別コミュで「親鸞の『他力』というのは縁起のことなのだ」
というお話がチラと出まして、「え?」と思ったばかりなんですけど、
それはこのことと関係があるんでしょうか。

私は親鸞上人についてはまだ歎異抄しか読んでないんですけど、
歎異抄を読んだ限りでは、親鸞上人が阿弥陀如来や他力のことを
縁起の法のことだと考えておられたとは思えないんです。

もちろん根底には四法印・縁起・空の真理があるはずです。
でも、そのものイコール・・・なんですか・・・?

阿弥陀如来には人を救うという意志を感じます。
縁起の法には意志はないですよね?

ゾロアスター教と無関係の質問ですみません。
<tonia irさん

その方がどういう意味で「親鸞の『他力』というのは縁起のことなのだ」 とおっしゃったのかは、前後の文脈を見てみないとわからないのですが、

おそらくは、小川一乗さんの御著作と同じような意味でおっしゃっていたのかもしれませんね。

縁起の理法と他力ないし阿弥陀仏がイコールかどうかというのは、縁起の理法をどう定義し、また他力や阿弥陀仏をどう定義するかということによって大きく変わってくると思います。

他力や阿弥陀仏の定義が、そもそも一般的には誤解だらけなので、そのことから論じないとかなり誤解を生じる場合も多いですよね(^^;w

縁起の理法・真如(真理)に意思があるかないか、という問題ですよね。

真如に意思があるかどうか、というのは、けっこう仏教だと長い議論の蓄積があるように思います。

私も単なる在家の素人なので、他のいろんな方の意見をお聞きしたいところですが、

一般的な仏教史だと、唯識が真如は静的なものであって人を救うような意思や働きが積極的にあるとはみなさないのに対して、華厳等は真如は動的なものであって人を救うように働きかけてくる、という見方だとまとめていると思います。
法華や浄土教も、唯識より華厳と同じ傾向ではないかと思います。

また、三身ということがよく大乗仏教では言われますが、真如・空性の理・縁起の理法のことを法身、それが動的に人格的なものとなり救済の意志を持ったものとなったのが報身、具体的に歴史的な人間としてあらわれたのが応身とされますよね。
で、法身=大日如来、報身=阿弥陀如来、応身=釈迦如来とされ、かつ三身は即一とされていると思います。

ややこしい話ですし、もっと仏教が専門の詳しい方もいると思うので、皆様の意見を仰ぎたいところです(^^;w

別にトピックを立てた方がいいかもしれませんね〜^^
>tonia_irさん、あつしさん
話が結構ややこしくなりそうなので、とりあえずトピックを別に立てておきます。
 ↓
「縁起」と「他力」と「阿弥陀仏」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39070571&comm_id=2135313

ちょっと時間を頂きますが、僕も後で意見書き込みますね。
阿弥陀仏の起源について、平凡社の世界宗教大辞典に、ゾロアスター教の一派のミイロ ・・・ とあり、光や炎属性とする・・・ そういう説もある とあった。

仏典によれば、阿弥陀仏の仏になる前の修業時代の名が 法蔵比丘(法蔵菩薩)であり、仏になるとき、48の誓願を立てています。
その18番目に、仏の名を唱える者は、極楽に往生できる と誓い、これが、日本の念仏宗起源の依処となっているようです。
ですが、この18番目の誓願には、「ただし、五逆罪と正法誹謗の者を除く」という但し書きがあるが、日本の念仏宗では、これを無視しているか、見落としているか、法については及んでおらず、重大な欠陥といえないか。

五逆罪とは、何か? コトバンクより
 https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E9%80%86%E7%BD%AA-63653
 無間地獄(むけんじごく。→阿鼻地獄)に落ちるような,最も重い罪。普通,母を殺すこと,父を殺すこと,阿羅漢を殺すこと,仏身より血を出させること,僧団の和合を破壊することをさす。なお,そのほかにも種々の五逆罪が知られている。

正法誹謗(誹謗正法)とは、何か。仏教の根本は、法であるとし、その法を否定、けなす、そしる、非難する意味。

法とは何かは、また難しく、それは、おく。

 仏教では、布教するとき、既存の信仰を否定せず、取り込んだと聞く。
 私が推測するところは、ゾロアスター教のミイロを信仰する人々に仏教を布教するとき、彼らの神ミイロの信仰を否定せず、仏教の中に取り込んだ。
 そのとき、ミイロを菩薩とし、仏に昇格させるにおいて、48の誓願をたてさせた。
 その誓願の18番目に、但し書きをおき、仏教の根本である法を第一とすることを誓わせた。

このように推測すると、仏典に書いてあること(法蔵比丘の存在、当時の布教の様子など)が、いきいきと現実味をもって迫ってくるのです。
こうなると、仏典に書いてあることが、たんなる、想像や夢想、おとぎ話ではなく、なにがしかの根拠がある と思われてくるのです。
 どうでしょうか。

参考に 阿弥陀仏とは・・・Wikipedia より
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%82%E3%81%BF%E3%81%A0%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%86
↑ 私が読んだ「世界宗教大辞典」にあった記述と同じと思う。
>>[7]

<<
ですが、この18番目の誓願には、「ただし、五逆罪と正法誹謗の者を除く」という但し書きがあるが、日本の念仏宗では、これを無視しているか、見落としているか、法については及んでおらず、重大な欠陥といえないか。
<<

いわゆる「唯除文」については、七祖聖教も親鸞聖人も深く考察しており、無視しているか見落としているか、などというのは、御自身が聖教をきちんと読んでいないか無視しているか見落としているかだけだと存じますが。
>>[7]
以前ご質問があって私がまとめたものです。
ご参考までに。

唯除五逆誹謗正法について
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39365864&comm_id=2135313

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