ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

信仰と対話コミュの日蓮正宗と浄土門仏教の対話

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
最近、ある別のコミュにおいて、日蓮正宗のSteveさんと、その他の浄土門の方との間で、活発な議論がなされていました。
ただ、そのコミュは、本来は議論や対話を目的としたものではないらしく、そのコミュの管理人さんの承諾を得て、またこの信仰コミュの管理人のいとーさんの承諾を得て、そのコミュにここのコミュを紹介させていただきました。

こちらのコミュで、心置きなく、日蓮正宗と浄土門仏教の対話がなされれば、より細かな論点まで明らかになり、双方に学ぶことや成果をあげやすいかと存じます。

現在までの経緯は、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=5&comm_id=59240&id=14544330
を見ていただきたいと存じます。

それでは、Steveさん、そして皆様、よろしくお願いします!



※追記

「日蓮正宗」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E6%AD%A3%E5%AE%97
「日蓮正宗」公式HP
http://www.nichirenshoshu.or.jp/index.htm

「浄土門」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E9%96%80

日蓮正宗の教学については、以下のHPが詳しかったです。
http://www.e-net.or.jp/user/mblu/ndb/index.htm
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/sitemap.html


【日蓮正宗と浄土門仏教の対話】まとめ (2007.12.11現在)


【1】経典に対する価値観

【1-1】いとー (2008.3.15更新)
a.『涅槃経』や『法華経』によると以下のことが言える。
 ・あらゆる罪過を断じている如来にはとうとう虚妄はなかった。
 ・それでは過去にあった一仏二言は、どうしてなのかというと、
  如来は明らかに衆生の機根を見ることができるので、
  衆生が虚妄の説で法利を得ると知った時には、
  随宜方便して「さまざまな法門」を説いてあげたからである。
b.更に『涅槃経』によると以下のことが言える。
 ・随宜方便の諸説に執着しない経(了義経)に依り、
  随宜方便の諸説(不了義経)に依るべきではない。
 ・不了義経をもって衆生を阿鼻地獄に堕させてはならない。
c.浄土門の所依の経典である浄土三部経のうち、
 ・中国撰述の疑いのない『無量寿経』『阿弥陀経』を検討した結果、
  了義経であることは間違いがない。
 ※【▲仏教各宗派における「目的」と「手段」】参照
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28611616&comm_id=2135313
 ※『無量寿経』『阿弥陀経』が了義経であることに疑問の方は、
  上記トピックにおこしください!
d.所依の経典である『無量寿経』『阿弥陀経』が了義経であるから、浄土門が了義経に基づく教えであることは明かである。

∴全ての経典で、了義経は同価値で、どれも学ぶことは意味があるが、
 浄土門は浄土三部経が所依であり、それに基づいた実践を行う。

【1-2】Steve
a.一切衆生の即身成仏が説かれている唯一の経典であるから、
 『法華経』が最勝の経典である。
  1)『法華経』以前は悪人と女性の成仏が即身成仏が説かれていない。
  2)「改転の成仏」といって、悪人は善人に生まれ変わる修行をして
     善人に生まれ変わって成仏の修行をし、
     同様に女性は男性に生まれ変わる修行をして云云。
  3)しかし、『法華経』提婆品では龍女の成仏が説かれている。
b.一念三千の法門が説き明かされ、霊山会上の虚空会の儀式において、
 多宝如来の証明を得た経典であるから、『法華経』が最勝の経典である。
 但し、一念三千を体系化して説明したのは天台大師である。
c.『法華経』方便品に「正直に方便を捨てよ。但無上道を説く」
 とあるので、「方便」であるものは捨てなければならない。
d.更に『法華経』神力品において、釈尊が上行菩薩に結要付嘱を行い、
 末法弘通の付嘱をしている。
e.天台大師は一切経を閲覧された上で、成仏の教えは一念三千にあると判断され、
 一念三千を立てたところに法華最勝があり、
 その上から「法華最勝」とする五時教判が成り立っている。
 
∴『法華経』が最勝であり、その他の経典は方便であるから、
 その他の経典は捨てなければならない。

【1-3】議論継続トピック  ★経典に対する価値観
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25975065&comm_id=2135313


【2】「念仏=謗法」という主張について

【2-1】いとー
a.法然上人が『七箇条起請文』で、
 他宗や念仏以外の行に対する排斥を禁じている。
b.『選択集』には、他宗や念仏以外の行に対して排斥する意図はない。
 1)「浄土門」を立てたことに関しては、教相判釈であり謗法ではない。
 2)しかも「聖道門」を「勝法」としている。
 3)聖道門を「閣き」雑行を「抛ち」助業を「傍に」するのは、
   あくまで「速やかに生死を離れん」と欲し「浄土門に入らん」と欲し
  「正行を修せん」と欲する自己の問題であり、謗法ではない。
c.『選択集』で、念仏が弥陀・釈迦・諸仏の「選択」であることが、
 明らかにされているように、念仏は人間が勝手に計らったものではない。
d.念仏は、『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』に説かれた仏説である。
e.以上に加えて、【1-1】の全ての経典は同価値であるという立場を取る。
 故に、所依の経典である浄土三部経に基づいた実践を行っている。

∴「念仏=謗法」ではない。

【2-2】Steve
a.【2-1】に関しては、更に詳細な検討が必要であると考えるので「未決」である。

∴「念仏=謗法」に関しては保留とする。

【2-3】議論継続トピック  ★「念仏=謗法」なのか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25975638&comm_id=2135313


【3】『法華経』以外の経典を否定することは謗法か?

【3-1】いとー&Steveともに下記の記述が存在することは確認できる。
a.スッタニパータに「聖者(釈迦)をそしるものは地獄に行く」とある。
b.スッタニパータに、「特定の見解に固執して論争をしてはならない」とある。
d.『大品般若経』第十一には、
 「深般若波羅蜜を呰毀するが故に、即ち過去未来現在の諸仏の
  一切智一切種種智を呰毀すと為す。
  是の人は三世諸仏の一切智を毀呰するが故に破法の業を起こし、
  破法の業の因縁集まるが故に、無量百千萬億歳に、大地獄の中に堕つ。」
とある。
e.『梵網経』巻下には、
 「三宝を謗ずるを菩薩の十波羅夷の一となす」とある。
 「波羅夷」は非常に思い罪で、
 これを犯したものは仏教教団から破門扱いとなる。
f.八宗の祖である龍樹菩薩が、
 『大智度論』で「他人法を毀呰=地獄」と述べている。

【3-2】いとー
a.【3-1】に加えて、【1-1】全ての経典は同価値であるという立場を取る。
b. 上記の立場を取るので、以下のような見解となる。
c.スッタニパータに「聖者(釈迦)をそしるものは地獄に行く」とあるのを、
  経典に優越をつけて、ある経典以外の経典を低い価値とすることは、
「聖者(釈迦)をそしる」ことになる。
d.同じくスッタニパータに、「特定の見解に固執して論争をしてはならない」
とあるので、仏教者はそれに従わなければならない。
e. 『大品般若経』を謗ったものは、大地獄に堕ちる。
f.三宝(仏・法・僧)を謗ったものは、仏教教団から追放になるので、
 例えば、阿弥陀仏・浄土門の教え・浄土門の行者を謗る者は、
 仏教者ではない。
g.龍樹菩薩が『大智度論』で述べているように、
 「他人法を毀呰=地獄」である。

∴『法華経』以外の経典を否定することも謗法である。

【3-3】Steve
a.【3-1】の記述が存在することは確認できる。
b.但し、南伝仏教そのものを本来認めていないので、
 与えて論じる立場からは【3-2】を即座に否定はしない。

∴『法華経』以外の経典を否定することが謗法かどうかは議論継続する。

【3-4】議論継続トピック  ★『法華経』以外の経典を否定することは謗法か?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25975820&comm_id=2135313


【4】「成仏」に関して

【4-1】いとー&Steve共通
a.初期仏教の「成仏」について
・「仏」は一般名詞なので、仏教は「成仏」を求めるものである。
・初期仏教では、「仏」の特性として、
 輪廻を離れ三明・神通を得ることなどが説かれている。
・「仏」の「渡す」「救済する」という特性は、
 初期仏教では、お釈迦様固有の特性であった。
・「渡す」「救済する」という特性は、後に仏の理想として一般化される。
b.『法華経』の「成仏」について
・『法華経』に説かれている成仏は、初期仏教のものと異ならない。
・『法華経』提婆品に竜女成仏が説かれている。
・成仏した竜女は「三十二相・八十種好」を備えている。
・それは女人が「忽然の間に変じて男子となって成仏を遂げる」
 ということである。
c.末法に入っているので、経典のまま修行しても「成仏」は不可能である。
 当然「三十二相・八十種好」を備えるものはいない。
d.法然上人の「成仏」に関して
・法然上人にとっての「成仏」の内容は、
 初期仏教や『法華経』等と共通のものである。
・ただし、その「成仏」はこの世では不可能なので、
 極楽浄土に往生して後に、その境地を獲得することになる。
e.それにも関わらず、日蓮聖人は「成仏」をこの世のものと主張している。

【4-2】いとー
a.【4-1】に加えて、以下のように考える。
b.『法華経』提婆品に竜女成仏は、女人が
 「忽然の間に変じて男子となって成仏を遂げる」のであるから、
 一端男になってから成仏する「改転の成仏」である。
c. 全ての仏が備える相が「三十二相・八十種好」であるので、
 それを備えていないのに、「成仏」とは言えない。
d.『摩詞止観』では、あくまでも「究竟即」のみが「成仏」であり、
 「名字即」を「成仏」と言うことはできない。

∴日蓮聖人の説く「成仏」は少なくても、
 初期経典や『法華経』に説かれる成仏ではない。

【4-3】Steve
a.【4-1】に加えて、以下のように考える。
b. 『法華経』提婆品に竜女成仏は、女人が
 「忽然の間に変じて男子となって成仏を遂げる」のであるが、
 「来世において」ではなく「忽然の間」なので「改転の成仏」ではない。
c. 末法では「成仏」の定義が変わり、「名字即」で「成仏」と言える。
 根拠は、上行再誕の日蓮聖人が説いたからである。

∴ 末法の「成仏」は、日蓮聖人が説いた「三大秘法」に依るしかない。

【4-4】議論継続トピック  成仏って何?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24720108&comm_id=2135313


【5】阿弥陀仏の位置づけ
【5-1】いとー&Steve共通
a.浄土門は「この世」ではなくて、西方十万億土にある極楽浄土に往生し、
 そこで「覚り」を獲得する教えである。
 根拠・・法然上人『要義問答』
b.『無量寿経』における「阿弥陀仏」
・「本願を信じて念仏を申すものを極楽浄土に救い取る」
 という阿弥陀仏の本願が『無量寿経』に説かれている。
・その阿弥陀仏の救済の対象は「十方衆生」である。
・『無量寿経』おいて、この経に説かれる法門は、
 法滅以後も百年存続すると、釈尊が「特留此経」している。
c.『観無量寿経』における「阿弥陀仏」
・「心を尽くし南無阿弥陀仏を十回唱えれば、八十億劫の生死之罪が除かれる。」
 とある。
・釈尊が「無量寿仏のお名前を保ちなさい」と説いている。
d..『法華経』における「阿弥陀仏」
・化城喩品では、大通智勝仏の十六王子の一人である。
・薬王品では、釈尊の分身である。
 そして『法華経』を聞いて修行すれば、阿弥陀仏の浄土に生まれることができる。

【5-2】いとー
a.【5-1】に加えて、【1-1】の全ての経典は同価値であるという立場を取る。

∴阿弥陀仏は地球と縁のある仏であり、
 経典に説かれた通りにしていれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生でき、
 そこにおいて成仏することができる。

【5-3】Steve
a.【5-1】は、事実として客観的に確認できる。
b.『法華経』方便品で「正直捨方便」として権教は退けられているので、
 『無量寿経』『観無量寿経』の説は無意味である。
c. 『法華経』薬王品の記述は、修行退転によって成仏できなかったとしても、
 極楽浄土において『法華経』修行ができるということある。
 だから、厳密に言うと「即身成仏とは縁がない」ということになる。

∴ 阿弥陀仏は地球と縁のない仏である。

【5-4】議論継続トピック ★阿弥陀仏は地球と縁があるのか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25976032&comm_id=2135313


【6】「師の握り拳(奥義)」について
【6-1】いとー&Steve共通
a.『マハーパリニルバーナスートラ(大般涅槃経)』に、
 「如来の教えに『師の握り拳(奥義)』はない」という記述がある。
b.この記述には、時制の言辞は一切表れていない。
c.日蓮聖人は、「文底秘沈」「三大秘法」という奥義を説いている。
d.日蓮聖人以外には、「文底秘沈」「三大秘法」という奥義は見出せなかった。
e.「南無妙法蓮華経」は、明文で現れていない。
f.『法華経』には、「日蓮」という記述はない。

【6-2】いとー
a.【6-1】に加えて、以下のように考える。
b.『法華経』からは、「日蓮=上行菩薩」とは思えない。
c. 経典に記述されていない「奥義」は、仏説とは認められない。

∴「南無妙法蓮華経」も「三大秘法」も、
 仏典に根拠をもたない日蓮聖人の私説であり、
 それに従う必要はない。

【6-3】Steve
a.【6-1】は、事実として客観的に確認できる。
b. ただし、釈尊の言葉をも乗り越える存在が日蓮聖人である。
c. 上記は、以下の根拠に基づく。
 1)涌出品において弥勒菩薩などの大菩薩の請願を退け、
  上行菩薩を上首とする地涌の菩薩を召し出だした。
 2)寿量品において本尊を顕わした。
 3)神力品において結要付嘱をされた。
 4)勧持品において末法における法華経の行者が受ける法難を顕わしている。
 以上の『法華経』の記述を論拠に、
 あ)これらの条件をすべて満たしているのが日蓮聖人である。
 い)末法弘通の権能は上行再誕の大聖人である。
 う)大集経に「白法隠没」と説かれており、
  釈迦仏法とは異なる教法により大衆救済が密示されている。

∴「如来の教えに『師の握り拳(奥義)』はない」という釈尊の言葉に反して、
 日蓮聖人が「奥義」を説いていても問題はない。

【6-4】議論継続トピック  ★「師の握り拳(奥義)」について  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25976249&comm_id=2135313


【7】今回の議論を通じて、相手に求めていること

【7-1】いとー
・「念仏=謗法」という主張を辞めてほしい。
・『法華経』以外の経典を否定することを辞めてほしい。

【7-2】Steve
・『法華経』以外の一切の経典を捨てて、三大秘法を信じ行じてほしい。

(by.いとー)

コメント(303)

>阿呆陀羅經さん

大変申しわけありませんが、
このトピックでの議論を円滑に進行させていただくため、

阿呆陀羅經さんが、以後このトピックに書き込みすることは、
誠に勝手ながら、禁止させていただきます。

今後このトピックに書き込みをされた場合は、削除させていただきます。

このトピック上の発言に対する批判等は
別トピックを立てさせていただきましたので、
そちらにお書きくださいますよう、お願いいたします。

【カルトとサイコパス】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25469793&comm_id=2135313
>Steve

そうでしたか!僕もです(笑)。

とりあえず、このトピックでは、
これまでの議論に直接関わる【172】にコメントを頂けませんか?

そんでもって、「成仏って何?」のトピックで僕が出した質問にも、
回答頂けませんか?


その時点で、これまでの議論で明らかになったものを、
一度整理させてもらおうと思います。
>ちょっぱーさん

コメントありがとうございます。

「互いの教義を認め合いお互いの良い部分を吸収し合う」
というスタンスは私も共通です。

ただし、ちょっぱーさんのコメントで、幾つか気になる部分がありましたので、
コメントさせていただきます。


>>浄土宗は死後の成仏を説き、日蓮大聖人は死後ではなく、生きている間に仏の境涯を築くのが真の教えであるとして、法華経の因果倶持を根拠に破折されたものと思われます。

浄土宗において死後の成仏を説くのは、仰る通りなのですが、
法然上人と日蓮聖人では「成仏」の定義が異なっていると思います。

それに関しては、【成仏って何?】トピックで議論中ですので、
よろしければ、そちらにコメント頂ければと思います。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24720108&comment_count=66&comm_id=2135313


>>ですから現代においても死後に救われるような教えでは娑婆世界では無益かと思われます。

これも同感です。
ただ、誤解をされている可能性があるので申し上げておきますが、

法然上人が、『念仏往生要義抄』で、

 問うて云く。
 摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

 答えて云く。
 平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、
 わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、
 これ三心具足の念仏申す人なり。
 この三心具足しぬれば、
 必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

 かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、
 てらし給うなり。

 平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
 故に不捨の誓約と申すなり。

とありますので、浄土門は今生において救われる教えです。


>>法然上人の説かんとする所は阿弥陀の名号による極楽往生という方便を用いて、娑婆世界こそ極楽なのだという悟りを開いていく事にあるかと思われます。

法然上人の説かれる教えは、阿弥陀仏の本願を信じお念仏申し、極楽浄土に往生して、そこで成仏する教えです。

ただし、現世において極楽浄土に往生することが決定して、
救いを頂くことができる教えなです。


 いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん。
 とてもかくても、此の身には、
 思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、
 死生ともにわずらいなし
(法然上人「つねに仰せられける御詞」)

特に浄土門の教えは、死後のことだけを考える、
後ろ向きで、消極的な生き方を説く教えであると、思われがちですが、

そうではなくて、死後の不安の全くない、心の澄み渡った、
今をいきいきと生きる教えが、 浄土門の教えなんです。

お念仏の一声一声が無上功徳、 そのお念仏の生活の中に、
充実した、いきいきした毎日を生きる教えなんです。


その辺りの誤解を、少しずつなくしていくことが、
「互いの教義を認め合いお互いの良い部分を吸収し合う」
第一歩かなと思ってます。
あの〜、「現世利益」って、どういう定義なんですか?
>Steve

お待たせしました!

今までの議論で明らかになったことを、こちらで整理させていただきましたので、
Steveの主張と異なる点がありましたら、添削いただきたいと思います。


【1】経典に対する価値観

【1-1】いとー
a.『涅槃経』に、「如来には決して虚妄はない」とあるので、
 全ての経典には真理が説かれているので、経典自体に優越はない。
b.したがって、経の説かれるあらゆる教えを学ぶことが勧められている。
c.ただし、自らが宗(むね)とする所依の経典によって行じていくべきである。
d.浄土門を宗とするものにとっては、浄土三部経が有縁の経である。
e.更に『無量寿経』おいて、この経に説かれる法門は、
 法滅以後も百年存続すると、釈尊が「特留此経」している。

∴全ての経典は同価値で、どれも学ぶことは意味があるが、
 浄土門は浄土三部経が所依である、それに基づいた実践を行う。

【1-2】Steve
a.一切衆生の即身成仏が説かれている唯一の経典であるから、
 『法華経』が最勝の経典である。
  1)『法華経』以前は悪人と女性の成仏が即身成仏が説かれていない。
  2)「改転の成仏」といって、悪人は善人に生まれ変わる修行をして
     善人に生まれ変わって成仏の修行をし、
     同様に女性は男性に生まれ変わる修行をして云云。
  3)しかし、『法華経』提婆品では龍女の成仏が説かれている。
b.霊山会上の虚空会の儀式において、多宝如来の証明を得た経典であるから、
 『法華経』が最勝の経典である。
c.『法華経』方便品に「正直に方便を捨てよ。但無上道を説く」
 とあるので、「方便」であるものは捨てなければならない。
d.更に『法華経』神力品において、釈尊が上行菩薩に結要付嘱を行い、
 末法弘通の付嘱をしている。
e.天台大師は一切経を閲覧された上で、成仏の教えは一念三千にあると判断され、
 一念三千を立てたところに法華最勝があり、
 その上から「法華最勝」とする五時教判が成り立っている。
 
∴『法華経』が最勝であり、その他の経典は方便であるから、
 その他の経典は捨てなければならない。


【2】「念仏=謗法」という主張について

【2-1】いとー&Steve共通
a.法然上人が『七箇条起請文』で、
 他宗や念仏以外の行に対する排斥を禁じている。
b.『選択集』には、他宗や念仏以外の行に対して排斥する意図はない。
 1)「浄土門」を立てたことに関しては、教相判釈であり謗法ではない。
 2)しかも「聖道門」を「勝法」としている。
 3)聖道門を「閣き」雑行を「抛ち」助業を「傍に」するのは、
   あくまで「速やかに生死を離れん」と欲し「浄土門に入らん」と欲し
  「正行を修せん」と欲する自己の問題であり、謗法ではない。
c.『選択集』で、念仏が弥陀・釈迦・諸仏の「選択」であることが、
 明らかにされているように、念仏は人間が勝手に計らったものではない。
d.念仏は、『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』に説かれた仏説である。

【2-2】いとー
a.【2-1】に加えて、【1-1】の全ての経典は同価値であるという立場を取る。
 故に、所依の経典である浄土三部経に基づいた実践を行っている。

∴「念仏=謗法」ではない。

【2-3】Steve
a.【2-1】は、事実として客観的に確認できる。
b.ただし【1-2】のような経典に対する価値観を取る故に、
 1)『法華経』が最勝である。
 2)その他の経典は方便である。
 3)方便は捨てなければならない。
c.さらに『法華経』は、末法弘通の付嘱がなされているので、
 『法華経』に依らないということは、
 『法華経』に背くばかりか、末法の時にも適わないということである。
d.したがって、『法華経』に信を取らず、
 浄土三部経典に固執することが謗法なのである。
e.たとえ他宗や念仏以外の行に対して排斥する意図がなくとも、
 浄土三部経典に固執すれば、「面従腹背」であり謗法である。
f.そして『法華経』譬喩品に、
 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」
 とある。  

∴「念仏=謗法」である。

つづく
つづき

【3】『法華経』以外の経典を否定することは謗法か?

【3-1】いとー&Steve共通
a.スッタニパータに「聖者(釈迦)をそしるものは地獄に行く」とある。
b.スッタニパータに、「特定の見解に固執して論争をしてはならない」とある。
d.『大品般若経』第十一には、
 「深般若波羅蜜を呰毀するが故に、即ち過去未来現在の諸仏の
  一切智一切種種智を呰毀すと為す。
  是の人は三世諸仏の一切智を毀呰するが故に破法の業を起こし、
  破法の業の因縁集まるが故に、無量百千萬億歳に、大地獄の中に堕つ。」
とある。
e.『梵網経』巻下には、
 「三宝を謗ずるを菩薩の十波羅夷の一となす」とある。
 「波羅夷」は非常に思い罪で、
 これを犯したものは仏教教団から破門扱いとなる。
f.八宗の祖である龍樹菩薩が、
 『大智度論』で「他人法を毀呰=地獄」と述べている。

【3-2】いとー
a.【3-1】に加えて、【1-1】全ての経典は同価値であるという立場を取る。
b. 上記の立場を取るので、以下のような見解となる。
c.スッタニパータに「聖者(釈迦)をそしるものは地獄に行く」とあるのを、
  経典に優越をつけて、ある経典以外の経典を低い価値とすることは、
「聖者(釈迦)をそしる」ことになる。
d.同じくスッタニパータに、「特定の見解に固執して論争をしてはならない」
とあるので、仏教者はそれに従わなければならない。
e. 『大品般若経』を謗ったものは、大地獄に堕ちる。
f.三宝(仏・法・僧)を謗ったものは、仏教教団から追放になるので、
 例えば、阿弥陀仏・浄土門の教え・浄土門の行者を謗る者は、
 仏教者ではない。
g.龍樹菩薩が『大智度論』で述べているように、
 「他人法を毀呰=地獄」である。

∴『法華経』以外の経典を否定することも謗法である。

【3-3】Steve
a.【3-1】は、事実として客観的に確認できる。
b.ただし【1-2】のような経典に対する価値観を取る故に、
 1)『法華経』が最勝である。
 2)その他の経典は方便である。
 3)方便は捨てなければならない。
c.そして方便を捨てさせるためなので、
『法華経』以外の経典を否定することは、謗法ではない。
d.したがって、『法華経』以外の経典を否定することを謗法というのは、
「誤謬」であり「揚げ足取り」である。

∴『法華経』以外の経典を否定しても謗法にはならない。
つづき

【4】「成仏」に関して

【4-1】いとー&Steve共通
a.初期仏教の「成仏」について
・「仏」は一般名詞なので、仏教は「成仏」を求めるものである。
・初期仏教では、「仏」の特性として、
 輪廻を離れ三明・神通を得ることなどが説かれている。
・「仏」の「渡す」「救済する」という特性は、
 初期仏教では、お釈迦様固有の特性であった。
・「渡す」「救済する」という特性は、後に仏の理想として一般化される。
b.『法華経』の「成仏」について
・『法華経』に説かれている成仏は、初期仏教のものと異ならない。
・『法華経』提婆品に竜女成仏が説かれている。
・成仏した竜女は「三十二相・八十種好」を備えている。
・それは女人が「忽然の間に変じて男子となって成仏を遂げる」
 ということである。
c.末法に入っているので、経典のまま修行しても「成仏」は不可能である。
 当然「三十二相・八十種好」を備えるものはいない。
d.法然上人の「成仏」に関して
・法然上人にとっての「成仏」の内容は、
 初期仏教や『法華経』等と共通のものである。
・ただし、その「成仏」はこの世では不可能なので、
 極楽浄土に往生して後に、その境地を獲得することになる。
e.それにも関わらず、日蓮聖人は「成仏」をこの世のものと主張している。

【4-2】いとー
a.【4-1】に加えて、以下のように考える。
b.『法華経』提婆品に竜女成仏は、女人が
 「忽然の間に変じて男子となって成仏を遂げる」のであるから、
 一端男になってから成仏する「改転の成仏」である。
c. 全ての仏が備える相が「三十二相・八十種好」であるので、
 それを備えていないのに、「成仏」とは言えない。
d.『摩詞止観』では、あくまでも「究竟即」のみが「成仏」であり、
 「名字即」を「成仏」と言うことはできない。

∴日蓮聖人の説く「成仏」は少なくても、
 初期経典や『法華経』に説かれる成仏ではない。

【4-3】Steve
a.【4-1】に加えて、以下のように考える。
b. 『法華経』提婆品に竜女成仏は、女人が
 「忽然の間に変じて男子となって成仏を遂げる」のであるが、
 「来世において」ではなく「忽然の間」なので「改転の成仏」ではない。
c. 末法では「成仏」の定義が変わり、「名字即」で「成仏」と言える。
 根拠は、上行再誕の日蓮聖人が説いたからである。

∴ 末法の「成仏」は、日蓮聖人が説いた「三大秘法」に依るしかない。

つづく
つづき

【5】阿弥陀仏の位置づけ
【5-1】いとー&Steve共通
a.浄土門は「この世」ではなくて、西方十万億土にある極楽浄土に往生し、
 そこで「覚り」を獲得する教えである。
 根拠・・法然上人『要義問答』
b.『無量寿経』における「阿弥陀仏」
・「本願を信じて念仏を申すものを極楽浄土に救い取る」
 という阿弥陀仏の本願が『無量寿経』に説かれている。
・その阿弥陀仏の救済の対象は「十方衆生」である。
・『無量寿経』おいて、この経に説かれる法門は、
 法滅以後も百年存続すると、釈尊が「特留此経」している。
c.『観無量寿経』における「阿弥陀仏」
・「心を尽くし南無阿弥陀仏を十回唱えれば、八十億劫の生死之罪が除かれる。」
 とある。
・釈尊が「無量寿仏のお名前を保ちなさい」と説いている。
d..『法華経』における「阿弥陀仏」
・化城喩品では、大通智勝仏の十六王子の一人である。
・薬王品では、釈尊の分身である。
 そして『法華経』を聞いて修行すれば、阿弥陀仏の浄土に生まれることができる。

【5-2】いとー
a.【5-1】に加えて、【1-1】の全ての経典は同価値であるという立場を取る。

∴阿弥陀仏は地球と縁のある仏であり、
 経典に説かれた通りにしていれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生でき、
 そこにおいて成仏することができる。

【5-3】Steve
a.【5-1】は、事実として客観的に確認できる。
b.『法華経』方便品で「正直捨方便」として権教は退けられているので、
 『無量寿経』『観無量寿経』の説は無意味である。
c. 『法華経』薬王品の記述は、修行退転によって成仏できなかったとしても、
 極楽浄土において『法華経』修行ができるということある。
 だから、厳密に言うと「即身成仏とは縁がない」ということになる。

∴ 阿弥陀仏は地球と縁のない仏である。

つづく
つづき

【6】「師の握り拳(奥義)」について
【6-1】いとー&Steve共通
a.『マハーパリニルバーナスートラ(大般涅槃経)』に、
 「如来の教えに『師の握り拳(奥義)』はない」という記述がある。
b.この記述には、時制の言辞は一切表れていない。
c.日蓮聖人は、「文底秘沈」「三大秘法」という奥義を説いている。
d.日蓮聖人以外には、「文底秘沈」「三大秘法」という奥義は見出せなかった。
e.「南無妙法蓮華経」は、明文で現れていない。
f.『法華経』には、「日蓮」という記述はない。

【6-2】いとー
a.【6-1】に加えて、以下のように考える。
b.『法華経』からは、「日蓮=上行菩薩」とは思えない。
c. 経典に記述されていない「奥義」は、仏説とは認められない。

∴「南無妙法蓮華経」も「三大秘法」も、
 仏典に根拠をもたない日蓮聖人の私説であり、
 それに従う必要はない。

【6-3】Steve
a.【6-1】は、事実として客観的に確認できる。
b. ただし、釈尊の言葉をも乗り越える存在が日蓮聖人である。
c. 上記は、以下の根拠に基づく。
 1)涌出品において弥勒菩薩などの大菩薩の請願を退け、
  上行菩薩を上首とする地涌の菩薩を召し出だした。
 2)寿量品において本尊を顕わした。
 3)神力品において結要付嘱をされた。
 4)勧持品において末法における法華経の行者が受ける法難を顕わしている。
 以上の『法華経』の記述を論拠に、
 あ)これらの条件をすべて満たしているのが日蓮聖人である。
 い)末法弘通の権能は上行再誕の大聖人である。
 う)大集経に「白法隠没」と説かれており、
  釈迦仏法とは異なる教法により大衆救済が密示されている。

∴「如来の教えに『師の握り拳(奥義)』はない」という釈尊の言葉に反して、
 日蓮聖人が「奥義」を説いていても問題はない。


【7】今回の議論を通じて、相手に求めていること

【7-1】いとー
・「念仏=謗法」という主張を辞めてほしい。
・『法華経』以外の経典を否定することを辞めてほしい。

【7-2】Steve
・『法華経』以外の一切の経典を捨てて、三大秘法を信じ行じてほしい。


以上、ご検討よろしくお願いします。
<236 Steveさん

非常に貴重なお話を本当にありがとうございました。
今までに、返事が遅れてしまい、本当に申し訳ありません。

率直に言って、ただただとても感動しております。

Steveさんが経られた心の旅路、とても尊く、
まさに憎しみを転じて昇華して、
本当の慈しみに変えていく仏教の真髄そのものと思いました。

日蓮正宗については、今まで私はほとんど縁がなく、
その教義についてもほとんど知らないのですが、
一人の人間がこのように確かに救われ、
通常ではとても昇華しきれないような悲しみや憎まずにはいられない出来事を昇華し、
仏の心に転じていくことができる教えは、本当にすばらしいと思います。
ぜひ日蓮正宗について、少しずつ教えていただきたいと思いました。

Steveさんの御母上も、ずっと日蓮正宗の信仰をもともと持っておられたのでしょうか?
本当に仏のような立派な方だったのだと、Steveさんの文章を読んでいて感じました。

貴重なお話を本当にありがとうございました。

憎しみを昇華し転換して、慈しみの方向に向かっていくことこそ、
仏教の真髄であり、それが本当にどれだけできているかが、
その宗派がどれだけ仏教の真髄を実践しているかのバロメーターだと思います。
Steveさんのお話を聞くと、間違いなく日蓮正宗には仏教の真髄が脈打っていると感じました。

理論的な論点は多々あるのかもしれませんが、何よりも、まず、そのような尊い体験や心を、仏教に心を寄せる人の間で率直に交換することができたら、どれほどありがたいことかと存じます。

日蓮正宗には、その他にも、人生の悲しみや憎しみを、その信仰によって乗り越えた方や救われた方の体験談がたくさんあるのでしょうか?
もしよろしかったら、もっとそうしたお話を聞きたいと存じます。

あと、これは、私は何分知識の乏しいものなので、的外れな質問かもしれませんが、法華経における、どのような箇所に特に影響を受けて、そのように心境が変わったとお感じになられますか?
もちろん、法華経全体に導かれて、そのようになられたのかもしれませんが、私も法華経はなるべく深く読みたいとかねがね思っておりますので、法華経のどのあたりが、そうした憎しみを転じて慈しみに変えていくことに最もつながるのか、とても興味があります。
提婆達多品とかでしょうか。

あと、これも、また別の機会に質問した方が良いのかもしれませんが、せっかくの機会ですので、質問させてください。
日蓮正宗においては、観世音菩薩普門品は、いかなる位置づけになるのでしょうか?
かつて、日蓮正宗と創価学会では、方便品と如来寿量品だけを重視し、観世音菩薩普門品は捨てて顧みられないという話を、ある本で読んだことがあります。
そのような事実はあるのでしょうか?

いつも、非常に貴重なお話やお答えをいただきながら、なかなか私の方がそれにきちんと応答するのが遅くなり真に申し訳ありませんが、上記の感じたことや質問を記させていただきました。
>Steve
こうしてまとめてみると、結構いろんなことを話ましたよね(笑)。
「まとめ」の割には膨大な量になりましたので、
お手間だと思いますが、よろしくお願いします。

それにしても、毎月ハードですねあせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
強烈なパワーは、そういうハードな鍛錬からくるんだなと感心しましたあせあせ(飛び散る汗)

>Steve 283

ご確認ありがとうございました!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【1-2】Steve
b.一念三千の法門が説き明かされ、霊山会上の虚空会の儀式において、多宝如来の証明を得た経典であるから、『法華経』が最勝の経典である。
 但し、一念三千を体系化して説明したのは天台大師である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【2-1】いとー
a.法然上人が『七箇条起請文』で、
 他宗や念仏以外の行に対する排斥を禁じている。
b.『選択集』には、他宗や念仏以外の行に対して排斥する意図はない。
 1)「浄土門」を立てたことに関しては、教相判釈であり謗法ではない。
 2)しかも「聖道門」を「勝法」としている。
 3)聖道門を「閣き」雑行を「抛ち」助業を「傍に」するのは、
   あくまで「速やかに生死を離れん」と欲し「浄土門に入らん」と欲し
  「正行を修せん」と欲する自己の問題であり、謗法ではない。
c.『選択集』で、念仏が弥陀・釈迦・諸仏の「選択」であることが、
 明らかにされているように、念仏は人間が勝手に計らったものではない。
d.念仏は、『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』に説かれた仏説である。
e.以上に加えて、【1-1】の全ての経典は同価値であるという立場を取る。
 故に、所依の経典である浄土三部経に基づいた実践を行っている。

∴「念仏=謗法」ではない。

【2-2】Steve
a.【2-1】に関しては、更に詳細な検討が必要であると考えるので「未決」である。

∴「念仏=謗法」に関しては保留とする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【3-1】いとー&Steveともに下記の記述が存在することは確認できる。
a.スッタニパータに「聖者(釈迦)をそしるものは地獄に行く」とある。
b.スッタニパータに、「特定の見解に固執して論争をしてはならない」とある。
d.『大品般若経』第十一には、
 「深般若波羅蜜を呰毀するが故に、即ち過去未来現在の諸仏の
  一切智一切種種智を呰毀すと為す。
  是の人は三世諸仏の一切智を毀呰するが故に破法の業を起こし、
  破法の業の因縁集まるが故に、無量百千萬億歳に、大地獄の中に堕つ。」
とある。
e.『梵網経』巻下には、
 「三宝を謗ずるを菩薩の十波羅夷の一となす」とある。
 「波羅夷」は非常に思い罪で、
 これを犯したものは仏教教団から破門扱いとなる。
f.八宗の祖である龍樹菩薩が、
 『大智度論』で「他人法を毀呰=地獄」と述べている。

【3-2】いとー
a.【3-1】に加えて、【1-1】全ての経典は同価値であるという立場を取る。
b. 上記の立場を取るので、以下のような見解となる。
c.スッタニパータに「聖者(釈迦)をそしるものは地獄に行く」とあるのを、
  経典に優越をつけて、ある経典以外の経典を低い価値とすることは、
「聖者(釈迦)をそしる」ことになる。
d.同じくスッタニパータに、「特定の見解に固執して論争をしてはならない」
とあるので、仏教者はそれに従わなければならない。
e. 『大品般若経』を謗ったものは、大地獄に堕ちる。
f.三宝(仏・法・僧)を謗ったものは、仏教教団から追放になるので、
 例えば、阿弥陀仏・浄土門の教え・浄土門の行者を謗る者は、
 仏教者ではない。
g.龍樹菩薩が『大智度論』で述べているように、
 「他人法を毀呰=地獄」である。

∴『法華経』以外の経典を否定することも謗法である。

【3-3】Steve
a.【3-1】の記述が存在することは確認できる。
b.但し、南伝仏教そのものを本来認めていないので、
 与えて論じる立場からは【3-2】を即座に否定はしない。

∴『法華経』以外の経典を否定することが謗法かどうかは保留とする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というように、訂正させていただけばよろしいでしょうか?

>Steve
携帯電話から失礼します。

>286
了解です!


以上が現在までの議論の成果ということで、
よろしいでしょうか?
>Steve
それでは、以上を一応これまでのまとめとして、
更なる議論を必要とする部分は、
テーマ別に順次トピックを別に立て、
論点を絞って徹底的に議論していきたいと思います。

そしてこのトピックでは、引き続き、実存的な信仰体験について議論していきましょう!
<284 Steveさん

わかりやすいご説明をありがとうございました。

289のいとーさんの整理によりますと、さらなる仏教的な議論は、別にトピックをたてて細かくされていく方針のようですので、このトピでは、引き続き、Steveさんや日蓮正宗の方々の貴重な体験のお話、および、日蓮正宗の教えについての私からの素朴な質問をさせていただければと存じます。

すばらしい方のお話、他にもぜひ紹介していただきたいです。
特に、Steveさんが胸を打たれた御話や、すばらしいと思われる御話には、どのようなものありますか?
よろしければ、一、二例ずつ、御話いただきたく存じます。

また、観世音菩薩普門品の位置づけについて、わかりやすく教えていただき、ありがとうございました。

如来寿量品・方便品・日蓮聖人の金言を中心にされるということですね。

その三つについても、少しずつ教えていただければ、とてもありがたいです。

日蓮聖人の言葉の中では、特にどのような言葉が、Steveさんにおいて、感動や昇華をもたらしたものですか?
ぜひ教えていただきたいと存じます。

これは、私の個人的なことですが、私の父方・母方ともに浄土真宗(西本願寺)の門徒ですが、母方の母方、つまり私の祖母の家は、日蓮宗だったそうです。
そして、祖母の父、つまり私の曽祖父は、とても篤信な日蓮宗の信者で、仏のような人だと言われていたそうです。
私は、今まで、日蓮聖人についてはよく知らずにきましたが、きっと、Steveさんの救いになり、また私の曽祖父もその感化を受けた、すばらしい言葉の数々があるのだと思います。
それを知りたいと思います。

あと、これも、非常に個人的な関心からの質問で申しわけないのですが、私はかつて随分観音経を毎日のように唱えていた時期がありまして、観音霊場もずいぶんまわったことがあります。
ですので、法華経というと、まず観世音菩薩普門品が、最も思い入れのあり、親しみのある箇所でした。
観世音菩薩普門品においては、「南無観世音菩薩」と称えることは、非常に多くの功徳があり、解脱を得ると説かれていますが、日蓮正宗においては、「南無観世音菩薩」という名号は、無効だということになるのでしょうか?
あるいは、題目に比べれば劣るけれども、それなりに効力はあるということになるのでしょうか?

上記の諸点、御教示いただければ、とてもありがたいです。
>Steve
このトピックのトップに、今までの議論のまとめを掲載し、
テーマ別にトピックを立てておきました。

今後の議論は、各トピックでテーマ別に行うことにして、
このトピックでは、引き続き実存的な体験について語りあいましょう手(チョキ)


★経典に対する価値観
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25975065&comm_id=2135313

★「念仏=謗法」なのか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25975638&comm_id=2135313

★『法華経』以外の経典を否定することは謗法か?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25975820&comm_id=2135313

成仏って何?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24720108&comm_id=2135313

★阿弥陀仏は地球と縁があるのか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25976032&comm_id=2135313

★「師の握り拳(奥義)」について  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25976249&comm_id=2135313


議論の交通整理のため、いっぱいトピックを立てちゃいましたが、
こんなに沢山一度に全部はできませんし、頑張りすぎて、
念仏や題目の実践や私生活がおろそかになってはいけませんから、
書き込みできるところからぼちぼちと、
マイペースで書き込みしていくということでいきましょうあせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)



あと、

>日蓮大聖人の一生のお振る舞いに非常に深い感銘を受け、
>あとから御金言を学んでまいりました。

というのは、すごくよくわかる気がします。

自らの宗の祖師に対する敬慕の気持ちは、
理屈とか知識以上なんかよりも、遥かに大切なものだと思っています。
<Steveさん

ありがとうございます。
少しずつ、いろんなことについて、お教えください。
題目・如来寿量品・方便品・日蓮聖人の金言について、私は本当に無学なので、Steveさんという良き案内を得たのは、本当にありがたいことだと思っております。

ただ、ちょっと、意外というか、よくわからない点なのですが、日蓮正宗から見ると、日蓮宗は謗法であり、たとえば、日蓮正宗から見た場合、日蓮聖人の教えと無関係である真言宗や浄土真宗などと等価値に日蓮宗は謗法ということになるのでしょうか。

門外漢で知識がないためによくわからないのですが、私はてっきり今まで、日蓮正宗と日蓮宗の関係は、浄土真宗と浄土宗のような関係かと思っていました。
たとえば、浄土真宗にとっては、浄土宗は、浄土門ではない真言宗や天台宗に比べれば、ずっと近い関係であると位置づけてあります。
しかし、日蓮正宗にとっては、同じく日蓮聖人を御祖師様と仰ぎ、題目を唱えていても、日蓮宗は謗法であり、他宗と同様に破斥すべき対象ということになるのでしょうか?

観音経についても、順を追って教えていただければ、とてもありがたいです。
末法の世だという、時機の点から、観世音菩薩普門品は無効になった、ということでしょうか?
また、法華経以外の他の経典と、流通分は、等価値に無効ということになるのでしょうか?


また、日蓮聖人の生涯について、わかりやすく説明してくださり、ありがとうございました。
さらに、法難等のことについて、教えていただければと存じます。

ただ、ちょっとよくわからないので質問させていただきたいのですが、日蓮正宗においては、つまり釈尊よりも日蓮聖人の方を優先する、ということでいいのでしょうか?

日蓮聖人が、太陽のように、生命力に満ちて、多くの人を照らした人だったということは、私にもなんとなく感じられる気がするのですが、ただ、今まで日蓮正宗に不案内で無知な人間からしますと、他のどの宗派においても、まずは仏教の開祖として釈尊が重んじられ、宗祖はどれもその次であることからすると、かなり意外な感を受けます。
ですが、そこが、日蓮正宗の特色なのかもしれませんね。
日蓮宗との決定的な差異は、その点でしょうか?

上記の質問、および、前回に引き続いての諸点、よろしくお願いします。
<Steveさん

わかりやすく教えてくださり、ありがとうございます!

日蓮正宗と日蓮宗の関係についても、とても興味深かったです。
なるほど、そういうことになるのですね。

私にとって、特に興味深かったのは、日興上人が身延山を降りられるきっかけになったのが、地頭の念仏と伊勢信仰にあったということです。
念仏については、日蓮聖人の教えからすれば、そういうことになると思うのですが、伊勢神宮など、神祇に対する礼拝や信仰も、日蓮正宗では潔癖に拒否されるべき禁止事項ということになるのでしょうか?

流通分は、広めるための一助とはなるけれども、法華経の骨髄があるわけではないということですね。
観音も、礼拝の対象とはならないのですね。
よくわかりました。
ありがとうございます。

そして、如来寿量品の久遠仏が示現したのが、釈尊と日蓮聖人のお二人であり、中でも本仏が日蓮聖人というわけですね。

そして、その日蓮聖人の御生涯を今、Steveさんに少しずつ教えていただいているわけですが、弾圧にもめげずに辻説法を続けられたという御姿には、とても感動するものを感じます。
利害打算や、一身の保身や栄達を考えるならば、権力に対して屈せず挑む、日蓮聖人のような生き方は決してありえなかったと思います。
きっと、私には想像のつかない、確信や御信念や、よほどの思いがあられたのでしょうね。

次に、忍性上人についてですが、私は何分そこまで忍性上人や真言律宗について詳しい知識を持っているわけではないのですが、以前、真言律宗のあるお寺にご縁があって、そのお寺の御法話などでは、叡尊・忍性は大変尊敬されており、仏教福祉の元祖のようにお話されておりました。
また、だいぶ前にテレビで見たのですが、仏教学者の中村元さんが、忍性上人がらい病の患者の方を背負って看病や救護に奔走されたというエピソードを、まなこを潤ませながら紹介して、これこそが仏教の真髄だと紹介されていたのを見てとても感心した記憶があります。

一方、忍性上人が、関所の関税を設定する権限を幕府から委託されており、そこから収入を得ており、それが自由な経済活動の妨げになっていたこと、およびその点などを考えて、日蓮聖人が忍性上人を批判していたのではないかという説を紹介した文章を以前読んだ記憶もあります。

そこまで知識がないので、忍性上人に関して、擁護するにも批判するにも、私では力量が足りないのですが、お話を聞いていて、二点質問させていただきたいと思いました。

日蓮聖人は、結局忍性上人のいかなる点について、何を特に根拠として、批判をされていたのでしょうか?
また、忍性上人は、当時においては福祉活動という点では、誰も否定できない特筆すべき活躍をされていたと思いますが、そうした福祉活動に対する日蓮聖人のご意見はいかなるものなのでしょうか?
また、日蓮聖人は、福祉や介護等について、何か言及されていることはあるのでしょうか?

以上の点、よろしくお願いします。
横レスです。

対話・論争・破折するとき、人は論争相手に慈悲を感じるのでしょうか?ひょっとして憎しみを感じてしまうのではないでしょうか?

人間、宗教の話をしているからと言って聖人君子にはなりきれません。

あくまで一般論です。
<たっちゃんさん

具体的に、このトピックスのどのような箇所やコメントを想定してのお話でしょうか?

ログインすると、残り283件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

信仰と対話 更新情報

信仰と対話のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング