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福音書の暗号解読コミュの解読モデル上級編 

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解読モデル上級編 「光の範型」の本質

解読モデルがなぜ有効なのかについての論理的考察が必要である。この解読モデルを使ってあらゆる、神話・啓示・文学・哲学の背後にある人文の原理を照明し、それらの長所・欠点を適正に指摘することが出来る。なぜそうなるかというと、このモデルは光と生の同期を通して非常に簡単に究極者と同型的構造を取ることが出来るからである。しかしそれは個人の意識の中で「生の論理」の了解によって起こりうることなので、「光の範型」に対する適応力のある人は簡単に達成できるが、そうでない人には至難の業になるかも知れない。

それがなるべく簡単に起こるようにいろいろと説明を試みてみよう。この解読モデルがうまく理解できるかどうかが福音書の暗号解読に参加できるかどうかの分かれ目になるので、これからもしつこく説明していく。あの手この手で何度も説明するうちに分かるようになることを期待する。

「光の範型」で見えるものから見えないものへ根底の光とスペクトルの運動まで見通せるようになると、光との関係で善悪の根本構造が洞察できるようになる。

フランスの現象学者メルロ・ポンティは身体を「客観的身体」と「現象的身体」に分けた。客観的身体は文字通り単なる身体で、現象的身体というのは我々の意識を含む生きられた身体である。
「現象的身体」が4象限のマトリックスの中で生命衝動が形成する、上下の不安定と安定、左右の受動と能動の違いを識別し、「光の範型」で設定した心の諸内容、態度・衝動・光の連鎖の存在で、根底の運動と離れないでいるからそのような見通しが入る。

この反対に、4象限のそれぞれの中で表層から深層まで、態度から衝動、衝動からスペクトルのつながりを維持していないと「現象的身体」は根底にある光に基づいた生の元型的運動を見失うので、善悪の根本構造への洞察が不明瞭となり、光とスペクトルの関係で考察するのでなく、よく言われる「超越の無」となどという曖昧な概念によって存在そのものを捕らえざるを得ない。

直接的に光とスペクトルを認知対象にしていない東洋の哲学はこのレベルであり、また西洋においてもたいして変わりはない。カント、ヘーゲル、ハイデガーも絶対者の基礎構造の把握には実は成功していない。ヘーゲルの場合は「悪無限」に対する「真無限」とか「具体的普遍」とかいう言葉によって、絶対者との同一性へ近づけてはいるが、後でときどき述べるように「精神現象学」の最後の部分で内的同一性を保たないで啓示宗教から絶対知へと進む。

「現象的身体」が「光の範型」の4象限で態度からスペクトルまでを全体的に見通せるならば「生の論理」への洞察は劣化しない。「現象的身体」が態度から衝動を通してスペクトルまで4象限のそれぞれで結びつけて全体の意味を把握することが出来るならば、身体を通した「生の論理」は劣化しない。
心の奥への洞察がスペクトルとつながらないと、洞察が「現象的身体」から離れて、平面上の単なる上下動のみへと劣化して、「超越の無」へと不明瞭な「生の論理」となる。心を構造的に捕らえようとしても、心の背後には光とその分裂態のスペクトルが意識に配置されて存在するという洞察は、それ以前にはなかったところには入りにくいのであろう。その場合はまた絶対者ともつながりようがないのである。

現象的身体が「身体の4象限」で態度からスペクトルと結びついていないと「生の論理」が劣化する。

人間をやっていると、誰でも良心の働きによって自らの行為をフィードバックして、道徳的不快から道徳的快への移行への選択を繰り返すので、生の分裂から生の統一へ戻る選択をしつつ、おぼろげながら「身体の4象限」を使うようにはなる。が、洞察が背後のスペクトルに届かず、そんなものがあるとは夢にも思われないので、自己流のまま究極者との同型性の維持が出来ず、「自分探し」はリンク切れで劣化しているのが通常であろう。
言語の洞察を「現象的身体」を通してスペクトルにつなげることが出来ると、同型性がクリアに維持され洞察はクリーンカットなままになる。この反対に洞察がスペクトルと一致しないと、本来絶対者と同質な生成の運動との同一性がとれず、絶対者との無限の距離が出来てしまう。
先ほどのヘーゲルの哲学もスペクトルとの同一性を「身体の4象限」で取っていないため洞察は劣化している。なぜならば、「精神現象学」の最後を読んだ人は分かるが、啓示宗教から絶対知への移行は内的構造性が維持されず、「贖罪」にすり替えられている。

現象的身体が態度と4象限で衝動の連続性を媒介にしてスペクトルとの同一性を取った途端、絶対者とつながり、プシュケー全体の運動の原理を把握し、同時にそのスペクトルの元型的運動の極性から「善のイデア」をも把握する。そしてこの洞察は究極的運動と現象的身体が自覚的に結びついているので、一度しっかりと到達すれば洞察は劣化しない。

最初の設定がスペクトルと光の運動を背後に持てるような想定でないとそこから彫り込んでいっても同型的な究極者の運動を確定することは出来ない。
カントの哲学がそれである。カントは道徳性を人間性の中心に据えたが、彼の「道徳形而上学原論」によると、最初の設定が、「身体の4象限」のように図式的にはっきりしているものでなく、表層意識側は「傾向性と衝動」という未分化な内容で、その対極に「善意志」を置くようなおおざっぱなとらえ方であったので、当然、物自体は不明瞭にしか現れようがない。そして、いつも「物自体は捕らえがたい」と言っては嘆いていた。
20世紀に活躍した有名な神学者にカール・バルトという人がいる。ティリッヒに比べると保守的な神学者で、根本主義に近い。モーツァルトの音楽が好きで、「死ぬということはモーツァルトが聴けなくなるということだ。」ということを言っていた。このバルトも、神と人間との間には「絶対的な断絶」があると主張していた。つまり物自体は捕らえられないということである。
ところが「物自体をとらえることほど簡単なものはない。」といったのはヘーゲルである。「カントを読んでいると『物自体は捕らえられない』と何度も何度も聞かされる。だが物自体ほど簡単なものはない。」とヘーゲルは言う。
しかし、ヘーゲルの場合、最初の設定が、これまた、即自・対自・即且対自の弁証法という、粗雑な運動による認識の発展の延長上に神を認知する絶対知を置く。光の分裂と統一による生の運動が「身体の4象限」で明確に位置づけられていないので、絶対者の把握に近いものは打ち出せても、しっかりした同型性を維持することが出来ない。先にも書いたように精神現象学の最後で啓示宗教から絶対知へ移行するとき、内的構造の連続性を保てず、構造性のはるかに弱い「贖罪」でごまかすのである。

4象限ということはマトリックスのことであるから、「光の範型」を「身体のマトリックス」と呼ぶことも出来る。「現象的身体の4象限」である「身体のマトリックス」が重要なのは意識の背後で行われている、「光による生の自己進化の運動」をそのまま光の分裂という形で反映する位置にあるからである。たまたま生の根本衝動と対応したパターンになっていたからである。
つまり現象的身体=意識が生の根本衝動を受けて、その本質的な分裂統一運動を4象限のマトリックスに反映させることが出来るからである。現象から本体へ向けて、態度・衝動・光の連鎖を辿って、スペクトルを同定することが出来るならば、究極者との同型性が維持できる。存在そのものへ向けた洞察が劣化しないで究極者と結びつく。現象的身体が把握する概念内容が最後のスペクトルまで結びついていないと光に拠る生の自己運動が把握できず、曖昧な形而上学的臆断へと明確な論理性を見失う。したがって、態度の識別から衝動相互の識別を通して、4象限の中のスペクトルの位置付けを生の根本運動のあらわれと捉えることが出来るならば、究極者の生の運動と同じ構造を捕らえたことになる。そして、それがその運動の形成する分裂統一の極性、4象限で言えば上下の極性が生の停止と生の流動の極性、意識における道徳的苦痛と道徳的快、悪と善の対比関係であることをつかむことが出来る。こうして究極の知識「善のイデア」を「光の範型」の全体的理解を通して割合に簡単につかむことができるようになる。

「光の範型」の有効性・特異性は「存在」ないしは「物自体」に対する洞察が一度はっきり到達すると、全然劣化しないことである。全体が表層から深層までつながってしまっているので中途からの断絶・リンク切れがなくクリアシンキングが出来る。

どうしてそうなるかというと、4象限の中を見えるものから見えないものへ何段階にも分けてつなげてあるからである。余程ひねくれない限りわざわざ隣の象限の要素をつなげようとは思わないだろう。そしてこのようなスペクトルに対応した生命衝動を4象限に分離して、それにあてはまるさまざまな心の内容を、取り敢えずぶち込んでおいてから、ゆっくりと次元別に整理して、4つの象限の間で同一次元の連関を作り、さらに今度は象限別に縦に表層から深層へ、態度・衝動・光へと、一つずつつなげていくという、縦横のミッシー(洩れなくダブりのない組み合わせ)を作ってあるからである。ミッシーというのはビジネスで問題解決に使う方法である。マッキンゼーの人たちが中心に使っているので有名になった。4象限に分ける方法もマトリックスだから、哲学や宗教も、ビジネスソリューションを応用した方がいいのかも知れない。

コメント(1)

 解読モデル上級編2 クラウスのマンダラを読む

 今回は解読モデルを応用することではじめて隠れた意味の構造が姿を現す、有名なブルーダー・クラウスのマンダラを紹介しよう。量的に長すぎてここでは扱いきれないので、次のURLへ飛んで確認してください。
 http://heartland.geocities.jp/paulricoeur2006/index.html
 この「光の範型」という福音書の暗号解読モデルを使うと、ほかの方法では解読不能になっているヨーロッパ中世に描かれたエソテリックなマンダラも見事に解読できる。
 毎年スイスでは一月に建国の父ともいわれるブルーダー・クラウスのお祭りをやっている。この15世紀の聖人、クラウスは小さい頃から直感力が異常に強く、よく見神体験をしたそうであるが、それをまとめたようなマンダラを残している。
 有名なマンダラなので私もそのマンダラを以前アメリカにいた頃見たことがあったが、そのときはまだ私もはっきりと今のような考えが定まっていなかったので、細部にまでは目が届かなかった。その後、だいぶ経って再び見る機会があった。当時の林道義先生が主催するユング研究会の機関誌「ラピス」に写真として貼り付けてあった。1998年で、今度は光の範型を媒介にしてその図を見ると、中の仕組みをおよそ読み取ることができた。そのときの印象をまとめておいたのが今回紹介するヤフーのホームページ、ジオ・シティーズに置いてある「クラウスのマンダラ」である。
 このクラウスのマンダラはその内容を描いた6つの図の配置が私の光の範型と比較的よく似ている。私のやり方は光の分裂統一に対して精神の諸要素についての意味を立体的に輪郭化させるのが中心であるが、クラウスのは意識の諸領域に該当する象徴的図柄に語らせて道家の太極図と同じエネルギーの流れが隠されている。それがマンダラの中に出てくる6つのマデリオンの配置だけでなく、さらにその中での人物たちの配置によっても表現されているから大変な離れ技である。

 クラウスのマンダラの中にある絵の中でもとりわけ重要なのは、「ユダの裏切りの図」と「受胎告知の感謝の図」である。これらは心の上下の位置に配列される。私たちは自らに欺かれ、裏切られて死に至り、また感謝によって愛を取り戻して生を回復する。特に受胎告知の図の意味する「感謝」としての「愛」を身につけると、心を統合することができるであろうとこの図は暗示している。

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