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柄谷行人コミュの他者が見た柄谷行人

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コメント(29)

吉永良正は「ゲーデル・不完全性定理」(ブルーバックス)において、

「文芸批評の柄谷行人氏による『ゲーデル問題』への積極的言及などが火つけ役となり、ゲーデルの不完全性定理への関心はますます高くなっているようです。
 柄谷氏たちのようにきちんと消化して発言している人たちはまだほんの少数で、残念ながら多くの人々は非常にあいまいな理解というかまどろみや誤解の中で、この定理を捉えているように思えてなりません。」

と柄谷氏のゲーデル理解を評価してました。

柄谷氏の『形式化の諸問題』を私は読んだことがないのですが、『内省と遡行』に収められている『言語・数・貨幣』にもゲーデルについて次のように触れられています。

「いかなる形式体系も自己言及の禁止においてある。ゲーデルが示したのは、たとえそう(形式体系の自己言及性の禁止)しても、そのような禁止が破られざるをえないことだといってもよい。」

ゲーデルの理解は正しくなされているようです。
> ROCKY2 さん
管理のしかたにまずい点があったかもしれません。
削除するさいにメッセージを送っていますが、それでは理由になってないですか?

中沢新一さんは柄谷先生の『隠喩としての建築』を書評する中でニーチェの言葉を引き合いに出しながら、

柄谷氏は「仏教を理解できるほどの成熟」に向かおうとしていることだけは確かなことである、と1980年代の初頭に書いております
竹田青嗣氏は『トランスクリティーク』について詳細に検討した著書の中で3つの根本的欠陥を指摘していますね。
竹田先生は『人間的自由の条件』(2004)において『トランスクリティーク』を詳細に検討した後、5年後の『人間の未来』では再度『トランスクリティーク』を取り上げて、よりコンパクトに批判していますね。

批判されるほうも、批判するほうも、どちらの先生も素敵で両方とも僕は好きです。
哲学者、いや社会学者か大澤真幸氏はその著書『思想のケミストリー』の1章を柄谷氏に関する考察にあてている。
他の章ではそれぞれ、吉本隆明氏や廣松渉氏や竹内好氏や村上春樹氏が取り上げられています。
柄谷さんの作品を読んでいろいろ影響を受けてきました。

それで最近、実存主義なるものが良い線をいっていると思い勉強していこうと志しています。

こないだ、すがひでみ「反原発の思想史」を読み、その中で柄谷さんの最近の作品は、アナーキズムとマルクス主義を止揚することにモチベーションがあると書いてありました。

柄谷さんを語る上でダイレクトに実存主義を指摘するものをあまり読んだことがありません。

柄谷さん本人はアナーキズムを指摘することも多く、そしてハイデッガーやヤスパースの弟子であるアーレントのことを語ったりしているし、数年前の長池講義でブーバー「我と汝」を勧めたり、いろいろ実存主義者のことを指摘することが多いです。

柄谷さんを実存主義者とみるのは、どうでしょうか?
それとも皆さんは当然とっくに柄谷さんを実存主義者と見ているのでしょうか?

これらで何かありましたら教えてください。

最近、実存主義・アナーキズムを理解するようになり、目から鱗が落ちたように感じるのです。何か参考になるご意見があればよろしくお願いします。

wikipediaの「吉本隆明」より

ただし2005年になって、「今は、どう動くかを考える段階、考えて具体的なものをだすべき段階」「いつまでもつまらない世代論を論じている場合じゃない。そんなことにはあまり意味がない」として、まだ「若くて政治運動家としての素質もやる気がある」人間として、柄谷行人を唯一、例として名前を出し、「やってほしいこと、やるべきこと」の注文をつけている。
柄谷行人さんについて誰かと話ができたらいいと思い投稿させていただきます。

最近の僕の関心は反省ということです。柄谷さんは何らかのクライシスは避けられないかもしれないが自然の狡知によって強迫的に反省し世界共和国又は国連と結びついたものへ向かうだろうと書かれています。それは否定・抑圧された社会主義が回復するということだと思います。ルソーが自然状態の回復とは社会主義の回復であるというようなことを書いています。

では反省とは何かということです。カントが「1765-66年冬学期講義計画公告」というものを書いています。僕は柄谷さんがカントの「視霊者の夢」について触れていたものを読んでカント全集を図書館から借りてみました。「1765-66年冬学期講義計画公告」はその「視霊者の夢」の丁度前に載っていた作品です。ふと目を通してみて面白いと思いコピーしました。それで最近「1765-66年冬学期講義計画公告」を熟読してみたのです。そこには悟性の能力を高めることが大切であり経験を比較・吟味することによって批判的に世界を見て取るようにすることだと書かれています。そして悟性の能力により帰納法によって世界を見て取る。それが「悟性的人間、理性的人間、学者」となる。この一連の認識は反省と言えるのではないかと思うのです。悟性の能力を高め帰納法により世界を見て取る。それは反省に依っている。

最近の柄谷さんの柳田国男関連の著作の影響で僕はちくま文庫版柳田国男全集をはじめから読み始めました。まだ途中ですがそこに帰納法によって柳田民俗学ができていることが分かってきました。ここで反省による帰納法(学問)と反省による社会主義の回復(世界共和国)というものが見えてきました。柄谷さんが柳田国男さんについて指摘しているものが見えてきたのです。

柳田国男全集の帰納法にふれていてフロイトの帰納法というものも見えてきました。フロイトの自己観察とは反省からの帰納法による精神分析学である。そしてその反省は社会主義の回復というものを同時に見ている。

僕は柄谷さんの印象深い作品に「ヒューモアとしての唯物論」があります。ここにフロイト(死刑囚)のヒューモアいうものがあります。それは反省への姿勢ではないかと思いました。反省は誰でもできるものであります。反省が誰にでもできることなら帰納法も誰でもできる、社会主義の回復も誰でもできる。しかし実際に誰にでもできる反省というものを行うものは稀有である。よって帰納法も社会主義の回復も稀有である。ヒューモアが稀有であるという理由である。この稀有ということで絶望感を感じる一瞬があります。しかし柄谷さんは何らかのクライシスは避けられないかもしれないという。しかしそのクライシスから自然の狡知に依り強迫的に反省する。その反省は帰納法(学問)を成立させ、社会主義(世界共和国・国連を中心にした社会)を回復させる。

最近の一連の柄谷行人さんの作品を読みこのように僕は感じました。

他者が見た柄谷となっていますでしょうか。

柄谷ファンのみなさんのご意見もうかがいたい。反省から帰納法により世界を見て取る運動です。その反省は同時に世界共和国ももたらすものです。

この認識で正解でしょうか?
p.s.

反省というものについて

反省から帰納法(学問)が生まれる。そして同時に仮にクライシスがあったとしても自然の狡知により強迫的に反省し世界共和国へ向かう。

反省からの帰納法(学問)と同時に反省から世界共和国へ向かうという世界認識は唯一の救済の様に感じます。学問と世界共和国というものが反省に依っているという。

問題は演繹法(学問)というものがあるということです。数年前に僕も確か岩波文庫だったと思いますがゲーデルの本を読んでみましたがよくわかりませんでした。ただ柄谷さんがゲーデルで言いたかったことは理解できます。演繹法(学問)の中に帰納法(学問)があると言うのは間違いである。帰納法(学問)の中に演繹法(学問)があるということを証明しようとしたのだろうと思います。反省から帰納法(学問)はあり、その反省の帰納法(学問)により演繹法(学問)は世界(秩序ある全体)のなかで見て取られるものである。学問とは反省からの帰納法に依っているいうことだと思います。それによって同時に反省から最高善である世界共和国へ向かうという。

あと、柄谷さんがカントの「他者を手段としてのみならず、同時に目的(自由な人格)として扱わなければならない」について書いています。それは至上命令だとカントさんは言っています。それもやはり反省ということだろうと思います。他者を手段としてのみ使うことを反省し、そして反省することによって他者を目的(自由な人格)として扱うことをさしているのだろうと思いました。

柄谷さんが言っていることですが、仮にクライシスがあっても自然の狡知によって反省するかもしれない。しかしそうなる前にも反省はできるだろうと思います。

ナザレのイエスは悔い改めと言ったかもしれませんが反省は学問にも最高善にも必要なものだと思います。

僕なりに柄谷さんの読解と認識を考えてみました。柄谷ファンの皆さんのご意見もお伺いしたいです。
反省について

柄谷行人は才能があると柄谷ファンの方々(僕も含む)は思っていると思います。ただ柄谷行人の影響で柳田国男全集を読み始め、その帰納法を理解してみると柄谷行人は悟性の能力を高めその帰納法により世界を見ているのだと考えます。悟性の能力を高めるとは反省の努力に依っている。反省の努力により世界の改善、社会の改善として世界共和国へ向かうと言う。クライシスの後に自然の狡知により反省するとも書いてありますが反省する努力を積極的にすることが重要である。学問も帰納法に依っているなら反省の努力を積極的にしなければ悟性の能力は高まらない。

柄谷行人の才能は反省の努力の積極性であると考えます。

他者のみた柄谷行人は反省の努力の積極性に依っている。

僕は誰でも反省の努力は可能であり、またはそういった反省の努力を賛美する社会をつくりたいと思っています。反省の努力を欠いた自然状態(ホッブス)があるなら反省の努力による自然状態(ルソー)があると考えています。前者により後者が否定抑圧されているなら後者の自然状態を回復させることが必要でありそれには反省の努力を積極的にすることだと思います。

誰でもできることなのだ。それは才能と言うより高度な精神的姿勢なのだろうと思います。
反省と配慮

反省は悟性の能力の訓練とも言えますがそういった反省から帰納法に依り自己・学問・世界の改善をすることをハイデガーは気配りと言ったのではないかと思いました。反省から自分を含む世界への配慮(気配り)が改善としてあると思うのです。フーコーの講義集成でソクラテスの「汝自身に配慮せよ」とは反省でありそして自分を含む世界への配慮(気配り)が改善への道であると思うのです。

フロイトのヒューモアで青空が幸先がいいという姿勢は反省から自分を含む世界への配慮(気配り)である。それは自分を含む世界の改善を考えている。ヒューモアのわからない人はいるらしいです。それはそうかもしれません。それについてどうすればいいのかわかりません。ただ自分は反省から配慮して生きていきたいと思うのです。

反省からの配慮に依ってあるものがべたに言えば社会主義であると思うのです。別に社会主義と言わなくてもいいのですが配慮に依ってあるものが世界の改善へ向かうものであるという。

フロイトの精神分析学はそういったものであると思う。ただウィトゲンシュタインがフロイトの功罪に挙げている誰でも配慮できるものにしてしまったというのは精神分析学や心理学を学べば配慮できるわけではないということだと思います。それは反省を経なければできない。反省の長く険しい道のりを経てありえる。飛躍できるものではないのだろうと思うのです。それはカントが言っています。

そういった道のりがもっとも大切であるということがカントやマルクスの言う至上命令なのだろう思います。私は世界がそういった社会になればいいなって思います。

折角の柄谷コミュであるので有効に利用できたら素晴らしいと思います。柳田国男を読み始めて刺激を受けました。反省からの配慮ある世界を夢見たくなったのです。

柄谷コミュの皆さんの貴重なご意見も伺いたいです。
反省と配慮と思考

アーレントは悪の陳腐さを思考停止と言っていました。では思考とは何なのか?私なりに考えてみました。
反省に依り帰納法を使って思考することが自己・学問・世界の改善へ向かう配慮を可能にする。

反省からの帰納法で比較・吟味し考えることにより改善への配慮を見出すことがアーレントの言う思考だと思います。帰納法に依る思考が自分を含む世界の改善への配慮を可能にする。

ここでアーレントを引用します。
「全体主義の本性について」 byハンナ・アーレント
・・・単独であることは見棄てられた孤独な状態ではないが容易に見棄てられた孤独な状態になりうるし、さらにもっと容易にそれと混合される。人びとが見棄てられた状態の絶望的困窮から脱して単独であることのなかに逃れ、自分自身の交わりのなかに逃れる強さを見いだし、そうすることによって自分を他の人びとへとつなげる結び目の裂け目を繕うということほど、難しくまれなことはない。・・・

自己・学問・世界、自分を含む世界への改善の配慮は反省に依っていることから単独性としてある。これはアーレントのいう単独性・哲学である。それを複数性・政治としてあろうとすることはアーレントに言わせると難しくまれなことはないと言う。

しかし反省から帰納法の思考に依り改善への配慮ある世界を夢見ることはアーレントの夢でもあると思います。

帰納法の思考は、比較と吟味であり批判的と言われるものです。カントの批判もマルクスの批判もそういう意味です。柄谷行人の言う批判もそういう意味です。以前柄谷行人の講演を聴きに行ったとき批判とは吟味だと言っていました。ようやく合点がいきました。

反省による帰納法の思考から改善の配慮を見出す。そういう生き方をして行きたいです。反省の長く険しい道のりから難しくまれなことへと向かう道ですが生きるとはそういうことかと思いました。

思考は帰納法によっていることが重要だった。柳田国男の帰納法の思考がお手本になりました。柳田は啓蒙の意味を込めて敢えてそういった作品を書くことを試みているからお手本となるのは当たり前です。

柄谷行人はアーレントの意味の哲学者なんだな。「哲学の起源」から哲学者と称しているけれどイソノミアをアーレントがno rule(無支配)と訳しているとか書いてあったけれど無支配とは反省からの帰納法に依る思考から改善の配慮によってある世界が無支配なのだろうと思いました。

夢を見て生きていくのもいいかなって思います。
反省は誰にでもできるものかもしれません。だからそれで威張る気はありませんし威張れません。ただ反省を至上とする人はあまりいません。

反省を至上とする思考実験により哲学はあると思います。そして反省を至上とする哲学(帰納的思考から改善の配慮によってある学問)がありそれは世界改善の配慮として弱者につき格差の解消を目指す遊侠の徒を学問として成立させるのだろうと思います。

ナザレのイエスは反省を至上とする思考実験の人であり世界改善への配慮の人であった。彼は哲学者であり遊侠の徒であったと思います。

柄谷行人にナザレのイエスを見ます。

ナザレのイエスという存在は幼少の頃から不思議な存在でした。でも柄谷行人のよって理解できるようになりました。

遊侠の徒と言えば宮崎学ですが柄谷行人が評価する理由がわかります。

紀伊国屋で柄谷行人のサイン貰いました。哲学者で遊侠の徒のサインと言うのもなんだかありがたいですね。
>>[017]

私たちが自分の姿をかえりみたり、現在進行形の自分の姿にありありと気づいているなら、
それと自分の理想を比較する所に反省なり自己批判なりが生まれてくると思います。
その理想自体もまた現実と自分との相互関係の中で磨かれ修正されて、
私たちはこういった認識のダイナミズムによって自分の行動と願いと生活全体を、徐々により幸せなものへと変容させていくのだろうと思います。
>>[018]

>反省は悟性の能力の訓練とも言えますがそういった反省から帰納法に依り自己・学問・世界の改善をすることをハイデガーは気配りと言ったのではないかと思いました。反省から自分を含む世界への配慮(気配り)が改善としてあると思うのです。フーコーの講義集成でソクラテスの「汝自身に配慮せよ」とは反省でありそして自分を含む世界への配慮(気配り)が改善への道であると思うのです。


ハイデガーの言う気配り、配慮というのは、同じ言葉ながら決して改善をともなうレベルのものではないと思います。もっともっと前段階の、改善とか惰性とかの問題の前にある私たち現存在のありようについて言っているのではないでしょうか。
>>[21]

素敵なコメントありがとうございます。78910さんのコメントに何もいうことはありません。そういった反省の姿勢を私は至上のものとして生きていきたい。それによって自己も世界も学問も改善されるものとしてあり人は遊侠の徒としての生き方もできるのだろうと思います。柄谷行人の影響で柳田国男を読みそこに手本を見たように感じます。

>>[22]

ハイデガー「存在と時間」岩波文庫の新訳を読みかなり面白く読めました。78910さんの言われるように現存在のありようなのかもしれません。柄谷行人が否定・抑圧されたものの回復ということがたまにあります。ルソーが人間の自然状態は否定・抑圧されていてそれを(高次元に)回復させることが必要だと言っています。ルソーは人間の自然状態とは社会主義(利他的・相互扶助的)でありそれはアナキズムだと言えます。実存主義を自己とそれを含む世界への配慮としてみるとそういったアナキズムとしての見方ができるように思います。

たしかに私たち現存在のありようなのかもしれません。ただそういったありようがルソーの言う人間の自然状態なら世界への改善の配慮のしてアナキズムとしての見方ができるのではと思いました。

私の柄谷行人解釈はそこにつきます。それが間違っているのであれば反省して改善したいと思います。間違いを指摘されるのは歓迎します。柳田国男を読んでいてその姿勢に影響を受けました。
最近、柄谷コミュへのコメントがなく寂しい限りなので僕が自分の意見などコメントをして皆さんのご批判を仰ぎたいと思います。

僕が柄谷行人を知ったのは20歳ぐらいだったと思います。もう24年ほど昔です。高橋源一郎の評論集みたいなもので初めて知りました。蓮見重彦と柄谷行人が紹介されていて両方とも読んでみました。当時は肉体的にも精神的にも社会的にも苦しい中にありました。今でもあまり変わりませんがもし違うとしたら考え方が改善したのだと思います。

今日の朝日新聞の書評で誰の書評だったか忘れましたが学問とは客観的としてあるというようなことが書かれていました。僕はこれを読んで僕が陥っていた微睡と学問と柄谷ついて考えさせられました。僕は客観的として学問があり主観的として臆見があるという非常に根源的な問題にぶつかっていたのです。確かにそれは正しいように見えてしかし疑問を抱きます。それはこう言い換えられるのだと思います。学問は客観的で演繹としてあり、帰納は主観的である。学問が演繹で客観的で体系としてあり帰納は主観的で学問足り得ないというような感じです。しかし僕が柄谷に見たのは帰納としての可能性でありそれは主観的であるが臆見ではなく帰納として学問足り得るということでした。

では帰納とはどうやって有り得るのかということでした。僕は帰納とは自省、反省から有り得るのではないかと思いました。カントは悟性能力を高めるために自らの経験を省み吟味していくことを書いています。そういった自省・反省を通して帰納はあるのだと思います。自省・反省を通せばそこに遊侠と倫理をみることができる。この場合の遊侠とは強きを挫き弱きを助けるというようなことです。マルクスがブルジョアではなくプロレタリアに付くのもそういった帰納としてある遊侠なのだろうと思いました。

帰納は科学だと言えると思います。柳田国男が民俗学を文化科学というのは帰納だからで一国民俗学を先ず説くのは自省・反省を通さなければならないからです。自省、反省なき帰納は有り得ないからです。科学的社会主義は空想的(ユートピアン)社会主義を否定するものではない。帰納から永遠の目的としてユートピアへ向かうことは科学的であり同時に空想的(ユートピアン)であると思います。柄谷の言っていることはこういうことかと思いました。柳田国男の経世済民もそういうことかと思いました。

僕が陥っていたのは主観的であるということと自省、反省から帰納としてあるということが理解されないということでした。今は違います。そこが改善されました。そういった帰納としての学問が確かにあることを知ったからです。それを知るだけでも世界は変わってきました。マルクスもカントもフロイトも柳田国男もそういった帰納としての学問としてあり、人は自省、反省として帰納できる。主観的として否定されるものではないことを知りました。

客観的が学問であるということは僕には理解できません。仮に演繹が修正されたとしても帰納として有り得ないならば理性の越権行為となるのではないかと思います。主観的が臆見ではなく自省、反省から帰納として有り得ることが可能性の中心でナザレのイエスが悔い改めよというのもソクラテスが汝自身に配慮せいよというのも帰納を言っているのだと思います。それに対して客観的や演繹が立ってきますが帰納を経なければ理性の越権行為ではないでしょうか?

僕は柄谷を読んでこういったことを知り学んだと思います。

皆さんのご批判を仰ぎたいと思います。
>>[026]

>僕が柄谷に見たのは帰納としての可能性でありそれは主観的であるが臆見ではなく帰納として学問足り得るということでした。


おっしゃっているこの感じ、よくわかります。柄谷さんの文章には独特の魅力がありますよね。
>>[026]

帰納とか演繹とか客観的か主観的かとか学問たりうるか否かとかカントとかの議論は、ヒュームからカントへの流れを再び学んでみようという気持ちにさせられました。
どうもありがとうございます。
>>[28]

帰納の学問が確かにあると知り、それだけで世界は大きく違ってみえます。僕も学んでいきます。

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