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柄谷行人コミュの『倫理21』

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「『倫理21』は希望の書である」
(柄谷先生のあとがきより)


皆さんと共にこの薄い1冊を深く学ばせていただきたいと思います。
m(_ _)m

コメント(10)

実は僕はこれまであまりカントには関心を持てないでいました。
というのはチラッとカントの著作をのぞいてみても、とても難解で咀嚼できそうにないと感じていたからです。
でも、柄谷先生のお陰で断然カントが面白いように思われて来ました。
本当に先生に感謝しなくてはならないと感じています。
僕は柄谷先生のちょっと舌っ足らずなところ、ちょっと言葉足らずなところが大好きです。
斬り込み隊長みたいな論理の運び方が大好きです。

きっと読み手側にいろいろ考えさせるから、それが僕の性分に合っているんだと思います。
そうか 希望の書か……
読者の希望
日本人の希望
人間の希望……

世界同時革命を夢見て また読み返そう
のりおSさん

柄谷先生の本から何を受け取るかって、ホント人によってまちまちなんでしょうね。
そこからどんな希望と力と知恵を受け取るか。

柄谷先生の本は一見、すごくわかりやすい書き方をされていますが、どう掘り下げるか掘り下げないかによって、人により本当に受け取るものはまちまちだと思います。
その辺も語り合えたなら面白いですね。
戦争責任の問題について本質的なことを言うためには、責任って一体何なのか、倫理とは一体何なのかということをまず根本的に考えなければならないと柄谷さんは序文で言う。
そして今もってカントの批判が最も根本的だと柄谷さんは言う。
ごく薄い著作『倫理21』において柄谷行人は、原因と責任の問題について考察している。
人が何か人々を震撼させるような事件をひき起こしたり、人々を塗炭の苦しみに突き落とすような行動を犯した場合に、私たちはなぜそんなことをしたのか、なぜそんなことが起こったのかと原因をたどろうとする。
そうすると私たちの認識能力あるいは理論的理性は、その人間が悪い心を持っていたからだとか、家庭環境あるいは親の教育がよくなかったからだとか、時代や社会が悪影響を与えていたのだとか、こうこうこれこれの原因が組み合わさってしまったのだとか、実は無限とも言えるほど原因の連鎖を考えうるのであり、これはスピノザが指摘した通りで、スピノザにならってカントが考察した通りだと柄谷は言う。

しかしそうするとやった者の責任とか、一体その者に自由はあったのか、あるいは主体性と言えるものはあるのか――という問題が、無限の因果関係の中で雲散霧消してしまう。

そこで行為者の責任を追及したい者は、いやいや今この時点から自由に自己の行動を選ぶという個人の自由と主体性は存在するのだと言って、原因連鎖論者と決着のつかない論争を繰り広げることになり、
これがまさにカントの取り上げた第三アンチノミーだと柄谷は言う。

そしてこの後の議論がとても面白い。
>>[6]

「倫理21」は印象深いですね。発表当時購入しました。いま読み返してみようと思いましたが親戚の叔母さんに貸してから帰ってきていません。もう十年以上前です。今もその本はあるかわかりません。

カントの三批判書を読み返してみようと思っています。一度目はあまりよくわかりませんでしたが今なら理解できるような感触があります。

カントのアンチノミーって興味深いです。最近、佐藤優さんの本を読んでみましてそこには反知性主義について書かれていました。佐藤優さんが言われるには反知性主義は理解したいように世界を理解する態度であり、合理的であるが客観性と実証性を欠落したものであるとありました。

安倍さんは反知性主義であると書かれています。

合理的とは矛盾のない論理であると思います。確かに彼ら(安倍氏ら)は理路整然として矛盾のない論理を展開します。しかしそれは客観的な実証性による自らの認識の誤りを反省し判断していく姿勢を欠落している。そういった反省を欠落した姿勢は演繹的であり分析判断であるとおもいます。確かに矛盾はありません。しかし客観的実証性からの反省を欠落している。帰納的な学問、総合判断を欠落している。非常に根幹的な批判を必要とする事例であると思います。

そういった矛盾のない合理性(演繹と分析判断)はカントのアンチノミーを成立させるカントの批判(帰納と総合判断)を否定しあるいは憎悪さえしているのかもしれません。

僕はそれは反省の手続き・手順を省くことが決してできないということを意味していると思います。それを省いてしまったら何の悟性もありません。悟性の欠片のない学者はそういったアンチノミー(矛盾)のない合理的な演繹・分析判断となるのだろうと思います。

安倍氏らの事例はそういった根幹的な批判を必要とします。そう佐藤優さんは指摘していて僕もそう思うようになりました。

一流の政治家は悟性的な人間であると思います。安倍氏らは親の金と親の地盤を引き継ぎ政治家となった人たちです。かれらに一流の政治を期待する方が間違っているのかもしれません。

「倫理21」がカントのアンチノミーについて書いてあったと聞き、少し思い出し書いてみました。
>>[007]、大変啓発的なお話を聞かせていただきまして、どうもありがとうございます。
柄谷さんが、「最も根本的なことはカントが言っているのだ」と、もしや「古い!」と批判されるかもしれないのも恐れずに指摘なさっていることの変わらぬ新しさが、
LOVE&PEACEさんのコメントによってとてもよく浮かび上がっていると思います。
おっしゃる通り、偉い人も普通の人も、しばしば自分の駆使する論理にばかり夢中になって、「論理的に展開された自分の話には何の落ち度もないだろう。え、どうだい!」と言わんばかりの尊大さを見せることがありますね。
しかし、自分の論理の中でいかに辻褄がちゃんと合うことに終始しようと、同じく辻褄の合った理論で別の結論にたどり着く対立者がありうるのだということを、
カントは極めて洗練された文体で述べていたのでしたね。

私たちはまだまだ、カントを当たり前の市民的知性の基礎とする成長段階にたどり着いていないのかもしれません。
>>[8]

カントが当たり前の市民的知性の基礎について。

今回の安倍氏らの事例を佐藤優氏に触発されて考えてみて十何年前に読んだ柄谷さんの本の内容を思い出しました。ガリレオ的転向とコペルニクス的転回についてです。反知性主義は合理的ではあり無矛盾性ではあるが客観的な実証性を欠落している。自分が理解したいように世界を理解する態度であると佐藤優氏は指摘しています。そういった客観的な実証性の欠落は天動説であり客観的な実証性により地動説はある。世界認識が客観的実証性からの反省により変わるという例で臆見(ドクサ)が天動説でありそういったものから地動説へ向かうことが学問であり政治の基本となるのだろうと思います。啓蒙というものが出てくる例であり、ガリレオ的転向とコペルニクス的転回を考えることが今回の安倍氏らを考えるのに類推(アナロジー)できる事例だと思います。

市民的知性の基礎はやはり客観的な実証性から反省する姿勢、そういった客観的な実証性は知性・学問として有り得てそこから自らの認識の誤りを厳しく反省しそういったものは日本人とか日本国とかを超えて世界市民的知性のようなものとしてあるのだろうと思います。僕は現実に絶望もしていますがそういった生き方を自分自身が実践しある意味実験して科学(帰納)として生きていこうと思っています。そういった試みの先に柄谷さんの言われる世界共和国へ向かったらいいですね。




ガリレオ的転向とコペルニクス的転回は面白いですね。これをきちんと捉えればたいていのことは敷衍と類推で理解できるように思います。

天動説と地動説があるんですよね。反知性主義として天動説があり、客観性と実証性によって地動説があり知性としてあるわけです。そして反知性主義への服従としてガリレオ的転向があり、客観性と実証性から反省(悟性)としてコペルニクス的転回があるわけです。

反知性主義へ服従させるというのが今安倍氏などが試みているもので、知性(悟性)を憎悪し服従させようとしているわけでガリレオ的転向ですね。

知性を悟性というのは違うのではないかと指摘されると思いますが僕は悟性から知性があると信じており悟性なき知性は反知性主義ではないかと初めから躓いているのではと思っております。カントがいう先ず悟性的人間、次いで理性的人間、最後に学者というのが知性の形成であって、悟性の欠片もない学者、大学における大量の空っぽアタマなどは反知性主義であると思います。

そしてナザレのイエスなどは悟性からある知性を代表する人物であり、かれは反知性主義へ服従を迫られた上に磔にされ殺されてしまいました。僕は反省・悟性・知性を信じております。もし人間すべてを救う道があるとしたらそれしか道はないと思っております。

柄谷さんの本を読んでいて僕はこういった道を考えてきました。でも反知性主義へ服従を迫られることはシンドイです。でも悟性からの知性でありコペルニクス的転回は服従ではないわけで服従させられることに比べれば心地の良いものであります。

人間は知性であるのか反知性主義であるのか?知性であるのは悟性であり反省としてあり(客観性・実証性)それは高貴な自律性としてユーモアというものであると思います。ユーモアが自分も他人も救うというのはそういった反知性主義への服従からの解放でありそこに心地よさがあるのだと思います。反知性主義であるのは自分の理解したいように世界を理解し(客観性・実証性を欠落)それに服従を迫るものであります。僕は人間がすべて知性であることがあるならそれは全人類の覚醒であると考えていたことがあります。それはありえないだろうけれど人間すべてを救うにはそれしかないと思っていました。

僕に言えることは先ず隗より始めよということを自分に見てみることでした。自分がそういった知性でないのに他の人に知性を期待しても仕方がない。先ず隗より始めよ、先ず自分から知性を始めよ。

僕はそれを試みてひどい目にあいました。本当にひどい目にあいました。どんな目にあったかはいいません。でも人間の反知性主義の根深さは痛感しました。身をもって身銭をきって知り得たことがあります。

柄谷さんのいう知性は当たっている。でも人間の反知性主義は根深い。では人間はどうすればいいのか。研究課題としてはいいものだと思っています。

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