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幽斎コミュの利休最後の和歌と幽斎

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以下は古今和歌集のコミュに投稿したものです:


 利休の和歌は利休百首のような茶道のための和歌が知られているが、それ以外に若干の和歌が知られる。死の前に詠んだ遺偈としては次のものが有名である。


   人生七十、力圍希咄吾這宝剣祖仏共殺

   ひっさぐるわが得道具の一太刀
     今此時ぞ天になげうつ

 これについては近重真澄という人が禅僧韓利休の遺偈に以下の句があるとし、利休はそれを使用したとの指摘が戦前になされている。その遺偈とは、

人生七十力囲希
肉痩骨枯気未微
這里咄提王宝剣
露呈仏祖共殺機

確かに似ていることが分かる。ただ、利休とは遠慮なく昔の漢詩や和歌を使用する人だ。

 利休は天正九年に野村宗覚宛の伝書に次ぎの和歌を詠んでいる。

   わびぬれば身をうき草の根をたへて
     さそふ人あらばいはむとぞ思ふ

また、天正十四年の伝書にも、

   君なくて誰に伝へん此みちを
     数寄をも茶をも知る人ぞ知る

としている。前者の和歌は古今和歌集の小野小町の和歌、

   わびぬれば身をうき草の根を絶えて
      誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ  (雑歌下 938)

「わびしくなっておりますので、わが身を憂く思い、浮草の根が切れてどこへでも流れてゆくように、誘ってくださる人があれば、どこへでも行ってしまおうと思います」(久曾神昇)

であり、後者の和歌は同じ古今和歌集の紀友則の和歌

   きみならで誰にか見せむ梅の花
     色をも香をも知る人ぞ知る  (春歌上 38)

「あなた以外のだれにいったいみせましょうか。この梅の素晴らしい色をも香をもわかる人だけがわかっているのであるから」(久曾神昇)

を利用している。利休とはそういう人であった。

 ところで利休は「わびぬれば」の和歌で何を伝えようとしたのだろうか。侘の世界を追求し、世間への望を捨てようとする利休が、人に誘われれば、彼が目指している侘の本当の意味を言おう、伝えよう とでも言うのだろうか。世間的な火宅の門を出で入る利休も悩み多き人であったろう。その地位と力を利用して侘茶の世界を広めようとも思ったのであろう。しかし、所栓は堺の商人であり、秀吉らの武家の世界とは異なり、いつ首が飛ぶかも知れないことを自覚していたのだろう。この和歌が詠まれる前の年には利休が居士号を得、禁中茶会を行ったことで、言わば彼の絶頂期である。その彼が「身をうき草の根を絶えて」と詠んだことは利休に鋭い嗅覚があったからだろう。

 天正15年3月、秀吉は島津など九州征伐の号令を発している。利休も秀吉に同行している。細川幽斎は入道の身であったので、召集はなかったが、彼は単独で九州に旅行している。そのことを「九州道の記」という紀行文にしている。有朋堂文庫の日記紀行集全でみると、この紀行文の中に利休の和歌が載っている。九州にまで足を伸ばしてきた細川幽斎(玄旨法印)に利休が和歌を寄せた。

   あまさかる鄙の住居と思ふなよ
     どつこも同じ浮世ならずや   利休

これに対して幽斎が返歌をしている

   あまさかる鄙には猶ぞ居たむなき
     どつこも同じ浮世なれども  幽斎

と返している。幽斎は都に未練があるのだろうが、利休は何か都が憂欝なことが多いように感じているのかとも思える。ただ「あまさかる」という表現に侘の精神とは異なるものを利休はみたのだろうと思うがなんとなく、将来の我が身を予感しているかのように思えた。

利休最後の和歌は次のものである。

   利休めはとかく果報のものぞかし
     菅相丞になると思へば

利休が九州征伐に同行し、太宰府に行ったかどうかわからないが、幽斎はそこを訪れて菅原道真のことを思って和歌を詠んだり、飛び梅のことを和歌にしている。幽斎が訪れた梅の古木は以前に焼けて伐られいていたが、そこに若ばえが出ていて、

   鶯のはねをやとひて飛び梅の
     かごにはいかで乗らで来にけん

 幽斎はそこにも鶯を連想したのだろう。道真を慕って、梅は鶯の羽を雇って九州まで飛んできたのだが、籠には何んで乗らないできたのだろうかと詠んだ。籠は窮屈さを連想させ、むしろ梅は鶯の助けを得て、自由に九州まで飛んできたと幽斎は詠んだのだろう。

多分、九州征伐の時に利休も太宰府を訪れたのだろう。そこで彼は何を思ったのだろうか。九州太宰府に左遷された道真を思うと、自分もその身になれば利休としては良かったと思ったのかもしれない。都の喧噪を離れて、静かに西国で茶の湯の道を極めたかったと思ったのだろう。もし、そうならば、利休は死の間際に詠んだ上の和歌「利休めは・・・」がそれは死後のことを意味していると考えられる。つまり、やっと、罰を得て死に、自由な身になれると。そして、彼は道真が都を去る時に詠んだ和歌、

   東風吹かば臭ひおこせよ梅の花 
     主なしとて春をわするな

をそこに思っていたのだろう。自分は茶道の主だ、主がいなくても侘の茶を忘れるのではないと言いたかったのだろう。誰も菅相丞から飛び梅の和歌を連想するから、そのメッセージは伝わったのだろう。自分の死にも梅のように慕ってくれる人が居ることを利休は言いたかったのだろう。幽斎の和歌と利休の和歌は無関係に詠まれているが、不思議とつながっているように思えてならない。

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