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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第三十四号

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蛍一つ飛ぶは飛ばざるより淋し 後藤綾子

    
梅雨も末期、九州北部では豪雨との事、この辺りの年間降水量に匹敵する雨量(拙宅のある長野県上田小県地方で、ほぼ900ミリ前後)が、僅か数日で降るのですから改めてその降り方の凄まじさを感じます。皆様方の地域では如何ですか。震災被害に加えて原発という人災にまで翻弄されている今の日本にあって、
もうこれ以上の災害は勘弁願いたいところですね。

拙宅の周りでも、蛍が飛び交うようになりました。ここ数年、長野県内でも人工的な「蛍の里」が観光名所になっています。かつて丸子町の狐塚という「名所」に見に行った事がありましたが、乱舞という形容がぴったりの情景でした。それはそれでよかったのですが、歩いていける距離の、自然発生的に蛍が飛び交う姿がいいですね。かつては農村や山村のどこでも見られた光景でしょう。


野田総理大臣の民意無視の暴走が止まりません。消費税増税から原発、TPPにオスプレイの配備と、「買弁」「財界の使い走り」としか表現の仕様のない政権に成り下がってしまいました。

7月7日付の『朝日』に、大橋経団連前委員長のインタビューが出ていました。消費税増税については、「経団連の考えに近いところに落ち着いた。評価したい。」と、歓迎しています。経団連は、単なる経済人の親睦団体ではありません。最近の例でも、憲法9条「改正」を目指したり、労働者の正規雇用を破壊する違法な偽装派遣労働を進めるなど、戦後この国が目指したはずの平和や働くものの豊かな暮らしに、真っ向から敵対する姿勢を露わにしてきた財界の利益追求のためならなりふり構わない活動してきた団体です。野田政権が、いったい誰のための政治を目指しているか、このことからも十分に読み取れるでしょう。

一連の悪政の中でも、特に国民の怒りを買っているのが拙速な大飯原発の再稼働です。大手マスコミはあまり採りあげませんでしたが、毎週金曜日のデモ参加者は、うなぎ上りに増えています。過去には見られなかった盛り上がりぶりです。懇意にしている地元上田の本屋さんも、7月16日の「さよなら原発10万人集会」を応援する美術展を開催しました。http://www.heirindo.com/index.html 
今回のデモに見られる大きな特徴は、政党や労働組合に組織されていない、自発的な集まりであるという事と、とかく政治に無関心といわれる若者の参加が多い事ではないでしょうか。ネットでの呼びかけが功を奏している点も大きいのでしょう。

それにしても、大手マスコミの洞ヶ峠ぶりは情けないですね。これほどのデモを黙殺し続け、それを批判されてやっと採りあげるのですから。かつて60年安保の際に、「7社共同宣言」(1)を出し、アメリカと自民党の軍門に下った頃と、あまり変わっていないのかも知れません。

この国もまだ捨てたものではないと感じさせられるのが、若者のデモ参加です。おかしなものはおかしいと感じる正義感故の行動だという事が見て取れます。国会が、民主・自民・公明による翼賛政治に乗っ取られてしまった今、こうしたいわば直接民主制的な政治参加こそが、次の時代を開く力でしょう。もちろん楽観はできませんし、あれほどの反対を押し切って大飯原発は再稼働しました。しかしその時々の結果に一喜一憂することなく、息の長い運動を続ける事が大切だと思うのです。

若者の力といえば、その力を遺憾なく発揮したのが60年安保でした。近現代史家の新津新生は、『青年たちの六〇年安保』(2010 川辺書林)の中で、数々の長野県下各地の事例を丁寧に採集していく中で、「安保闘争の主力実行部隊となった青年婦人たちの活躍」の大きさを証明しています。時代が大きく動く時にこそ、彼らの力が発揮されるのかも知れません。安保闘争の最も高揚した60年の前年には、青年自らの主張として「職場闘争の中核になるのは我々青年だ。職制と対決する力量を作り、幹部闘争にならないように組合民主主義を確立し、平和と民主主義を守るために闘う。」事を決意しています。

しかし同書はまた、そうした青年たちは自然発生的に生まれるのではなく、大人たちの「意図的な育成強化」(以上「」内の文字の引用は同書から)の成果という側面も見逃しません。

長野県に於いて、安保を闘う青年の中核的組織となったのは労働組合青年婦人部の他、農村の隅々にまであった青年団でした。しかしその青年団も、再興された敗戦直後は戦前の残滓を引きずっていました(2)ので、復員によって青年の数は膨れあがっていたにも拘わらず、「一般的に見て、青年の立ち上がりは、おくれ」(3)ていました。

しかし、戦前、南信地域と並んで小作争議が盛んだった小県郡の各地域では、1946年早くも農民組合が結成されました。農民組合には青年部があり、彼らはそれまでの官制の色合いを強く残した青年団と時に激しく対立します。後述する塩尻村では、農地改革で先進的に闘っている農民組合青年部に所属する青年たちは、青年団を脱退して(4)います。 60年安保闘争で主力となった青年たちも、この時点では社会運動への関わり方に大きく振幅があったと言えます。


 さて過日、先号でも触れた小宮山量平さんの、塩尻地区の若者へのエールを見つけました。『塩尻文化通信』(5)昭和21年12月30日号です。どのような経緯で掲載されたかはわかりませんが、第一次、第二次と続く農地改革で、小作人と地主階級との対立が先鋭化していた時代、量平さんは来るべき時代の胎動を明確に感じ取り、その先頭に若者が立つべきだと激励しています。一部引用します。

  「大人たちが今日の時代を真剣に苦しんでくれているので注意してみていれば、日本農業のゆきずまりをきりぬけていく。活路がじつによく見えている。その見えている路を、大人は、ともすれそろばんをはじいて見て、すすみえないでいるかもしれない。大人が顔やそろばんにこだわってすすめないところを、どんと活をいれてすすめるのが諸君だ。元気もよし、行きすぎもよしー歴史はいつでもそうした青年の利害を超えた力で正しさをうる。若いものが動き出せば、大人はしんけんにならざるをえない。
  民主的供出問題の先頭に青年がいる。一筆調査は専門家の仕事でなく青年の労作で行われる。…
  目先の食料問題や農家経済を、わけもなくおしつぶしておしよせてくる、世界の農業経済と歴史の法則を見つめるのは、青年のつとめだ。…
  私はそんな事を考え、諸君の未来に血をわかした。…くらく、くもってはいたが、暁を呼ぶ冷気が一段と増してくるのがよく分かった。」(6)(全文は上部に掲載 クリックすると拡大されます)

 みずみずしい、格調の高い文章は、その後の量平さんの活躍を彷彿とさせます。量平さん30歳でした。


(1)60年安保の高揚していた1960年、三大紙を含む新聞社7社は「暴力を排し議会主義を守れ」   という宣言を同年6月17日に出しました。しかしこれは、安保反対のデモを「暴力」として規定し、  高揚する運動に冷や水を浴びせかけるものでした。この声明では、岸総理大臣の右翼暴力団を使用して  の運動への妨害や強行採決は一顧だにされず、一見中立を装いながら「暴力排除」を掲げる事によって  安保の本質を隠蔽し、岸内閣の反国民的姿勢に目をつぶる働きを果たしました。原発や消費税増税、T  PPなどで、一見中立を装いながらまたぞろ同じ過ちを繰り返しているような気がしてなりません。

(2)1946年2月22日に再建のため開かれた長野県連合青年団大会の結成式では、宮城遙拝、国歌斉  唱、令旨奉読という戦前さながらの式次第で行われました。
(『長野県青年団運動史』1985 長野県連合青年団)

(3)同上

(4)戦後再建された青年団ですが、結成直後は男女別々の組織にするところもあれば男女合同もありまし  た。スローガンも「農業会改革」「町村役場の民主化」もあれば、「国体護持の精神の昂揚」を掲げると  ころもあるなど、玉石混淆といった状態でした。(前掲)

(5)『塩尻文化通信』は、塩尻村の青年会の発行していた『塩尻時報』の後継紙と位置づけてよいでしょ  う。同紙は、国策によって1940年廃刊に追い込まれていました。
   1946年5月13日、塩尻村農民委員会文化部によって、発刊されました。 

   以下は「発刊のことば」です。
「民主主義文化を確立するために今度あらゆる階層からの参加を地盤として、塩尻村農民委員会文化 部が組織されました。
  久しい戦争によって私たちの持つ文化手段は軍国主義的なものに患され正しい文化運動の発展 を阻まれてきました。…
  部分的な分業人としてでなくお互いが生産を高めるために、生活を高めるための文化に、多くの 人のための利害に奉仕する事を目的として文化活動を皆で高めたたいと思います。
  これからの仕事は具体的に、『塩尻文化通信』の発行に厚生、講演演劇、図書といった部門によって、皆さんと共にこの仕事を進めたいと思います。」

(6)「民主的供出問題」と「一筆調査」について、以下若干の説明を加え、補足します。  
  戦後の食糧難を乗り切るために、長野県は農村に供出米を割り当てます。ここ塩尻村にもその割り当て がありましたが、それは当初部落単位でした。しかし村政を牛耳っていた旧地主は、自分達の都合のいい ように供出を割り当てようとしましたので、小作側からの異議申し立てという形で塩尻村の闘いは始まり ました。
  小作側は、供出割り当ての公正化のためには、経営規模の違いを考慮して個別に割り当てるべきと主張しました。このことは、単に割り当てを巡る問題に止まらず、村政の民主化へとつながる大きな意味を持 っていました。『長野県における農地改革』(1949年 信濃毎日新聞社)によると、
  「部落割り当てという顔の利く割り当て方式をやめて個人割り当てををする案を大衆討議によって決定した。…
   農民委員会は、…公正な割り当ての基準となる地力の一筆台帳を農民の納得のいくような方法で行い、農用物資の配給方式を下層農民も不利益とならないような方式に組みかえ、供出割り当は先の地力調査と作柄を総合した科学的民主的な基準に基づいて行う方法を確立した。」 と、先進的な事例として評価し、紹介しています。
勿論地主側は、既得権益を大きくそこなう一連の農地改革を、土地取り上げで対抗します。地主といっても、1町歩を超える程度の地主がほとんどの同地区では、地主も「飯米確保」のために、必死に土地確保に走りました。
小作人を中心とする塩尻村農民委員会は、「耕作権の確立」を旗印に、さらに土地管理組合として発展的に解消、村政の民主化までに視野を広げた闘いを展開していきました。先進的な事例として評価された所以です。
こうした一連の経緯を、量平さんはどう見守っていたのか、ぜひお伺いしてみたかったと改めて今思うのです。


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