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坐禅コミュの座禅とヴィバッサナ瞑想の違い

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ヴィバッサナ瞑想では、呼吸を観察しなさいというものがあります。
私の禅の師匠に、呼吸の観察についての見解を求めたところ、
呼吸を観察するのではなく、呼吸になりきりなさいといわれました。
観察する自分、呼吸する自分と主体と客体が分離するのでなく、
一体になるという指導を受けました。
私は、過去にゴエンカ氏のヴィバッサ瞑想に参加して以来、呼吸の観察という
ものをやっていましたが、師匠から観察するのではなく、一体になりなさいと言われたとき殻が破れたように思いました。

この観察という言葉、とても難しいと思います。

ヴィバッサナと座禅、やられている方いますか?
たしかに主体と客体が分離する以前の純粋経験。
これは観察してしまった途端、なくなりますよね。

いまだ、自分の中で明確になっていない問題です。
皆さんの意見を聞かせてくれたらと思います。

コメント(8)

私もそれを聞きたいです。

アーナパーナと禅(私は臨済禅)の随息観が近いものがあると思っていますが、
一体になるってなりきるってことでしょうか?

また臨済禅と曹洞禅と違うらしいので、難しいですね。

参考にご存知かもしれませんが、曹洞宗からビルマの比丘になられた。
山下先生のページをさんこうにしてみられたらどうでしょう?
こたえがあるかもです。
http://www.geocities.jp/sudhammacara_bk/
http://onedhamma.cocolog-nifty.com/blog/
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/
マヤ族様

私が呼吸を観察する。

この私が、くせものです。この私とは誰という問題になります。
私ぬきに呼吸を観察する状態。
この状態はどのようなものかは、まだわかりません。

この問題は、アーナパーナにおいてとても大切な気がするのですが、
自分で解決するしかないのかな。
諸法無我ですね。

私も言葉でなんとなく理解しているだけなので、実感がわいてこないし、どんなときでも諸法無我の感覚でいつづけれないです。読んだときはわかったような感覚になるだけで実生活では元に戻る。
つまり読んで理解しても聞いて理解しても、経験していないと泡沫のごとくもろいですからね。
瞑想時に疑いのない納得できるかですね。

もっと遊びを捨てて、瞑想ライフにいそしまねばと思う今日この頃です。

ちなみに地橋先生は諸法無我の境地になるのは怖いという感覚が人にはあり、
掴んで放しなくない意識がみんな持っているそうです。
たしかに人でなくなるみたいものですからね。仙人か聖者は憧れとともにもう普通の暮らしはできなくなりますからね。後戻りできない恐怖があるそうです。
わたし抜きの境地は遠い道のりかもしれませんね。

山下先生のお言葉は参考になりましたか?
山下先生のお言葉に私が呼吸を観察するがあったのですか?

いや たまたま本屋に行った時です。西田哲学の解説した小冊子がありました。
そこに、川端康成の雪国ある有名な文をテキストにし、純粋経験の話が書かれていました。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

The train come out of long tunnel into the snow country.

英語に訳すとこのようになるらしいです。
the train が主語です。
しかし、日本語には主語がありません、誰がトンネルを抜けたのか?
主語なしの経験。ヒントが見えたようでした。

もう少し瞑想(座禅)を深め感じてみます。

たしかに私も英語より日本語の優位を考えたこともありました。

でも英語のシンプル性が世界標準になったいろいろな要因のひとつですし、
日本語が世界標準には複雑な敬語や漢字で無理でしょうし、長所も短所もあり甲乙付けがたいですね。

最近は最初の段階では主語があってもいいのではないかと思っています。
最終的に取ればよろしいのではないかと思っておりますがどうでしょう?

最初からさとりとはなにかとか、解脱とはとか目的や目標を定めるため明確したがる方が多いですが(特に大乗系)
大きな目標より小さい目標を持って大きな目標を一旦棚上げし小さい目標を大事にしていくことが大事だと思います。
ちょっとテーワワーダよりの考え方ですね。禅は初心者には難しいので。

まあ小さい目標も達成するのが難しいですが。
線香の煙や 蝋燭の火の動きを見ながら 自分の息(呼吸)を
自分で客観的に観察するってことだと思う。
 意識が生じ、知覚が生まれ、感覚から反応へと、ただ生まれては消えるプロセスが現れる。それは「私」には関係なく、ただプロセスとして生まれては消えてゆく様が現れる。

 坐禅(曹洞宗)に親しんだ後、ヴィパッサナー瞑想を知りました。ヴィパッサナーを知ってから、かえって坐禅(道元禅師)のお示しの理解が深まったように思います。
 
 達磨大師が中国へ伝えたものはヴィパッツサナー瞑想ではなかったか、道元禅師はそれを日本に伝えたのではないか、と思っています。

 道元禅師の書かれた「普勧坐禅儀」に「箇の不思量底を思量せよ。不思量底いかんが思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり」という一文があります。
 この「非思量」ということについて、実際に行ずるにあたっては、たとえば「何も考えない」とか「雑念はほっとけ」とか「坐禅に全て投げ込めばいい」といったように言われるのですが、いまひとつ、どうしたらよいのか、よくわからない。ヴィパッサナ瞑想では、そのことについて、どうしたらよいか、具体的に丁寧に示されていると思いました。 
 アーナパーナ(数息観も同じだと思いますが)で、まず集中力を高める。その次に、その集中力をもって、ありのままに観察するヴィパッサナー瞑想に入ってゆく、という流れだと思います。いわゆる「坐禅」では集中力(三昧)を高めるところまでは具体的ですが、それから先のことについては、おのおのが「工夫」し「会得」すべきものとされていて、具体的なお示しはありません。
どのように「工夫」したらよいかは、ヴィパッサナ瞑想の「サテイ」が手がかりになりました。


呼吸という生きてる限り欠かせないもので、しかも普段、まったく無意識にやっている自らのその営みに意識の焦点を合わせることは、何よりも繊細な注意力そのもの、意識そのものに自ら気づかせることでもある。
そう、呼吸に気づくということは実はそれを無意識から意識の遡上にのせるその意識の働きそのものをあらためて自覚するということでもある。
つまり、私たちの日常においてはぼや〜として、分散ぎみだった意識を繊細で明晰で集中的なものに研ぎ澄ます。
呼吸を対象とすることで、あらゆる対象と区別されてある自分の意識というものを研ぎ澄ます。

これに対して、呼吸と一つになるとは、あらゆる対象を対象として意識と区別された向こう側のものとして見るのではなく、それらが私たちの意識の動きそのものであることを自覚的に味わうことである。
外境に対する基本的な考え方が両者では全然違う。
意識と区別された対象ととらえるか、意識のおのずからの働きとしてあらゆるものもあるのだととらえられているか。
背景にある考え方がインド由来の原理と中国独自の原理には一つの断絶があるとも言えますね。

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