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伊庭八郎コミュの伊庭想太郎から

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八郎の実弟である想太郎のことを調べていたら、いろいろと八郎のこと、
これまで知られてこなかったような情報がバンバン出てきました。

こちらで報告させていただこうと思います。

コメント(11)

速報です。

今日仕事の帰りに、想太郎さんのことを調べていたら、久々に大ヒットです。
八郎のことがドワッと出てきました。

とりあえず気になったものを二つ


○伊庭八郎の箱館戦争での負傷箇所について
(伊庭八郎が負傷当時着ていた軍服が、想太郎の元に渡っていた)
→洋服(軍服)に破口 →肩から脇にかけて銃弾が貫通


○想太郎の私塾の部屋(応接室を兼ねる想太郎の書斎)の壁には、
兄・八郎や主な子弟(心形刀流?学校?文友館?)の写真が飾ってあった。
→「亡兄 伊庭八郎およびおもなる子弟と共に撮影せる写真を掲げ…」


この二つに関しては、想太郎の知人である宮川鉄次郎という人が、残した
想太郎の評伝のような記事からです。想太郎の私塾に彼を訪ねて行った際の話です。

以下、続きます。
伊庭八郎の箱館戦争での負傷の、「肩から銃弾が貫通」のフレーズが
以前見たことがあるような気がしたので、久々に『伊庭八郎のすべて』
を借りてきて、八郎の最期に関する様々な人物が残した伝聞を集めた部分を
読み直しました。西澤朱実氏による「伊庭八郎の最期」の項の、
「史料に見る伊庭八郎の最期」の部分です。

伊庭の弟子?の少年・吉田次郎の語った新聞記事や中根淑の残した漢文が
かなり近い感じです。

想太郎は中根の元で学んでいた時期があったと記憶しています。
肩から脇(脇腹?)or腹or胸に銃弾を受けた(貫通した)、というのは
彼らの共通認識だったのかもしれません。

想太郎の養子・伊庭孝さんの残した「流れ弾が喉元に当った」は、
想太郎自身の認識というわけではなかった可能性が強そうです。

人見は、「胸部を打たれ」と残しているみたいです。


宮川鉄次郎が直接、想太郎から聞いた話として語られています。
まだ想太郎の存命中ですから、ある程度は信憑性があると思います。

「肩と脇の破口(穴)」が、実際に服にあったようですから、ここでは
想太郎は「群がって来る敵を狙撃中に、敵丸が飛んできて肩先より
脇の下に貫通し遂に即死を遂げた」とも語っていますが、即死したかは
ともかく、頭部や足では無く、肩や脇の下などの上半身に銃弾を受けた、
という証拠が「当時は」存在したということになります。

さて、今現在、何処にその軍服は眠っているのでしょうか?

***

今、良く読んでみて解ったのですが、やはり想太郎自身は、「顔を洗おうと
した時に流れ弾に当って」八郎が絶命した、、とは認識していなかったようですね。

さて、実際は孝さんはどこからその話を聞いたのか? 坂田鎌吉?
想太郎の部屋の壁に飾ってあった、という八郎や子弟の写真ですが、
正直、読み方によってはどういう風にでも解釈できてしまうような文章です。

「亡兄 伊庭八郎」および「おもなる子弟と共に撮影せる写真」なのか

「亡兄 伊庭八郎およびおもなる子弟と共に撮影せる」写真なのか

非常に悩ましいです。後者ならば、八郎が生前に伊庭道場の子弟たちとの
集合写真、ということになりますが、それではあまりにも脳内での
想像が膨らみすぎるので、ここは、冷静に前者の、八郎の写真と私塾の子弟たちの
写真がそれぞれ飾られていた、と考えた方がいいかもしれません。

宮川は教育者としての想太郎に政治の話をしに面会しに行ったようですので、
普通に考えれば、「子弟」は彼の私塾の生徒たちなのかな、と思います。

でも、我々が知らない八郎の写真だった可能性は充分あると思います。
さていったいどんな写真だったのでしょうか。
>伊庭八郎の箱館戦争での負傷箇所

田村銀之助は、八郎が受けた銃弾が「胸部に止まって」、抜くことが出来ない
という事を史談会で語ったようですが、吉田次郎は「右腕より左胸を洞して」
と残しており、想太郎が持っていた八郎の軍服の状態と、吉田と田村の
話を合わせると、右肩から脇の下を通って左胸で止まった、、ということに
なるでしょうか。

服を持っている想太郎は、被弾した状態を考察できますし、中根から
いろいろと聞いているかもしれませんが、想太郎も中根も実際の病床の
八郎を見ていない、という決定的に弱い部分がありますね。
(『江戸の武士 伊庭想太郎』のように、想太郎も脱走軍に参加して大活躍!
という話も時々残っていたりしますが、まぁフィクションでしょう)

しかし、田村らの話を100%鵜呑みにして良いかと言えば、そうではなく、
やはりできるだけ他の史料を発掘して、考証していかねばならないと思います。

子母沢寛も、かなり伝聞要素が強い話をいろいろと戦前戦後に書いていますが、
基本的には、以下の師弟関係からもたらされた「八郎話」の流れ、
ルートがあるわけです。

中根淑→ 伊庭想太郎→ 小笠原長生(長行の息子)   →→ 子母沢寛

子母澤は、晩年の小笠原長生から直接話を聞いていたようです。
(長生が想太郎の学校で学んでいた頃の話とか)

もちろん、中根の前には八郎の義父の伊庭軍兵衛秀俊もいるますが、
戊辰戦争、箱館戦争時の八郎を語り継ぐ、というルートでは、以上のような
感じで良いかな、と思いました。

子母澤氏の書いたことを、池波正太郎氏も参考にしているかもしれません。
いつもながら調査内容には感服しきりです。
これからも色々教えてください。

私の方は今月また心形刀流の調査で長崎へ。今回で7回目になります。僕らは古伝のそれを研究しています。
幕末期の伊庭道場の心形刀流と元々のそれは違っていた部分も結構あったようです。

武芸流派大事典の系譜に結構間違いがあるため、伊庭八郎の全てに転載されている系譜もやはり間違えていたり、また、亀山の心形刀流保存会で以前発行した冊子などにも間違いがあるため、それを元に書かれている書籍は全て同じ間違いをしてしまっているなど、歴史的な点で現在流布しているものにかなり問題があるというのが実情です。
ジュリアーノさん、こんにちは。

今月も長崎に行かれるのですね。またおみやげ話を楽しみしております。

花魁のこともそうなのですが、現在広く伝わっている、流布されている
情報は、明らかに間違っている場合でも、定着していることを覆すには
長期間に渡って言い続けていないといけない、という大変さがありますよね。

>それを元に書かれている書籍は全て同じ間違いをしてしまっているなど

誤りの連鎖、って感じですね。自分も勘違いして後から気付くことも
多々あるのですが、できるだけ訂正できるものは直して行こうと思っています。

***

「伊庭八郎の洋服」は、遺髪と同じく鎌吉さんが持ってきたものだそうですね。
遺髪は貞源寺さんに埋葬されているという話を聞きますが、服のほうは
関東大震災で焼失してしまったということなので、その状態をレポートした
記事を見つけられたのは、大変嬉しかったです。

筆者の宮川鉄次郎も、実際に想太郎が服を持ち出してきて、直接、
鉄砲の穴を見たようです。

その他、想太郎さんの人格的な部分を伝えた記事を、本当にたくさん見つけました。

「伊庭八郎の会」の打ち合わせの席上等で、また原史料のコピーなどを
お見せできれば、と思います。
今日は、自分でも驚くくらい、伊庭八郎+想太郎関係の資料を沢山発掘出来ました。

想太郎さんの若い時の写真を3種類(うち2つは、幼児の孝さんと一緒に写っているモノ)。

そして、孝さんは、皆様ご存知の通り、想太郎の養子ですが、実は何代か前の
八郎次の末子の血筋らしく、全然関係無い家から貰ってきた子では無い、
ということを想太郎の教え子の小笠原長生が語っています。
これは、初耳でした。

そして小笠原長生は、心形刀流の祖「伊庭是水軒」の「是」の部分だけに
わざわざ「ジヨ」とルビを振っていました。

先日、ジュリアーノさんからお聞きしていた、「〔是水軒〕と書いて
〔ジョスイケン〕と読んでいたらしい」、というお話とピッタリ符号して、
やはり、正しい読みは「ジョスイケン」だったのかな、と思いました。

講談調の作り話に是水軒が登場する場合は、よく「伊庭如水軒」の漢字が
使われているのが、とても納得できました。
(それまでは、わざと変名させていると思っていました)
当時は音の方を中心に漢字が当てられることが多いですし、「ゼスイケン」
よりも「ジョスイケン」が可能性ずっと高しですね。

研究者なども普通に「ゼスイケン」と読んでいるのかもしれないですが、
私はこれから「伊庭 是水軒」は「イバ ジョスイケン」と読もうと思います。
伊庭想太郎の若い頃の写真を三種類見つけたことは、他のトピックで
書きましたが、このところテレビのあるCMを見ていて、なんか似てるな、
と感じたものがあります。

リカルデントというガムのCMで、TOKIOの松岡くん?(詳しくなくてすいません)
が、眼鏡をかけて真正面の顔が弩アップになるのですが、その顔が
なんだか、想太郎の写真のうちの一枚と似ているのです。

想太郎の若い頃の写真は、明治18年の教え子たちとの集合写真と、
明治24年の伊庭孝さんと二人で撮影してナナメを向いているもの、
そして撮影月日が不明ながら、同じく幼少の孝さんとの撮影で、
それほど大きくなってないので、明治24年から一年かニ年以内に
撮影されただろうと仮定できるもの、の計三枚です。

正直、三枚の写真は、どれも別人と言われたら、「そうかも」と
思ってしまうくらい、骨格以外は違う顔(表情、容姿)なのですが、
この三枚目の月日不明の顔が、一番、遠く澄んだ思慮深い瞳をしていて
まるで俳優のような感じで映っています。

松岡くんよりもう少し太っているけど、この写真が、なんだか似ているのです。

池波正太郎氏の伊庭八郎の複製肖像画?は、ちょっと松岡くんに
似てなくもないので、意外とああいう顔をしていたのかもしれません。

以上のことは、あくまで個人的に感じていることであって、その見つけた
写真を公開できない以上、このトピックを読んでいる人が、突っ込もうにも
突っ込めない、状況となってしまうと思うのですが、書いてしまいました。

想太郎さんも八郎さんも、色が白いと書かれているので、松岡くんと
肌合いみたいなのは、違うかもしれませんが、顔の「作り」はちょっと
似ていたのかもしれません。
三枚の写真のうち、最も若い頃に撮られた、明治18年の想太郎さんの姿は、
スラッとしていて、白くて鼻筋が通っていて、目が切れ長で、いわゆる
「お殿様顔」な、すごく育ちの良さそうな青年、な感じで写っています。

同じ正面からですが、星亨刺殺事件を起こした頃と思われる有名な坊主頭の
写真とは、ずいぶんと雰囲気が違うのですが、やはり骨格には共通する
要素があります。

想太郎さんは、幼い時から、八郎らよりは若干太っていたようで、
明治30年代には「このところ更に太った」なんて感じで書かれていますが、
若い頃の写真(明治18年)は、本当に普通にスラッとしているので、
けっこう伝聞どおりだな、と思いました。

背も高めだったそうです。
一ヶ月半くらい前から、来年の第一回「朝涼忌」で発表させていただく予定の、
「伊庭八郎の胸像」の顔部分の習作を作っていました。

先日の「伊庭八郎の会」の会合で、像を持参して、見てもらったりしたのですが、
冷静で正確な観察眼でご意見くださった方がいらして、
これまでずっと迷っていた八郎の「目」に造形に関して、少しづつ自信がもって作れる
ようになってきましたので、さっそく大幅に修正しました。それが今回の画像です。

『伊庭八郎のすべて』の表紙の、陣笠をかぶった写真を拡大コピーして、四六時中
観察して、少しづつ造形しました。
ベースは、これまで見つけてきた、実弟の想太郎さんの若い頃の写真の骨格を参考に
しています。(陣笠写真は、紐らしきもののせいで、顔の骨格がまるで見えないからです)

そして、子母沢寛『伊庭八郎』の冒頭の文章も参考にしました。
「伊庭八郎は、当時江戸で五本の指に数えられるような剣客でいて、黙って下を向いて笑う時なんか、役者のようだったと云いますからねぇ。丈はあまり高くないが、色の白い黒目がちな、こう何んとも云えない愛嬌があったと申します。」
子母沢氏は、伊庭ハチに直接あったわけではないので、伝聞の伝聞、レベルなのかも
しれませんが、それでも、陣笠写真の影に隠れた顔をじっと見ているうちに、
「黒目がち」なのも、あながちデマカセではないのではないか?と思えるようになってきました。

画像のうちの一枚は、陣笠でできた影の代わりに、紙袋を置いて撮影してみました。
幕末総合コミュでもさっき書いたのですが、↑からまた目や眉毛、全体を少しづつ変更しました。

あと、この習作の塑像は、史実の伊庭八郎を再現するつもりで作ってはいますが、
どんなにあがいても、結局は、フィクションであって、小説や漫画、イラストなどと同じ、
創作物ですから、自分が作ったモノが、「伊庭八郎そのものだ!」、なんて断言する気は毛頭も
無いので、ご安心ください。

長い時間と手間をかけて、資料を集めるのも、発掘するのも、あくまでも自分にとって
納得が行くもの、これだと思える表現をする、ためにです。
永遠に真実なんて、わからないと思います。

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