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シュタイナー的生活を楽しむコミュの第16週 「いじめ」をフロムで考える

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7/22〜7/28
霊の贈り物を内部に生かすために
予感が私にきびしく命じる。

神のゆたかな賜物が
魂の奥底で自我の果実を
熟させるようにと。
 (Rudolf Steiner  高橋 巌訳)   
 ----------------------------

〜人間の中に潜む悪からいかにして解放されるのか〜


大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒が

いじめを苦に自殺したとされる

「痛ましい」事件が毎日マスコミをにぎわせている。

今回のニュースを見るたびに現代の教育の「廃退」を感じてやまない。

この問題をエーリッヒ・フロムの『悪について』(鈴木重吉訳 紀伊国屋書店)

をもとにして考察してみたい。

エーリヒ・フロム(1900年〜1980年)はドイツの社会心理学、

精神分析の研究者であるユダヤ系ドイツ人である。

この本では人間に潜む諸々の悪を分析している。

現代は驚くような凶悪事件・いじめ、

はては戦争まで、悪に対する不安が満ちている。

それらの悪の根源はどこにあるのか?

そして人間は悪に勝てないのか?

愛情よりは金や物に魅惑された人たち、

血も涙もない能面のごとき顔をした権力者。

あるいはまた特定の宗教や思想に身をゆだね、

自己を喪失した人たち。

人間が人間でないこうした行動の原因を、

歴史上の実例を挙げて分析している。

まず『悪について』の本の最初の部分をまとめてみた。

最初に「人間は狼か羊か」ということが述べられている。

人間は羊だと言う人は、人間は容易に他人に左右されて、

たとえ自分に有害であっても言われた通りにするし、

指導者にしたがって破壊以外のなにものでもない戦争にも加わる。

しかし、多くの人間が羊なら、人間生活が羊の生活と全く違うのはなぜか。

人間の歴史は血をもって書かれてきたし、絶え間ない暴力の歴史であり、

ほとんど決まったように人間の意志を曲げるために力が用いられてきた。

ヒトラーは独りで幾百万人のユダヤ人を撲滅したのか?

スターリンは独りで数百万人の政敵を根絶したのか?

この人達は一人ぼっちではなかった。

すなわち彼のために人を殺し、苦しめ、

しかも率先して欣然とそうしてくれる

数千の味方がいたのである。

こうした事実からホッブスのような思想家達は、

「人間は同胞に対し狼である」と結論するに至っている。

人間は狼か羊か?

この二者択一自体が誤りなのか?

人間は狼でもあり羊でもあるのだろうか?

フロムの見解では、人間のオリエンテーション(傾向群または行動及び態度)の中で、

最も有害で形態の基礎をなす三つの現象を取り上げている。

それは、死を愛好すること(ネクロフィリア)、悪性のナルチシズム、

共生的・近親相姦的固着である。

この三つのオリエンテーションが結合すると、

「衰退の症候群」−≪人間を破壊のための破壊へかりたてるもの≫

そして憎悪のための憎悪へかりたてるもの−を形成するようになる。

「衰退の症候群」に対立するものとして、「生長の症候群」がある。

これは、生への愛−バイオフィリア−(死を愛好する心に対立するものとしての)、

人間への愛(ナルチシズムに対立するものとしての)、

独立性(共生的、近親相姦的固着に対立するものとしての)から成立している。

この二つの症候群のうちどちらか一方が十分発達しているのは、

ごく少数の人びとに限られている。

しかし、人はそれぞれ自分の選択した方向、つまり生の方向か死の方向、

善の方向か悪の方向に進んで生きているのである。

フロムは人間は、「生を愛好する」バイオフィリアと

「死を愛好する」ネクロフィリアは両方とも誰もが持っているとしている。

今回の問題で、驚いたのは、大津市教委は7月10日夜、

緊急記者会見を開き、

昨年10月の全校生徒を対象にしたアンケートとは別に、

11月にもアンケートを実施し、

「葬式ごっこをした」「『自殺の練習』と言って首を絞めた」など、

いじめを示す新たな回答を得ていたことを明らかにしたことである。

1回目のアンケート後、

「さらに事実を知りたい」という男子生徒の遺族の要望を受けて

追加実施したというが、

市教委は十分に事実確認をせず、公表もしなかった。

市教委によると、追加アンケートは昨年11月1日に実施した。

最初のアンケートは無記名や伝聞の情報が多く、

事実確認が難しかったため遺族の意向に応えて再度行ったとしている。

追加アンケートの回答には、

加害者とされる同級生らが「葬式ごっこをしていた」

「『自殺の練習』と言って首を絞めた」などの内容も含まれていた。

しかし当時、学校側がこうした記述を見落としたうえ、

市教委には「新たな情報は確認できなかった」と報告した。

このため、市教委は追跡調査は必要ないと判断し、

回答についても非公表にしたという

このような重大な記述を見落としたと発表したことに驚いた。

人間の中、子どもの中には、勿論善なるものも宿っているが、

ネクロフィリアという,

とてもどろどろした残虐性ももっているのだ。

そのことを前提に問題が生じたときには対処すべきだった。

フロムによると悪の程度は、同時に退行の程度でもある。

最大の悪とは生に最も逆行しょうとすること、すなわち、

死に対する愛、子宮、土壌、無機物へもどろうとする近親相姦的共生の努力であり、

その人間をして生の仇敵たらしめるという。

さらに「ネクロフィリア」はナルチシズム(自己愛)と結びつくと

いつも相手の上に立とうとし、自分が優越する力を求め、

生命を持つ物より単なる物である無機物を愛する。

だれか弱い者を見つけ、

見下し、ののしることによって

自分の優位性を感じることに喜びを感じるのである。

そして、生きている鳥や生きている花や生きている

個々の人間にはあまり関心がないのである。

「ネクロフィリア」は、いつも自己正当化するが、

その自分の性質には全く気づいていない。

そして、悪ということは特別に《人間的》な現象である。

悪とは人間以前の状態に退行し、特に人間的なるもの、

すなわち理性、愛、自由を排除しょうとすることである。

しかし悪は人間的であると同時に悲劇的でもある。

たとえ人間が最も原初的な経験形態へ退行しても、

人間は人間であることを中止することはできない。

それゆえに人間はひとつの解決法として、

悪に満足することは決してできない。

動物は悪にはなりえない。

動物は生きるために根元的に必要な生来の衝動にしたがって行動する。

悪ということは、人間的なものの領域をこえて、

非人間的な領域へ移ろうとすることであるが、

人間は『神』になり得ないと同様、動物的にもなりえないから、

悪は非常に人間的なものである。

以上が『悪について』の要約である。

ネクロフィリア(死を愛好する)は、

低次の燃える欲望の領域にアーリマンなどの

強い霊が影響を及ぼすようなことがあれば、

人間のもつナルチシズム(自己愛)と結びついた

魂はますます悪の方向へと力を増すのではなかろうか?

今回の悪の力は一人の未来ある中学生の命をも奪ったのである。

さらに『悪について』の以下を読んでみよう

「生が、構成され機能することにより生長する特徴を持つのに対して、

ネクロフィラスな人は、生長しないものや機械的なものをすべて愛する。

そして又、有機体を無機体に変貌し、生きているものを物体であるかのように

機械的に接したいという欲望にかられる。

あらゆる生命過程、感情、思考はすべて物体に変貌される。

経験よりは記憶が、存在よりは所有がここでは重要なのである。」(p43)

自己愛から生じた燃える欲望と

或る種の人の不幸を喜びとする霊が関わりを持ったとき、

人間の魂にネクロフィリアが増長していくのではなかろうか。

燃える欲望の領域の特徴である支配的な利己的本能をがさらに強まるのである。

この方向への局地がナルチシズムと結びついたネクロフィリアではなかろうか。

まず大切なのは、今の子ども達が、

物質主義的(アーリマン)な環境の中で、

ますますネクロフィリア(死を愛好する心)

が増長していることを認識することである。

その信号はあらゆる所から発している。

このように、人間は羊であると共に狼である要素を誰もが

持っているいるのである。

それでは、その正反対のものを志向するバイオフィリア(生を愛する)

はどのようなものか。

「バイオフィリアの完全な現われ方は、

生産的オリエンテーションに見出される。

深く生を愛する人は、あらゆるところに見られる生と生長の過程に

惹きつけられる。

彼は停滞するよりも組み立てようとする。

彼は常に驚異の目を開き、

古いものに確証を見出しそれに安住するよりは、

何か新しいものを発見しようとする。

確からしさよりは冒険にみちた生き方をしたいと考える。

彼の生に接する在り方は、機械的というよりは機能的であり、

部分よりは全体を、総和よりは構造をみる。

彼が形成し、影響をしたいと思うのは、愛情、理性、自らの範によってであって、

力でもなく、物を寸断したり、官僚的態度で人間を物体のごとく

支配することによってでもない。

彼は単純な興奮よりは、生命と生命現象すべてに喜びを見出す。」
(『悪について』p51〜52)

人間は誰もが全く相反するネクロフィリアとバイオフィリアとの特殊な混合である。

ここで大切なのは、二つの傾斜のうち、どちらが優勢であるかということなのである。

ネクロフィリアが優位を占める人々は次第に自己に内在する

バイオフィリアの側面を殺していく。

一般に彼らは自分の死を愛好する自分の傾向に気づかず、

自分の心を硬化させ自からの死への愛好を、

経験に即した論理的かつ合理的反応であるかの如く考え行動するのである。

一方生を愛好するバイオフィリアが優勢な人は、

自分の中に潜むネクロフィリアに気づき生への愛好へと覚醒させるのである。

まず大切なのは、自分の中に潜むネクロフィリアをその人が

どの程度意識しているかを理解することなのである。

子どもの場合には、周りの大人がそれを見抜かなければならない。

私自身も以下の部分を読んだときに自分の中に潜むネクロフィリアを

認めざるを得なかった。

「殺すということが、われわれの娯楽に果たしている働きを考えてみるがいい。

映画も連載漫画も新聞も、破壊とサディズムと残忍で満ち溢れており、

それがおもしろくて仕方ないのである。

何百万という人々は平凡で快適な生活を送っている−

そして彼らには殺人であろうと、オートレースで命を落とすような事故であろうと、

殺すことを見たり読んだりする以上に、彼らを興奮させるものは何もないのだ。・・・・・

また、自動車事故の発生率にみられる生への無関心を考えて見ると良い。

端的に言えば、知性化、定量化、抽象化、官僚化、

具象化などの現代の産業社会の特徴といえるものは物体ではなく

人間に適用された場合、生の原理ではなく力学の原理となるのである。

こういう制度の中に住む人々は生には冷淡になり、死に惹きつけられさえする。

彼らはこのことに気づいていない。

彼らは武者震いを生の喜びととりちがえ、所有し、使用しうるものが多いときは

心ゆくまで生きていると誤解して生活している。」(『悪について』p68〜69)

現代の産業社会の中で、人間は生に対して冷淡になり、

ますます無機物的なものを志向しているがそれに気づいていない。

ワイドショーや週刊誌の記事、

今回の事件に対するネットの掲示板などをみると

人間の中のネクロフィリアを難なく見つけることができる。

人間が相反するものを志向するネクロフィリアとバイオフィリアを

持っているとするとするならば、

それらの思いが強く或る人間に作用するには

いかなる要因があるのだろうか。

それに対してエーリッヒ・フロムは以下のように答えている。

「すなわち一般にネクロファラスなオリエンテーションと、

バイオファラスなオリエンテーションの発展にいかなる要因が作用するか、

そしてもっと明確にいえば、特定の個人または集団における

死を愛好するオリエンテーションの、大小の強度にはいかなる

要因が作用するのか?
・・・・
子供の場合、生の愛好の発達に最も重要な条件は、

その子供が生を愛好する人々と共に在るということである。

生を愛好することは、死を愛好することと同じように伝染しやすい。

それは言葉や説明を加えなくとも、

生を愛好すべきであると説教しなくとも、

コミュニケートする。

思想よりも身振りで、

言葉よりも声の調子でそれは表現される。

自分の生活を組み立てるための明確な主義や規則よりも、

個人や集団の雰囲気全体の中にそれを認知することができる。

生を愛好する傾向の発達に特に必要な条件の中から、

私は次のようなものをあげよう。

幼児期に常に他の人たちの暖かい愛情に触れること、

自由であること、脅威のないこと、

説教よりは実例によって内的な調和と強さを導く原理を教えこむこと、

『生きる技術』の指導、他人に激励され、それに反応すること、

本当に楽しい生活の方法。

これらと正反対の条件はネクロフィリアの傾向を発達させる。

すなわち、死を愛好する人々の間に育つこと、

激励の欠如、

激しい驚きと人生を紋切型にし、

くそ面白くなくする諸条件、

端的にかつ人間的関係により決定されない機械的な秩序など。」
(『悪について』p58)

フロムによると生を愛好することは、

死を愛好することと同じように伝染しやすい。

それは言葉や説明を加えなくとも、

生を愛好すべきであると説教しなくとも、

コミュニケートするというのである。

すなわち、人間は、生を愛好する世界、

死を愛好する世界の両方に所属する「魂の世界」に生きていると共に

「霊の世界」とも関わりをもって生きているのである。

このことを考えると、生を愛好することや死を愛好することが伝染しやすい

というのもとても納得できる。

学校や家庭環境、地域社会からの子ども達は強く伝染しているのである。

「霊の世界」は個人や集団の雰囲気全体の中で伝染して

いくものだからである。

幼児期に常に他の人たちの暖かい愛情に触れることなく、

自由でなく、不平不満をいつももった環境で育ったなら、

憎しみや復讐の情念が育っていく。

その「憎しみ」の情念に霊の世界が係わるとどうなるのか。

そして、その情念を乗り越えていくにはどのような道があるのか?

フロムは以下のように語る。

「復讐の動因は、集団または個人のもつ強さと生産性とに反比例する。

無能な者や不具者は自尊心が傷つけられたり砕かれると、その回復の手段として

頼れるものはただひとつしかない。

つまり『眼には眼を』というたとえのように復讐することだけである。

一方、生産的に生きている人にはそういう必要はほとんどない。

たとえ傷つけられ、侮辱され、損害を与えられても、

生産的に暮らしている過程そのものが過去の傷を忘れさせる。

生み出す能力というものは、

復讐の欲求よりも強いことがわかる。

この分析が正しいことは、個人および社会のスケールに

おける経験的資料によって、容易に立証することができる。

精神分析の資料は、完全に独立して生きることができず、

復讐の欲求に生活のすべてを賭けるような精神症的な人よりも、

円熟した生産的な人は復讐の欲求をもつことが少ないことを示している。」
(『悪についてp24』)

創造することのできない人は破壊したいと願うのである。

創造したり破壊したりすることによって、

人は単なる被創造物としての役割を超越しようとする。

「いじめ」もここからうまれるのであろう。

創造的な生活をしていたら「いじめ」など生まれるはずがない。

「サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであると

言えばよい。

なぜなら完全絶対の統御によって、生物は生の本質である自由を

失うからである。
・・・・
人間は人間であり物体ではなく、もし生を創造できなければ

破壊せずにはおれないから、破壊的で加虐的な『激情』の可能性をもつのである。

数千の無力な人々が、人間が野獣に喰われたり、

互いに殺し合ったりするのを見て、最大の喜びを味わった

ローマのコロシアムは、サディズムの大きな遺跡である。」
(『悪について』p31)

さらに「一次的潜勢力とは、種子が湿度や温度など適当な条件が

与えられた時はじめて成育するのと同じように、

生に適当な条件が与えられれば発展する。

適当な条件がなければ、ネクロファラスな傾向があらわれて

その人を支配するようになる。」(『悪について』p57)

フロムは、このようなネクロファラスな傾向、

代償的な破壊性を治療する唯一の方法は、

人間の内部に存在する創造のポテンシィ(潜在力)、

つまり彼の人間的な力を生産的に利用しうる能力を発達させることで

あるという。

人間が無力でなくなってはじめて、人間はサディストでなくなり、

人間が生に興味をもちうる状態だけが、

人間の過去から現在にいたる歴史を恥ずかしめた

その種の衝動をなくすことができるのである。

フロムのこの部分を読んでいても、シュタイナーの人智学との

繋がりが理解できるように思う。

シュタイナーは高次の霊界は、創造行為が絶え間のない

世界であると以下のように述べている。

「霊界では、一切が絶え間のない活動状態を保ち、

止むところのない創造行為を続けている。 

物質界に存在するような休息とか停滞とかということは、ここには存在しない。

なぜなら創造する本性が原像なのだからである。

原像は物質界と魂界に生じる一切のものの創造者である。」(『神智学』p129)

人間の持っている力を生産的に利用しうる能力を

発達させることによって、

高次の霊界が魂に関与するのである。

創造行為を育てることが最大のネクロフィリアを人間から駆逐し

バイオフィリアを育てる道である。

そのためには、「生きた思考」を持った

創造的な大人が周りにいることが大切となる。

その意味で芸術としての教育、自由への教育としての

シュタイナー教育の素晴らしさが改めて見えてくるのである

今回の問題が、日本の教育のあり方を

根本的に考える機会になればと心から願っている。

コメント(6)

精読してしまいました。フロムの悪についてという本はタイトルは知っていましたが、悪という言葉に少々アレルギーのあった自分は、読んだことがなかったのでした。創造は想像すること、と昔誰かから聞いたことがあります。
教育の原点は、やはり
眼に見えているものは見えないものの現われであることを教えていく・・・
その必要性を感じます。
いじめ事件、連日ニュースで取り上げられていましたね。

二元論の平面上で両極に見えるものは、実は表裏一体。

例えば「無視」という形のいじめがありますが、街ですれ違う人や同じ電車に乗っている人々に対する、無関心からくる無視と違って、特定の1人を無視しようと思えば、同時にその人物への強烈な関心がなければ成り立たないですね。

生徒Aを無視しようとすれば、今教室に入って来たのがAであると知る必要があり、Aであるから無視する、Aであるから挨拶しない、Aであるから目を合わせない、などなど、常にAがAであることを意識しなければならないわけで…

天秤の片皿に乗って反対側を見ると、あたかも相手が自分の対極のように見えますが、バランスをとる支点の位置に立つと、そのどちらもが、自分の右腕と左腕。
マスコミに登場する評論家たちは、いまだ二元論の迷宮から出られずにいるようです。


>いつも相手の上に立とうとし、自分が優越する力を求め、
>生命を持つ物より単なる物である無機物を愛する。

>ネクロフィラスな人は、生長しないものや機械的なものをすべて愛する。
>そして又、有機体を無機体に変貌し、生きているものを物体であるかのように
>機械的に接したいという欲望にかられる。

このあたりは、現代社会が圧倒的に「男性原理」に傾きすぎたことと深い関係がありますね。


>知性化、定量化、抽象化、官僚化、
>具象化などの現代の産業社会の特徴といえるものは物体ではなく
>人間に適用された場合、生の原理ではなく力学の原理となるのである。

禅の鈴木大拙の言葉に、

『愛』とは、もの を ひと に変えるちからであり、
『力』とは、ひと を もの に変えるちからである

というのがありました。

いのちあるものを慈しみ育て、愛において包括する女性原理が、社会において正当なバランスの位置に立つこと(単に男性原理の構造の中に女性が“進出”することとは全く違います)、それがまさに今望まれることだと思います。
あめじすとさん
いつもありがとうございます。
なでさん
コメントありがとうございます。
精読していただきとても嬉しく思います。
そうですね。
想像性豊かな創造的人間になりたいですね。
大人がそのようになれば、それは子どもに伝染し
バイオフィリアが育つのでしょうね。
トピックをまとめながらそのことをとても強く感じました。
人間のあらゆる行為は目に見えない心の表現ですから
今回の事件にかかわった子ども達の心の変化を
知りたいですね。
ありがとうございました。
ヒルフェ*ゾフィーさん
コメントありがとうございます。
男性原理と女性原理での視点・・
とても深い内容ですね。

>禅の鈴木大拙の言葉に、
>『愛』とは、もの を ひと に変えるちからであり、
>『力』とは、ひと を もの に変えるちからである
>というのがありました。

これを読んだとき、
ゲーテアヌムの展示室で見た
「人類の代表」の彫刻を思い出しました。

ものをひとに変える『愛』はキリストであり、
ひとをものに変える『力』はアーリマンだと思いました。

「電気にはアーリマンの力が働いている」と意識するために
ゲーテアヌムの変圧器を納めたものは四角いらしいのです。

ところが今の子ども達は生まれたときから、
聞く音楽も、見るテレビも、ゲームも
すべてアーリマンの力が働いているものばかり
アーリマンの力が働いている
電気の害をかなり受けているように思います。

現代のようにアーリマンは人間に気づかれない時、
大きな力をふるうので、
アーリマンに私たち一人一人が
まず「気づく」ということが大切なのだと感じました。

そこにアーリマンから「自由」になれる道が見えてくるように思います。

その時、おっしゃるように、
いのちあるものを慈しみ育て、
愛において包括する女性原理が、
社会において正当なバランスの位置に立つことが
実現されるように思いました。
ありがとうございました。

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