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去年のノートに書いてあった言葉コミュの20歳の僕から20歳のあなたへ

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ゴーっという低く重厚な汽笛を立てながら船はゆっくりと港を離れていった。汽笛の音というよりもまるで巨大な獣の唸り声のように、その音は僕の腹に重く響いていた。
 僕は甲板の柵から身を乗り出して遥か下に見える海面をじっと観察していた。水面ではいくつもの小さな白波が立ち、船にぶつかっては泡となって消えていく。後方の港が完全に見えなくなってしまうまでの間、そんな繰り返しだけをただ見つめていた。
完全に船が港を出てしまってから、僕は船の舳先の方へ行ってみることにした。この巨大な客船では、甲板の上を通って舳先へと辿り着ける道が作られているのかどうかは分からなかったが、しばらくウロウロしているうちに甲板に出ているのは僕だけのようだということが分かった。
辺りは不自然すぎるほどに静まりかえっていた。海は油を流したみたいに凪いでいて、静止画のように青い空を映しているだけだった。汽笛はとっくに鳴りやみ、微かに響くエンジン音と船が起こす小さな波の音しか聞こえてこない。
僕は立ち止まって注意深く耳を澄ませみた。エンジンと波、この2つの小さな音は30秒程度の繰り返しからなっていることがわかった。どこかでカセットテープに録音してきたみたいに音質も悪かった。つまり、その不自然な静けさは意図的なものであった。その静けさは誰かがはっきりとした意思をもって、特定の誰かに向けて用意した静けさであった。
甲板の上からはこれ以上前方に進めそうにもなく、舳先に向かうのを諦めて僕が寝泊まりするはずの客室へ行ってみることにした。
船内入口に掲げられている案内図を眺めてみたが、どういう訳か僕はそこに書かれてある文字を一切読み取ることができなかった。現在地点やフロアーの名称など、図の細部に当然日本語で書かれてあるはずの部分を読もうとすると、まるで読み取ることを禁止されたようにそこで思考が途切れてしまうのだった。
「一体どうしちまったんだ」
 僕は自分の置かれた状況を確かめるためにも、わざと落ち着いたトーンでゆっくりとつぶやいてみた。するとすぐに
 「セルラリエリコム」
という声が耳のすぐそばから聞こえてきた。そして驚くことに、この声は僕の声であった。録音した自分の声を聞くときの聞き慣れない気持ち悪さが感じられ、すぐにそれは分かった。さらに速さ・トーンも先ほど発した僕の声と同じであるようだった。
 「セルラリエリコム」 と僕は言ってみたが、今度は何も聞こえてはこなかった。

甲板から船内への扉を開けると、その奥には薄暗く長い廊下が真っ直ぐにのびていた。そこは半世紀も前に廃校になった木造校舎のような、古びた木でできた廊下のようであった。およそ巨大客船の船室とは思えない光景が広がっていた。床板には暗い緑や灰色の染みがまじり、所々が腐敗している。空気はもう何年ものあいだそこに置き去りにされていたかのように、埃っぽく淀んでいた。
廊下の両側にはいくつかの扉があったが、どの扉にも「6」や「32」や「55」等、1桁と2桁までの数字が書かれたプレートが貼り付けられていた。そして全てのドアノブには黒く錆びた重厚な錠前がかかり、その上には白い埃が積もっていた。扉ごとに付けられた数字の並ぶ順番については、全くその意味を見いだすことはできなかった。
そんな扉の数字を眺めながら、僕はゆっくりと廊下を進んでいった。そして10ばかりの扉を過ぎ去ってからやっと、数字だけは正確に読み取れるらしいということに気が付いた。僕は立ち止まってふっと息を吐き、
「数字だけは読める」その事実を逃さないように、大切に確かめるように言った。すると
「ルカラムルンセ」という自分の声がまた返ってきて、僕はがっかりして先を急いだ。
結局、錠のかかっていない扉は廊下の突き当たりにある「20」と書かれたプレートの扉だけで、そのプレートは他のプレートと異なり、金でできた絵画の額縁のようなものの中に収められていた。額縁もドアノブも、ここだけが丹念に手入れがなされ、元来の金属の輝きを湛えていた。
僕はそのドアを何度かノックしてみたが、返事はなかった。埃一つない黄金色の真鍮のノブに手をかけて回してみると、ドアは音もなく内側に開いた。
そこにはさらに、ちょうど学校の教室の大きさ程の、がらんどうとした空間が広がっていた。窓は一つもなく、そこには人影もなかった。天井には石油ランプがつり下げられ、室内を淡い薄黄色に灯していた。部屋の奥には5人掛けほどのバーカウンターのようなものがあったが、椅子は見当たらなかった。
カウンターの奥には大きな柱時計が一つ、その横にはすりガラスの入ったドアが一つ。
柱時計は動いてはいなかったが、すりガラスのドアの向こうには白い電灯の光が見えていて、そこにはときおり微かに人影の様なものが揺らいで見えた。
僕はそのドアをノックしてみるべきかどうか少し迷ったが、しばらくはその人影の動きを伺っていることにした。
ほとんど何もない部屋の片隅に腰かけ、じっとすりガラスの影の動きに注目していたが、突然強烈な眠気が襲い掛かって僕はまどろみの中に沈んだ。

遠のく意識の果てで僕は母親の胎内のような、安心感のある温かい液体に全身を包まれていた。そしてその世界に僕は僕の全てをゆだね、あるがままに暗闇の中を横たわった。

「せら、さりし。せらせ、さら。せら、さりし。せらせ」
遠くから微かに女の子の声が聞こえてくる。その声は少しずつ僕の無意識に侵入し、ゆっくりと揺さぶっていった。だが僕はこの心地のいい無意識の海をずっと漂っていたかった。
「せら、さりし。せらせ…」
気が付くと目の前に女の子がいて、心配そうに僕の顔をじっと覗き込んでいた。我に返った時には体を包む温かい液体はもうなくなっていた。
「せら?」僕は彼女に聞いた。
目を覚ました僕を見て彼女は少し驚いたように、一瞬目を大きくした。それから一呼吸おいて、
「さりし」と彼女はうなずいた。
「それはどういう意味だい?」僕はまた尋ねた。
すると今度はとてもびっくりした顔をして、彼女は慌ててすりガラスのドアの向こうに駆け込んでいった。
僕はどうすることもできず、しばらく何も考えないで中空を眺めていた。
その女の子が再び姿を見せたのはそれから2分か3分あとのことだった。
彼女は手に何冊かのファイルをもち、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と言った。
「いるならそう言ってくださればよかったのに。奥の部屋の片付けをしていたんです。最近は本当に、あちこち散らかって大変なものだから」彼女は頬を少し赤らめて言った。
僕はまだ起き上がれずに、床に腰を下ろしたままだった。ぼんやりと彼女の顔を見つめていると、僕は強烈な既視感にかられた。遠慮がちな口元と、申し訳なさそうに潤んだ瞳。彼女の口元や瞳からは何か失いかけた繋がりのようなものが感じられ、僕の奥を波立たせた。
彼女はまるで「あわてなくてもいいんですよ」というような微笑みを湛え、僕の返答を待っているように見えた。
「一体ここはどこなんだろう。僕は船に乗っていて、人は一人も見当たらなかった。船内に入ったら中は埃っぽい古びた建物で、おまけにやっと見つけた部屋の中には君のような若い女の子がいた。僕の部屋はどこにあるんだろうか」
彼女は頭を垂れて、小さく「申し訳ございません」と言った。それから持っているファイルの一つを取り出し、いくつかページをめくり上げてからそこを読み上げるようにして言った。
「あなたは2016年の4月21日からここにやってきたようですが、そのことは覚えてらっしゃらないかも知れません。でも、どうか心配なさらないで下さい」
「実は、僕の方でも記憶がはっきりとしていないんだ。船には乗った。確かに。でもいつ何のために乗ったのかは分からない。それから不思議なことに僕は僕についてのこともほとんど覚えていない」
それを聞いた彼女はどことなく悲しげな目をして、再びファイルに目をやって言った。
「あなたは、2016年4月21日までは、教師をしていました。それから…」
僕は彼女の言葉を遮ってまくし立てた。
「教師、まさか僕が?だとしたら、それを知っている君は誰なんだろう。初対面の君に言うのはどうかと思ったけれど、正直言って僕は君からひどく懐かしさのようなものを感じている。僕は君とどこかで会ったことがあるのかい?全てが君の持つ資料にでも書いてあるとでも言うのか」
彼女はしゃがみ込んで持っているファイルを床に置くと、両手で弱々しく僕の手を取った。それから下を向いてごめんなさい、ごめんなさいと何度もつぶやいた。僕の手には彼女の涙が伝った。しばらくすると彼女はそっと手を引いて俯いたまま目の辺りをぬぐった。ランプの明かりに照らされた彼女の頬がうっすらと光り、情緒的な黄色に染め出されていた。
「ここは多くの時間が交差する場所。私は時折ここに迷い込まれてくる人をしかるべき時間に繋ぐためだけに存在します。私は生まれたときからそういう存在だったのです。ですが、あなたがここにやって来たのは私のせいかもしれないのです」
彼女はファイルから一枚のシートを抜き出し、シートの左隅をそっと指さした。そこには黒いインクで20160421×と書かれてあった。
「すみません、奥の部屋へついてきてもらえませんか」と彼女は言った。
彼女はカウンタ―の中へ僕を促し、古い大きな柱時計の長針を指でクルクルと回し数回転させたのち、今度はゆっくりと両手を使って慎重に短針を調節した。柱時計のふたをしめると、パタンと乾いた音が部屋に響いた。それからすりガラスのドアを開けて中に入り、白熱電灯のスイッチを入れて中へと手招きした。それに僕も続いた。
その部屋は前の部屋の半分くらいの広さで、壁にはずらりとスチールの5段の棚がいくつも並べられ、棚の至る所にはびっしりと小さな置時計が置かれていた。どの時計も時を刻んではいない。まるで安らかな眠りについているかのように静かに佇んでいた。
ドアの傍には重厚な木製の机と一脚の椅子があった。机の上にも同じような置時計がいくつも乱雑に置かれたままになっており、そのそばには油のしみ込んだクロスが几帳面に畳まれていた。
部屋そのものは手入れが行き届いており、棚の隅々まで埃一つ無いように見えた。
彼女は部屋の中ほどの棚から、一つの置時計を取り出してじっと見つめてから、僕に言った。
「これが、あなたの時間の影です」

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