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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの山口県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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山口県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

毛利輝元の墓、吉田松陰の墓、高杉晋作の墓、久坂玄瑞の墓、
東光寺(毛利家墓所)、吉川家墓所、

コメント(30)

長門市の曹洞宗瑞雲山大寧寺にあるお墓です。

左;周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前六箇国守護大内義隆(1507〜51)〔山口県指定史跡〕
中;関東管領上杉憲実(1410〜66)
右;長門守護代鷲頭弘忠(ワシヅヒロタダ;?〜1448)
童謡詩人金子みすゞ(1903〜30)のお墓です。長門市仙崎の浄土真宗大林山遍照寺にあります。
山口県のお墓はかなりストックがありますので久しぶりに投稿させていただきます。

左・高杉晋作墓(下関市東行庵)
中・高杉晋作墓(萩市)
右・久坂玄瑞墓(萩市)
上の続き

左・吉田松陰墓(萩市)
中・玉木文之進墓(萩市)→吉田松陰の師です。
右・大村益次郎墓(鋳銭司)

殿様系の墓はやめておきます。
すいません、写真はないですが、瑠璃光寺に幕末の毛利公のお墓はがあったのを見ました。
すみません。功山寺に幕末の志士たちのお墓がたくさんありますし 伊藤九三のお墓が 下関市にあります。
文化の日に萩の重要伝統的建造物群保存地区の堀内地区を散策していて見つけた毛利輝元の墓です。関ヶ原の西軍総大将に祭り上げられ大減封を受けました。
下関の綾羅木に中山神社があります。明治天皇の叔父にあたる中山忠光が祭られれてる場所で
自分は隣に併設される愛新覚羅社に行きました。
ここにはラストエンペラー溥儀の弟愛新覚羅溥傑さんと彼のもとに嫁いだ嵯峨公爵家浩さん、二人の長女慧生さんが共に眠っています。
なぜ中山神社に併設されてるかというと中山神社に祭られてる中山秀光が尊王攘夷運動で幕府に暗殺される前に
妾にとの間にできた仲子が嵯峨家に嫁いでその仲子と嵯峨公勝の孫にあたるのが嵯峨浩さんだったかららしいです。
浩さんと溥傑さんは政略結婚でありながら深く愛しあい戦後離れ離れになっても互いを思い続けて約10年の時を経て再開し北京で暮らしたことから
愛新覚羅の「愛」と大きく書かれたお守りは恋愛成就に効くとかって言われてます。
・上杉憲実の墓

・所在→長門市深川湯本門前1074(大寧寺)


〜コメント〜

関東管領・上杉憲実の墓。関東管領は室町幕府の出先機関である鎌倉府において鎌倉(関東)

公方を補佐する要職であるが、歴代の鎌倉(関東)公方は将軍家に対する自立心が強く、

幕府に対して兵を起こそうとしたことすらもあった。関東管領は鎌倉(関東)公方に従う

存在であるが、その任命は形の上では将軍が行うこととなっており、上杉家は将軍家の配下

でもあった。このため歴代の関東管領は将軍と公方の間に立って苦労する宿命にあった。

憲実が仕えた足利持氏は籤引きで足利義教が第6代将軍に就任すると徹底的に対立するよう

になり、正長2(1429)年に京都で改元が行われてもこれに従わず、永享6(1434)

年には「呪詛怨敵」と打倒義教の意を込めたとされる血書の願文を鶴岡八幡宮に奉納して

いる。永享8(1436)年には幕府の分国である信濃国の内部抗争に持氏が出兵しよう

としこれを諌めたが、強硬に兵を出したため、憲実はやむなく自らの兵をもって鎌倉府軍の

信濃国侵入を阻止するなど粉骨砕身して幕府と鎌倉府の確執の調停に奔走した。しかしながら

永享10(1438)年に持氏の嫡子・賢王丸の元服に際し、慣例に従い将軍の一字拝領を

賜るよう憲実が進言するものの、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、さらには

自身が暗殺されるとの風説が流れると、憲実は「身に於て誤りなくして御旗を向けられ、

御敵分に成て討れん事、不忠之至り末代迄の瑕瑾也」と自害しようとしたが近臣に阻まれた。

その後、鎌倉を脱出し上野に逃れると、持氏は憲実追討のために兵を起した。これを絶好の

好機とした幕府はすぐさまに持氏討伐軍を下し持氏を降伏させた(永享の乱)。この時、

憲実は持氏の助命を嘆願するも許されず、心ならずも持氏を死に至らしめることになった。

乱後、憲実は主人を死に追い込んだ後悔の念から出家して伊豆に隠退した。永享12(1440)

年に持氏の遺児、春王丸・安王丸を擁した持氏方残党が常陸国で挙兵(結城合戦)すると

幕府の強請により、憲実は鎌倉府に復帰した。結城合戦後も憲実が関東の政界に在ることが

京都と鎌倉の無事を保つ道であると考えた幕府の執拗な引き止め工作により、文安4(1447)

年まで関東の政界にあった憲実だが、関東管領就任を拒み続ける憲実に代わり、嫡子の憲忠が

関管領に就任すると憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。(後年、憲実の危惧通り、

憲実を親の仇だと考えていた足利成氏は享徳3(1454年)に憲忠を暗殺して、享徳の

乱が引き起こることとなる)これを機に鎌倉を去り、政界を退いた憲実は僧となって諸国を

放浪した。翌年には傘をかぶり、わらじを履いて独りで歩いている憲実が、主・持氏に

そむいた謝罪の行脚であると他人に語ったという記録が残されている。晩年の14年間は

長門の大寧寺に入り、同寺で亡くなった。憲実は文武ともにすぐれ、儒学に篤く、足利学校や

金沢文庫を再興したことでも有名な当代一流の知識人としても名望厚かった人物でもある。
・安徳天皇陵(阿弥陀寺陵)

・所在→山口県下関市阿弥陀寺町


〜コメント〜

安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。

安徳天皇は平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年

にはわずか三歳で父・高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年

清盛が死ぬと各地で平家追討の動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の

入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。

すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、天皇が二人立つという異常事態となった。

以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々としたが、文治元(1185)年、源平

合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門と運命を共にし、海中に

没して亡くなったとされている。尚、安徳天皇の亡骸は関門海峡の支流である小門

海峡に流れ着き、中島四郎太夫(元平家の武将)の海網に掛かって引き上げられ、

その後、関門海峡に臨む阿弥陀寺境内(現・赤間神宮)に葬られたという伝承が

残されていたことなどから、この阿弥陀寺陵が明治20(1889)年7月25日に

安徳天皇陵として正式に治定された。しかしながら、実は安徳天皇は壇ノ浦から

密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本には各地に残されていて、

全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。
・安徳天皇陵(西市陵墓参考地)

・所在→山口県下関市豊田町地吉


〜コメント〜

安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。

安徳天皇は平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年

にはわずか三歳で父・高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年

清盛が死ぬと各地で平家追討の動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の

入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。

すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、天皇が二人立つという異常事態となった。

以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々としたが、文治元(1185)年、源平

合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門と運命を共にし、海中に

没して亡くなったとされている。しかしながら、『醍醐雑事記』に「先帝行方不明」

とあり、『玉葉』でも「旧主御事、分明せず」とされていることなどから、実は安徳天皇は

壇ノ浦から密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本の各地に残されていて、

全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。ここ地吉に伝わる

伝承によると、壇ノ浦の戦い後に三種の神器を懸命に探す源義経が、壇ノ浦近隣の漁師や

海女を動員して大捜索を実施したところ、大津郡三隅町沢江浦の網引き漁師の弥吉と

甚兵衛の底引き網に安徳天皇の亡骸が掛かった。しかしながら、宝剣は不明であり、

源氏方は亡骸を網のまま御棺に移し漁師とともに運んでいると、この場所で籠が動かなく

なったため、この地に安徳天皇を埋葬したと伝えられている。尚、この籠が動かなく

なった場所を「御籠立場」といい、網を掛けた場所は「網掛けの森」と呼ばれている。

また、網を洗った池では烏賊が生き返り、淵の深みに入っていった言われていることから

「烏賊ヶ淵」と呼ばれていて、さらに安徳天皇の御衣の穢れを洗い清めた池は「御衣

洗い池」と呼ばれている。この御陵では昭和55(1980)年の木津川ダム建設が終わる

までは、例年4月24日にダム建設により水没した七十軒の人々により「先帝祭」が

執り行われてきたという。詩吟や舞が奉納され、にぎやかな神事であったといわれている。
 周防・長門・豊前・筑前守護大内政弘(1446〜95)墓

 室町幕府周防・長門・豊前・筑前・肥前守護大内教弘(1420〜65)の子で、周防・長門・豊前・筑前守護を継承し、大内から山口へと正式に本拠地を移転させました。応仁元(1467)年、応仁の乱が勃発すると、日明貿易の利権等を巡って以前から対立していた細川勝元を討つため西軍に加担し、10000人もの大軍を率いて上洛、西軍の主力部隊として活躍します。東軍方の将軍足利義政に使嗾(シソウ)された叔父の大内教幸(ノリユキ)が反旗を翻す事態も発生しましたが、周防守護代陶弘護(スエモリヒロ)の活躍で乱は鎮圧されました。
 文明9(1477)年に応仁の乱が終結すると、政弘は9代将軍足利義尚(ヨシヒサ)から周防・長門・豊前・筑前守護職を安堵されて帰国、安芸・石見も制圧して領国を拡大する一方、分国法の大内氏壁書を制定して家臣の山口集住を義務付け、周防知行国主の東大寺からの国衙領押領にも成功して、専制的領国支配体制を確立しましたが、明応3(1494)年に病気のため嫡男義興に家督を譲り、翌年、死去しました。菩提寺は浄土真宗法泉寺です。
 法泉寺は、応永年間(1394〜1427)に周防守護大内盛見(モリハル;1377〜1431)が創建した寺院で、天文20(1551)年に周防守護代の陶晴賢(スエハルカタ)が突如謀叛を起こした際、政弘の孫の従二位兵部卿兼大宰大弐(ダザイノダイニ)大内義隆はここに拠って抗戦しようとしましたが、10000人近い陶軍に対し、義隆軍は3000人に満たず、しかも逃亡兵が続出したため、結局、義隆は抗戦を断念して長門国へ逃亡、自刃を余儀無くされたのです。その後、法泉寺は現在の宇部市小野へ移転したため、跡地は山林に戻り、政弘の墓だけが山中に取り残されています。
 山口市の帝國陸軍西桜畠墓地にある寺内伯爵親子の墓です。

左;寺内正毅伯爵元帥(1852〜1919)
 陸軍教育総監・参謀次長・陸軍大臣・韓国統監・朝鮮総督・内閣総理大臣等を歴任。
右;寺内寿一伯爵元帥(1879〜1946)
 台湾軍司令官・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・南方総軍総司令官等を歴任。
 山口市にある妙喜寺殿の墓です。石見守護山名熙貴(ヒロタカ)の娘で、山名宗全の養女となって大内教弘へ嫁ぎ、政弘を産みました。
 臨済宗東福寺派香山常栄寺の雪舟庭〔史跡〕〔名勝〕にあります。
 山口市の曹洞宗豊国山俊龍寺にある関白太政大臣豊臣秀吉供養塔〔山口市指定文化財〕です。
 慶長3(1598)年8月18日、太閤豊臣秀吉が伏見城で63歳の生涯を閉じると、豊臣五大老の一人である権中納言毛利輝元は、その冥福を祈るために家臣柳沢元政に秀吉廟の建立を命じました。元政は公家出身で、足利義晴・義輝・義昭の歴代将軍に仕え、天正元(1573)年に足利義昭が京都から追われて備後国鞆(トモ)の浦へ移ると同行し、毛利輝元の家臣となりました。天正20(1592)年には秀吉の直臣に抜擢されて従五位下監物(ケンモツ)に叙任されましたが、秀吉の死と共に輝元の家臣に復帰しています。
 元政はこの地にあった献珠院を位牌所とし、かねて秀吉から拝領の鎧を納めて墳墓を築き、寺号は秀吉の法名「国泰寺殿雲山俊龍大居士」に由来する俊龍寺と改め、山号も豊国山としたのです。
 更に、元政は秀吉供養塔と並んで、足利義輝・義昭兄弟と、その母の慶寿院の供養塔も建立しています。
 秀吉の死の前年は足利義輝と慶寿院の三十三回忌に当たり、義昭もこの年に没している事から、元政の旧主義輝・義昭等の供養も行って供養塔を建てたと推定されています。

左;慶寿院(関白太政大臣近衛尚通の娘 足利義輝・義昭生母)
中;室町幕府第15代将軍権大納言足利義昭
右;室町幕府第13代将軍参議足利義輝
 山口市の曹洞宗保寧山瑠璃光寺にある長州藩主の香山墓所です。

左;権大納言毛利敬親公爵(1819〜71)墓
中;参議毛利元徳公爵(1839〜96)墓
右;毛利元昭(モトアキラ)公爵(1865〜1938)墓
 同じく香山墓所の毛利敬親夫人都美子(1833〜1913)の墓です。
 山口市の大内館跡に建つ曹洞宗瑞雲山龍福寺にある従二位兵部卿大内義隆(1507〜51)供養塔と辞世の日です。
 「討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電応作如是観(ニョロヤクニョデンオウサニョゼカン)」
 最後の部分は禅で用いられる表現で、「人の一生は、露のごとく雷のごとく儚いものだ。まさにそう覚悟するべきである」の意です。
 山口市にある錦小路頼徳(ニシキコウジヨリノリ;1835〜64)墓〔山口市指定史跡〕です。
 頼徳は正三位唐橋在久(カラハシアリヒサ;1809〜50)の子で、錦小路頼易(ヨリヤス)の養子となって従四位上右馬頭(ウマノカミ)に任ぜられました。安政5(1858)年3月、日米修好通商条約撤回を求める廷臣八十八卿列参に加わり、朝権回復に尽力したため孝明天皇の信任を獲得、文久3(1863)年2月には国事寄人(コクジヨリウド)に補せられました。
 同年3月に孝明天皇が攘夷祈願のため石清水八幡宮へ行幸した際にも随従、権中納言三条実美(サンジョウサネトミ)等と共に攘夷親征・大和行幸を企図しましたが、同年8月18日の政変で失脚,三条実美・三条西季知(サンジョウニシスエトモ)・東久世通禧(ヒガシクゼミチトミ)・壬生基修(ミブモトオサ)・四条隆謌(シジョウタカウタ)・沢宜嘉(サワノブヨシ)と共に長州へ下りました。世にいう七卿落(シチキョウオチ)です。七人は当初、三田尻御茶屋内の招賢閣に滞在していましたが、沢宣嘉が播磨国生野(イクノ)での挙兵のため脱走してしまったため、残りの六卿は関所で厳重に出入りを取り締まっている山口の地へと移される事が決定、三条実美は湯田の草刈屋敷に、他の五卿は大内の氷上(ヒカミ)山真光院に住む事となりました。
 頼徳は元治元(1864)年3月の下関視察の際に倒れ、宿泊先の白石正一郎宅で4月25日に没してしまいました。享年30。
 辞世は「君がため すてむ命の いたづらに 露と消へゆく ことをしぞ思ふ」です。
 遺骸は元治元年5月8日、湯田にある龍泉寺に運ばれ、葬儀の後、赤妻山へ葬られました。王政復古時に官位を復され、明治3(1870)年に正四位を追贈されています。
 七卿の中で唯一京へ戻れなかった頼徳を憐れんだ太政大臣三条実美公爵等の尽力で、明治18(1885)年に頼徳一人を祀るために墓に隣接して官祭招魂社が創建され、昭和15(1940)年に朝妻護国神社に改称されましたが、昭和22(1947)年に至ってGHQの指令で赤妻神社と再改称されています。
 昭和時代末期の宅地造成に伴って赤妻山は平地となり、墓と社殿は現在地へ移設されました。
 山口市にある大内氏菩提寺の臨済宗南禅寺派南明山乗福寺です。

 左;琳聖太子供養塔です。百済の聖明王第三王子で、推古天皇19(611)年に周防国多々良浜へ上陸、聖徳太子から多々良姓と共に領地として大内県(オオウチノアガタ)を賜ったとされています。 大内氏の遠祖です。
 中;周防権介大内重弘(?〜1320)の墓です。鎌倉幕府御家人の身分も兼ね、幕府評定衆も務めました。周防を知行国(寺社造営領国)とする東大寺による国衙領押領に対抗して抗争した事で知られ、熱心な五山派臨済宗信者でもありました。
 右;周防権介大内弘世(1325〜80)の墓です。重弘の孫で、南朝に与して周防・長門守護に任じられましたが、正平17(1363)年に足利方へ寝返っています。この間、正平15(1360)年に本拠を大内から西方の山口へ移転したとされていましたが、現在では本拠の山口移転は15世紀後半の政弘時代だったと考えられています。
 乗福寺にある上田鳳陽(1769〜1854)の墓です。
 長州藩下級藩士の子として大内氷上(オオウチヒカミ)で生まれましたが、萩の藩校明倫館で儒学・国学を修めて名を挙げ、文化12(1815)年に学問所として山口講堂を開設しました。これが現在の山口大学の淵源です。
 山口市の臨済宗東福寺派萬松山正護寺にある北川清助(1826〜1902)墓です。
 江戸時代の長州藩は各地に宰判(サイバン)と呼ばれる郡役所を置いていましたが、最後の小郡宰判は陶村在住の北川清助でした。清助は大島郡の生まれでしたが、陶村在住の北川半右衛門の養子となり、西洋砲術等を学んだ後、元治元(1864)年から小郡宰判を務め、農兵隊の組織も行いました。幕末の動乱期、小郡は清助の善政のお陰で平穏を保てたと評価されています。明治2(1869)年に清助は任を解かれて陶村ヘ戻り、以後は山羊の放牧を取り入れた多角農業を行って悠々自適の生活を送ります。
 山口市にある大村益次郎(1824〜69)の墓です。
 狂信的攘夷論者に襲撃され、明治2(1869)年11月5日に大阪の病院で死亡した従四位兵部大輔(ヒョウブタイユウ)大村益次郎の遺骸は船で周防国三田尻へ運ばれました。11月13日、明治天皇は益次郎に従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下されています。遺骸は妻の琴子によって三田尻港から郷里の鋳銭司村へ運ばれ、11月20日に葬儀が営まれました。
 墓所は自宅近くに設けられ、花崗岩の墓石には正面に「故兵部大輔贈従三位大村永敏墓」とあり、側面には「明治二年己巳十一月五日逝」と刻まれています。墓石の高さは136cmで、地表からの高さは188cmになります。
 並んで妻の大村琴子(1833〜1905)の墓があり、墓の後方に明治11(1878)年建立の神道碑があります。

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