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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの愛知県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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愛知県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

花岳寺(東条吉良家菩提寺)、華蔵寺(高家吉良家菩提寺)
実相寺(西条吉良家菩提寺)、清水一学の墓、
斎藤清左衛門の墓、今川了俊の墓、源義朝の墓、織田信孝の墓、
平康頼の墓、鎌田政家の墓、池ノ禅尼の塚、徳川宗春の墓、

コメント(25)

岡崎の大樹寺には初代松平親氏から家康に至るまでの松平氏歴代の墓が並んでいます。家康の墓はとってつけたみたいでちょっとやな感じですけど。

大樹寺には慶喜を除く歴代徳川将軍の位牌もあるので、拝観もお薦めですよ。重文の多宝塔は只で見ることができます。
斎藤清左衛門の墓

・所在→愛知県幡豆郡吉良町大字岡山字山王山(花岳寺)


〜コメント〜

斎藤清左衛門は吉良上野介義央の家臣で、赤穂浪士による

元禄事件(吉良邸討ち入り)により元禄15年12月15日

未明に忠死し、ここに葬られた。しかしその後、仮名手本忠臣蔵

などの流布によって「吉良憎し」の風潮が高まったせいか、

戒名の部分が削り落とされている。家臣にまで及んだいわれなき

曲評を憚ってのことであろうか。
生駒吉乃のお墓です。(写真一番右が吉乃のお墓)

所在:江南市小折町

吉乃は、織田信長の側室であり、嫡子信忠、信雄、徳姫の母です。
吉乃に関しては「前野家文書」によるものが多いのですが、この史書は、研究者によっては、あまり評価されていないようです。
蟹江町にある新選組隊士 佐野七五三之助(しめのすけ)の墓です。
所在地:蟹江町須成西
七五三之助は 慶應元年新選組が幕府に取立られたことに抗議(伊東甲子太郎派だった)同士数名と脱隊を会津藩邸に陳述 受け入れられず切腹(暗殺説も)
墓は最初光縁寺に葬られたが同士が戒光寺に改葬→明治時代遺族により分骨され故郷に
因みに彼の甥(妹の子)は 総理大臣加藤高明
・源義朝の墓

・所在→愛知県美浜町大字野間字東畠50(大御堂寺(野間大坊))


〜コメント〜

源氏の総帥左馬頭源義朝は平治の乱で平家に敗れ、東国を目指して

落ち延びる途中、尾張国知多郡野間内海荘で相伝の家人である

長田忠致のもとに身を寄せましたが、恩賞に眼が眩んだ長田忠致・

景致親子に、入浴をすすめられ油断をさせられたところを、だまし

討たれました。その時に、「我に木太刀の一本なりともあらば、

かかる不覚はとらじ(むざむざ討たれはせんものを)」と悲痛な

一言を残したとの故事にちなみ、その慰霊のために木太刀を献ずる

習わしができて今でもおびただしい数の木太刀が奉納され、山の

ように積まれています。
・織田信孝の墓

・所在→愛知県美浜町大字野間字東畠50(大御堂寺(野間大坊))


〜コメント〜

織田信孝は織田信長の三男で、本能寺の変で信長が討たれた後、秀吉と

ともに山崎の戦いに総大将として参戦し、仇である明智光秀を倒し、

見事に父の無念を晴らしましたが、清洲会議では秀吉に主導権を握られて

しまい、信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、織田家の

後継者は甥の三法師に決まりました。その後、信長が本能寺の変で

倒れたことをよいことにそれまで信長に受けた恩を忘れ、天下取りを

目指した日本史上最大級の大逆臣豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に憤慨し、

織田家宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、三法師を擁し秀吉に対して

挙兵するも、秀吉の迅速な行動により、降伏せざるを得なくなり、

この時秀吉は信孝の母と娘(秀吉にとってはついこの間までの主君

信長の妻と孫)を人質に取るという前代未聞の不埒な行動を行いました。

そして、賤ヶ岳の戦いが起き、再度信孝が反秀吉の兵を挙げた時に秀吉は

人質の信孝の母と娘、つまり旧主信長の妻と孫を何の迷いもなく無残にも

磔にして処刑するという大蛮行をやってのけます。 結局、信孝も頼みの

柴田勝家が北の庄城で秀吉に滅ぼされると、信孝一人では抗し難く再び

降伏をしますが、今回は許されず尾張国知多郡野間内海荘の大御堂寺

(野間大坊、平安時代末に源頼朝の父、源義朝が家臣に裏切られて暗殺

された場所)に送られ、自害をして果てました。その時に信孝は


昔より 主(あるじ)内海(討つ身)の 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前

という辞世の句を残しました。(「内海」は「討つ身」とかけています。)


「現代語訳」

この内海の野間の地は、平治の昔、主人源義朝が家来の長田忠致の卑劣な

裏切り行為によって殺された場所だが、長田忠致が結局非業の最期を遂げた

ようにお前にも必ず天罰が下り「主人殺し」の報いを受ける日がくるだろう。

古来よりそうして主君を討った逆臣は永くは続かん、報いを待つが良い、

羽柴筑前よ。


〜すざましいまでの信孝の怒りと無念の気持ちが伝わってきます。美しく

ないかもしれませんが、心を「強く」そして「激しく」打つものがあります〜
・徳川宗春の墓

・所在→愛知県名古屋市千種区平和公園3丁目


〜コメント〜

徳川宗春の墓。宗春は元禄9(1696)年尾張藩主第3代藩主・徳川綱誠の

20番目の男子として名古屋城で生まれた。奥州梁川3万石の領主となるが、

吉宗との間での8代将軍継承問題で敗れた兄・継友が享保15(1730)年に

急死したため、梁川の領地を返上し、尾張徳川家を相続する。時は江戸時代

半ば、徳川吉宗が進める「享保の改革」の倹約政策により、商いは活力を失い、

徹底した規制で庶民は苦しんでいた。宗春は就任直後に「温知政要」を著し、

行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめ、消費こそが経済の活性化につながる

などと主張し、吉宗の掲げる質素倹約を基本方針とする享保の改革とは正反対の

立場を鮮明にした。宗春は、吉宗とは反対に、娯楽や祭りなどの楽しみを増やし、

庶民の活気を引き出すことで、町の繁栄を築こうとする。城下に芝居小屋や遊郭を

誘致するなど開放政策を採り、倹約令で火が消えた街は活況を呈するようになり

その結果、名古屋は発展し、江戸、大坂、京都に次ぐ都会へと成長した。

しかし、それは幕府の方針とは相いれないものだった。吉宗は使者を送って宗春を

詰問、その際に宗春は「いくら上に立つ者が倹約を叫んでも、その結果、幕府の

金庫にお金がたまるだけで民衆が苦しむ状況が続くなら、これは本当の倹約とは

言えません。私は華美な生活をしているように見えますが、それによって世間に

お金が回り、実は民の助けとなっているのです。事実、町人には負担をかけず、

農民の年貢も増やしていません。民とともに世を楽しむ。こうした私のやり方

こそ、本当の倹約といえるのです」と反論した。しかしながら、結局、宗春の

やり方は藩重臣との対立を招き、規制緩和による風紀の乱れ、藩の借金増など

マイナス面も噴出。支出を続けた財政は悪化、歓楽地なども縮小し、農民・

商人に上納金の割り当てを命じ、民衆の人気を失った宗春に対し幕閣は失脚を

画策、元文4(1739)年、宗春は吉宗から蟄居謹慎を命ぜられた。

宗春への処分は厳しかった。明和元(1764)年に69歳で亡くなったが、

墓石にはなんと金網がかけられたという。問題の金網は没後75年に名誉

回復がなされ、撤去されたが、現在大きな墓石には大戦中の焼夷(しょうい)

弾の跡が生々しく残っている。
・吉良上野介義央の墓

・所在→愛知県吉良町岡山山王山58(華蔵寺)


〜コメント〜

忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の墓。吉良氏は足利将軍家の支族で「御所

(足利将軍家)が絶ゆなば吉良が継ぐ」といわれた名門中の名門で、江戸

時代には代々高家筆頭として朝廷と幕府の間の諸儀式をつかさどった。

天和3(1683)年に高家衆の指導役として高家肝煎の職が設けられると

義央はこの役に就き、幕府の中心において儀典礼法を主導し、朝廷外交の

中心的役割を担ったが、元禄14(1701)年3月14日江戸城中で勅使

接待の事務執行中に赤穂藩主浅野内匠頭長矩に斬りつけられて負傷し、

同年隠居した。翌元禄15(1702)年12月15日に切腹、改易の処分を

受けた浅野内匠頭長矩の旧臣大石内蔵助良雄ら赤穂浪士の襲撃を受け

殺害された。尚、この元禄赤穂事件の発端となった殿中刃傷の原因は

不明であり、切腹、改易となった浅野内匠頭長矩への同情が集まり、

さらに翌年の赤穂浪士討入事件は泰平に衰えがちであった武士道の鑑

として世の人を感動させた。これが芝居の格好の題材となり、やがて

不動の名声をはくした『仮名手本忠臣蔵』が完成すると、仇役として登場する

吉良上野介義央は強欲非道で冷酷、悪人の極みとして喧伝された。しかし

ながら、これらの悪人像は文芸の世界でのことであり、知行地の三河国

吉良荘では築堤や新田開発などを行った名君とうたわれ、文雅の士でも

あったと伝えられている。
蒲郡市内のお墓です。

左;お妙塚
 形原(カタノハラ)城二の曲輪にあります。お妙は形原城主松平家忠の嫡男家信の乳母で、天正5(1577)年、13歳の家信が北条氏政の刺客明鳥佐馬之助に襲われた際、身を以って庇い、家信を救いました。

中;徳川家康の母於大の方の再婚相手である上之郷城主久松松平俊勝(1526〜87)の墓です。浄土宗西山深草派楠林山和合院安楽寺にあります。

右;竹谷(タケノヤ)城主竹谷松平家の守家・守親・親善(1485〜1531)・清善(1505〜87)の四代の墓〔蒲郡市指定史跡〕です。
法華宗陣門流正禱山長存寺
左;下之郷城主鵜殿氏の長存・玄長・仙巌の三代の墓
中;医師・本草(ホンゾウ)学者・儒学者として名を上げた加藤謙斎(1670〜1724)の墓〔蒲郡市指定文化財〕

曹洞宗龍田山長泉寺
右;初代三河守護安達藤九郎盛長(1135〜1200)の墓
場所はもうわからないんですが昔学校行く途中近道しようと思ったら道に迷い政秀寺墓域に出たことがあります
時間がなかったのでお墓までは探していませんが…
・一色範光の墓

・所在→愛知県知多市岡田太郎坊108−1(慈雲寺)


〜コメント〜

一色範光の墓。範光は九州探題として九州経略にあたっていた父・範氏、兄・直氏を助け、

九州各地を転戦して南朝方および直冬党と戦ったが、結局何ら成果をあげることなく、

逆に懐良親王の率いる征西府に九州の拠点である大宰府を制圧されて帰京する有様だった。

九州探題として在任約20年にも関わらず、何ら成果をあげることなく太宰府陥落という

大失態をおかした一色範氏・直氏父子はこれを恥じて隠退したのか、以後、どのような

資料にも名は見られなくなり、一色氏は逼塞することを余儀なくされた。しかしながら、

貞治5(1366)年8月に斯波高経が失脚して若狭守護を解かれると、その後任として

範光が若狭守護に任じられた。若狭は伝統的に国人の独立性が強く、一色氏の支配に

頑強に抵抗してきたが、範光は総力を挙げて遂にこれを鎮圧、支配を貫徹することに

成功し、若狭に初めて本格的な守護支配体制を確立し、のちには三河守護にも任じられる

など四職の一角として一色氏の繁栄の基礎を築いた。尚、墓石は風化が進んでおり表層面は

ボロボロで今にも剥がれそうになっていた。
愛知県安城市にある。

本多忠高公(忠勝公父)のお墓です。

織田方に奪われた安祥城を奪い返す為、戦い落城しますが、奮戦虚しく討ち死にしてしまいます。

亀の台座は、徳川に貢献した者にしか赦されない物だそうです。


瀬戸市の「定光寺」尾張初代藩主徳川義直公(源敬公)廟を訪れました。

天気は雨、オマケに夕方ということもあり、性能の低いコンパクトカメラでは精一杯の画質です。

尾張徳川家初代藩主で、家康公の子供と言うこともあり、とても立派な廟所でした。

門や拝殿などは装飾を保護するため覆いが施されているが、部分的に観られる様にも配慮されている。

墓所は柵で囲われた区域に円墳が築かれ、その上に墓碑が設けられている。

一段下がった拝殿の右側には殉死者の墓域もあり、これもとても立派な墓所でした。
岡崎市にある「松應寺」、徳川家康の父、松平広忠の本墓です。

岡崎城主松平広忠は岡崎城中で家臣に暗殺され、その遺体が「松應寺」のある場所に埋葬されたとされ、後に徳川家康が三河に戻り岡崎城主に復帰した折に一寺を建立し、父の墓所に松を植えたことで「松應寺」とされたという。

松平広忠の墓所と言われるところは岡崎市内を初めとして数カ所あるが、江戸時代に入り、家康の他、秀忠、家光もこの墓所を参詣していることから、どうやらこの「松應寺」の墓所が本墓のようである。

今は、朽ちた土塀に囲われた土盛りがあるだけであるが、恐らく、徳川家によって廟所として土塀の囲い、霊廟などが設けられていたと思われるが、明治以降徳川家関連施設として冷遇を受けて、寂れていったと思われる。

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