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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの滋賀県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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滋賀県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

源義光(新羅三郎義光)の墓、木曽義仲の墓、松尾芭蕉の墓、
巴塚、清滝寺(京極(佐々木)氏菩提寺、佐々木道誉の墓他)、
北条仲時および従士432名の墓、京極氏一族の墓、
武田元明の墓、徳勝寺(浅井氏歴代(亮政、久政、長政)の墓)、
羽柴秀勝の墓、北畠具行の墓、弘文天皇陵、森可成の墓、
土肥元頼の墓、佐々木道誉の墓、妙応寺(最上氏菩提寺)

コメント(35)

源義家の弟、新羅三郎義光の墓は三井寺(園城寺)の新羅善神堂(国宝)の近くにあります。

安土城跡には織田信長の廟所。

坂本の西教寺には明智光秀の墓。
お墓ではないんですが、供養塔です。石山寺の源頼朝と亀ヶ谷禅尼のものです。何故石山寺にあるのか不明なんですが・・・
それから、膳所の義仲寺にある源(木曽)義仲墓(写真右)です。
米原の蓮華寺には、六波羅探題北条仲時と、彼につきしたがって自害したひとびとのお墓があります。
とても人望のあったらしい彼にふさわしく、とても穏やかな雰囲気のお寺だと思いました。
>ねむりねずみ様へ…

私もその蓮華寺の北条仲時の墓所に詣でた事あります。

源頼朝が確立した初めての武家政権の鎌倉幕府も終焉の頃,
京都が後醍醐天皇を擁する軍に占領され,
もはやこれまでと時の六波羅探題の北条仲時が,
時の鎌倉側が擁立した帝を引き連れ,
京都を捨て,本拠地の鎌倉に東下向する途中,
その東下向する道も抑えられ,
挟み撃ちになってしまった仲時が,潔く自害した場所であり,
その従った家来らの旬死者の数は400名は越えたそうで,
寺の境内はあたり一面,血の海だったそうです。

仲時も享年まだ20代半ばだったはずです。
仲時は歴史の敗者の立場ながら,
又前・鎌倉執権の北条高時の当時の評判は芳しくなかったのに,
この京都での責任者である探題の仲時は情に厚い人物で
評判が良かった様です。

境内には沢山の北条軍の五輪塔が並び壮観です。
又寺の資料館には,その仲時らと殉死した人物らの名前を
1人1人列記した当時の過去帳があり,重文に指定されてます。
殉死した人物の中には,当時10代の少年武士も居たそうですよ。

ねむりねずみさん,今度蓮花寺の資料館覗いてみると良いですよ。

滋賀には意外に著名な人物でありながら,
隠された穴場的存在のお墓が多いです
大阪からだとすぐ行けて羨ましいですね。
東京からだと遠いです
>額田王さま
コメントありがとうございます。蓮華寺は十年以上前に行ったきりなんです。源平や鎌倉辺りの時代が好きなので、仲時のお墓をみたい!と思って行きました。資料館があるのは気づかなかったので、次行くときは見てみたいです。
ありがとうございました。
【墓名】京極家墓所
【場所】滋賀県米原市清滝 清滝寺徳源院
【地図】http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.34186967184999&lon=136.3904763706433&sc=4&mode=map&type=scroll

管理人さんも訪問されたという京極家墓所です。静かなたたずまいのお寺の裏に立派な一族の墓がずらっと並んでいます。佐々木源氏の血をひく、これぞ名門って感じをひしひしと受けます。

拝観料300円の箱が、無人のくぐり戸にあります。

またここは柏原城のあったところでもあり、寺院の前の石垣に碑があります。
【墓名】佐々木道誉の墓
【場所】滋賀県犬上郡甲良町 勝楽寺
【地図】http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.191152911166135&lon=136.2913944274064&sc=3&mode=map&type=scroll

前記に関連して、佐々木道誉のお墓です。
佐々木高氏。1296〜1373年。鎌倉末から南北朝時代の武将。足利尊氏に伴い、室町幕府成立に尽力。近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津などの守護を歴任し、権勢を誇り、京極家の地位を確立した。
すごい人なんですねぇ〜。

なお寺の背後の山は勝楽寺城です。比高150m。眺望がいいですよ。
左・中;木曽義仲の重臣今井四郎兼平墓〔大津市指定史跡〕
右;膳所藩主本多家菩提寺浄土宗梅香山縁心寺 墓は非公開

源頼朝とその側室亀の前の供養塔〔重要文化財〕
大津市 東寺真言宗大本山石光山石山寺


藤原秀郷に退治された三上山の大百足供養塔
大津市 浄土宗龍光山秀郷院雲住寺
【墓名】毛受勝助
【場所】余呉町

私の先祖になります。
柴田勝家を北ノ庄へ逃がすために身代わりになり亡くなりました。

愛知県尾張旭市に銅像もあります。

何かついでがありましたら、いらっしゃって下さい。
安土城跡にある織田信雄公四代の供養塔です。

二代 高長  三代 長頼  四代 信武  初代 信雄
最後の六波羅探題、北条仲時公と他413名の墓です。
因みにこの墓のある蓮華寺は天皇を連れて鎌倉まで落ち延びる最中に味方であるはずの佐々木道誉の軍と京都から追撃してきた足利尊氏軍によって囲まれ全員自刃した地です。

他、彦根藩主井伊直孝の肖像画もあります。

そして蓮華寺は浄土宗の大本山の一つでもあります。
彦根藩井伊家の菩提寺清涼寺に行って来ました。

井伊直政初め歴代藩主の墓が並んでましたが誰が誰かわからなかったです。
 滋賀県草津市の青地城《http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45536743&comm_id=273468》の歴代城主墓です。
 甲賀市水口町にある姫塚です。
 徳川四天王の本多忠勝の一族の娘で、豊臣五奉行の長束正家の正室となった栄子の墓です。
・北畠具行の墓

・所在→滋賀県米原市柏原


〜コメント〜

北畠具行は後醍醐天皇の側近として、鎌倉幕府討伐を図った元弘の変の

中心人物であった。しかし、計画は失敗に終わり、幕府に捕らえられて

鎌倉に護送される途中、護送人であった京極道誉の除名嘆願も及ばす、

幕府の厳命により、元弘2(1332)年6月19日に斬首され、その

生涯を閉じた。

・源(新羅三郎)義光の墓

・所在→滋賀県大津市園城寺町


〜コメント〜

源(新羅三郎)義光は、陸奥守鎮守府将軍として前九年の役を戦い、その武勇を

天下に知られた源頼義の三男である。また、義光の兄には頼義と共に前九年の

役を戦い「天下第一の武勇の士」、「驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し」と

称えられた長男の義家と次男義綱がいる。この三人は、当時では珍しく同母の

兄弟であり、そのためか、兄弟仲がきわめてよかったというような伝説がいくつか

残されている。ちなみにこの三人は源義家、源義綱、源義光というよりも八幡太郎

義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と呼ばれることの方が多い。これは、義家が

石清水八幡宮で元服したことにちなんで八幡太郎と称し、次弟義綱が京都の賀茂

神社で元服したことにちなんで賀茂次郎を称し、三弟義光は大津園城寺(三井寺)の

新羅大明神で元服したことにちなんで新羅三郎と三兄弟すべてがそれぞれ神号を

名乗りに冠したものである。尚、義光は頼義の晩年の子で、兄の義家とは15歳

以上も歳の離れた兄弟であり、義光だけは前九年の役には加わっていない。

このため、二人の兄の武名の陰に隠れて、官途につくのはきわめて遅く、永保3年

(1083)頃にようやく左兵衛尉になったが、ちょうどその頃、後三年の役が

起こったのである。応徳3年(1086)9月のことである。しかしながら、城柵は

堅固で、なかなか落ちず、攻防を繰り返すうちにやがて冬となって大雪に降られ、

充分な攻城戦の用意が無かった義家の軍は飢えと寒さのために多くの凍死者を

出し敗北した。 翌、寛治元年(1087)兄・義家の苦境を知った義光は義家の

援軍として出陣することを朝廷に願い出るも勅許を得ることができなかったので、

やむを得ず、官職を投げ捨てて、雪深い出羽に下向し、義家の軍に参陣した。

以来、この義光のエピソードは天下の美談として永く語り継がれることとなり、

後年、源頼朝が平家打倒の兵を挙げた際に弟の義経が参陣してきた時には、

義経を義光になぞらえて、しきりに喜んだという話が吾妻鏡などにも残されている。

その後、義光は後三年の役で武功を立て、累進出世をして刑部丞となった。また、

常陸介に任じられ、佐竹郷を領して常陸北東部に勢力を伸ばし、地盤を固め、

孫の昌義の時代になり佐竹氏を名乗ることとなるのである。尚、このほかにも

武田、小笠原、南部氏なども義光の子孫である。

・松尾芭蕉の墓

・所在→滋賀県大津市馬場1−5−12(義仲寺)


〜コメント〜

日本の代表的な俳人で、俳聖と称されている松尾芭蕉の墓。芭蕉は

寛永21(1644)年に伊賀上野で生まれ、藤堂良忠の近習となり、

俳諧をたしなみ、京都の北村季吟に師事した。主君・良忠の死後は

江戸に下り、深川で芭蕉庵を結ぶと才を認められて談林派江戸宗匠と

なった。のちにそれまでの貞門・談林派の言葉遊びの滑稽趣味から

離れ、「わび」「さび」「軽み」などを根本理念とした蕉風を確立し、俳諧を

趣味の領域から芸術にまで高め、蕉門十哲はじめ、多くのすぐれた

門弟を輩出した。また日本各地を旅して「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科

紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」など多くの紀行文と名句を残し、元禄7年

(1694)年に旅先の難波の旅舎にて没した。尚、芭蕉の生前の遺言により、

遺骸は木曽義仲が眠る義仲寺に埋葬された。
・弘文天皇(大友皇子)陵

・所在→滋賀県大津市御陵町3


〜コメント〜

壬申の乱で、天智天皇の弟・大海人皇子に敗れた大友皇子(弘文天皇)の陵墓。

大友皇子(弘文天皇)は天智天皇の皇子で、天智天皇が大津京で没すると、皇位

継承をめぐって実の叔父である大海人皇子と古代最大の内乱となった壬申の乱で

争うも、敗れて自決した。(勝利した大海人皇子は飛鳥に遷都して天武天皇となった。)

尚、日本書紀には立太子や即位の記述がなく、大友皇子が皇位についたか否かに

ついては、古くから議論されてきた(学界では非即位説が有力)が、明治3(1870)

年に時の明治政府が大日本史等の主張をいれて正式に天皇と認め弘文天皇と追諡

された。また陵墓についても、それからすぐに長等山麓にあった亀丘と呼ばれていた

古墳が陵墓に選定され、死地である「山前」の名をとって長等山前陵と命名され、

現在にいたっている。しかしながら、この古墳はまったく年代があわず、弘文天皇

陵が大友皇子の墓であるとはいえないとのことである。
・最上家墓所

・所在→滋賀県東近江市尻無町908(妙応寺)


〜コメント〜

最上氏は足利一族で、室町時代には三管領に名を連ねた斯波氏の支族で、

代々羽州探題に任じられた名門である。最上氏は戦国時代に足利将軍家を

はじめとする足利一門 (斯波・畠山・細川・一色・大崎・渋川・吉良・今川)が

次々と滅亡・没落する中、第12代当主最上義光の下で飛躍的に発展し、

出羽随一の57万石の大大名となり絶頂期を迎えた。このように足利一門で

唯一戦国時代を勝ち抜いた最上氏であったが、義光の孫・義俊の代でお家

騒動が勃発し、元和8(1622)年に改易され、所領没収となった。義俊は

近江と三河で5千石ずつを与えられたが、寛永8(1631)年の義俊の死に

より、嫡子義智は幼年を理由にさらに5千石を削られ、以後、5千石の

旗本として近江大森に陣屋を構え、この地で命脈を保ち明治維新に至った。

その際に最上家の菩提寺と定められたのが妙応寺で、現在、御霊山(墓地)

には墓碑が、堂内には最上家歴代当主並びに家族の位牌が祀られている。
・木曽(源)義仲の墓

・所在→滋賀県大津市馬場1−5−12(義仲寺)


〜コメント〜

木曽(源)義仲の墓。父は源義賢、母は遊女という。頼朝・範頼・義経・阿野全成

とは従兄弟にあたる。2歳の時に父・義賢が源義朝の子・義平に武蔵国大蔵館で

討たれると、幼児の義仲は信濃に逃れ、木曽谷で乳母の夫・中原兼遠に養育

された。治承4(1180)年9月、以仁王の平家追討の命旨に応じて信濃で挙兵した。

平家方の小笠原頼直を破って上野国に進出したが、頼朝との軋轢を避けるために

信濃に帰還した。翌養和元(1181)年になると越後の城長茂を、越前水津で平氏の

追討軍を破り北陸道をほぼ制圧した。寿永2(1183)年、叔父行家の去就等をめぐり

頼朝と対立するが、嫡子・義高を頼朝の婿として鎌倉に送り和睦をすると、同年

5月に平家の大軍を倶利伽羅峠で撃破し入京をはたした。勲功により伊予守に

任じられたが、後白河法皇との関係は当初から円滑を欠き、都の統治も上手く

いかず、以仁王の子・北陸宮擁立を画策して朝廷との対立を深めた。11月に

院近臣の反乱を武力鎮圧してクーデターを起こしたが、このために義仲はより

いっそう孤立した。寿永3(1184)年1月に征夷大将軍となって自らを旭将軍と

称したが、頼朝が派遣した源範頼・義経に攻められ、近江の粟津で討死した。
・佐々木道誉(高氏)の墓

・所在→滋賀県甲良町正楽寺4(勝楽寺)


〜コメント〜

佐々木道誉(高氏)の墓。道誉は佐々木氏の庶流京極家の出で、初め北条高時に仕え、

高時から一字を与えられ高氏と称した。嘉暦元(1326)年には高時の出家に従って剃髪、

道誉と称した。後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を企てた元弘の乱に失敗し、隠岐に配流と

なった際にはその警固を勤めた。また幕府の命により元弘の乱の中心人物だった北畠

具行を斬首させたのも道誉である。元弘3(1333)年隠岐から脱島して船上山で挙兵した

後醍醐天皇の綸旨に呼応し、足利尊氏と共に六波羅探題を滅ぼした。この時、六波羅

探題北方の北条仲時は南方の北条時益と共に光厳天皇、後伏見・花園両上皇を奉じて

鎌倉を目指したがこれを阻み、仲時以下432名を番場の蓮華寺で自害せしめたのも

道誉であった。道誉は建武の親政に参加したものの、中先代の乱を境に尊氏が後醍醐

天皇に叛旗を翻すとこれに応じ、以後、一貫して足利氏(武家方・北朝方)に仕えた。このように

道誉は鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の創設に大きく関わり、足利将軍家(尊氏・義詮)を補佐して

幕府の基礎固めに尽力し、終始幕府の中枢にあって権勢を誇った。中でも、三管(管領=斯波、

細川、畠山)四職(侍所所司=赤松、一色、山名、京極)の要職に佐々木京極氏を押し上げた

のはひとえに道誉の功績であるといえる。また道誉は豪放無比な言動から旧来の権威を

軽んじ、華美な服装や奢侈な振る舞いを好む婆佐羅(ばさら)大名の典型としても名高い。

しかし、単に乱暴というわけではなく、古典芸術、茶道、華道、能楽、連歌など造詣芸能・

文芸にも堪能な風流の武将でもあり、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。
・佐々木道誉(高氏)の墓

・所在→滋賀県米原市清滝288(清滝寺)


〜コメント〜

佐々木道誉(高氏)の墓。道誉は佐々木氏の庶流京極家の出で、初め北条高時に仕え、

高時から一字を与えられ高氏と称した。嘉暦元(1326)年には高時の出家に従って剃髪、

道誉と称した。後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を企てた元弘の乱に失敗し、隠岐に配流と

なった際にはその警固を勤めた。また幕府の命により元弘の乱の中心人物だった北畠

具行を斬首させたのも道誉である。元弘3(1333)年隠岐から脱島して船上山で挙兵した

後醍醐天皇の綸旨に呼応し、足利尊氏と共に六波羅探題を滅ぼした。この時、六波羅

探題北方の北条仲時は南方の北条時益と共に光厳天皇、後伏見・花園両上皇を奉じて

鎌倉を目指したがこれを阻み、仲時以下432名を番場の蓮華寺で自害せしめたのも

道誉であった。道誉は建武の親政に参加したものの、中先代の乱を境に尊氏が後醍醐

天皇に叛旗を翻すとこれに応じ、以後、一貫して足利氏(武家方・北朝方)に仕えた。このように

道誉は鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の創設に大きく関わり、足利将軍家(尊氏・義詮)を補佐して

幕府の基礎固めに尽力し、終始幕府の中枢にあって権勢を誇った。中でも、三管(管領=斯波、

細川、畠山)四職(侍所所司=赤松、一色、山名、京極)の要職に佐々木京極氏を押し上げた

のはひとえに道誉の功績であるといえる。また道誉は豪放無比な言動から旧来の権威を

軽んじ、華美な服装や奢侈な振る舞いを好む婆佐羅(ばさら)大名の典型としても名高い。

しかし、単に乱暴というわけではなく、古典芸術、茶道、華道、能楽、連歌など造詣芸能・

文芸にも堪能な風流の武将でもあり、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。

・京極氏一族の墓

・所在→滋賀県米原市上平寺


〜コメント〜

京極氏の一族の墓と伝わる五輪塔。「上平寺城絵図」にも「御廟所」の

記載がある。京極高清の墓石はもとはここにあったが、江戸時代に丸亀

藩主京極高豊が京極家の菩提寺徳源院に歴代藩主の墓を整備した時に

徳源院に移されたという。墓石の一つには「浄光院殿芳室宗口大禅尼 

永正三(1506)年四月七日」の文字があり、京極氏ゆかりの女人の

墓と伝えられているという。
滋賀県マキノ周辺にある武田元明の墓です。
 東近江市の臨済宗永源寺派大本山瑞石山永源寺にある第4・7代彦根藩主井伊直興(1656〜1717)の墓所です。彦根藩主井伊家墓所の一環として国の史跡に指定されています。
 左は側室の墓です。
 大津市穴太地区にあるにある室町幕府第12代将軍足利義晴の供養塔です。義晴は天文15(1546)年に息子の義輝に将軍職を譲りますが、大御所として政務を掌握し続けました。
 しかし、翌年、管領細川晴元と対立して近江国へ逃れ、晴元が配下の三好長慶に背かれると晴元と結びますが、京都奪還を果たせぬまま天文19(1550)年5月4日に穴太で死去してしまいました。
 大津市の坂本城跡近くにある明智塚です。山崎合戦後の坂本落城の際に滅亡した明智一族の墓だとの伝承もあります。

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